十月四日 5
夜も更け、月の光に照らされながら、七ヶ原の待ちを暫しの静寂が包み込む最中。
古ぼけた戸建ての家。その一室。
簡素なベッドとそこに横たわる老人。あとはベッドのそばに置かれたテーブルの上にある写真立てが特徴に挙がるくらいでしかない、そんな殺風景な部屋の中。
真っ黒なセーラー服を着た黒髪の少女は、明かりもつけず、ベッド前に置かれた背もたれのない椅子に座りながら、ジッと眠る老人を見下ろしていた。
「……すまない。貴様の願いを受けたというのに、こんなザマで」
制服の少女はすうすうと、ベッドに眠る痩せこけた老人を見つめながら、ぽつりと漏らす。
沈んだ声色は、まるで目の前の老人へ、自身の失態を心から悔いるかのように。
こんなはずじゃなかったと、黒髪の彼女──イアは自らの不手際に心中穏やかでいられない。
遅い、奪い、糧とする。
ただそれだけの単純な作業。そのはずだったのに、ここに至るまで一つたりとも成功を出せず。
一度目は半端に、二度目は発動さえ行えず。恐らくは余力が尽きたのさえ、先の打ち合いで知られてしまい、こうして追い込まれてしまっている。
全ての元凶は、振り払おうと苛んでくるあの男。
金髪白翼の、愛を語りながら戦う実現者。自身の同類たるあの彼女と契約しただけの、どこにでもいるような高校生。
少し鍛えているだけで戦う力なんて持たない凡夫。なんでもない、取るに足らないただの人間──なのに。
それなのに、見ているだけで心に憎悪の灯が灯る。
そのはずなのに、声を聴くだけで「嫌い」と随が叫びをあげる。
そうでしかなないのに、浮かび上がるだけで裡の奥底が「殺せ」と敵意の鐘を鳴らし続けてくる。
素性など知らないはずなのに、どうにもこびり付いて離れない。
その姿が脳裏に過ぎり、あの日の敗北を思い出すだけで、歯が砕けそうなほど食いしばってしまう。
まるで自らの存在意義──戦いの勝者となるよりも、ずっと基盤であるかのよう。
脳や心臓のような部位より深い、イアという実現者の核を揺るがし騒がせる異分子。それがあの男。
認められない。
許容したくない。
存在を看過出来ない。
血が騒ぐ。心が波打つ。自分の力を以て、あれを否定しろと本能が叫び続けている。
「……だが、それはイアの感情。今のイアは、貴様の願いに殉ずる者。こんな所で、何も果たせぬまま、終われやしない」
腹の底に溜まる、幾重もの不確かな激情。
イアは己の膿とも言える感情を自覚しながらも、静かに否定しながら、取るべき道を思案する。
自身の契約者の介護の合間を縫っての行動では、どうしても限度がある。
契約者に負担を強いる戦闘は叶わず。素性を暴かれれば、抵抗できずに潰される。
だからこそリスクを承知で大規模な搾取を目論んだが、そのいずれも失敗に終わり、自身のまた枯渇しかけてしまっている。
口惜しいのは、やはり今日の失敗。
黒漆学園で得るはずだった学生の生命力。
十代という人間の活力の絶頂、黄金のような活力を一滴とて奪えず。成果なしのまま、むざむざ引き返すよりなかったことが、イアにとっての最大の失態に他ならない。
自身の契約者はもう限界が近い。
元より契約の際の願いによって死の鎌を遠ざけただけの命。帰り際、二人三人ほどから力を奪ったが、それではどうしたって足りはしない。次の朝を迎えられるかどうか。
限りなく劣勢。猶予も余裕も最早僅か、後はない。
──それでもなお……否、だからこそ、イアにはもうやる以外の選択は残されていない。
そのためには、目下最大の障害であるやつとの因果を、今すぐにも断っておく必要がある。
一度目に巻き込まれるだけではなく、二度目の襲撃に先回りしていたあの男を。
余力を残していたはずの一度目の戦闘でなお、土壇場で自分を凌駕する力を見せた金髪白翼の実現者を殺し、その力を糧とする。今すぐに。
……だから、間違いではないはずだ。
夜刀神信司を狙うのは、自分の欲を満たすための正当化ではない。思慮に基づいた合理的な判断。そのはずだ。そうでなければ、ならないのだ。
だがそのためには、あの忌々しい男の根城を探す必要がある。
そんな時間も余力も残されていない。動けるとして、恐らくあと一度。どうする、どうすれば──。
「こんばんわ。まだ中秋の名月ではないけれど、それでもよく満ちた、綺麗な夜だね。同類さん?」
イアの思考が詰まりかけた、そのときだった。
二人以外いないはずの部屋に声が鳴る。開いていなかったはずの窓から、涼しげな風が差し込む。
誰にも知られてないはずの家に現れたのは、空色の短髪と瞳を宿した、体操服の幼子。
少年でもあり少女でもある、まだ性別の区別に意味のないあどけない声音。
そして背中には自身の背丈よりも大きく、飾りのない無骨なライフル銃を背負った幼子。夜刀神信司にユウヒと名乗った実現者が、唐突に静寂を切り裂いた。
「……わざわざ声を掛けるなど、つくづく舐め腐った敵ばかりで嫌になるよ」
「待った待った! ユウヒは戦いに来たわけじゃない。だから警戒しないで、オッケー?」
刹那、イアは椅子から跳ね立ち、瞬きよりも早く自らを黒に包み、自身の姿を変えていく。
真っ黒なセーラー服はそのままに。
うしろにまとまっていた黒い髪は短く揃い、背丈は少し伸び、背に人にはない立派な黒い翼。そしてその手には、真っ黒な刀身の刀を。
ユウヒへ刀の切っ先を向けたイアは、刃に劣らぬ鋭い敵意をぶつけながら、静かに問いただす。
か細くも荒々しい力の奔流。可視化されるほどに濃い、黒い敵意。
只人であれば今すぐに腰を抜かし、意志に反して失禁さえしてしまいそうなほど鋭利な重圧。
けれどユウヒは、それを一身に受けてなお、何ら怯えることはなく。
わざとらしく両手を上げ、戦闘の意志はないとにっこり笑顔で否定しながら、ズカズカと室内へと足を踏み入れていく。
「ふーん、これが倉田茂之さんかぁ。若い頃は中々の流石に八十超えちゃうともうおじいちゃんって感じだね」
「貴様、何故知って……!!」
「もちろん調べたからね。倉田茂之、御年八十六歳。去年の七月頃に妻であるゆう子さんを亡くして以降独り身。娘は一人いるが、結婚の際に揉めに揉めてほぼ絶縁関係。七ヶ原からは既に出ていて──おっと、乱暴だなぁ」
熟々と語るユウヒに、突如振るわれた横薙ぎ。
暗い部屋に奔った鋭く黒い軌跡を、ユウヒはつまらなそうに紙一重で躱して一歩後ろへ着地する。
「危ないなぁ。おじいちゃんがいるのに刀振り回すの、ユウヒ的にはどうかと思うよ?」
「くっ……!」
「無理しない方がいいよ。自分を削りに削った結果、あと一回戦えるかどうか程度の死に体なんでしょ? その最後の一回を、ユウヒ相手に使っちゃうのはもったいないって」
「……知ったような、口を……!!」
刀を手から落とし、膝をつきながら、それでも敵を強く睨み続けるイア。
額に玉汗を付着させ、黒い翼を力なく垂らし、ただの一振りで息を乱しながらも未だ鋭い眼光な彼女に、ユウヒはやれやれと首を横に振ってから、背中からライフル抜き取っていく。
「ユウヒとしては、正直やらなくてもいいと思うんだけどね? 『機会は平等に』なんてユウヒの契約者がやれって言うから仕方ないんだよね。そんなわけで、はいどうぞ」
銃口を向け、引き金が軽く引かれた直後、パアンと乾いた音が室内へと響き渡る。
イアは目を瞑ることなく、されど動くことも出来ず。
ヒラヒラと舞う一枚の紙はやがてイアの頭へと乗り、より一層警戒を強めながらも、イアはその紙を手に取って目を通していく。
イアが手に取ったカードに記載されていたのは、七ヶ原にあるどこかの住所であった。
「これは、住所か……?」
「うん。この住所にキミの天敵、夜刀神信司が暮らしているよ。今日は雲だって少ない夜なんだし、決着をつけるにはちょうどいいんじゃないかな?」
訝しげに問うたイアへ、ユウヒは首を縦に振りながら、あっけらかんと肯定してしまう。
記載されていたのは、嘘偽りなく夜刀神信司の住所。
イアが今一番欲しいと思っていた情報。それがこうも都合良く自らの手に、突如現れた第三者より舞い降りた。その事実に、イアは言葉に出さずとも疑惑を深めていく。
「……貴様を、信じろと?」
「別にどっちでもいいよ。ただキミもおじいちゃんも限界間近で、黒漆学園に設置した仕掛けで再起を図るしかない。けれどもし明日、また夜刀神信司や雅乃宮雅と鉢合わせてしまえば逃走さえままらないかもしれない。奇跡は二度も起きないんだから、例え罠だったとしても、一発逆転を狙うなら飛び込まないと。そうでしょ?」
ユウヒは本当にどちらでも良さそうに、けれどそれしかないと理解しながら問いかける。
まるで昼間の一幕をしっかりと把握しているような物言いに、イアは察してしまう。
黒漆学園で彼らと遭遇したのは、目の前の実現者が糸を引いていたから。先読みではなく、誰かの手の中で踊っているに過ぎなかったことを。
「……そうか、イアはどこまでも貴様の手のひらの上か。……嗚呼、まったくもって忌々しい。虫酸が走ってたまらない! 今にも理性を捨て! 貴様を斬り捨ててしまいたいほどに!」
「でも出来ないよね、難儀な道を選んだキミは。……だからそんな健気なキミに、ユウヒが独断でボーナスを一つ送ろう。ユウヒの知る中で、キミが一番やる気になりそうな魔法の情報。それはね──」
まるでイアの根底を見透かしたように細めた目を向けたユウヒは、軽やかな足取りでイアの間合いへ踏み入り、そのまま耳元に口を寄せて囁く。
ユウヒの接近に落とした刀へ手を伸ばそうとしたイア。
けれどユウヒから囁かれた情報はイアの手を止め、目を大きく見開かせながら、ただただその場へ固まらせてしまう。
「……なんだそれは。ふざけるなよ。そんなふざけたことが、許されていいのか……?」
「だよね、正直ユウヒも聞いたときはそう思っちゃったよ。何たる茶番。いくらなんでもちょっと納得出来ないから、せめて可能な限りで抗ってみようかなって」
全てを囁き終えて、満足げにイアから離れるユウヒ。
イアは俯きながらも、小さく身震いしながらも情報を咀嚼して再度問いただすが、ユウヒは困った様に頷くばかり。
イアの反応はもっとも。
何故ならユウヒによって聞かされたのは、この七ヶ原で行われている戦いの根底を覆すこと。
互いに願いを賭け、人と実現者が手を取り合いながら、命という全霊を以てしのぎを削る争い。勝ち上がった唯一が、最後に願いを叶えるための殺し合い。
ウヒの話した情報が本当だとしたら、その土台が今、崩れ落ちてしまったのだから。
「それでどう? ユウヒより優先すべき相手、決まったんじゃない?」
「……いいだろう。業腹だが、貴様の口車に乗ってやるとも。貴様がどちらを期待しているのかなど、イアにとってはどうでもいい。イアのやることは、何も変わりはしない」
ユウヒの問いかけに、イアは刀を拾いながら、ゆっくりと立ち上がる。
既に敵意の矢印はユウヒには向けられておらず。
ただ真っ直ぐに窓から見える空の先。どこでもないどこか──その果てにいるはずの、誰かへ。
「待っていろ。イアが必ず叶えてやる。あの日確かに聞いた、貴様の願いを果たすから。だからどうか、それまでは──」
そうしてイアは、老人を一瞥だけしてから背を向け、部屋の窓から夜天の彼方へと消えていく。
あとに残されたのは目覚めることのない老人と、空色髪の実現者のみ。
「……頑張ってね。ユウヒ的にはどっちでもいいけど、キミが勝って台無しにするのなら、それはそれで面白いからさ」
やれやれと。
ユウヒはイアの背を見つめながらぽつりと呟きながら窓を閉め、どっこいせと椅子に座りながら、ベッドのそばに置かれていた写真立てを手に取る。
「……見かけの割に、随分と健気な娘だよね。愛されてて羨ましいな、おじいちゃん」
ユウヒが手に取った写真立て。
写真に映っていたのは桜の落ちる学び舎の正門と、「黒漆」と書かれた銘板の前に立つ三人の人間。
頑固に仁王立ちした壮年の男と微笑む女性。そしてその二人に挟まれながら、にっこりと咲いた花のような笑顔を浮かべていた、黒いセーラー服を着た少女。
イアの着ていたものと同じ、特徴的な黒いセーラー服をみにまとう彼女。
その彼女は黒い翼の実現者とは似ても似つかず。されどイアへと移る前に取っていた姿には、光ある瞳以外の全てが瓜二つであった。




