十月二日 2
突然だった。
あまりに突然に、教室の床から溢れ出してきた不可思議の黒光。
そしてふわりふわりと雪のような埃のような無数の黒い綿が、下から上へと舞い出したのは。
「何が、っ……!」
まるで床から風でも吹いているかのような。
重力などお構いなしな、雪でも降っているみたいに上がる灰に困惑し、立ち尽くしてしまった。
その瞬間だった。身体が一気に重くなり、足下が覚束なくなってしまったのは。
生きるために必要な何かが抜け落ちていくような、搾り取られていくような感覚。
不思議で、奇怪で、たまらなく不快で。
そんな喪失感をどうにかしなければならないという心の叫び虚しく、どうにか踏ん張ろうとしたが意識が揺らぎ、そのまま三座先生と同じように倒れてしまう──。
「口閉じて! 舌噛んでも知らないわよ!」
けれど、そのまま意識を失うことはなく。
声がしたと思った次の瞬間には、身体は何かに攫われ、足裏から地面の感触が消えてしまう。
バリィン、と。
甲高い破砕音の直後、一気に覚醒した認識で追いつけたのは自身が空へと投げ出されていたことと、鈍色のロープのような何かが自身の胴にきつく巻き付いていたこと。
「サダメ、空間展開よッ!」
そして長い黒髪を靡かせ、険しい表情をしながらも共に落ちる美少女。
雅乃宮雅。
つい昨日俺を手紙で呼び出して殺そうとして、今日一日ずっと俺を悩ませ続けた女が、雄々しい咆哮のように何かを口にした瞬間だった。
それは落下の途中であっても、どうしてか驚くほど自然に感覚として理解出来た。
雅乃宮先輩──正確に言えば、サダメと呼ばれた鈍色の物体から、何かが一気に広がっていき、たちまちに俺も呑み込まれたのを。
間違いなく今までと同じ場所。同じ時。同じ空間。
決して何が変わったわけでもないのに、それでも何かが根本から異なるのだと理解してしまっている。
まるで自分から世界がズレてしまったような、全部が偽物になってしまったみたいな、そんな感覚だった。
「うげっ! けほっ、けほっ、乱暴すぎる……」
「助けてもらえただけ感謝してちょうだいな。……はあっ、私って本当に罪な女ね。どうしてこの雅乃宮雅が、休日の朝っぱらから河原を綺麗にしているボランティア職員のように、拾わなくてもいい命を無償で拾ってあげてしまえるのかしら」
だがそんな刹那の感傷は、着地した雅乃宮先輩の鈍色が胴を離れたと思った矢先、降り立った校庭の地面へ落とされたことで消えてしまう。
せめてもう少しだけでも優しく降ろしてもらえないものかと。
助けられた側で文句を言うのもあれだろうが、それでも立ち上がりながら悪態をついてしまうが、雅乃宮先輩はこちらに視線を向けることさえなく答えを返してくるばかり。
雅乃宮雅。昨日俺を殺そうとしてきて、何故か今日に延期してきた三年生の美女。
何故か仕切り直しを提案してきたものの、ここで何かあってくれた方が都合がいいだろうに、どうして俺を助けてくれたのか。
「あ、ありがとう、で、いいんですよね……?」
「お礼なんていらないわよ。だって私達は、まだこの状況を何一つ脱せたわけじゃあないもの。ところで貴方の実現者……あの金髪女は契約者の危機にどこほっつき歩いているわけ?」
「……一緒に眠らされてしまいました」
「そう。図体と態度だけは大きいくせして肝心なときは役立たず。太陽が昇りきった頃にさえ起床してこない穀潰しって感じね。本当に大損でまいっちゃうわ」
やれやれと。
俺の答えを聞いた先輩は呆れ果てたとばかりに話しながらも、鈍色を自身を守るように展開しながら、その鋭い目は真っ直ぐ一点──空を仰ぎ続けている。
まるで目前まで迫る嵐に備えるみたいな、そんな様子にどうしたのかと──。
「……無為に蔓延る者共が群れを成す。学び舎は効率のいい狩り場と思ったが、まさか初回で二人も参加者に当たるとはな。ままならぬものだな」
──どうしたのかと。何かがあるのかと。
先輩に倣って空に目を向けようとした、その瞬間だった。頭上から億劫さのこもった声が聞こえた、聞こえてしまったのは。
凜とした声。
どこかで聞き馴染みのある声質ながら、まるで温かみのない、情を感じさせない冷徹な声色。
そんな声に釣られるように顔を上げてしまえば、空を背にして立っていたのは、例えるのなら鴉を人にしたような女性だった。
大きな漆黒の翼をはためかせ、翼と同じくらい真っ黒な髪を後ろで一つにまとめ、真っ黒な刀身が存在感を示す刀を握った美女。
光のない黒い瞳。この世全部に失望しているみたいに冷めた目つきをした、真っ黒なセーラー服の彼女の姿は、服装と刀を除けば天使のようだった彼女──アイと瓜二つ。
つまりあいつも、あさひとそっくりでありながら、全くの別物である女性ということ。
アイと同じ常識を超えた存在──実現者というやつなのだと、すぐに理解出来てしまう。
あの存在を認識した瞬間、ほんの一瞬で脳へ駆け抜けてきたのはズキズキと疼くような激痛。
まるで悲鳴を上げるみたいに、あいつだけは忘れてはならないと。
何一つ記憶にないはずなのに、まるで大事な人を奪った怨敵を前にしたような、そんな恐怖と怒りの入り交じった気持ちを呼び起こすような痛みは、警鐘のように訴えてくる。
──何かは知らないけど、あいつは、やばい。
「こんな昼間から領域なしで襲撃とか、私以外の参加者はどんだけ野蛮で下劣なの? 例えみんなで渡ろうと、信号無視はいけないことって教わらなかったのかしら?」
「欠片も理解出来ない例えだな。さては貴様、かしこぶっているだけで会話という猿でも熟せる芸当の適性がないんじゃないか?」
「下手、ですって? この雅乃宮雅が、虫畜生以下の知能ですって……? ああ!?」
ゆっくりと降り立った黒に満ちた彼女は、煽る雅乃宮先輩へ吐き捨てるように言葉を返す。
数瞬の愕然から、怒り心頭だとその場で地団駄を踏む先輩。
けれど黒い彼女はそんな先輩ではなく、何故かこちらを真っ直ぐに見据え、本当に不快なものを見たような顔を歪めてくる。
まるであさひが心の底からの嫌悪を示してきたと、そうとしか思えない拒絶の面持ち。
髪の色がアイと違い、あさひと同じ黒なせいだろうか。
あの眼光を前にして抱いてしまったのは、命という危機よりも恐怖よりもあさひにそんな顔をされてしまったという場違いな悲観であった。
「……嗚呼、どうしてだろうな。そこの貴様、ああそうだ。そのこの世の愚鈍の寄せ集めみたいな間抜け面の貴様を見ているだけで虫酸が走って走って仕方ない。おい喜べよ。生誕以来、こんなにもこのイアに憎悪の薪をくべたのは、貴様が最初で最後だぞ?」
黒い翼の彼女──イアと名乗った彼女ははっきりと俺を狙いを定め、悪辣に口角を上げながら刀の切っ先を向けてくる。
彼女の発する圧が、つい一瞬前とは比較にならないほど強まり、本能的に後退ってしまう。
冷たく、重く、苦しく。
今まで誰にだって向けられたことのない、人というのはこれほどまでに負の感情を人にぶつけられるのかと一周回って感嘆してしまうほど、空気さえ歪めそうなほどの圧を彼女から感じてしまった。
「……モテモテで羨ましいことね。ちなみに現代社会でハーレムは修羅よ?」
「知らないよ。好き合う女は一人で十分だっての」
「そう。モテない男はみんなそう言うものよ。退屈ね」
そんな圧を感じたのは俺だけなのか、それとも分かっていてなおその態度を取れるのか。
雅乃宮先輩の軽口を一瞥さえせず返していると、イアと名乗った黒い翼の彼女は静かに腰を低くする。
今までの激情を鞘にでもしまったみたいに纏う空気を変え、ただ一筋の刃のように研ぎ澄まされていく。
……やばい。あの黒い刀が、来る。来てしまう。もう目の前まで──。
「どっせえいー!」
認識から身構えるよりも一瞬速く、イアが地を蹴った。その次の瞬間だった。
一拍にさえ満たないほど僅かな合間、人の認識の隙間をかいくぐったみたいに刹那にて。
残像を軌跡としたイアが、目前まで迫っていたと朧気に感じたと思った瞬間にはもう、何故か吹き飛ばされて校庭を跳ね転がされてしまっていたのは。
「ふう間に合ったー! 危ない危ない、やっぱり擬態中は人間並の強度に落ちちゃうのが欠点だよ」
「……アイ!」
「はーいダーリン♡ あなたの夢と人生のお供、アイちゃんが満を持しての登場だよ♡」
理解の追いつけない俺の目の前に着地してきたのは、真っ白な翼を羽ばたかせた、太陽の光にだって負けない金の髪の美少女。
特徴的すぎる甘ったるい声色ながら、けれど安心感を抱いてしまいながら思い至った名を反射的に呼ぶと、アイはにっこりと笑顔で応えてくれる。
……何が起きたのかは理解し切れていない。
けれど今、確かに俺はアイに助けられた。現状でそれだけは、はっきりと理解出来た。
「……随分下品な挨拶だな。同類として恥を覚えるほどだ」
「そうかな? コソコソ弱者からチュウチュウしてる方がよっぽど下品で低俗だって思うけど?」
何度も何度も滑るように転がされ、地面に倒れていたイアは、刀を杖にしながら立ち上がる。
常人ならばさぞ見るに堪えない惨状であろうに、目立った外傷はなく。
なおも冷たく鋭い目を、今度は乱入者であるアイに向けながら、言葉を吐き捨てるのみだった。
まるで鏡合わせだと、アイと黒い翼の彼女を見比べて、そんな風に思えてしまう。
水と油のように、色も口調も雰囲気も違えのに、瓜二つに見える存在。
アイと似通っていながら、それでもアイとは異なる二人。正反対なのにどこか重なってしまうと、何故かそう思えてしまう二人を、そんな風に捉えてしまっていた。
「……確信した。貴様はあの男同様、イアにとって最大最悪の不快因子だ」
「気が合いそうだね。お前はアイにとって、看過出来そうにない同類だよ」
見合った両者が吐き捨てたのは、簡素にして絶対な否定のみ。
イアは再び腰を低くし構え、そしてアイもまた、自らの手に光を束ね──真っ直ぐに引き伸ばす。
「アイのカタチ、純愛剣」
アイが自らの手から発される光を伸ばし、形成したのは一振りの剣。
まるでどこかの映画で見たような、イアの持つ真っ黒な刃に対抗するかのように汚れのない、真っ白な光の集合体であった。
数瞬の沈黙。
アイとイア。人の域にいない怪物二人が生む極限にまで膨らんだ緊張は、固唾を呑んで見守る俺など置き去りにして、刃同士の激突を機に突然に弾けた。
「──鈍だな。所詮は見かけ倒し、独りよがりな紛い物だ」
一瞬の拮抗の末、競り勝ったのは黒の方。
イアの振るった真っ黒な刃は、アイの光剣を容易く切り捨て、そのまま彼女の胴まで袈裟斬りにしてしまう。
「思い上がりも甚だしい。所詮我らが愛などと、どんな口で宣えようか」
「アイ!」
光の剣を霧散させ、苦しみながら膝を突いたアイに、イアは一度切っ先を向け刀を振り上げる。
一切の慈悲もなく、振り下ろされようとしている黒い刃。
アイが殺られてしまうと、目の前の事実に感情を置き去りにして、足が動いてしまった。
そのときだった。
イアの後ろから伸びた無数の腕──鈍色がイアの刀を持つ手と首と翼、そして足首までもをガッシリと掴んで拘束してしまったのは。
「捕らえたわ。よりにもよってこの雅乃宮雅を蚊帳の外にしちゃうから、こうして無様に足下を掬われるの。いつの時代もうさぎを舐めた獅子の末路は儚いものよ、違って?」
「……そうだな、少々侮っていた。この一瞬の不覚だけは、素直に肯定してやろう」
有利を取ったことで、勝ち誇ったように自慢げに語る雅乃宮先輩。
完全な拘束。些細な動きを見せる間さえ許さぬまま、首をへし折り決着をつけられる捕縛に、イアは俺達へのそれと違って素直に称賛を口にする。
イアの前で膝を突くアイのそばに駆け寄り、肩を貸して少しでも離れようとする。
イアはこちらをほんの一瞬だけ鋭い目で睨んで来るも、すぐに意識を先輩の方へと向けるばかり。
最早決着はついたと。お前達には価値になどないと。
本来なら屈辱だと思うべき関心のなさだったが、アイを離脱させたいこの瞬間は、むしろそれがありがたかった。
「グッ……!!」
「──だが遅い、そして足りない。所詮は人間の対応力。万能も所詮、宝の持ち腐れだな」
そうしてアイを連れ、イアに背を向けながらもどうにか十数歩ほど離れた。そのときだった。
イアはため息を零したと思った瞬間、とてつもない力の圧がしたかと思えば、ズシャリという鈍く神経が忌避するような音が耳に届いてしまったのは。
すぐに振り向けば、起きていたのは惨劇の一言。
どこまでも深く底の見えない、嵐のような黒い力の奔流。
オーラ染みた力を吹き荒らしたイアは、その手に持つ黒い刃にて雅乃宮先輩を容赦なく斬り伏せてしまっていたのだ。
「せ、先輩……!!」
「さて、次こそ貴様だ。貴様だけは主の糧になどせず、無惨に切り捨てやるとも。四肢を失い、恐怖に顔を歪めた貴様は、さぞイアの溜飲を下げてくれることだろうよ」
膝を突き、そのまま倒れる雅乃宮先輩。
イアは刀を振って血を払い、それから再びこちらを、今度は酷く退屈そうに睨み付けてくる。
一歩、また一歩と。
ゆっくりと、けれど確かに近づいてくるイアに、残された俺はただその場に固まってしまう。
死ぬ。逃げなければ、死んでしまう。そんなことは分かっているのに、足は動いてくれない。
助けなんてない。アイも先輩も、みんなやられてしまった。
だからもう詰み。意志や本能に反してもう諦めてしまったみたいに、貼り付けられたように立ち尽くしてしまっていた。
だが、彼女の歩みを阻むのは鈍色。
先ほどまでと違って鈍色はたったの一本が、イアの翼へと絡みつき、彼女の足を止めさせる。
「なに、もう勝った気に、なってるの……? 10カウントも待てずに背を向けるなんて、獅子の驕りも筋金入りよね……?」
「……辛うじてでも防いだか。いいな、悪くない。貴様のようなやつは嫌いじゃない。それでこそ、このイアと競う契約者の一人に相応しいよな」
立ち上がることさえ出来ずにいながら、それでもなお目に光を灯し、にやりと笑う先輩。
翼を掴む鈍色は、子供が他人の服にしがみつくみたいに弱々しく。
そんな抵抗にイアは翼を軽く振るって鈍色を切断してしまい、称賛を露わにしながら先輩の元へと戻ってしまう。
どうする、どうすればいい。このままじゃ、先輩が──!!
「お願い、ダーリン。この場限りでいい、アイを、アイを信じて。──アイに勝ってと、強く願って」
そんなとき、アイがそばで囁きながら、手を差し出してくる。
どこか縋るような、今にも消えそうなほどか細い声。
それでもはっきりと耳に届く。自分を信じて欲しいと、その単純で困難な願いが聞こえてしまう。
──悩んだのはほんの一瞬。俺の手は、アイの手へと重なった。
「ありがとう、ダーリン」
小さく微笑み、お礼を口にしたアイ。
次の瞬間、重ねた手から光が溢れ出す。強く、激しく、そして熱い白光が一気に膨らんでいく。
白い光に包まれたアイは、真っ黒な力に満たされたイアと同じよう。
切られたはず傷が塞がり、揺らぐことなく二つの足で地面を踏みしめながら、再び光の剣をその手に宿す。
「……まだ足掻くか、死に損ないがァ!!」
アイの復活に気付いたイアは、忌々しそうに顔を歪めながら、再び黒い力を吹き荒らす。
怒りのままに、忌諱のまま。
剥き出しの感情をぶつけるみたいに地面を蹴って、手に持っていた刀で今度こそ振り下ろし、アイも振り上げてそれを受け止める。
次の瞬間、重厚な衝突音と衝撃が校庭を奔り、俺は立ってられず後ろへ飛ばされてしまう。
十メートルほど後ろに退いて、完全に音が止んだ後、どうにか立ち上がる。
アイは地面に立って空を見据え、イアは空にて息を荒げながら、手に持つ刀を見つめ呆然としていた。
「馬鹿なッ、イアが当たり負けした、だと……? この刹那に、どんな絡繰りで研いだというのだ貴様は……!?」
「決まってるじゃん。愛だよ」
「っ!! 戯言ほざくな、獣がァ!」
光剣を向け、そう宣言したアイへ激昂が飛ぶ。
あれほど冷徹であったイアが、今度は怒りのままに翼をはためかせ、アイへと斬りかかろうとした。
だがピタリと、イアは動きを止める。
アイから視線を外し、俺達ではないどこか遠くを数秒見つめたイアは、忌々しげに舌を打ちながらも刀を鞘へと収めてしまう。
「……ちっ、命拾いしたな。主のお呼びがかかった故、この場は痛み分けで退いてやろう」
「違う、アイ達の勝ちだよ。なのに、逃げるの?」
「ああ、逃げてやるとも。それが出来なくば、ここら一帯を更地にしても離脱するまで。だから今一度いってやるよ、痛み分けで退いてやるとな」
追うなら何もかも道連れだと。
それだけ言ったイアは翼を広げ、あっという間にどこか空の彼方へと飛び去ってしまう。
「……ふう、どこまでもプライド高いよね。同類として、そこだけは尊敬しちゃうよ」
アイは離れていくイアのことを追おうとはせず。
ただ飛び去った方向をしばらく見つめたあと、自身が纏っていた光を消すが、光剣は未だその手の中。
戦いはもう終わったはずなのに、まるで戦いは終わっていないみたいに。
「で、どうする? 今ならその女、さっくり殺れそうだけど?」
そうして、若干ふらつきながらも、確かな足取りでこちらに歩いてきたアイはそう尋ねてくる。
アイは光剣の切っ先を、倒れながらもこちらを睨む雅乃宮先輩に向けながら。
──その問いに、俺は。




