十月三日 2
無駄に疲れる朝の一幕をどうにか越えて、HRは終わり一限の古典へ移る。
だが席に座っていても、体調が戻ってくれることはなく。
むしろ気怠さと身体の重さは増す一方で、一限終了まで残り半分という所で、ついにノートを取る気力さえ起きないくらいになってしまっていた。
「二宮先生、すみません。頭痛いので、保健室行っていいですか」
「おーそうか。じゃあ付き添いは……あー、このクラスの保健委員、誰だっけか?」
「先生。ここは学級委員である私が行きます」
「おお、朝霧。それじゃあ頼む。夜刀神、無理はするなよ」
心配してくる古典の二宮先生に頭を下げ、アイと二人で教室を出て保健室へと向かっていく。
登校中や休み時間とは違う、人の立っていない静かな廊下。
一昨日回った夜の校舎とは違って人の気配はあるのに人のいない、ちょっとした非日常感にドキドキしたかったが、残念ながら体調はそれを許してくれそうになかった。
「……ごめんね。昨日アイが無茶させちゃってたからだよね」
「……そんなことない。こんなのちょっと仮眠を取れば、すぐによくなるっての」
ぽつりと零されたアイの謝罪に、俺は何とか心配をかけまいと首を振って否定するしかない。
一昨日も昨日も戦ったのはアイの方で、俺はただ見ていることしか出来なかった。
戦うと言っておきながら何もしていないし、何も出来ていない。
頼ってばかりで役立たずな身なのに我先にとダウンし、こうして戦ってくれた本人に心配させてしまっているんだから、本当に立つ瀬がない。
互いの謝罪で気まずくなってしまったせいか、それっきり会話はなく。
足音だけを廊下に響かせながら、あっという間に一階の保健室の前まで辿り着き、アイがノックをすれば「どうぞ」と女性の声が返される。
失礼しますと言ってから扉を開ければ、如何にもと言った保健室。
その部屋の中でこちらに気付いてくるりと椅子を回し、優しい声と表情で出迎えてくれたのは、白衣を着た抱擁感溢れる茶髪の美人だった。
……確かこの綺麗な先生の名前は、九重先生だったか。
通称、唯一実在する白衣の天使。
生年月日、スリーサイズ、勤務年数、前歴など。彼女にまつわる個人情報の一切が不明。
知られていることと言えば、この学校の教師の中で断トツに美女で胸が大きいこと。
そして彼女を目的に仮病で授業を抜ける生徒を的確に見抜き、容赦なく教室に送り返してしまうことくらいな、七ヶ原高校名物とされる養護教諭だったはずだ。
……他にも三大美人や七不思議なんてのもあったはずだし、なんかこの学校、変な噂多くないか?
「あら、可愛らしい思春期が二人。残念だけど、ここは逢い引きの場所じゃないわよ?」
「えーそう見えちゃいますー? ……でも残念、今日は違うんですよね。彼がちょっと体調悪いので、寝かせてもらっていいですか?」
「あら、それは大変。ならば歓迎しましょう。ちょうどベッドも空いてるわ。真っ白で跳ねるには硬い、一人用のベッドがね?」
優しく椅子から立ち上がった九重先生は、優しくベッドまで連れ添ってくれる。
連れられたベッドは先生の言うとおり、白くて硬くて寝やすいなんてお世辞にも言えない。
それでも気兼ねなく横になれるという行為自体が、今はこのずっしりのし掛ってくる疲労を少しでも和らげてくれた。
「ほら、用が済んだら早く帰りなさい。あんまり騒がれると、休もうにも休まらないでしょ?」
「……むー。それじゃあね、ダ……信司君。ちゃんと休むんだよ? あと美人だからって、九重先生に浮気しちゃ駄目だよ? 本当に駄目だからね? ね?」
帰りたくないと露骨に顔に出しながらも、九重先生の正論に返す言葉はないらしく。
再三の念押しをしてから、アイは未練がましそう最後までこちらを見つめながら、保健室を出ていく。
アイが扉を閉めた音を最後に、保健室は一気に静寂に包まれる。
些細な物音一つでさえよく通りそうな落ち着きの中、ベッドのそばに立っていた九重先生は、閉められた扉からこちらに視線を移して愉しげに微笑みを見せてくる。
「……ふふ。愛されているようで何より。最早憎くさえあるわ、私には無縁だった青い春が」
「は、はあ……」
「さて、これで二人きりの時間ね。……ふうん、中々好い思春期ね。冷めた眼差しから滲む青さが特にチャーミング。けど……」
ベッドに片手を置き、結構な近さまで顔を寄せて覗き込んできた九重先生。
ほんの甘い香りに鼻孔を擽られ緊張してしまっていると、先生は白衣のポケットから絆創膏を取り出し、俺の右目元にある傷──アイが戦いの参加者の証だと話していた傷へ、こちらが身構えるよりも前に貼り付けてしまう。
「……はい、これで一際男前。傷は付いているだけで立派な勲章ではあるけれど、隠せば一層にミステリアスと人の魅力を上げるものよ。さて、まずは熱を測りましょうか」
貼られた絆創膏を親指で軽くなぞり、軽く微笑んでから俺から離れ机へと歩いていく。
先生の背を眺めながら、先生の目元に傷がなかったことを思い出し、ほっと胸を撫で下ろしてしまう。
つい先生の目元に目がいってしまったが、彼女に俺のような傷はなかった。
……まあ。ちょっと考えれば当たり前か。
昨日のイアの襲撃は、雅乃宮先輩の話が正しいならばこの学校全体を狙った無差別的なものらしいし、きっと先生だって被害者の一人なんだから今更深く疑う理由はない。
そういう思考に誘導している可能性もあるが、正直それも考えにくい。
雅乃宮先輩はともかく、アイから離れて無防備な今の俺へ、強襲なり暗殺なりで何らかの接触してこない理由が思いつかない。もし俺が相手の立場だったら、ラッキーとばかりに飛び込んでしまうはずだ。
……ああくそ、今は頭が思うように回ってくれない。
そういえば、雅乃宮先輩の目元にも傷がなかったような気がするが、どうだっただろうか。
今すべきとは思えない考え事に苛まれていると、九重先生は戻ってきて体温計を手渡してくる。
ひとまず思考を中断し、腋で押さえて十数秒ほど経過するとピピピと音を鳴らしたので、取り出して確かめてみる。
……36.7度。ちょいと高い気もするが全然平熱の範囲、風邪とかインフルじゃなさそうで良かった。
「……熱はないようね。疲労か、流行り病か、私を欺ける意地らしい仮病か、それとも心の疲れが表に出たか。ふふっ、どれだとしても、多感な青い思春期だもの。その気怠さは健常な証だから、むしろ存分に誇っていいわ」
体温計を受け取った先生は、そう言いながら再度ポケットに手を入れて何かを取り出す。
カラカラと、先生の手の中で軽く音を鳴らしたのは小さな箱。
先生箱を持たない方で俺の手を取ると、箱から取り出した小さな白いタブレットを手のひらへ乗せてきた。
「食べて。一粒食べて少し寝てしまえば、あとはたちまち元気になる。そういうものよ」
「……怪しい薬です?」
「ふふっ、私が煎じた漢方よ。大丈夫。確かに刺激ではあるけれど、決して毒にはならないわ」
クスクスと。
手に置かれた白い物体に戸惑う俺に、ベッドのそばにあったパイプ椅子へと腰を下ろした九重先生は、こちらへ優しい眼差しを向けながら口元を緩めてくる。
漢方、漢方ねえ。
なんか漢方って胡散臭いイメージしかないんだけど、実際ちゃんと効いてくれるのかなぁ。
「……そういうのを、保健室の先生が出してもいいんですか?」
「もちろんバレたら駄目だけど、こういうのはケースバイケースよ。規則の在り方、心の在り方、世界の在り方。視点が違えば、それだけの別の世界が広がり続ける。科学的根拠のない漢方の塊一粒だって、時に特効薬より万病に打ち勝つ奇跡になり得てしまう。まあもちろん、私の肩身が狭くなるかは貴方の口が滑らなければだけど……ね?」
唇へ立てた人差し指を当てつつ、「お願いね」と慣れた様子でウィンクしてくる九重先生。
言っていることはよく分からないが、それでも先生に悪意はないのだと。
不思議にもそう思えてしまったので、少しだけ躊躇った後、白いタブレットを口内へと放り込んでみる。
数度舌の上で転がし、意を決して歯で砕いて喉へ送ってみれば、伝わってくるのは顔が歪む苦さではなくその反対である爽やかな甘さ。
漢方なんてピーマンよりもずっと苦くてまずいと覚悟していたが、むしろ甘くてすごく食べやすい。
見かけが子供の頃によく食べたヨーグルト味のタブレットお菓子みたいだったけど、実際食べてみてもヨーグルト味のタブレットお菓子って感じだった。
「……保健の先生が、民間療法みたいなスピリチュアル傾倒はどうなんでしょうね」
「あら、意外に大事よスピリチュアル。人の源泉なんてものは、所詮は電気信号という論理でしかないけれど。それでも想いの力は時として、専門家の説明の余地さえ許さないまま、昨日までの常識を容易く打ち破ってしまうもの。不安定な思春期であれば、なおのことね」
こ
「ちなみに私のお気に入りはこの七ヶ原の七不思議。退屈しないわ、この街は」
でも七ヶ原の七不思議か。
そういえばそんなの、子供の頃に聞いたことがあったっけな。丑三つ時に入ってしまうと新しい自分になれる公衆トイレの個室とか……ふわぁ。
「ふふっ、そろそろおねむの時間にしましょうか。寝て起きて、それでも怠かったら早退も考えましょうね」
話の最中ではあったが、流石にもう限界だったのか。
つい大きな欠伸をしてしまうと、それを見ていた九重先生は目を細めて微笑みながら立ち上がり、俺に毛布をかけるとベッド周りのカーテンを閉めてしまう。
「先生は所用で少し出てしまうけれど、貴方は気にせず眠りに浸るといいわ。それじゃ、良い夢を」
それだけ言った九重先生は軽く手を振ってから、白衣を翻してカーテンを越えて行ってしまう。
扉が開き、そして閉じる音。
訪れた完全な静寂に、保健室で一人きりになってしまったとらしくなく心細くなってしまうのは、自分が弱っているからだろうか。
……それにしても、確かにあの美貌であの距離感をされてしまえば、仮病してでも通いたくなるのは分からなくもない。
俺も心にあさひがいなければ、あの美人先生に叶うことのない淡い恋心を抱いてしまっていたのだろうか。……ぐうっ。
流石にもう限界だったのか、思考の最中に瞼が閉じて、そのまま意識は落ちてしまう。
本当に疲れていたのか、慣れないベッドと枕であっても、夢を見ることはなく。
そして次に目が覚めたとき、全身にあったはずの倦怠感が抜けていることにすぐに気付く。
……おおすごい。寝る前の重さが嘘みたいに身体が軽い。
これなら重めの体育だって簡単にこなせそうなんだが、もしかして先生のくれた漢方とやらの効力が出たのだろうか。
『あら、お目覚め? まるで泣きつかれた赤子のようにグッスリと眠っていたわね。結構よ』
「うへぇ!?」
軽くなった肩を回し、己の回復を確かめながら、どれくらい寝ていたのか気になりだした。
そのときだった。
突如脳内へ響いてくる、皮肉に満ちた女性の声。
最近結構聞き覚えのある、というか今朝も嫌というほど聞かされた凜々しく圧ある雅乃宮先輩の声に身体を跳ねさせ、つい勢いよく周囲を見回してしまう。
とはいっても、周りに人の姿はなく、カーテンの内側にはベッドと空いたパイプ椅子しかない。
九重先生だったらカーテンを開けて直接姿を見せるだろうし、肝心な雅乃宮先輩の姿は影も形もない。だとしたら、この声は一体……?
『ふふっ、さぞ驚いているでしょうね。まるで待ち続けたのに最後には餌皿を取り上げられてしまった子犬のような、そんな貴方の唖然としたアホ面を拝めなくて残念だわ』
「はい? えっと、雅乃宮先輩、ですよね……?」
『ええ、ご存じ雅乃宮雅先輩よ。実はサダメを極細で伸ばして繋いでいるの。さながら万能の糸電話。うーん、我ながらこの雅乃宮雅のセンスにはいつも感嘆せざる得ないわ。控えめに言って最高ね』
こちらの困惑などお構いなしに、圧倒的自画自賛を脳内へと叩き込んでくる雅乃宮先輩。
例えについては正直ピンと来ないが、話から察するに、どうやらあの戦闘に利用していた鈍色を細く長くしてこちらに繋ぐことで会話を可能としているらしい。
なんていうか、恐ろしいほど融通の効く力だ。
雅乃宮先輩が決闘だの流儀だのにこだわる変人じゃなければ、とっくの昔に暗殺されていたんだろう。……ほんと、今は敵じゃなくて良かったよ。
『ああ、動かないで。あくまで伸ばしてくっつけてるだけだから、距離に応じて強度は落ちてしまうの。この距離だと軽く跳ねられでもしたら取れてしまうわ』
「はあ……」
『それと思考を声には出さないで。まだ感度の調整とか出来ないから、声にまでされるとかき氷を一口食べたときみたいに頭にキンキン響いて仕方ないの』
先輩はうんざりしたように話してくる。
ちょっとばかし大声を出してみたくはあるが、本気で殺されそうなので止めておこう。
『それで夜刀神。元気になったのなら、放課後時間あるわよね? まともに動けるのなら、互いの親睦を兼ねてデートでもしましょう。というか、するわよ』
最早命令というべき先輩の提案に、どうやら俺に拒否権はなさそうだと。
電話が切られたみたいに先輩との繋がりが切れてしまったのを感じつつ、ベッドの上で小さく息を吐いてから、せめて九重先生が見に来るまではと再びベッドへ横になった。




