十月二日 3
イアという名の黒い翼をその身に宿し、恐ろしいほど強かった女性をどうにか退けた後。
とりあえずはみんなの様子を確かめなくてはと、雅乃宮先輩と別れた俺達は急ぎ足で教室に戻った。
到着した頃はみんな変わらずだったが、五分もすればぽつりぽつりと目を覚ましていき。
十五分ほど経った授業終了のチャイムが鳴る頃には、全員若干疲れの溜まったような素振りこそしていたものの全員が問題なく起きてくれたので、ほっと胸を撫で下ろさざるを得なかった。
もちろん三座先生は訝しげに首を傾げていたものの、こんなとんでも現象が原因であると把握出来るわけもなく。
目覚めた直後、全員が妙に意識がポヤポヤとしていたことのあるのだろう。
所々に若干の戸惑いこそ生まれたものの、結局ただ自分が疲れていただけという形に落ち着き、今日の学校は終わりを迎えてくれた。
とはいえ、いくら下校時間になってくれようと、俺の一日が終わってくれることはない。
「横柄だよね。普通はアイ達じゃなくてさ、あの女がこっちに顔出すべきだと思わない?」
あさひの姿に戻ったアイは隣を歩きながら、頬を膨らまして不満を露わにしてくる。
……まあ正直、アイの言い分は分かるし、むしろ心の中では同意してしまっているほど。
現在俺達が向かっている先は、四階の端っこにあるという旧資料室。
雅乃宮先輩に「落ち着いて話せる場所がある」と来るように指定されたのは、半年も通っている高校にも関わらず、今日初めて存在を知ったくらい地味な教室だった。
「……そういえばお前、部活は?」
「遅れるか休むって部長に伝えたよ。雅乃宮先輩に呼ばれたって言ったら、心の底から同情したような顔で肩をポンと叩かれちゃった。不思議だね」
移動の最中。
隣を歩くアイにそういえばと思い出したので尋ねてみると、不思議そうに肩をすくめてみせる。
……あの先輩、この学校でどういう扱いされてんだろうな。詳しく知るのが怖いわ。
そんなわけで四階まで階段を上り、ようやく本当に端っこにあった旧資料室へと到着する。
全体的に薄汚れてしまっている、教室名の書かれたプレート。
キープアウトと、如何にもな黄黒のテープで大々的にバッテンを付けられている古い扉。
如何にも使われていないし、ここには入ってはいけませんよと。
そんな雰囲気全開な、まさに開かずの扉と形容していい扉を前に、本当にここで合っているのかと自分の記憶を不安にさせられながらも、意を決して軽くノックをしてみることにする。
コンコンコンと、ノックは三回。
二回叩くのは、トイレの中を確認するのと同じなのでマナー違反だと。
そんな風な話を昔何かの動画でそう力説された……ような覚えがあるが、そういえばいつ見たんだっけか。
「入りなさい」
そんなどうでもいいことを考えながら数秒後、女性の声と共に独りでに扉が開いてしまう。
扉の開いた先に人の姿はない。
あの鈍色で動かしたのだろうと、手前勝手に推測しながら、警戒と共に部屋の中へと入っていく。
室内は思っていたよりも狭く、自分のクラスが使っている教室の半分くらいといった具合か。
複数ある、壁に設置された空の本棚。
端に積み上げられた机と椅子。
ひび割れた窓に、部屋の中央の大半を占めるソファ。そしてほのかなコーヒーの匂い。
中央のソファさえなければ、旧資料室という名にふさわしいこぢんまりとした部屋だと。
部屋というより隠れ家と表現したくなる、ここはそんな部屋だった。
「えっと、ここは……?」
「見てのとおり旧資料室よ。物置でしかなかったけど、紆余曲折の末にこの雅乃宮雅の別荘に生まれ変わったの。カピバラの巣って感じで、案外居心地の良さそうな場所でしょ?」
チャラチャラと。
まるで自分の家みたいにソファに寝転んでいた雅乃宮先輩であろう女性は、俺達に顔を向けることもさえなく、背もたれ越しに手を上げ、リングに付けられた鍵をこれ見よがしに指で回してみせてくる。
……鍵持ちとかどんな身分だよ。校長よりも偉かったりするのか?
色んなことに疑問に思いながら、部屋を進み、ソファの向かい側にある椅子へと腰掛ける。
細長いテーブルを挟んで、それぞれが座るのはパイプ椅子とソファ。
普通ならお客をソファに座らせるべきじゃないかとか、ちょっぴり思ってしまっていると、先輩から伸びた一本の鈍色が器用に紙コップを用意し、瓶に入った粉を、そしてポッドのお湯と注ぎ置いてくれる。
湯気舞う黒い液体。香る匂い、入れる手順的にごく普通のコーヒー……のはずだ。
「……毒とか入ってたり、します?」
「もちろん入ってるわよ。この雅乃宮雅の慈愛って名の、どんな毒より甘く蕩ける毒が。お嫌い?」
「むう! ダーリン! それ飲んだら浮気だよ……あー、何で飲んじゃうのもうー!」
いい加減茶番に付き合うのも面倒になってきたので、ひとまずコーヒーをごくりと流し込む。
口内から喉を伝う苦みは、予想の上も下もなく。
たまに家で飲んでは苦いなとしか感想の出ない、ごく普通のインスタントコーヒーって感じのコーヒーだ。
「……弄りがいがないわね。そのすかした態度、自分を大人と勘違いした小学生みたい」
「うるさいですよ。大体そっちこそインテリぶった厨二病そのままじゃないですか」
「あら、知らないの? 私はいつだって私に酔ってるの。言うなれば、雅乃宮雅という生涯現役の厨二病……中々にロマンティックでしょ?」
「どこが?」
ちょっと強めに言葉を返すも、雅乃宮先輩にはまるで効果なし。
むしろ胸に手を当てながら、愉しげな顔で誇らしいと肯定し、更には同意を求めてくる始末。
何もかも嘘のようで、けれどどこまでも本音のよう。
突っ込み所は山ほどあるのにまったく掴み所のない先輩なのは重々理解したし、もう深く考えるのは止めておこう。本当に時間の無駄だ。
「ねえ、いい加減本題に入ろうよ。和気藹々とおしゃべりしたいってわけじゃないでしょ?」
「奇遇ね、ちょうど私もそう言おうと思っていた所。点けて五分後のホットプレートのように、いい感じに場も温まったことだしね」
と、こんな茶番に痺れを切らしたのか、コーヒーに手を付ける気配を見せないアイが足を組みながら不満全開にそう提案すると、先輩は別段機嫌を損なうこともなく、静かに身体を起こしてくる。
背もたれに寄りかかることなく背筋は伸び、足は閉じ、手は太ももの上で重ねられている。
アイとは違う、高校生離れした品のある座り方。
例え言動を知っていようと、それでも目の前の彼女はお淑やかな高嶺の花と錯覚してしまうほど。つい先ほどまでソファに寝そべっていたとは思えない、実に洗練された所作だと思えてしまった。
「まず最初にお礼を言うわ。つい先ほど、無様に地面で芋虫になってしまっていた私を、傲慢にも見逃してくれてありがとう。あ・り・が・と・う?」
「……助けたのはアイで、俺は何も出来なかった。そもそも先輩がいなかったら、俺は教室で死んでた──」
「そうね、じゃあこの話はおしまい。そもそも私は一度見逃し、そして今回も命を救ってしまった。嗚呼、やっぱり貸しにしておくべきだったわ。失敗ね」
頭を下げてきた雅乃宮先輩にお互い様だと言えば、彼女はあっさりと頭を上げてくる。
恐ろしいほど早く切り替え、微笑みながら髪をかき上げる先輩。
そんな彼女にアイは「ダーリンの慈悲に感謝しなよ」と腕を組みながらふてぶてしく告げるのを、ぼんやりと見つめながら考えてしまう。
結局さっきの戦いの後、校庭で倒れている先輩を前に、アイの問いに頷くことが出来なかった。
ささなかったのではなく、させなかった。
二度戦いに巻き込まれようと、相手が一度殺しに来た女であろうと、そうしなければあさひを取り戻せないと理解していようとも。
それでも、殺すという現実を許容出来なかった。見逃したのではなく、所詮日和っただけなのだ。
きっと俺の本心など、アイは容易に見透かしていたはずだ。
なのにアイが自分より遙かに弱い俺の意見で矛を収めてくれたのは、何故だろうか。
「さて、じゃあ本題だけど……昨日の約束、覚えてるわよね? まあ忘れたなんて宣いでもしたら、この場で話はおしまいなのだけど……どう?」
「お、覚えてますよ。屋上で、今日の十九時……ですよね」
「良かったわ。この私が初めて男を熱烈に誘ったというのに、忘却なんぞですっぽかされでもしたらどうしようかと思ったわ。本当にね?」
くすくすと、口元に手を当てながら、不敵な笑みを浮かべてみせる雅乃宮先輩。
だけど彼女の刺すような目つきは、冗談なんて気配を感じさせず。
もしも忘れていたらどうなっていたかを容易に想像させ、ちょぴっとだけ身震いしてしまう。
「それでお願いなんだけど、その約束を延期にしてもらいたいの。期限は……この戦いの参加者が私達二人になるそのときまで。どう、悪くない提案だと思わない?」
「……はい?」
雅乃宮先輩がしてきた提案は予想外で、つい思わず戸惑いの声がそのまま出てしまうほど。
戦いの延期なんてこちらとしては願ってもない申し出だが、まさか先輩からの打診なんてどういうわけなんだ……?
「それは、どういう……?」
「あのイアとかいうそこの2Pカラーみたいな黒翼の女。間違いなく実現者なのだろうけど、現状あいつが私にとっての最優先。ショートケーキの上にあるいちごみたいに、いの一番に狩らなきゃいけない相手になってしまったわ」
雅乃宮先輩はまるでイアの代わりとばかりに、アイを忌々しげに睨みつけながら憂いてくる。
なるほど。それなら納得だ。
黒い翼の女性。アイと同じくあさひと酷似していた、イアと名乗った冷徹で強かった彼女。
今回はどうにか撃退こそ出来たものの、勝敗で言えばこちら側が負けと言ってもいい。
そして通う高校がバレてしまった今、彼女は遠くない未来自宅まで特定してくるかもしれない。そう考えれば、俺にとっても先輩にとっても見過ごすことなんて出来ない相手に間違いはないはずだ。
「あの、結局あの黒い光は何だったんですか……?」
「詳しくは知らないわ。ただあの光は学校全体に展開されていた。死ぬまで吸い上げるつもりだったかは知らないけど、あいつは自らの意志で一般人に手を出した。それだけは確かよ」
……そうか。あの床の黒い光は、うちの教室だけじゃなくて学校全体だったのか。
その事実は恐ろしいと思う反面、どこか腑に落ちる部分があった。
恐らく先輩は校舎内の確認をしていた最中にまだ意識のあった俺を見つけ、そのまま助けてくれたのだろう。俺の下駄箱を把握しているくらいなのだから、教室の確認くらいは可能なはずだ。
「別に一般人を巻き込むことに憤っているわけじゃあない。この雅乃宮雅にも叶えたい夢がある。完遂すべき約束がある。そのためだったら自らの命を賭し、他人の尊厳を踏みにじり、友人を崖から蹴落とす覚悟だって出来ている。だからあいつの行動自体を咎めるつもりはないし、してはいけないわ」
心底気に入らないけどね、と。
不満げに鼻を鳴らした雅乃宮先輩は、右腕から鈍色を伸ばしたと思えば、本棚の引き出しから取り出したクッキーを自らの口へと放り込み、一気にコーヒーで流し込んでしまう。
……さっきまでの優雅さがまるでないはずなのに、妙に様になっているのは容姿のせいだろうか。
「やり方が気にくわないのはある。既に素性を知られてしまったのもある。……けれど、けれど何よりも、この私の領地を荒らしてなあなあってのは看過出来そうにないの。ふて寝しようにもあの顔がちらついて妨げてくるくらいには気に入らないの。だから必ず報いを受けさせる……これは決意じゃなくて、決定よ!」
握った拳でテーブルを叩いてしまいながら、静かに、けれど力強く宣言する先輩。
ダンと、この部屋に響いた打音の大きさは、澄ました顔の彼女が心に持つ怒りの量に等しいのだろうと、容易に想像ついてしまった。
「で、そこに行き着く過程でこの雅乃宮雅は思いついてしまったの。どうせ延期するのなら、あの夜の続きを最後の決着にすればいいんじゃないかって。強大な敵を前にした最初のライバルと一時手を結んで勝ち進み、最後に残った二人で雌雄を決する……どう? 本にでもしたら賞でも取れそうなくらい王道な名案でしょう?」
「……つまりただ延期するのではなく、協力し合いたいと?」
「退屈な言い回し、せめて同盟くらいに格好付けて欲しいものね。……まあ概ねその通りよ。別に素直になれない思春期のように容赦なく断ってくれても構わないの。その場合は約束どおり、今日の十九時に仕切り直し。応じなければ蟻の巣穴に水を流し込むくらいに問答無用、それだけだもの」
どうかしら? と。
雅乃宮先輩は目を細め、クスクスと、本当にどちらでもいいとばかりに余裕を持って微笑んでから立ち上がり、こちらへ右手を差し出してくる。
「それでどうかしら? この雅乃宮雅を手を取るか弾くか、貴方が決めなさい」
「……アイ」
「あむあむっ、アイはダーリンに任せるよ。大丈夫。ダーリンがどんな選択をしたとしても、必ずアイが守ってみせるから」
どちらを選ぶべきか。
判断に迷った俺は先輩から目を逸らし、アイへ助けを求めてしまうも意味はなく。
いつの間にか取り出したのか、雅乃宮先輩が食べていたのと同じクッキーに舌鼓を打っていたアイは、こちらの視線に気付いたのかにっこりと頷いてくれるだけ。
……アイは何も言ってくれない。ならば俺が、自分で決めるしかない。
「……一つだけ、確認させてください。どうして俺を手紙で呼び出したんですか? 先輩なら、何も知らない俺を一方的に殺せたはずですよね?」
「そんなこと? 答えは単純、雅乃宮雅という私の流儀に反するから。それだけよ」
少しだけ考えてから、俺が一つ質問をすると、先輩は別段構えることなくそう答えてくれる。
流儀、か。なるほど、それはこの上ないほど分かりやすい答えだ。
「分かりました。一時休戦ってことで、お願いします」
僅かに頷き、決断は出来たと。
立ち上がり、差し出されていた手に自分の手を重ねると、雅乃宮先輩は意外だったと驚きを顔に出してくる。
変な人だ。自分で素晴らしい案だと手を出してきたのに、断られると思っていたのだろうか。
「……自分で提案しておいてあれなのだけど、どうしてか教えてくれないかしら。殺そうとしてきた女の手を気軽に取るなんて、三歩歩けば全部忘れる鳥頭でもなければ不可能だと思うのだけど」
「そうですね。でも先輩は助けてもくれました。だから、それだけです」
理由なんて、実のところ自分の中でもそうはっきりしていない。
ただ一つ、このクセの強い先輩ならば、きっと交した言葉を違えることはないと。
昨日今日の関係だってのに、不思議とそう思わされてしまった。今手を取った理由なんて、結局はそれだけだった。
「……ただのぼんくらと思っていたけど……いいじゃない。合格よ、夜刀神信司。今日この時から袂を分かつその日まで、私達は背中を預け合うお友達よ」
にやりと笑み浮かべた先輩は鈍色を伸ばし、それぞれの手に紙コップを握らせてくる。
何だと戸惑っていると、先輩がこれ見よがしに紙コップを差し出してきたので、何となくやりたいことを察したので俺も持っていた紙コップを前に出す。
雅乃宮先輩は愉しげに。
アイはどうしてかこちらを不満そうに睨みながら。
三人が思い思いの表情をしながら、優しく紙コップを打ち付け合う。
戦いに身を投じる理由も願いも異なる、いつか訣別が確定している関係だったとしても。
それでも、ガラスや陶器のコップのような綺麗な音は出なくとも、少しだけ結束感のようなものを感じてしまった。そんな始まりの乾杯だった。
「それで提案なのだけど、この同盟の名前をチーム雅乃宮にしたいのだけど、いいわよね?」
「いーや、アイとダーリンとおまけで満場一致だよ。ねえダーリン?」
「はっ」
「ああ?」
まとまったと思った矢先、俺をよそに、幼稚園児の罵り合いかってレベルでガンつけ合う二人。
あさひと先輩。確かに要素こそ似通っているが、やっぱり全然違う顔だなと。
二人を見比べてそんな感傷を抱いてしまいながら、椅子に座り直してコーヒーに口を付ける。
……名前とかどうでもいいけど、まず自分の名前や存在を名前にしないで欲しい。それが一番ダサいよ、マジで。




