十月二日 4
同盟結成を遂げ、その日は解散となった。
とはいえ帰宅しようとした俺に「一人は危ないから」と、あさひ……の姿をしたアイが全力で咎めてきたので、結局だらける雅乃宮先輩と共に旧資料室で待つことになり、完全な解散とまではいかなかったが。
そうして迎えた、狭い室内に年頃の男女二人の一時。
とはいえ会話なんてなく、アイが「浮気したら怒るからね!」と念押ししてきたことにも意味はなく。
俺はスマホを弄ったり部屋に置いてあった本を捲ったり、先輩はソファを独占しての眠っていたりで驚くほど何も起きはしなかった。
そんな感じで日も沈み、もうじきアイの部活も終わろうかといった頃。
別段会話もないままソファでごろ寝していた先輩が「飽きた」と突然に起き上がり、俺に旧資料室の鍵を投げ渡して帰ってしまったけど、まあ何事もなかったので良しとしておこう。
……ところで、どうして一生徒が鍵の複製まで許されちゃってるんだろうか。
知れば知るほど、考えれば考えるほど一層謎の深まる先輩だ。
例え校長の娘で好き勝手を許されるほど溺愛されているのだとしても、教室の私物化なんて出来ないだろうし……まあ、考えたら負けな気がするから気にしない方がいいんだろうな。うん。
そうしてアイと別れ、帰宅しても、心が落ち着いてくれることはなく。
ご飯を食べて、風呂に入って、課題をこなして。
あとはもう寝るだけだというのに、どうにも目は冴えてしまい、心は無性にざわついたまま。
「あらどこ行くのよ。もう夜遅いわよ?」
「別にちょっと走ってくるだけ。早く風呂入りなよ」
「そう。面倒だから喧嘩と補導はやめてよね。ああそれと、帰りにアイス買ってきて。さつまいも味、そろそろ出る季節なのよね」
ジャージに着替え、玄関で静かに使い古したランニングシューズを履いていた最中、ちょうどお風呂に入ろうとしていた母と出くわしてしまう。
もしかしたら、今日は何か言ってくるだろうかと。
少しだけ構えてしまったが、母は別段咎めてくることもなく、逆にこちらへ五百円だけ渡してお風呂へ向かってしまう。
……相変わらず、こういうときに止めてこないんだよな。うちの母さんは。
今の時間は二十二時を回る前。高校生が外に出るとなれば、法や条例に咎められる時間帯。
一般的な家庭だったら夜遅いから外行くなと怒る場面だろうに、うちの母さんは金を渡し、むしろアイスを買わせに行こうと送り出してくる。
別に今日に限った話ではない。
中学の頃から、こうやってストレス発散と走りに出るときはあったが、母さんはどうしてか止めては来ない。
悩んでいる息子の内心を察し、好きにやらせたいのかもしれない。
少しグレていたあの頃のようになって欲しくないと、そういう配慮なのかもしれない。
本当にアイスを食べたくて、都合が良いから見て見ぬ振りをしているだけなのかもしれない。
放任主義とも少し違うし、きっと無類の信頼とも違う。
俺には決して母の本音など理解出来ないけど、それでも母さんのそういう大雑把な面が、こういうときの俺にとってはとてもありがたかった。
外に出れば、十月の夜はもう随分とひんやりしている。
月の光が差し込む中、簡単に身体を解してから大きく息を吸って吐いて──一歩目を踏み出す。
最初はジョギングくらい、慣らすような感覚で。
頭が、心臓が、足が温まってきたと思えたら、枷を外していくみたいに、次第に加速を許していく。
走る。走る。ひた走る。
何も考えまいと。燻る思考の一切を振り切るように、夜の住宅街を無我夢中で駆け続ける。
……別に、走るのが好きというわけではない。
けれど走っているときだけ感じる、何も考えなくていいあの時間──ピッチに立って一投に全霊を注いだあの瞬間のような心地良さが、ストレス発散にはちょうどいいだけだ。
速度に合わせて顔を撫でてくる秋風は、アイスを当てられているみたいにひんやりと。
けれど身体は暖炉の中で揺らめく火のように、自らを薪としながら、囂々と熱く滾り続けている。
久しぶりの全力疾走。中学の部活でスパートかけたあのときのような、最高速のダッシュ。
覚えている限り、確か最後は体育祭のときの百メートル走だったか。
応援してくれたあさひにちょっといいとこ見せたいなと、運動部だった誰かに一秒ほど差を付けてゴールしたことであさひではなくとおるのやつが目を輝かせていたのは、何とも言えない思い出だ。
そうして家を出て、走り始めてからもうどれくらい経っただろうか。
弾む肩。乱れる息。どれだけ走ろうが振り切れず、ずっと燻り続ける心の中のもやもや。
全部全部見ない振りをして、時間も忘れるほどに走り続けての疾走。
体力が尽きた頃。限界だと足を止めてしまったのは、まるでここへ来たかったと最初から思ってみたいに、見覚えのある小さな公園の前だった。
「はあっ、はあっ……」
脇腹に手を当て、荒れる呼吸を整えながら、ふと誰もいない公園を見回してしまう。
幼い頃、自分とあさひの家から一番近いからと、よく二人で遊ぶのに利用していた公園。
あるのは寂れたベンチと街灯の付いた時計が一つ、遊具はブランコが二人分だけ。
今となっては遊ぶには物足りないとさえ感じてしまうほどの狭さだが、子供の頃はどこまで広がっていると思えたほどの遊び場だ。
最後に遊んだのは、確か小学生の……いつの頃だっただろうか。
ボール遊びが禁止の立て札が立てられて、俺もあさひも他の友達と遊んだりするようになっていたから、それっきり足を運ばなくなってしまったんだっけか。
「……あさひ」
ふと、公園の中に見えてしまった幼少期のあさひの幻影。
所詮は己の脳みそが作った錯覚でしかないと分かっていながら、足は釣られるように公園内へ進み、ブランコへと腰掛ける。
ギイギイと、ほのかに錆びている鉄の鎖は、高校生一人分の体重に悲鳴を上げてくる。
その音は俺が重くなったせいか。老朽化が進んだからか。
無人無音の夜の公園に、軋む音を虚しく響かせながら、あの頃のように少し動いてみようとした。
「困った人だよね、ダーリンは。一人で夜に出歩くなんて、襲ってくれと言ってるようなものだよ?」
そのときだった。
まるで夜という静寂を切り裂くように。
白い翼をその身に宿した女性が、呆れと優しさの混じった声と共に、天使のように空から舞い降りてきたのは。
「……やっぱりいたか、アイ」
「そりゃいたよ。だってアイはダーリンを守らなくちゃいけないんだから、家を出た頃からずっといたよ。ダーリンこそ、いつアイに気付いてくれたの?」
「……どうしてだろうな。ただいるんだろうなって、そんな気がしていただけだ」
どっこいせと。
アイは翼のせいか、わざわざ後ろから器用に隣のブランコへと腰掛け、くるりと顔を向けてくる。
アイが来たことへの驚きは、不思議となかった。
どうせいるんだろうなと、何一つ根拠なんてないのに、どこかでそんな気はしていたからだ。
「そっか。きっとそれは、アイとダーリンが契約で繋がってるからかも。もっと関係が深まれば、いつかは繋がりだけで互いに以心伝心したり、物理法則をねじ曲げるさえ出来ちゃうかもよ?」
「……それ、本気で言っているのか?」
「もちろん。ダーリン知らないの? 愛の力は無限大、その気になれば奇跡の一つくらい簡単に起こせちゃうんだから」
アイはにこりと、目を逸らしたくなってしまうほど真っ直ぐな笑みを浮かべてくる。
その場限りな戯れ言ではなく、本気で言っているのだろうなと。
たった二日程度の付き合いだというのに、何となくでも理解してしまっている自分がほんの少し憎らしくて、胸が締め付けられるような感覚を覚えてしまった。
「それで今日はどうだった? 流石に昨日今日で襲撃があるとは思わなかったけど、それでもダーリンとアイの愛の力で切り抜けて、あのヘンテコ女とも同盟を結んだ。もう夢や冗談じゃないって、半信半疑だった骨身にも染みたよね?」
「……ああ。流石にもう、否定なんて出来ないよ。現実味なんてなくたって、これが現実なんだって」
ギイギイと。
アイがブランコを揺らしながら尋ねてきたので、思うままの感想をそのまま告げるしかない。
アイと瓜二つながら、白い翼と金の髪を持ったアイ。
不可思議に伸びる鈍色を操る雅乃宮先輩。
そして学校を陥れようとしてきた黒い翼の、アイと瓜二つの女性。イアと名乗った彼女。
いくら普通の人間である俺でも、ここまで来てしまえばアイの言葉を否定なんて出来ない。
朝霧あさひの消失も、屋上での一幕さえも夢であったなどと。
そんな甘い幻想を砕かれるには十分過ぎるほど、色んなことがありすぎた一日だった。
……馬鹿だよな。
目の前のあさひにそっくりな女がいる限り、あさひがいない事実はずっと真実だってのによ。
「……ごめんね、ダーリン。昨日あんなこと言っておいて、結局危険に晒して、助けてもらっちゃった」
「……別にお前が悪いわけじゃないだろ。お前がいなかったら俺は死んでた。言うなら文句じゃなくて、お礼の方だよ」
俯きながら謝ってくるアイへ、首を振って否定する。
アイがいなきゃ、きっと俺も先輩も死んでいた。アイのおかげで、イアを退けることが出来た。それだけは、どう斜に構えても覆りようのない事実なのだ。
「……それでもだよ。アイはダーリンを守るためにいるのに、それさえ果たせないのなら、存在意義なんてないんだから」
だというのに。
アイはそれでも取り返しの付かないことをしてしまったと、小さな子供のように落ち込むばかり。
だから、そんな態度に疑問が過ぎってしまう。
何故アイは、そんなにも俺を守ろうとしてくるのか。──俺をダーリンと呼ぶほどに、慕ってくれているのか。
「……そっか。なら一つ、訊いてもいいか?」
「うん……あ、でもやっぱりちょっと待って! どんな場所でデートしたいとか、役所に婚姻届出すのはいつにするとか、そういうのもうちょっと仲を深めてからで……きゃ♡」
「……違うっての」
それでも、今はそれは置いておこうと。
疑問を呑み込み、謝罪の代わりにと俺が尋ねてみれば、さっきまでの殊勝な態度はどこへやら。
勢いよく顔を上げたアイは、両頬に手を当てながらくねくねと、恥ずかしそうに身を捩らせてくる。
……この道化染みた反応や態度は、果たしてどこまでが本気なのやら。
「どうして、どうして先輩の生死を俺に委ねたんだ? お前だったら戦えない俺の言うことなんて聞かなくても、先輩を殺せたはずだ。お前くらい強かったら、俺なんて無視して好き勝手に動くことだって出来るんじゃ──」
「出来ないよ。出来たとしても、アイはそんなの望まない。だってアイは、ダーリンのことを心の底から愛しているんだから」
まったく心の中が読めない彼女を前にした俺は、大きなため息を吐いてしまってから、気を取り直して切り出していく。
だが俺が言い終わるよりも前に、アイは真っ赤な瞳を真っ直ぐ向けながら、はっきりと断言してくる。
見つめ合う。燃ゆるように綺麗な赤い瞳は、俺を真っ直ぐに覗き込んでくる。
その赤い目はとても真っ直ぐで、羨ましくなるくらい綺麗で、まるであさひのような、そんな目。
「実現者と契約者は一心同体。空間の展開然り、勝敗と生死然り。互いの尊重と信頼あって初めて力を引き出せる、そういうものなんだよ。それこそイアみたいに他人から奪わない限り、強制から出せる力なんてたかが知れてる。この戦いで大事なのはお互いの気持ちで生んだ信頼なんだ。……だけどね」
アイはそう言ってから、ブランコから跳び、俺の真ん前へと立って見下ろしてくる。
「……だけど、アイのはそんな理屈めいたものじゃない。確かにアイはあのヘンテコ女のことを殺した方がいいと思ったし、同盟なんて組まなくてもいいじゃんと思った。でもね、恋する女の子は好きな人のお願いだったら何でも聞いてあげたくなっちゃう生き物なの。ダーリンがそうしたいと決めたのなら、アイはそれを尊重してあげたくなっちゃう。そんな曖昧な答えじゃ……駄目、かな?」
ニコリと、アイのこちらへ見せた笑みは、まるで咲き誇る一輪の花のようで。
目の前の存在が朝霧あさひではないと分かっているのに、それでも見惚れてしまっていた。
……正直な話、こいつの言っていることを理解しきれたわけじゃない。
恋する女の子なんて感情論、この場の説明としてはあまりに足りていないとしか思えない。
けれど、それでも。
目の前の彼女は、きっと本当のこと言っているのだと。彼女の赤い目から伝わってくる熱は、きっと偽りなどではないのだと。
不思議とそう感じてしまうのは、やはり目の前の存在が、朝霧あさひに──初恋の少女と重なってしまうからだろうか。
……きっと、勝てないんだろうな。その顔をした女に、真っ正面から何か言われてしまうと。
「……俺はあさひが好きだ。お前が俺を好きだとしても、絶対に応えることは出来ないぞ」
「知ってる。だからアイは好きなんだよ、そんな一途なダーリンのことが」
ゆっくりと立ち上がり、あさひと同じように目を合わせながら、
どんな真意があろうとも、同じように恋する人間として、はっきりとそう告げてなお、アイは笑顔を見せてくる。
それでいいのだと、むしろそうあって欲しいと、そんな俺の姿が嬉しいのだと。そう言わんばかりの、笑顔を。
「……正直、今でも誰かを殺す覚悟とかない。そんなの、何回考えたって、出来るわけがない」
ぽつりぽつりと、自分の気持ちを整理するみたいに、思いを言葉へと変えていく。
例えアイが手を下すにしても、契約者である俺には同じ責任──人を殺した罪を背負うことになる。
例え相手が、どれほど残虐な悪人だったとしても。
例え相手が、自分に殺意を向けてくる相手だったとしても。
それでも、自分がそれを決意出来るかと言われた無理だった。
口先だけの覚悟なんざ、その時が来てしまえば、きっと逃げるように飛んでいってしまう。
だから自分がどちらの側なのか。この問題の答えは、回答の瞬間になるまできっと分からない。
「それでも、叶えたい願いがあるんだ。そのために生き残る覚悟なら、今日出来たつもりだ」
叶えたい願いがある。
あさひの笑顔がもう一度見たい。
あさひの声がもう一度聴きたい。
あの日してしまった告白の答えを、俺はどうしても知りたい。
だから、戦わなくてはならない。朝霧あさひという少女を、取り戻さなくてはならない。
雅乃宮先輩のように誰かを殺める覚悟なんて出来ない。
イアのように、関係のない他人を巻き込むことを許容なんて出来るわけがない。
それでも、進み続ける覚悟だけは出来た。
例え避けられない決断を迫られる日が来るだとしても、その日まで生き残るために戦うのだと。
それが昨日辿り着くことから逃げてしまった、この戦いに対する俺の答え──曲げちゃいけない決意だった。
「だから、だから改めて頼む。俺は戦いでは何の役にも立たないかもしれないけど、それでも一緒に戦ってくれ。アイ」
「……うん、うんうんうん! もちろんだよダーリン! その言葉一つで、アイはどこまでだって戦えちゃうよ! よろしくね!」
手を差し出せば、アイはそれを強く握ってくれる。
ドクン、と体内を巡る熱い何か。
きっとその熱こそが始まりの合図。俺達が本当の意味で共にこの戦いを始めたのは、今この瞬間なのだろう。




