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十月五日 1

 充ち満ちた月。

 雲一つ遮ることのない、満開の夜の太陽に照らされた空に、夜闇よりも深い黒い軌跡が奔る。

 

 軌跡の主。一対の黒翼を力強く羽ばたかせ、夜空に己が色を刻む、天に唾吐くが如き不埒者。

 空気を突き抜けるかの如く、縦横無尽に空を突き進むその正体は、真っ黒なセーラー服を着用する美しき少女。

 イア。

 七ヶ原(なながはら)に起こる戦いによって顕現した、実現者(ネブラー)の一人が、脇目も振らず一点を目指し飛翔を続け──そして今、一件の家の屋根へと舞い降りた。

 

「……あそこか。やつの根城は」


 何の変哲もない一軒家の屋根へと降りたイアの視線が向けられているのは、正面に建つ一軒の家。

 二階建てというくらいしか特徴のない、何の変哲もない一軒家。

 壁の色や形でさえ周囲にある家と比べて大差のない、そんな普通の家をイアは、まるで仇敵ここにありと言わんばかりに睨み付け、屋根から軽く跳躍して向かいの家へと降り立つ。


 その家の二階の窓は鍵が開いており、イアは音を立てずに侵入が可能だった。


 窓のそばに置かれた机。制服の架けられたハンガーラック。

 壁際に設置された本棚に立て掛けられた、使い込まれた金属バットとグローブ。


 簡素ではあるが清潔。生活感はあるものの、散らかってはいない。

 そんなどこにでもありそうな、家の外装同様に何の変哲もない学生の部屋。

 異物があるとすれば、きっとそれは、ついさっき窓から入ってきた黒い翼を持つ侵入者。それのみであろう。


「……戦いの最中(さなか)でこうまで眠れるとは、阿呆と豪胆は紙一重か」


 そんな誰かの部屋へと侵入したイアは、見下ろす先に眠る部屋の主を静かに、されど冷たい目で見下ろす。

 

 部屋の中央に敷かれた布団と、その中で毛布を被りながらすうすうと寝息を立てている青年。

 夜刀神(やとがみ)信司(しんじ)

 つい先ほど話した空色髪の実現者(ネブラー)、ユウヒによってようやく名を知ることになった、この戦いへ参加する人間の一人。

 イアがこの地に顕界し、今日に至るまでに巡り会った者の中で、誰よりも心を荒ぶらせる存在が、まるで奇襲など思考の外であるとばかりに、穏やかな表情で眠りについている。


 安寧に満ちて眠る姿に、ただただ虫酸が走る。

 穏やかに明日を迎えられると思い込んでいるその態度に、どうしようもなく腹の底が掻き毟られてしまう。

 

 理性的であろうとしたイアの心と本能は、目の前の存在一つで「殺せ」とざわつき荒れる。

 激情のままに掴みかかり、あらん限りの苦悶を抱かせながら、自らの手で首を握りつぶしてしまいたい。

 ピクピクと目尻を痙攣させ、手が伸びかけたイアは我に返り、微かに首を振ってから大きく深呼吸し、背後の翼から羽根を一枚毟る。


 毟られ、手に握られた一枚の羽根は、たちまちに一振りの刀に姿を変える。

 刀身から柄。その全てが彼女の翼や瞳と同じ、何もかも塗り潰してしまいそうな漆黒の刀へと。


「なら、何も知らぬまま()ね。……無惨に、朽ちろ」


 無情にも振り下ろされる黒き刃。

 切っ先が狙うは毛布の中。出ていた顔から考慮し、心の臓がであろう場所へと寸分違わず。

 

 ──だが。


「ぐふっ……!! なん、だとっ……!」


 黒刃は確かに毛布を貫いた。そのはずだと、イアは顔を歪めながら思考する。

 けれど部屋で呻きを漏らしたのは青年ではなく、振り下ろした側であるはずのイアの方。

 なのに。傷が付いたのは自分の方。

 あり得ない。夜刀神信司は、アイ以外に戦う術を持たない一般人同然の雑魚だったはず──。

 

 不意の反撃に動揺するイアへ、間髪入れずに行われた追撃。

 イアは痛みの中でありながら、冷静に刀から手を放し、後ろへ跳び下がることでどうにか回避しながら──視認した正体へ、イアは静かに瞠目する。


 毛布から伸びていたのは、二本の鈍色の触手。

 艶やかな光沢を帯びた無機質は漆黒の刃を包むように妨げ、同時にイアの腹をそのままに貫いていたのだ。


 あり得ないと、イアは目の前の現実を疑いかける。

 何故ならその鈍色は見覚えのあるもの。

 夜刀神信司ではなく、自分と敵対する、もう一人の契約者(パートナー)の──。


「ふわぁ……。まったく、遠くないうちに来るとは踏んでいたけれど、それでもまさか今日いきなりとはね。彼氏でもない男の布団に横になる屈辱が今日一日で済むなんて、本当にありがたい限りよ。どっこいしょっと」


 イアがそこまで思い至ったのと同じ頃、布団の中にいたであろう鈍色の主は起き上がる。

 気の抜けた欠伸は、男のものではなく。

 剝がれ落ちた毛布から現れ出でたのは、鈍色が器用に身体を起こされるのは、全身黒の寝間着を着た黒髪の美少女だったのだから。


「馬鹿なっ、その声は、その実現者(ネブラー)は! まさか、貴様は……!!」

「こんばんわ、良い夜ね。他ならぬ雅乃宮(みやびのみや)(みやび)なら、優美にそう言ってあげるべきよね。イア」


 黒髪の美少女──雅乃宮(みやびのみや)(みやび)は、胸に手を翳しながら、堂々たる立ち振る舞いにて挨拶を送る。

 一片の狂いない、紛れもなく、逃れようもないくらいに雅乃宮雅。

 夜刀神信司の部屋にいるはずのない人物の待ち伏せに、イアは腹に空いた穴へ手を当てながら、ただただ雅乃宮を睨み付けるしかなかった。


「どういうことだ。今まで寝ていたのは間違いなく、あの男だったはずだ……!!」

「ああこれ? 私のサダメは変幻自在。色も質感も変えられないなんて愛らしい欠点はあるけれど、夜はどんな秘密も覆い隠してくれる魔法の時間。ちょいと上から着色してあげれば、誰かになるのだって許してくれる。とっても素敵じゃない?」


 イアの荒げた問いに、雅乃宮は右半面に鈍色を──夜刀神信司を模した仮面を貼り付けながら、饒舌に語ってみせる。


 雅乃宮雅の実現者(ネブラー)、サダメはまさしく変幻自在の鈍色。

 

 しならせれば鞭になり。

 尖らせれば槍となり。

 巻き付ければ縄となり。

 薄くすれば刃となり。

 そして顔を覆えば、仮面となる。

 

 本人の言うとおり、色や質感は変えられないが、上から着色すれば解除しない限りは最低限の様にはなる。

 体格はサダメにて補える。毛布を被ってしまえば、顔以外でバレることなどそうそうない。夜という闇の中であれば、一人欺くくらいは造作もない。

 

 消耗による余裕の欠如。

 夜刀神信司という本能の毛嫌いする相手への敵意と、刃を振り下ろした際の愉悦。

 

 それらが故にイアは、目の前の贋作に気付けなかった。注意深く測れなかった。

 アイという実現者(ネブラー)が警護していない事実さえも、抜け落ちてしまうほどに。


「……そうか、イア()は何もかもに謀られたわけか。嗚呼、虫酸が走る。退路を断たれ、甘言に唆され、狭窄した思考で踊らされている自分の無様さが、何よりもッ!! 腹立たしいッ!!」


 語られたことで合点がいったと、己が油断の一切を憤るイア。

 イアの反応、呟かれた言葉に雅乃宮は僅かに首を傾げてしまう。

 まるで自分達以外にも、誰かがイアを嵌めようとしたかのような、そう読み取れる物言いに。


「……何を嘆いているのかは知らないけど、別に私も暇じゃないの。あんまり騒がれるのも面倒だし、とっとと幕引きにしましょう。それじゃ、さようなら」


 それでも雅乃宮は、早々に会話を切り上げて、躊躇なく無数の触手を差し向ける。

 先端を螺旋へ変え、捕まるのではなく、とどめをささんと四方八方を巧みに塞ぎ。


「戯けがッ。こんな所で、こんなザマで、まだ終わってたまるかよ……!!」


 刹那、イアの怒号と共に発せられたのは、黒き力の奔流。

 イアを中心に吹き荒れるそれは、さながら闇が嵐を渦巻いたかのよう。

 室内が衝撃で軋みをあげ、家は怯えるように震え出す。

 そんな反撃に、雅乃宮は想像以上だと感心しながらも、冷静に攻撃に使用している以外の鈍色全てを大きな盾へと変え、自身の身を守護した。

 

「……なりふり構わず逃走なんて、時代劇の武士くらい潔いこと。正直、感嘆してしまうわ」


 経過時間にして、一秒あるかないか。

 すぐさま嵐が去り、雅乃宮が前方へ目を向け直せば、そこにイアの姿はなく。


 床に飛び散った制服やバットにグローブ。壁に打ち付けられた布団や本棚にあった本。

 まるで兄弟喧嘩のあとか、泥棒に入られたみたいな惨状。

 そんな部屋の中で雅乃宮はため息を一つ吐き、無数に伸ばした鈍色に部屋を片付けさせている間、懐からスマホを取り出し耳へと当てる。

 

「もしもし。行ったわよ。あとは上手くやりなさい。しくじりでもしたら、明日から貴女のあだ名はビッグマウスよ。……さて」


 雅乃宮は一言だけ伝え、すぐに電話を切り、元通り敷かれた布団に潜って毛布を被る。

 その数秒後、がたんと部屋の扉が開き、夜刀神信司の母親である花菜(はな)が不機嫌そうに部屋の中を覗き込む。


「ちょっと信司、今何時だと……あれ、寝てる。やだ、夢だったのかしら。あー私もいよいよ歳ねー」


 電気が点いているわけでもなく、寝息以外の物音一つさえない部屋の中。

 つい先ほど、戦闘が発生したなどとは微塵も感じられない室内に一通り目を通した花菜は、頭を掻きながら静かに扉を閉めて立ち去っていく。


「……ほんと、夜刀神はこの私に感謝して欲しいくらいね。……ほんと、くっさ」


 来訪者が去ったあと、毛布の中で悪態をつく雅乃宮。

 雅乃宮雅。

 彼女の栄光ある人生において、初めて家族以外の男性の布団へ寝た感想は、酷くありきたりなものだった。






 夜刀神信司の部屋より、辛くも雅乃宮雅の要撃から逃れることが出来たイア。

 だがしかし、彼女の危機は依然として過ぎておらず、むしろ悪化している状況にあった。


「クソッ、あの猪がッ……!」


 貫かれた腹を押さえ、毒づきながら、それでも必死に夜空を駆け抜ける他に道はない。


 イアの背後。

 付かず離れずの位置を取りながら、圧迫感を与えるようにわざとらしく、確かに追跡を続けてきているのは、七ヶ原(なながはら)高校の制服を着た白翼金髪の美少女。


 その追跡者の名はアイ。

 夜刀神信司の実現者(ネブラー)にして、夜刀神と同じくらい敵意をかき乱される天敵。


 追われながら、打開策を見出せないイアに焦りが募る。

 雅乃宮雅の操る鈍色とは異なり、自ら意志を持って力を振るう、自分と同じタイプの実現者(ネブラー)

 

 故に振り切るのは不可能。

 まるで対であるとても言うかのような、その白い翼を相手にした空の勝負は不可能に近い。むしろ追いつかれていない自分を褒めるべきだと、それがこの瞬間においての結論。

 

 このまま主の待つ自宅まで帰るのは不可能。

 振り切るための迎撃、抗戦も困難。先ほど雅乃宮雅から逃れるために、想定外の消耗を強いられたことで空を飛ぶ以外には、空いた腹を塞ぐ力さえもう残されていない。止まった瞬間、たちまちにも追いつかれ、そのまま倒されてしまうだろう。


 今自分は、破滅へのレールの上を転がるトロッコに過ぎない。

 ただ追われる。それだけで袋小路に追い込まれているというのに、抵抗する術を一切持たない。

 身体以上に、心がジリジリと削られる。

 緊張の糸を弄ばれる無様に屈辱を覚えながら、それでもイアは、刀を振るうことを良しとは出来ない。。

 

 一人であれば、イアはとうに玉砕を果たしていた。

 自らの根源。敵意によって形作られたこの身であれば、例え犠牲を払おうと向かっていたはずだ。


 なのに過ぎる。過ぎってしまう。

 イアが生まれたあの日。

 不意に聞こえてしまった、あまりにか細く弱々しい、死ぬ間際であった老人の願いが。嫌が応にも。


「……まだ、まだ終わって、たまるか……!」


 奮起する。止まりそうな飛翔を、意地のみで繰り返し続ける。


 敵意のみで自己を形成し、本能のまま、波長の合う契約者(パートナー)と共に暴れんとする。

 それが最善。それが至高。それが本能。

 なのに、契約してしまったのは弱者。恐らくこの七ヶ原の街の中で、誰よりも弱く哀れな老人。誰にも看取られることなく、終わりを迎えようとしていた彼。本来であれば、歯牙にもかけない芥。


 ──なのに、イアは契約を選んだ。小さな願いを受諾し、老人の死を遠のかせてしまった。


 取るに足らない、老人が死の間際に発しただけの譫言。

 叶えた所で希望などない、この戦いを放棄するに等しい、意味と価値の欠如した選択。


 力の供給を一切得られず、自らを削りながら、不十分なまま戦うことになろうとも。

 死を遅らせただけでしかない老人の生存のために、若い生命力を捧げ続けなくてはならなかったとしても。

 最早記憶さえ朧気で、いるはずのない娘をイアと重ね、過去への後悔を吐き出すだけの老人の介護に時間を回し、碌に立ち回ることが出来ずとも。

 

 それでも、それでもイアはその困難を理解しながら、老人を契約者(パートナー)にした。

 全てを分かっていながら、それを是としてしまった。

 誰かの敵意や嫌悪によって生まれたはずの自分が、よりにもよって、取るに足らない弱者への哀れみで戦うことになる。その歪んだ末路を、誰よりも理解しながら。


「ぐっ……!!」


 翼に力が入らず。速度を緩めてしまったその一瞬、背に衝撃が走り、身体は自由を効かなくなる。

 蹴り飛ばされたと。

 そう気付いたのは、どこかの屋根を突き破り、固い床へと叩き付けられたあとであった。



 ゆっくりと立ち上がったイアが、頭を抱えながらも、どうにか周囲を確認する。

 どこかの廃工場。人気のない、最早忘れ去られでもしたように、人の痕跡の薄れつつある場所。


 ──犠牲を出さず。一般人を巻き込まずに戦うには、もってこいな場所。



「──アイ。空間、展開」



 刹那、声が響く。

 はっきりとした、よく通る男の声が。

 そしてふわりと翼を羽ばたかせて着地した、金髪白翼の美少女によって展開された世界によって、誘い込まれたのだと理解が辿り着く。


「夜刀神、信司……!!」

「俺だよ。決着をつけよう。イア」


 イアのどす黒い敵意に青年──夜刀神信司は、真っ直ぐ見据え向かい合う。

 イアがこの世で誰よりも嫌う、どう抗おうと敵意を抱いてしまう、極々普通なはずの人間。

 

 奇しくもその夜に殺そうと企てた相手が、イアの辿り着いた先には立っていた。

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