十月五日 2
俺を殺しに来たイアを人を気にしないでいい場所へ誘導し、その中で決着をつける。
雅乃宮先輩の提案した作戦のとおり、七ヶ原にある廃工場へ前兆さえない唐突さで空から落ちてきたイアへ、俺は向かい合う。
息を乱し、片翼を垂れさせ、腹を手で押さえる。
そんな満身創痍の身でありながら、依然として射貫いてくるイアの真っ黒な瞳には、囂々とした敵意が充ち満ちている。
まるで傷ついた野生の獣のようなその姿は、まさしく鬼。
己さえ薪としながら敵を燃やす、氷のように冷たくも熱ある敵意嫌悪が人の形となった者。
そんな印象さえ抱いてしまう黒い翼の彼女が露わにする気迫は、鬼気迫るという言葉に相応しく。
弱々しくもより一段と迫力を増している彼女を目にするだけで、身体の外も中も「今すぐ逃げろ」と警鐘が鳴らし続けてくる。
──けれど。
「はんっ。侍らせた女に働かせ、自分は良いとこ取りか。贅沢な王様だなァ?」
「……ああ、自覚はしてる。だけど、だからこそここにいるんだ。イア」
けれど、侮蔑のみが込められた皮肉を受けながら、それでも目を逸らさないよう自身を奮起する。
拳を握り、恐怖を掻き消し。震えそうな足に、一層の力を込め。
その様が、そんな虚勢が気に入らなかったのだろう。
イアは不快だとばかりに一層顔を歪め、俺へとぶつける敵意を一層濃いものへとしてきた。
「お待たせ、ダーリン」
「アイ。ああ、ありがとう」
「うーん♡ ダーリンに褒められると元気百倍になれちゃう、ふっしぎ♡」
空から俺を守るように正面へと降りてきた、金髪白翼の功労者──アイへ顔を向け、礼を言う。
決着の場にそぐわない、甘い声音と調子で喜ぶアイ。
そんなアイの態度が気に入らなかったのか、イアは一層表情を険しくし、凝視の矛先を俺からアイへと移らせる。
「……何をノロノロ追っていたかと思えば、飼い主のご機嫌取りのためだったか。つくづく飼い犬、如何に実現者と言えど、かくも堕ちえるものなのだな」
「否定はしないよ。それでも野良犬みたいに愛すら知らず、飢えて朽ちるよりかはずっと幸せだと思うけどね」
アイとイア。二人の棘のある言葉の応酬は、見えないだけの刺し合いのよう。
「アイのカタチ、純愛剣」
そうしてアイがそう唱え、学校での戦いのときと同じように、自らの手に光剣を作り出す。
……いや、その光剣は以前のものとはまるで違う。
より強く、より輝きに満ちたそれは、夜の闇さえ容易に切り裂き、目を焦がすほどの光の密度はさながら、太陽のような熱く眩い力の塊だった。
「来なよ。同類らしく、今度こそ、白黒はっきりつけよう」
「……侮るなよ、飼い犬がァ!!」
激昂のまま、イアは乱雑に自身の羽根を一つ抜き取り、黒い刀身の刀へ変えて飛び出した。
刹那、白と黒が再びぶつかった瞬間、廃工場一帯に不可思議な衝突音が轟く。
幾度も繰り返される音、衝撃。空間を敷いていなければ、たちまちに人が集まってきそうな剣戟。
その光景から、アイと約束した距離へと離れながらも、決して目を離さない。
耳を塞ぎ、足に力を込めながら、目の前の光景を見届ける。
戦局を俯瞰し、打開する指示が出来るわけでもない。
人外の力を振るい、共闘出来るわけでもない。
それでも、決して退がりはしない。アイの契約者として、アイが勝ち、アイは相手にとどめを刺すその瞬間をしかと見届ける。それが今の俺に出来る、最大限の覚悟。
「──鈍だね。やっぱりもう、碌に戦える力はないんだ」
数にして、恐らく十八の打ち合いの直後。
バキンと、強く鉄の弾かれたような音がした直後、イアの持っていた刀の刀身が空を舞う。
だがイアは、既に駆け出していた。
刃が地面に着くよりも前。まるでその粉砕こそが囮だと、アイの横を通り抜け、一目散に俺へと迫る。
まるで学校の授業のビデオで見たことのある、獲物の首へ食らいつかんと迫るサバンナの動物のように。
「そう、駄目そうなら弱い方──ダーリンを狙うよね。同じだからこそ、本当に見え透いてる」
けれどこちらへ迫り来たイアに向けられた刀の残骸は、俺へと到達することはなく。
読んでいたと、そう言わんばかりな冷静なアイの二振り。
揺らぎのない鮮やかな斬撃は、刀を持っていたイアの右腕とその背中を──背に生えていた真っ黒な右翼を、切り離した。
「がァ……!!」
カランと、斬られた刀身が地面に転がり鳴らした音。
そしてイアの苦悶に満ちた呻きが、俺達以外いない廃工場へ、もの寂しく周囲へ響く。
蹂躙だった。
もしかしたら、戦いすら成立していなかったのかもしれない。素人目でさえもそうだと思えてしまう、それほどまでにアイの圧勝で、短い戦いの決着はついた。
「くそ、まだ、まだ終わるものか……!」
「終わりだよ。アイと同じなら、翼を失ったらもう何も出来ない。アイにとっても大切なものだから、きっとあなたにとっても同じ。そうでしょう?」
必死に立ち上がろうとするイアへ、アイは残酷なほど淡々と、はっきり事実を告げてしまう。
腹部の傷に加え、片腕片翼を失ったイア。対して、五体は当然として健在なアイ。
最早勝敗は歴然。逆転の余地はなく、むしろまだ叫び声を上げられるイアの生命力に驚嘆すべき。そんな場面だった。
「せめて契約者から力を……ううん、最初に学校で吸ったエネルギーでアイ達を倒しておくべきだったね。
「うる、さい……!! 貴様がイアを語るな! 貴様なんぞが、イアの契約者を知ったような口を利くなよッ!」
叫ぶイアの前に、アイは一切表情を変えることなく、手に持つ光剣を振り上げる。
一瞬、それは駄目だと声を上げながら、手を伸ばそうとして──それは駄目だと、唇を噛みもう片方の手で伸びそうとした手を押さえつける。
勝者と敗者がどうであれ、この戦いの結末は、一つしか成立しない。
アイが殺し、イアが殺される。
本来ならば俺がしなくてはならない、誰かを殺してまで先へ進む。その非道の代行をしようとしているアイを止める。それはアイの信頼を裏切りであり、同じくらいの侮辱だ。
どうであれ、選んだのは俺。
あさひのために戦うと、そうアイの手を取ったのは俺自身の選択でしかない。
だから見届ける。
俺とアイの初めての決着を。──誰かを踏みにじってでも、己が願いを叶えようとする、その醜悪さを。この目で、はっきりと。
──だが。
「……アイ?」
アイは振り下ろした光剣を、イアの心臓の目前で制止させる。
弄びではなく、困惑で。
物言わぬ死とは違う、残された片翼から、ジリジリと欠けていく消失。世界が存在を亡き者にしようと、書き換えているかのよう。
「……馬鹿な。そんな、
「イアの存在が解れ始めている。七ヶ原に留まり続けるための楔を失った。イアの契約者が、たった今死んだんだ」
ぽつりと、アイは敗者へ残酷に、ただ事実として目の前の事象を言葉で表わす。
アイの宣告は、あまりにあっけない、イアという実現者の脱落だった。
気がつけばそこにいたと、イアは自らの現状を何となく理解する。
真っ白な空と地平。どこでもないどこか。何もない、痛みさえ持ち込めない泡沫の世界。
恐らくここは、生と死の狭間。一瞬と一瞬の間にある、都合の良い隙間。
偶然死の間際に迷い込んでしまった、人で言う走馬燈のようなものだと、イアは漠然ではあるものの理解していた。
『──イア』
『……主。そういえば、この姿でしっかりと話すのは初めてか』
ふとイアへ掛けられた、嗄れた男の声。
顔を上げれば、そこにいたのは補助もなく二足で確りと地に足着ける、痩せ細った老人の姿。
自身の契約者であると。
この数日の中で、別人と思えるほど意識のはっきりとした老人を前に、イアは力なく微笑んだ。
『……すまない。貴様の願いも自分の誓いも、イアは果たせなかった。叶えると誓ったのに』
イアはするりと、自分でも驚くほど素直に、心の奥底にあった懺悔を口にする。
『このイアが貴様の願い、必ずや叶えてやるとも』
それは契約の際、混濁した意識で死の淵を彷徨っていた老人へ告げた、実現者の約束。
一方的で、押しつけがましく、あまりに不遜極まりなく。
自信に満ちた慈悲の誓い。或いは憐憫からの気まぐれだったが、既にその道は夢と消えた。
老人がその口約束を知っているか、イアは知らない。
そもそも目の前にいる老人が本物なのか、それさえもイアに推し量ることは出来ない。
この謝りは、多くの選択の誤りを経て、大言壮語に終わってしまった自分への罰。
裡に燃える炎ある限り、敵意と嫌悪を振りまく実現者。
そうあれかしと生まれたものが、根幹を放棄し、誰かのために戦うなどという愚行を選んだ者が、ふと立ち寄った教会で祈りながらに漏らしてしまったような、衝動による身勝手な懺悔に他ならない。
このまま誰に許されることもなく、ただ惨めに燃え尽きるのみ。
この戦いの根本の手のひらの上で、お前の役目は終わったのだと、消え失せるのみ。
──そのはず、だったのに。
『……イア。むしろ俺が、謝らなくちゃいけないな』
けれど老人は、そんな身勝手なイアへ身体を向け、頭を下げる。
赦しでも叱咤でもなく謝罪を。
何も為せなかった、何もかもを間違えた実現者へ、まるで娘を諭すような優しい目を向けて。
『俺の心残りが、君を巻き込んでしまった。もっと自由にあれたはずの、もっと羽ばたけたはずの君を、俺が縛ってしまった。君にとって俺は、ただ』
『それは……』
それは違うと、紡がれる老人の言葉へのイアの否定は、喉元で止まってしまう。
事実として、老人がイアにとっての枷であったことに間違いじゃない。
自身に内に眠っていたであろう、本来の力を発揮出来ていれば。
自身と波長の合う、十全に手を組める人間と契約していれば。
或いはどちらかさえ満たせていたのなら、こうまで無様を晒すことはなかっただろう。
少なくとも、同じように欠けていた金髪白翼の実現者相手であれば、問題なく対処出来た。どこまでいこうと、それは歴然たる事実なのだから。
『だけどね、イア。俺の願いを理由に誰かを傷つけるというのなら、それは駄目だ。俺の人生の後悔で、人様に迷惑をかけちゃいけない。俺の後悔は、妻を失ったときでさえ娘を上手くやれなかった俺の愚かさは、俺が抱えていなければならないものだからな』
それでも、老人は真っ直ぐ、イアのこれまでを否定する。
まるでいけないことをしてしまった子供を叱る父親ように。
不必要に声を荒げずとも厳かで、数日共に過ごしたイアが聞いたことないほど、はっきりと芯のあるイアへ向けられた言葉だった。
老人がイアとの契約の際に叶った願いは、死にたくないという生の延長。
けれど老人が本当の意味で願いとしていたのは、喧嘩別れしてしまった娘ともう一度話すこと。きっと誰もが死ぬ瞬間にふと願ってしまう、現世への未練などではなかった。
──だからこの瞬間、老人は叶ったはずの願いを放棄した。
自らが遠のかせた死神の鎌を、自らの意志で手招きした。
もうこれ以上、自分に寄り添ってくれた黒髪の彼女の手が汚れることのないようにと。他ならぬ自分のせいでで、次の過ちを犯さぬようにと。
『それでも、ありがとう。この数日は、まるで本当に娘と過ごせているようだった。──それだけで、私の願いは十分叶った。最後にそれが、どうしても伝えたかったんだ』
『……主。待って、待ってくれ主ッ──!!』
そうして老人は消えていく。イアが手を伸ばしても届かぬように、どこまでも高く遠くへと。
どうか、後悔なきように。
それがイアの契約者──倉田茂之が存在さえ曖昧な須臾の中、自身の実現者に告げた最期の言葉。
未練も後悔も数多く残しながら、それでも懸命に八十六年を生きた老人は、たった数日だけの娘へ微笑み感謝しながら、安らかに自らの生を歩き終えた。
アイが非情な宣告をした、次の瞬間だった。
今にも消えそうだったはずのイアから力が噴き出し、堪える暇さえなく足は床から離れてしまう。
「あ、ありがとうアイ」
「どういたしまして。でもちょっとやばいね、あれは」
勢いよく壁へと叩き付けられるよりも前にキャッチしてくれたアイへ礼を言うが、いつものように喜びを態度に出すことはなく。
俺を床へと下ろし、一歩前へ出たアイは、目の前で起きたイアの異変を困ったように苦笑する。
イアの異変は間違いなく、アイにとっても計算外。
本来であればあり得ないはずの再起。或いは人が、奇跡と呼ばずにはいられない何か。
──言えるのは一つ、イアは間違いなく終わっていないということだけだ。
「……主は願いを放棄した。自らの意志で、願ったはずの生の延長を拒んだ。イアはもう、この茶番に用などない。理由を失った戦いに、価値など見出してやりたくもない」
イアはぽつぽつと、俺達にではなく、自分へ言い聞かせるみたいに呟いていく。
ゆっくりと、徐々に身体を薄れゆかせながら、それでも確かに立ち上がる。
アイによって斬られたはずの黒翼が刀へと変わり、まるで刀に意思があるかのようにイアの左手へと吸い込まれていく。
「夜刀神信司ッ! 貴様は運命に踊らされる道化でしかない! だからこそ、必ずこの戦いの果てに辿り着き、お前は最愛を殺すんだろう。──だが!」
俺へと切っ先を向けながら、喉が引き裂けるのも厭わぬほどに、大きく叫ぶイア。
立ち上がれど、何かが治ったわけでもなく。
死屍累々なのは間違いないはずなのに、それでも彼女は苦しみながら、強く強く吼え続ける。
「だが、それがどうした! くれてやるものかよ、運命なぞに! 奪わせてやるものかよ、このイアの怨敵を!」
イアは叫びながら、姿勢を低く剣を構える。
握られた黒刀へ力が満ちる。イアが噴出していた黒い力の嵐は、全て黒い刀身へと集約されていく。
──あれは駄目だ。あんなの、もし放たれてしまえば、どうしようもない。
「……八つ当たりなんて、意味ないと思うけど」
「そうだな。だが、存外に悪くない。この無意味こそ人間であるというのなら、なおのことな」
アイが毒づくも、イアはせせら笑うのみ。
「さあ構えろ! 精々付き合えよ、クソ共! このイアの断末魔! 無様にも戦いに破れ、己が契約者への誓いさえ果たせなかった、畜生未満の憂さ晴らしに!」
その挑発を最後の言葉と、黒き刀身は、ついに完成したと色を変える。
刀身は漆黒から深淵へ。夜よりも暗かったはずの黒は、それさえ呑み込まんと在る完全な黒へ。
「……あれはすごいね。文字通り、全部以上を費やしてる。理屈じゃない凄みでいっぱいだ」
そんなイアを前にしたアイは冷静に、それでいていつものような口振りで言ってくる。
目の前の称賛さえ抱いていると、アイの声はそんな風に聞こえたのは、きっと気のせいではないはずだ。
「けど、ダーリンとアイなら大丈夫。だからお願い。──アイを、信じて」
それでもアイは変わらない。
あなたが望むのならどこまでもと。
こちらへ振り向いて、綺麗な赤い瞳を目を背けたくなるほど真っ直ぐと向け、俺へと問いかけてくる。
……信じるとも。信じているとも。
生存のためじゃない。今だけは、あさひは関係ない。
神社で話したときのお前を。共に戦うと言ってくれたお前を。──信じて欲しいと俺に願ったお前を。
「勝ってくれ! アイ!」
「うん! あなたの実現者は、あなたが望む限りどこまでだって無敵なんだから!」
声を荒げる。イアに負けじと、俺は俺の実現者へ、ただ一つの勝利を願う。
満面の笑顔で頷き、イアへ向き直したアイの持つ光剣は眩く輝く。
夜を染め上げてしまいそうなほどの極光。
イアの持つ黒い刀が底なしの黒だとすれば、アイの光は天井知らずの白。
対とも言える二つの極の衝突は一瞬。光が止んだときにはもう、黒は──イアの姿はどこにもなかった。
「……勝ったよ。これでやっと、今日は終わり」
「……ああ。お疲れ様、アイ」
役目を終えた光剣が霧散し、周囲が元通りの夜を取り戻した頃、アイは微笑みながら終わりを告げた。
呪詛すら吐かず。捨て台詞さえ残さず。
俺達が最後まで知ることのなかった誰かの実現者として、俺達を敵意をぶつけ続けた黒いセーラー服の少女は、最後まで戦いを貫いた。
例え実現者という存在が、俺達人と違う存在だったとしても。
それでも自らの願いのために、自らの意志で殺したあの少女を、死ぬまで忘れはしないだろう。




