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婚約を解消するとしても、一年だけ延期してください

誤字報告に感謝いたします! 訂正いたしました。




「君との婚約を破棄したいんだ、シャルリーヌ」


婚約破棄という言葉を聞いたシャルリーヌは、驚いた顔を見せた。

そしていつも盗み見るようにしか見られなかった婚約者の端整な顔を、真っ直ぐにみつめた。

婚約破棄だと言われた今ならそれも許されるだろうと、その程度の余裕がシャルリーヌにはあった。

この婚約を解消したいと、そろそろ告げられる頃だと思っていた。

婚約の解消ではなく破棄と言われたことは、これから持ち掛ける『交渉』には有利になると、シャルリーヌは心の中で頷く。


双方の祖父が結んだ婚約者であるフェルナンとの月に一度の茶話会は、交代で開催場所を決めることになっていた。

先月はシャルリーヌが決めた王都の古いティーサロンで、短い時間を過ごした。

今月はフェルナンによって、アランブール伯爵邸にシャルリーヌが招かれている。



「僕と君の婚約は互いの祖父の希望によって結ばれたものだが、僕は自分の心が決めた人と共に人生を歩いて行きたいと思う。どうか婚約破棄を受け入れてもらいたい」


シャルリーヌは、フェルナンが自分を断ち切ろうとする言葉が、思いのほかきれいに整えられたものだったことに少しの安堵を覚えた。

そしてシャルリーヌは、この時のために用意していた言葉を静かに口にする。


「婚約破棄とのことですが、私に一つ提案があります」


シャルリーヌが婚約破棄という言葉にあまり動揺していないことに、フェルナンのほうが動揺を隠せない。


「……提案? ……とりあえず聞かせてほしい……」


「この婚約を結んだ二人の祖父、その片方であるフェルナン様のおじい様ですが、おいたわしいことに余命半年だとうかがいました。そしてこれは今初めてお伝えするのですが……私のほうも余命一年弱であると医師から告げられたのです……。提案と申しますのは、祖父たちによって決められたこの婚約を解消するとしても、あと一年だけ延期してくださいませんか。騙すようで心苦しいですが、祖父たちや家族の前では仲の良い婚約者としてふるまって安心させ、一年が過ぎてすべてを見送りましたら婚約を解消するのです」


「婚約を破棄ではなく、双方の祖父が亡くなってから解消とする……」


「フェルナン様のおっしゃる婚約破棄となると穏やかではありません。私には破棄をされるような失点はないと見られるでしょうから、心が決めた人と結婚したいと言い出したフェルナン様が有責となるでしょう。ですがこのまま一年だけ継続し、その時が来たら穏やかに婚約を解消すれば、フェルナン様も私も、フェルナン様の心が決めたジネット・カスタニエ子爵令嬢も、誰も悪い立場になりません」


「……君は……ジネットとのことを、知っていたのか……」


フェルナンは、まさかシャルリーヌにジネットのことを知られているとは思いもしなかった。


「ええ。私の兄はフェルナン様より一つ年上ですが、お二人と同じ学園に通っております。兄はお二人の様子を見てから実情を調べ、父より先に私に伝えてくれました」


フェルナンはすぐに言葉を返せなかった。

頭の中を整理しなければ、不用意なことを口にしてしまいそうだった。


フェルナンとシャルリーヌの祖父は、学園の同級生であったという。

伯爵家の息子同士とあって意気投合し、在学中はもちろん卒業後も親しくあり続けたと聞いていた。

それで互いに子供ができたら結婚させようと言っていたが、二人とも息子しか生まれなかった。

孫のフェルナンとシャルリーヌが同年に生まれたことで、やっと長年の願いが叶うと言って結ばれた婚約だった。

同級生の祖父たちの、まさかその命が終わろうとするのも同じ年であるとは、本当に稀有な縁なのだろうとフェルナンは思う。

そしてその縁を、フェルナンの身勝手な私情と独断で壊そうとしているのを、相手の令嬢の名前も含めてシャルリーヌに把握されていた。


「祖父が余命幾ばくもないと、僕も聞いたばかりだ。そうか、君のおじい様も……。双方の祖父を見送るまでのあと一年だけ、この婚約を継続すると……」


「はい。私はこの後、領地の祖父のところへ移り住むつもりです。この一年は特別な用が無い限りここ王都には戻りませんので、婚約が継続していてもフェルナン様の婚約者として社交の場に出ることもありません。日を改めてフェルナン様のおじい様のお見舞いとご挨拶をしたら、すぐに王都を出ようと思います。兄と話し合い、ジネット様の件は父に伏せておくと決めました。事を荒立てたくないという私の我が侭を、兄は理解してくれています」


フェルナンはしばし考えた。

祖父たちが勝手に決めた婚約者であるシャルリーヌは、多くの貴族令嬢がそうであるように学園に通わず家庭教師による教育を受けている。

ジネットはカスタニエ子爵家の末子で兄が二人いる。

兄たちから聞かされていた学園生活が羨ましくなり、父親を説得して入学したという。


学園に婚約者が通っていないのをいいことに、このところのフェルナンは空き時間をジネットと過ごしていた。

フェルナンと同じ歳なのに、おとなしく年齢よりも落ち着いている印象のシャルリーヌと違い、ジネットは溌溂としていてこちらまで元気になれる。

フェルナンの時間と関心の多くを占めている学園生活、それを共有しているジネットのことが、いつの間にかシャルリーヌよりも大切な存在になっていた。


今のシャルリーヌの話によれば、これから彼女の祖父が居るベルレアン伯爵家の領地で過ごすという。

祖母を早くに亡くしているそうだから、祖父を看取るまで領地に居るつもりなのだろう。

互いがここ王都にいれば婚約者として社交の場を共にする必要があるが、それもないというのなら婚約が書類上で継続していてもそれほど問題はなさそうに思えた。


先程シャルリーヌはフェルナンの祖父の余命が半年と聞いたと言ったが、フェルナンが両親から聞いた話では『長くて半年、病の進行によっては三月ももたない』というものだった。

そしてシャルリーヌの祖父ももってあと一年というのであれば、その間だけ婚約を継続して祖父たちを安心させて見送ることは、悪い話ではないどころかフェルナンにとって最善なのではないか。

祖父やシャルリーヌへの罪悪感も薄まるように思えた。


フェルナンは、今は病のために敷地内の別棟で療養している祖父に可愛がられて育った。

幼い頃からアランブール伯爵家の嫡男として父に厳しく指導されると、祖父母のところに逃げ込んだ。

夜にこっそり祖父母の部屋を訪れ、ベランダで祖父から星の名前を教わった。

祖父は、父がフェルナンに厳しくするのはフェルナンを愛しているからだと、それも教えてくれたのだ。

そんな祖父が決めた婚約だったから、フェルナンもシャルリーヌとの交流を大事にしてきたつもりだった。


だがジネットと居る時は、こう言ったら幻滅させてしまうだろうかとかこういう考え方は受け入れられないだろうかとか、そういうことを一切考えずに自然体で過ごせた。

どのみちまだ卒業まで一年ある。

たとえシャルリーヌとの婚約が今なくなっても、ジネットとすぐに結婚できるわけでもないのだ。



「シャルリーヌの提案を受け入れようと思う。婚約を一年継続して、互いの家族の前でこれまでどおり仲の良い婚約者としてふるまう。僕もこれから一年、誠意を持ってシャルリーヌや君のご家族と接することを約束する。何か決めておくことはあるだろうか」


「それでは一つだけ……これから向かうベルレアンの領地におります私と、定期的に手紙のやりとりをしていただくことは可能でしょうか。まったく会えずにいる婚約者ということになってしまいますので、手紙を交わしているという形を取れればと思うのです」


何を言われるかと思って身構えたフェルナンにシャルリーヌが願ったのは、手紙のやり取りをするという簡単なことだった。


「手紙のやり取りくらいどうということはないよ。僕もシャルリーヌのおじい様の様子は心配でもあるし、シャルリーヌからの手紙のことを僕の祖父に伝えれば、きっと喜ぶだろう。祖父たちのやり取りの橋渡しとなるのは僕も賛成だ」


そう答えると、シャルリーヌは嬉しそうに小さく微笑んだ。


「ありがとうございます。それでは最初は私から送りますね」



シャルリーヌは、帰る時にフェルナンに一つ願い出た。


「急なお話ですが、明日おじい様のお見舞いに伺ってもよろしいでしょうか。この場でご確認をいただけるとありがたいのですが」


「分かった。今、家令に尋ねてくるから、少しここで待っていてくれるか」


フェルナンは家令のいる執務室に向かい、しばらくして明るい面持ちで戻ってきた。


「別棟に居る祖父は、いつも時間を持て余しているようで、シャルリーヌの訪問は喜ばれるだろうとすぐに許可が出たよ。部屋を整えておくので、明日の午後にとのことだった。僕も同席することにした」


「ありがとうございます、明日の午後ですね。先ほど一緒にお尋ねすればよかったのですが、おじい様のお好きなお花をご存じですか?」


「ああ、それならすぐ答えられる。祖父が好きな花はブルースターだ」


「ブルースター、吸い込まれるように美しい青ですね。教えていただきありがとうございます。それではこれで失礼いたします」


フェルナンはシャルリーヌを玄関まで見送ると、従者が馬車まで案内していった。

今までこんなにたくさんシャルリーヌと言葉を交わしたことはあまりなく、品のよいシャルリーヌの応答に心地よい感じが残っている。

なんだか不思議な感覚だ。

とはいえ、あと一年限りの婚約の延長だ。

きっとこのうまく言い表せられない感情も、互いの祖父の命の期限を確認したせいで、少しの切なさが漂っているのだろうとフェルナンは思った。


***


馬車に乗ったシャルリーヌは、無事に一年の婚約の延長が叶ってほっと胸に手を当てた。

もし、今日の最初の婚約破棄をそのまま受け入れていたら、二度とフェルナンには会えなくなっていた。


(まずは明日の午後、そして……悲しいけれど、次はフェルナン様のおじい様のご葬儀になりそうだわ……本当に、とても悲しいことだけれど……)



フェルナンと同じ学園に通う、シャルリーヌの一つ年上の兄から、フェルナンが昼休みを特定の令嬢と楽しそうに過ごしていると聞いたのは、しばらく前のことだった。

シャルリーヌは大きなショックを受けたが、元より互いの祖父が決めた婚約者に過ぎない自分を、フェルナンが持て余していることに薄々気がついていた。


とはいえ、誕生日や女神の記念日の贈り物などは心のこもったものを贈られていたし、二度ほど公的な舞踏会があった時は、ドレスを贈られエスコートもしてくれた。

大事にされていないと感じたことはないが、同時にフェルナンは婚約者が誰であっても同じようにするのだろうとも思った。

シャルリーヌがフェルナンを想う気持ちとフェルナンがシャルリーヌを想う気持ちには、圧倒的な温度差があると感じていた。

寂しさに諦めが混ざり、それが穏やかになってきた頃に、兄からフェルナンが学園で特定の令嬢と親しくしていると聞いたのだ。

フェルナンは婚約者に熱の無い淡々とした対応をする人なのではなく、シャルリーヌが対象外だったのだと気づいた。


フェルナンに大切に思う女性が現れたのなら、シャルリーヌは身を引くほかない。

それを、祖父たちの命を引き合いに出して、卑怯にも一年の先延ばしを謀った。

馬車が悪路に差し掛かって揺れると、シャルリーヌの考えも馬車に合わせて揺れる。


……私は卑怯者。

……でもこの罰はすべて自分が負うわ。

……それでも卑怯者には違いない。


シャルリーヌの領地に行く準備は、すべて終わっていた。



***



約束の当日、シャルリーヌは花屋に寄ってからアランブール邸に向かった。


「シャルリーヌ、待っていたよ」


学園の制服のままのフェルナンが出迎えた。

まだ午後の早い時間なのに、急いで戻ってきたのだろうか。


「今日はお時間を作ってくださりありがとうございます。こちらはお見舞いの品です」


「どうぞそちらは別棟までお持ちいただいて、直接先代にお渡しくだされば喜ぶでしょう」


家令の言葉にシャルリーヌは頷く。


「では、そのバスケットは僕が部屋まで持って行こう」


フェルナンはバスケットを持つと、シャルリーヌを促して別棟に続く小径を歩いていく。

『足元に気をつけて』という言葉も柔らかく、フェルナンの口から『婚約破棄』という言葉が出たことが嘘のようだ。


「おじい様、フェルナンです。今日は婚約者のシャルリーヌ嬢と共に参りました」


フェルナンの祖父は、ベッドの中で大きなクッションを支えにして身を起こしていた。

傍らにはフェルナンの祖母が、椅子に腰を掛けている。


「シャルリーヌでございます、ご無沙汰しておりました。こちらのお花をどうぞ」

「おお、ブルースターか! シャルリーヌ嬢のように可愛らしい花束をありがとう。コラリー、こんな素敵な花をもらったぞ」

「まあまあ、可愛らしいこと」


フェルナンの祖母が微笑んで、花束を従者に渡した。


「フェルナン様から、おじい様のお好きなお花を教えていただきました」

「ははっ、フェルナンはブルースターなどわしに持ってきたことはないが、子供の頃の話を覚えていたのだなぁ」


嬉しそうにフェルナンの祖父が言うと、フェルナンも照れたように笑った。

しばらくして従者が活けた花が窓際の丸テーブルに置かれると、ほのかに漂う薬湯の匂いも気にならなくなった。


「改めてシャルリーヌ嬢、久しぶりだ。ロイクは元気でやっているか」


「はい、今はりんごの収穫が始まり、祖父も忙しそうにしていると聞きました。もっとも、手の届くところだけと従者たちから念を押され、はしごに上るのは禁止されていると怒っているようです」


「ロイクは学生時代に、はしごから落ちて杖をついていた時があったな。年齢のせいじゃない、あいつは昔からはしごに嫌われているんだ」


フェルナンの祖父は喉を見せて笑った。


「先日、領地の祖父からこちらを届けるようにと送られてまいりました」


ちらりとフェルナンに持ってもらっているカゴに目をやると、フェルナンがサイドテーブルにカゴを置いた。


「先ほどから中身が気になっていたんだ。ナプキンを開けてみても?」

「ええ、お願いします」


フェルナンはカゴを覆っていた小花柄のナプキンを開くと、青いところが残るりんごを一つ取り出して祖父の手に載せる。


「おじい様、おいしそうなりんごです。シャルリーヌのおじい様が送ってくださった」


「あああ、いい香りだ。シャルリーヌ嬢、ありがとう。ロイクは食べ飽きたなんて悪態をついていたが、あいつも本当はこれが大好きなんだ。フェルナンに一つやろう。夕食後に食べるといい」


「ありがとうございます、ツヤがありますね」


「おまえがこうしてシャルリーヌ嬢と仲良くしているのを見られて、わしは幸せだ。もう少し元気になれば、ロイクに会いに行こう。……なんだ、年を取ると……涙腺が緩んで困るな」


「……きっと祖父も、領地で同じことを、思っておりましょう……ごめんなさい、私までこのような……」


シャルリーヌが涙を堪えるように俯くと、フェルナンは自然な形でシャルリーヌの肩にそっと触れる。

フェルナンの祖母も、目頭を押さえた。

シャルリーヌは僅かに触れたフェルナンの手のぬくもりが、今はとてもありがたかった。

もう次にフェルナンの祖父に会えるか分からない寂しさと悲しみが、シャルリーヌの涙を押し上げそうになったが、フェルナンが支えてくれたことでどうにかこぼさずにいられた。


「シャルリーヌ嬢、ロイクに渡してもらいたいものがあるのだ。この前、従者に荷物の整理を頼んだら、なんと大昔に借りたままの本が出てきたのだよ。そこにある箱は詫びとして、ロイクが好きだったティーサロンの焼き菓子だ。店主が代替わりしていたようだから、味は変わっているかもしれないが」


フェルナンの祖父は、応接セットのテーブルに置かれた箱と本を指した。


「実は明日から、王都を離れ領地へ行くことになりました。祖父は懐かしい思い出と贈り物をとても喜ぶことでしょう、ありがとうございます」


フェルナンの祖父が何かを言おうとして咳き込み、フェルナンが慌てて背中をさする。

痩せて背骨が浮き上がっているのが、シャルリーヌにも分かってしまった。

元気そうに見えても、余命を宣言されているのだと現実を突きつけられた気がした。

それをきっかけに、挨拶をしてフェルナンと共にシャルリーヌは部屋を出た。


フェルナンもシャルリーヌも来たときとは違い、黙ったまま小径を歩いた。


「……君に負担をかけてしまったかな……。同じ敷地内に居るのに、僕が前に祖父に会ったのはひと月も前だ……。思ったよりも病が進行しているように思えた。君も驚いただろう」


「……はい、少し取り乱してしまって、申し訳ありませんでした」


「いや、あの、僕こそ、咄嗟に触れてしまって、申し訳なかった……」


「いえ、おかげで、仲の良い婚約者だとおじい様に思ってもらえたかもしれませんから、良かったと、はい、思います」


「そう、だな……これから僕は、もっと祖父に会いに行くようにする。弱っていくのを見るのは……辛いことだが……。今日は、シャルリーヌが来てくれて祖父も祖母も喜んでいたし、僕もありがたかった」


シャルリーヌはこの小径がもっと長ければいいのにと思ったが、馬車門に着いてしまった。


「領地のおじい様によろしく伝えてほしい。明日、領地に向かうのだったよね?」


「はい。もう荷物もまとめてあります」


「……そうか。明日も学園だから見送ることはできないけれど、道中気をつけて……僕は、仮にも婚約者が遠くへ行くというのに、気の利いた手土産も用意してなくて……」


「いえ、本当に仮なのでお気になさらないでください」


「あ! そうだ、少し待っていてくれるか、思い出したんだ、すぐに戻るから!」


そう言うと、フェルナンは屋敷に向かって走って行く。

シャルリーヌは所在無げに、エントランスポーチにきれいに植えられている花を見る。

カーブした小径に合わせて、白い小花が揺れていた。


(不思議なものね。婚約破棄と言われてからのほうが、本物の婚約者みたい……)


しばらくして、フェルナンが小走りで戻ってきた。


「これ、君の去年の誕生日に最初に買ったのだけど……従姉妹が『石がたくさんついたブレスレットはもう流行ってない』なんて言うものだから、気になって別のネックレスを買い直したんだ。このブレスレットの石はアクアマリンで、ずっとしまい込んでいた。あれから一年が過ぎて、さらに流行遅れになってしまっただろうけど、それでも良かったら貰ってくれないか。シャルリーヌに似合うと思って買ったことは本当だから」


「アクアマリンですか、好きな石なので嬉しいです。ありがとうございます。では遠慮なくいただいてしまいますね」


包みのリボンの端が折れていた。机の奥で眠っていたのかもしれない。

フェルナンの祖父から預かった本と焼き菓子の箱は、従者に馬車の荷入れに収めて貰ったが、ブレスレットが入っているという小箱はそのまま持って馬車に乗った。


「どうか気をつけて」

「フェルナン様も、お元気で」


馬車がゆっくり動き出すと、シャルリーヌは大きく息を吐いた。

大通りに出た頃に、フェルナンから貰った小箱を開ける。

アクアマリンが等間隔で五つチェーンについている、ステーションタイプのブレスレットだった。

五つのアクアマリンは、一つが四つの小さな石で四弁の花のように爪で留められていた。


ブレスレットを着ける手の意味として『右手は獲得、左手は放出』というらしい。

シャルリーヌは迷うことなく、左手首にはめた。

婚約者として、自分はフェルナンの心から放たれてしまった。

今は一年それが延長されただけ。


「きれい……確かにちょっと可愛らしいデザインね。でも、素敵だわ……」


シャルリーヌは左の手首を、窓からの光に透かすように右に左にと動かす。

五つの花の形のアクアマリンは柔らかな輝きを見せた。

シャルリーヌは左手を胸に押し当て目を閉じる。

小さな理由で机の引き出しの奥で眠っていたこのブレスレットが、婚約者としてのフェルナンからの、最後の贈り物になることは間違いなかった。



***



学園の昼休み、フェルナンはジネットと、ランチボックスを開けていた。

食堂の中央にある大きな楕円のテーブルには真ん中に布で作られた花が飾られており、ぐるりと椅子が置かれている。

これまでは食堂の端の小さなテーブルや中庭のベンチでジネットとランチをとっていたが、何となく今日はこの大テーブルに座った。

ここなら、誰と誰が連れ立っているのか、どこまでがグループなのか境目が曖昧だ。

ジネットの隣にはリボンで判る上級生の女子生徒が座っており、フェルナンの隣には同学年の男子生徒が腰を下ろした。

学園にはシャルリーヌの兄も通っている。

シャルリーヌが理解してくれているとはいえ、婚約者がいる身であれば人目を考えるべきだと今更ながら思い直した。


ランチボックスには丸いパンの切り込みにハムと野菜が挟まっているものが一つとドーナツ、硬いチーズと半分に切られたオレンジが詰められている。

ジネットは、フェルナンが丸いパンを手にして空いたスペースに、少し強引にドーナツを入れてきた。太りたくないという理由でドーナツは食べないらしい。

指に付いた油と砂糖を、ジネットがペロリと舐める。

その仕草を見たフェルナンは、何故か僅かな苛立ちを覚えた。

それを振り払うように、ジネットに話し掛ける。


「シャルリーヌは、祖父の看病のために今日一人で領地に向かった。特別な用がなければこちらには当分戻ってこない」

「婚約はすぐに破棄してほしかったけど、近くに居ないのならいいわ。フェルと彼女が会うこともないし、舞踏会でエスコートすることもないんでしょう?」

「ああ。書類上はあと一年だけ婚約関係にあるが、それだけだよ。ただ、だからと言ってジネットと堂々と二人で過ごすことは控えたい。婚約が何事もなく解消されるまでのことだから」


ジネットは、丸いパンの表面を小鳥に与えるようなサイズにちぎって苛立つように口に運んでいる。


「あの人のおじいさんが一年経たずに亡くなれば、婚約が消えるのはもっと早まるということよね?」


「……僕の祖父もあと半年、早ければ三か月と言われている。そういう言い方はいい感じがしない」


思わず、フェルナンは尖った声で返してしまった。


「……ごめんなさい。フェルのおじいさんのことを言ったつもりはなかったの」


「うん……分かってるよ……」


シャルリーヌの祖父のことなら言ってもいいと思っているのか、その言葉は呑み込んだ。

そういう意味でもないことは理解している。

ジネットはいつも言葉を選ばずに口にしてしまうから、今の言葉も大した意味はないのだ。

だが、呑み込んだものが胸に閊えているような、息苦しさが鬱陶しかった。

何となく会話が途切れたまま、フェルナンはジネットが寄越したドーナツに手をつけずにランチボックスの蓋を閉じた。


「少し早いけど教室に戻ろうか」

「そうね、いつもギリギリだから階段を駆け上がるじゃない? あれで疲れて眠くなってしまうのよ。今日は大丈夫そうだわ!」


明るさを取り戻したジネットに、少し安堵する。

何かが変わることをフェルナンは望んではいなかった。




シャルリーヌが領地へ向かってから二週間が過ぎた頃、ベルレアン領からフェルナンに手紙が届いた。

学園から戻ると、執事から手渡された。

整った美しい文字が、フェルナンの名を綴っている。

手紙を開くと、ハンカチが一枚同封されていた。


手紙には、フェルナンの祖父からの本と焼き菓子をシャルリーヌの祖父がとても喜んだということなどが綴られていた。

フェルナンは二回読んでから、同封されていたハンカチを手に取った。

紺色の生地に、白糸でF、赤糸でAと刺繍してある。

手紙には、ハンカチは以前刺繍をしたもので、生地と糸の色が合ってない気がして渡さずにしまい込んでいたとあったが、フェルナンはむしろその色の組み合わせが気に入った。

紺色の生地のハンカチは持っていないので、不思議な特別感のようなものがある。


シャルリーヌからの手紙に書かれていたのは、ほとんどが祖父たちのことだった。

二人の交友の長さを思うと、これまで『自分の気持ちを無視して祖父によって結ばれてしまった婚約』というものが、違うものに見えてくる……。


自分は突然ポンとこの世に生まれてきたのではなく、祖父がシャルリーヌの祖父と共に学園時代を過ごし、祖母と結婚をして父が生まれ、そして父が母と結ばれて自分が生まれた──。

そんな温かい流れの傍らにシャルリーヌの祖父の流れがいつも存在し、その先にシャルリーヌが生まれた。

そして祖父たちによって結ばれた婚約で二つの流れが一つになろうとしていたのに、自分がそれを止めてしまうのだ。

何か、自分がひどく取返しのつかないことをしようとしているのではないか……。


フェルナンはその思いを払うように立ち上がり、手紙を持って祖父の居る別棟に向かった。

シャルリーヌからの手紙を音読すると、祖父は懐かしそうに笑った。

そして、部屋に戻るとフェルナンはすぐにペンを取った。


そろそろ本格的に寒くなってくるベルレアン領に思いを馳せて、手紙を読んだ時の祖父の様子を詳しく書き、ハンカチの礼も忘れずに書いた。




そうした手紙のやり取りが何往復か続いた後、フェルナンは震える手でこれまでで最も短い手紙を書くことになった。


祖父、イニヤス・アランブールの命の終わりがこの夜明けにも迫っていると、シャルリーヌに伝える手紙を──。



***



シャルリーヌが届いたフェルナンからの手紙を開くと、思いがけない言葉が書かれていた。

明日の朝を迎えることなく命が尽きるだろうという手紙だった。

フェルナンはこれをどんなタイミングで、どんな思いでしたためたのだろうかと思うと、シャルリーヌの胸が悲しみで塞がれる。

フェルナンは一刻も早く知らせたいと思ってくれて、急知の馬に託した。

シャルリーヌはその手紙を持って祖父の部屋に向かう。


「おじい様、アランブール伯爵邸のイニヤス様が昏睡状態に入ったとの知らせが届きました。私は今から急いで王都に向かいます。おじい様はどうなさいますか」


祖父は驚いて言葉も無く、しばらく天井をみつめていた。


「……シャルリーヌが旅支度をしている間に、イニヤスに手紙を書く。それとりんごを届けてもらいたい。私はイニヤスの元には行かず、こちらから祈りを捧げる」

「かしこまりました。すぐに支度を始めますわ」

「シャルリーヌ、急ぐ道中は身体に障る、無理をしないように」

「……はい。お気遣いありがとうございます」


シャルリーヌは急いで旅支度を始めた。

ベルレアン領の長い夜に、フェルナンの祖母のために編んだ肩掛けを荷物の一番上に入れる。

こちらに来た時より寒さが強く、暖かい恰好をして馬車の座面にも厚い敷物を入れているのに凍えるようだった。


王都のベルレアン邸に早朝にシャルリーヌが着くと、この二日前にフェルナンの祖父が亡くなったと父から知らされた。

フェルナン本人が馬で知らせにきてくれたそうだ。

葬儀は今日の昼だという。

シャルリーヌはギリギリ葬儀に間に合いそうだった。

すぐに、しばらく留守にしていた自室に行って荷を解き、侍女が礼装の用意をしてくれている間に、湯浴みをした。

二日ぶりの温かな湯でも疲れが取れた気がしなかったが、少なくとも凍えた身体が温まった。


「今帰ってきたばかりで、身体は大丈夫? 馬車にずっと揺られていたのは大変だったでしょう……」

「お母様、大丈夫です。葬儀に間に合って良かったです」


葬儀には足の悪い父と、いつも父の傍で世話をしている母は行かず、兄が同行してくれることになった。

父が足を悪くしてから、シャルリーヌが実質的に一番頼りにしているのは兄だ。

祖父から預かった手紙をバッグにしまい、りんごのカゴと母が用意してくれた花とフェルナンの祖母への肩掛けを持ってアランブール邸に向かった。



「シャルリーヌ、来てくれたのだね……」

「この度は……」


シャルリーヌは憔悴と疲労が隠せていないフェルナンを見て、胸が詰まって言葉が続かなかった。

大切な人の命が消えかかっているのになす術を持たない人たちの哀しみを一身に受けながら、一番身軽だからと気丈にあれこれ動いていたのだろう。

そんな中でシャルリーヌにいち早く手紙を送ってくれ、ベルレアン邸に馬を走らせてくれたのだ。


葬儀そのものは静かに、アランブール伯爵家の慣習に則って粛々と執り行われた。

そこには親族のみが参列し、棺が掘られた穴に入れられてから、親族以外の者たちも参加して土を掛けての別れとなる。

シャルリーヌは遠慮を伝えたが、フェルナンの両親たっての願いでフェルナンの婚約者ということで親族として別れの場に参列した。

兄テオドールも見送って欲しいとお願いされ、兄も立ち会うことになった。


葬儀が始まる前に手渡したシャルリーヌの手編みの肩掛けを、フェルナンの祖母は羽織って参列していた。

色の異なる細いグレーの糸を二本取りで編んだ肩掛けは、フェルナンの祖母の礼装を優しく暖めているように見えた。


フェルナンの祖父は、穏やかな顏で永遠の眠りについていた。

ブルースターの花を供えると、フェルナンの婚約者として仲がいいふりをしたことが罪悪感となって涙が落ちた。

とても心の温かい優しいかただった。

騙してごめんなさいと、心の中で何度も謝る。

泣き崩れる祖母の薄い肩を抱いているフェルナンも、その目から涙がこぼれるのをそのままにしていた。



すべてが終わると、シャルリーヌは今頃になって馬車旅の疲れが身体に押し寄せ、案内された部屋のソファに身を預けるようにして座った。

兄のテオドールが『大丈夫か』と心配そうに口にするが、シャルリーヌの答えはいつも同じだった。


アランブール伯爵家に伝わるという、葬儀の時の茶がシャルリーヌをゆっくり内側から温めていく。

茶葉の発酵方法などが紅茶と違うというその茶は、緑色をしていて口に含むと渋みを感じる。

その渋みの後に甘味がやってきて、不思議な味がしたがシャルリーヌはとても気に入った。


「テオドール様、今日は祖父の葬儀に駆けつけてくださり、大変ありがたく思っております」


部屋に入って来たフェルナンは、まっさきにシャルリーヌの兄に頭を下げた。


「シャルリーヌも今日は本当に遠くからありがとう。……少し痩せたように見えるが……」

「……祖父とお菓子を食べる時間が午前と午後に二回もあって……食事をその分少し減らしていますので、そのせいでしょうか」

「おじい様といい時間を過ごしているのだね。おじい様のこの頃はどうだろうか」

「よくしゃべりよく眠っていますが、以前よりも食べる量は減っております。その分お菓子を増やし、そのお菓子も卵をたっぷり使った物にするなどしています。アップルパイなら驚くほど食べるのです」


フェルナンは、祖父が食べられなくなってしまってから、一気に病が進んだことを思い出していた。


「……君が送ってくれたベルレアンのりんごだけは、祖父は最後まで食べられていたんだ。祖母がすりおろしたものや柔らかく煮たものを口に運ぶと、『ロイクのりんごだ』と喜んで口にした。本当に、シャルリーヌには感謝しかない……ありがとう……」

「それは良かったです、祖父に伝えますね。祖父もおじい様にりんごを送ることを励みにして収穫しておりました。はしごは使わずに、ですけれど」


フェルナンは微笑みを浮かべたが、すぐに寂しいような気持ちと申し訳ない気持ちに捉われる。

シャルリーヌが婚約を解消することを、一年延ばしてはと提案してくれたからこその今だった。

シャルリーヌが領地の祖父のところに手伝いに行っていなければ、祖父たちがこまめにやり取りすることもできなかっただろう。


「領地には、いつ戻るのだろうか」

「明後日の予定です。祖父も待っておりますので……」

「……そんなに早く戻るのか……」


シャルリーヌの祖母は早くに亡くなっており家族も王都に居るのだから、祖父の面倒を見ているのは従者などを除けばシャルリーヌだけなのだ。

それならば、すぐに領地に戻るのは当たり前のことだった。


「明日、昼を一緒に食べに行かないか。僕は祖父が亡くなったことでしばらく学園を休むことになっている。君も久しぶりの王都でやりたいことがたくさんあるとは思うが、ランチだけでも一緒にできたらと……」


フェルナンの提案に、シャルリーヌの心が受け入れないはずもない。

婚約破棄だと告げたのはフェルナンであって、シャルリーヌがその想いを断つことは、今になってもまだできていなかった。

祖父たちのためにとそれらしい理由を伝えたが、こうしてフェルナンと話していると、萎れかけた花が光に向かって顔を上げるように、まっすぐフェルナンに向かっていってしまう。

だが、フェルナンにはこの婚約を破棄したいと口にしたほどの相手がいるのだ。

シャルリーヌが何と返事をしようか迷っていると、兄テオドールが口を開いた。


「今日、今からこのまま出かけてはどうだろう。君たちが本当は婚約を解消するところだったと知ってる令嬢やその知り合いの目がどこにあるとも限らない。今日のその礼装ならば、二人が会っているのは家の用事のためだと分かる。もっとも一番の理由は、シャルリーヌは明後日には領地へ向かうのだから、明日は一日身体を休めておいたほうがいいということだ。今からで問題がなければそのほうがいいと思う」


「そう、ですね。明後日にはまた長々と馬車に揺られるのだから、明日はゆっくりご家族と過ごしたほうがいいですね。ではシャルリーヌ、今からでも構わないだろうか。それほど時間は取らない、少しだけ外の空気を吸えれば、と……」


シャルリーヌはフェルナンの抱えている鬱屈のようなものが理解できた。

大切な人の命の炎が消えかかっているのを、終わりが分からぬままその手で守り続けるのは心も身体も疲れる。

関わりのない人たちばかりの喧騒の中に、僅かな時間でも身を置きたいのだろう。一種の現実逃避のようなものだろうか。

シャルリーヌもほんの少し同じ思いがしていた。


「はい、今からご一緒しますわ。お店などは分からないのでお任せします」


「では、フェルナン殿に妹を預けよう。帰りはアランブール家の馬車で送ってもらえるだろうか」


「もちろんです。僕がきちんと送り届けます」


「では私はこれで。ご家族の皆様に、くれぐれもご自愛くださいと伝えていただけるとありがたい」


シャルリーヌの兄テオドールは、従者に続いて部屋を出て行った。




それから二人はアランブール伯爵家の馬車に乗り、賑わいを見せる通りにあるティーサロンの窓際の席で向かい合っている。

二人は礼装のままで、少し周囲から浮いてはいた。

浮いてはいるが、少なくともシャルリーヌの心は日常の喧騒の中に柔らかく溶けていった。


「改めて言わせてもらいたい。今日は本当に来てくれてありがとう。祖母に手編みの肩掛けを編んでくれたのも、とてもありがたかったよ」


「長年連れ添ったおじい様の手がおばあ様から離れてしまうのですから、何かその手の代わりになるような暖かいものがあればと思いました。喜んでいただけで嬉しいです」


フェルナンがシャルリーヌの優しさに、返す言葉を探していると、ガラスのポットにフルーツが何種類も入った紅茶が運ばれてきた。

二人で同じものを頼んだので、大きなポットに二人分が淹れられてきたようだった。


「いろいろなフルーツが入っていて見た目も綺麗ですね」


そろそろ頃合いかと、シャルリーヌはフェルナンの前のカップから先に紅茶を注ぎ、自分の分も淹れた。

ガラスポットの中にはりんごやオレンジ、緑色のぶどうなどが浮かんでいる。


「いい香りがします。オレンジの香りがはっきりしているかしら……」


フェルナンは静かに茶を飲みカップを置くと、それと分からないくらいに小さく息を吐いた。

少しずつでも身体の中から何かが出ていけば、温かいものが代わりにそこを満たしてくれるだろうと、フェルナンの様子をそっと見ていたシャルリーヌはほっとする。


「……温かいな。香りがとても良くてリラックスできるね」

「ええ」


シャルリーヌも温まっていく。

葬儀のとき、棺を前にしていたフェルナンはどこか落ち着かない様子だった。

それが、今はゆったりとした空気をまとい、その目に色が戻ってきている。


「君が婚約者のままでいてくれたおかげで、祖父の最期はより穏やかなものになったと僕は思っているんだ。あまりにも周囲が見えていなかった僕は、祖父にも君にも申し訳ない気持ちでいっぱいだ。……それで、君はやはり、明後日には領地に戻ってしまうのだろうか……」


「……はい。私にも、やらなければならないことがありますから……」


シャルリーヌもこれからゆっくりと祖父を見送らなければならないということを、今更のようにフェルナンは思い出す。

それくらい、最近は自分のことで精一杯だった。

そんな自分を優しく見守り続けてくれたシャルリーヌに、いろいろな気持ちが溢れそうになる。

この礼装の今ならば涙も許されるかもしれないという甘えを封じ、襟を正して座り直した。


「また、手紙を送って欲しいんだ。シャルリーヌのおじい様の様子を、いろいろ教えてくれないか。今までも祖父に読んで聞かせていたが、これからも墓前に伝えたいんだ」


「ええ、また手紙を書きますね」


それから、空になった二人のカップをもう一度フルーツの紅茶で満たし、とりとめのないことを静かに話した。

そのすべてをシャルリーヌは胸に刻んだ。

フェルナンの言葉はもちろん、カップを持ち上げる仕草や祖父の話をしながら少し揺れる瞳も。

かけ出しの職人が熱心にノミとハンマーを振るうように、フェルナンの言葉や空気を自分の胸に削り刻んでいく。

静かに茶を飲んでいるシャルリーヌが、心の中でそんなふうにフェルナンの言葉を刻んでいるなど、誰も思いもしないだろう。

自分のことを知っては貰えなかったフェルナンへの手紙に、少し意地悪をしてそんなことを書いてしまおうか。

シャルリーヌの心の内には波が立っているのに、カップの紅茶は静かだった。

そして再びカップが空になった時、


「あまり引き留めてもよくないだろうから、そろそろ出ようか」


フェルナンは、シャルリーヌをベルレアン伯爵のタウンハウスの前まで送る。

馬車の中では、あまり言葉を交わさなかった。


「送ってくださりありがとうございます」

「領地までの道中、どうか気をつけて。手紙を……待っているから」

「フェルナン様……婚約を一年延長してくださってありがとうございました」


フェルナンは何か言いたかったのに自分が何を言いたいのか分からず、ベルレアン邸の門の中に入っていったシャルリーヌの後ろ姿をただ見送っていた。



***



学園の中庭のテーブルベンチで、フェルナンは食べ終えたランチボックスを片付けていた。

祖父の葬儀から五か月が過ぎたこの頃、シャルリーヌからの手紙の間隔が空くようになっていた。

直近の手紙はひと月前で、それにフェルナンが返事を送ったがそれきりだった。

シャルリーヌの祖父がいよいよ悪くなって、雑事に追われているのだろうか。

ジネットと居るのについ、そんなことを考えてしまっていた。


「ねえフェル、今度演劇を観に行かない? 私の兄嫁さんが、面白過ぎて同じ演目をもう三回も観ているんだって。面白くて笑える演目なら私もフェルと行ってみたくって」


気遣いがありがたいのに、ジネットの思うようにそれに応えられない自分を持て余す。


「いや、僕は遠慮しておくよ。まだ笑いたい気分になれないんだ」

「まだおじいさんのことを引きずっているの? もうあれから五か月も過ぎたわ。親や恋人の死でもないのに大袈裟よ。笑いたい気分になれないなら、ずっと一人で居ればいいじゃない!」


ジネットの目に怒りが宿っていた。

確かにジネットの言うとおりだった。

いつまでも悲嘆にくれているつもりはなかったが、実際の自分はそうなのだろう。


「……そうだな……君の言うとおりだ。ごめん」

「待って、謝らないでよ……謝られているのに私が悪いみたいに聞こえるわ」

「君が僕を気遣ってくれているのはよく分かっているんだ。なのに僕はいつまでもこんな感じで、ジネットに申し訳ないと思っているが、自分でもよく分からなくて……」


ジネットがいつもは食べずにフェルナンに寄越していたドーナツを、噛みつくように食べている。 


「フェルがあの人に、いつ婚約破棄したいと打ち明けようかって言ってた頃が一番楽しかった。今はフェルと居ても、私なんにも楽しくないわ!」

「……ごめん」

「だから謝らないで! フェルの悲しみに私を巻き込まないで、うんざりよ。もう終わりにするから、あの人との婚約をいつまでも延長すればいいわ!」


ジネットはそう言うとランチボックスを片付けずに、走って行ってしまった。

祖父を亡くしてからのフェルナンは、ふとした時に後悔に苛まれるという日々を過ごしている。

もっと祖父のところへ行ってたくさん話をすればよかっただとか、祖父がまだ歩けた頃に一緒にどこかへ出かければよかっただとか、そんなことばかりが胸をぎる。

それまでの日常では、それほど祖父を気遣っていたわけでもないのに。

だからこそ後悔は、偽善者のような自分を責めるものに代わり、苦しみが積もっていく。


その祖父が決めた婚約を破棄しようとしていたことを思うと、また別の後悔に襲われた。

どうすることもできない祖父への後悔と、そう思う資格もないと自分を責める別の自分。


(……ジネットじゃなくてもうんざりする。誰より僕自身がうんざりしている)


フェルナンの心のつぶやきは、腹の底に静かに沈んでいった。




「フェルナン・アランブール殿」


突然──、だが優しく声を掛けてきたのはシャルリーヌの兄だった。

驚いたフェルナンが思わず立ち上がりかけると、それを止めるような仕草をしてシャルリーヌの兄はジネットが居た席に腰を下ろした。

そして声を落として話し始める。


「すまないが、君と令嬢の話が聞こえてしまった。これは君を責めるつもりはなくただの確認なのだけど、妹と婚約を解消したら先ほどの令嬢と……という話ではなかっただろうか」

「……はい、恥ずかしながら最初はそのつもりでしたが……。お聞きのとおり、たった今振られて終わったところです。お見苦しいところをお見せしてしまい、申し訳ありません」

「後悔、しているのか。今の君はそんな表情をしている」

「……はい、後悔しかありません。シャルリーヌ嬢に酷いことを告げた僕が愚かだったのですから、これからは後悔と共に生きていくだけです」


自虐的な言葉は恥だと分かっていても、フェルナンはそう言うしかなかった。

シャルリーヌの兄は、思案するように自身の顎を撫でている。



「君は、明日からしばらく学園を休むことは可能だろうか」

「……しばらくとはどれくらいかにもよりますが、進級に必要な成績と出席数はすでに取得していますから、可能かといえば可能です」

「それは素晴らしいことだ。では、私と一緒にベルレアン領に行かないか。すでに私の父母も向かっており、これから雑事を片付けたら一人で行くところだったんだ」

「行きます、どうか連れていってください! ただ……僕が領地まで押しかけてシャルリーヌ嬢に会ってもよいのですか……僕は彼女に婚約破棄を伝えた男です……」


フェルナンは食い気味に即答してから、一番気になることを尋ねた。


「君はまだシャルリーヌの正式な婚約者だろう? 誰も咎めることはないよ。ただ、シャルリーヌの許可を取っていないから、私と君は一緒に怒られるかもしれないが」

「どんな言葉も受け入れます、ベルレアン領へ行きたいです!」

「それでは、急なことだが明朝には発つ予定なのだ。帰りはいつになるか分からない、そのつもりでご両親の許可を得てもらいたい。明朝七時にアランブール邸の前に馬車で迎えに行く。その時間に君が門の前にいなければ、私はそのまま馬車を走らせる」


なるほど、今から確認の連絡を送り合うほどの猶予はないから、そうした方法を取るというわけだとフェルナンは合点した。


「承知しました。明朝七時によろしくお願いします」


シャルリーヌの兄テオドールは、そこで初めて笑顔を見せた。



***



朝の澄んだ空気の中、フェルナンはテオドールとの約束の時間より早く立っていた。


昨日、ベルレアン領へ行くことを両親に相談すると、喜んで賛成してくれた。

父も母も、祖父が大切に思い続けたシャルリーヌの祖父への贈り物を急いで用意し、祖母からは『急なことだから短いけれど』と、手紙を託された。

シャルリーヌの祖父宛ばかりではなく、シャルリーヌへもアランブールの領地から届いたばかりの蜂蜜の瓶、蜂蜜で作られたフェイスクリームなどを、フェルナンがそんなに持てないと悲鳴を上げるほどテーブルに積んだ。


フェルナンは、シャルリーヌとその祖父を想う家族を前に、この婚約をそのまま続行させるためなら何でもしようと、そっと決意した。

婚約者がいるのに他の女性に気持ちを移し、愚かさ故に婚約破棄を告げてしまった。

それなのにジネットに拒絶されたが、遠からずそうなるような気がしていた。

彼女の愛らしさや溌溂とした魅力は、比較対象であるシャルリーヌがいたからそう見えていただけだったと気づいてしまった。

領地へ行ったシャルリーヌと離れ、ジネットと過ごす時間が長くなったのに、ふと考えるのはシャルリーヌのことばかりだった。


シャルリーヌの提案で、命の期限を抱えた祖父たちを悲しませないために一年の婚約延長をして今がある。

穏やかで優しいシャルリーヌのことを、婚約破棄だと言ってから好きだと思うなんて愚か過ぎて笑えない。

受け入れてもらえるとも思えなかった。

それでもフェルナンはベルレアン領でシャルリーヌに会ったら、心から謝罪をしてこの婚約を解消しないで欲しいと願うつもりだった。

もう何も後悔したくないと──。



約束の七時を僅かに過ぎて、フェルナンの前にベルレアン伯爵家の紋章が付いた馬車が停まった。


「おはようございます、よろしくお願いします」


フェルナンの荷物に目をやったテオドールは、


「嫁入り支度には少ないが、短い旅にしては多いな」


そう言って笑いながら、フェルナンの大きなトランク二つを馬車の荷入れに積んでいく。


「おじい様の体調はいかがでしょうか。僕の家族も心配しており、おじい様への贈り物などでこのような荷物になりました」


フェルナンの言葉に、テオドールは曖昧な微笑を浮かべ『そうだな……』と小声で言ったが、続きの言葉は出てこなかった。

シャルリーヌから『あと一年の婚約の延長を』と言われてから八か月が過ぎていた。

余命半年と言われたフェルナンの祖父は、三か月半ほどで亡くなっている。

一年ほどと言われたというシャルリーヌの祖父も、今頃は悪くしているのかもしれない。

領地へ先にシャルリーヌの両親が向かい、今こうして兄テオドールも向かっているということが、何かの答えのようでフェルナンの気持ちは沈んだ。



王都を出て途中で簡易な宿屋に二泊して、ようやく馬車はベルレアン領へ入った。

馬車の揺れはこれまでよりも小さくなり、整えられた道に出たのだと分かった。

音が少し静かになったのを見計らったように、テオドールが話し始めた。


「フェルナン殿。自分もそう長くは生きていないが、それでも何て馬鹿なことをしたんだとか何であんなことを言ってしまったんだということは、いろいろあった。後悔の海に落ちて這い上がれないと思ったこともある。でも大事なのは、その後悔に自分がどう向き合ったかということだと思うんだ。大事な妹シャルリーヌを傷つけた君を、許さぬと思った日もあった。だが、もし今君が後悔の海でもがき苦しんでいるなら、この手を貸そうと思える。私は君の味方だ。それを覚えておいてほしい」


「……あ、ありがとうございます……でも、もしもそんな時が来たら、後悔の海に引きずり込まれないように、僕の手を放してください……」


フェルナンはテオドールの言葉の真意が掴めず、そう言うのが精一杯だった。

ここしばらく、ずっと後悔しているのは事実だ。

祖父のことも、ジネットに惹かれてシャルリーヌに婚約破棄をしたいと言ってしまったことも。

どれも取り返しがつかず、そんな自分を赦せる日が来るのか分からない。

たしかに今の自分は、まるで海に落ちてもがいでいるようだ。


「もうすぐ、家に着く。領地に来るのは久しぶりなんだ。子供の頃は、夏になるとシャルリーヌとひと夏をここで過ごした。祖母が病に伏せる前で、祖父母の世話になった」

「王都より涼しい土地ですからね、ひと夏を過ごすのにピッタリでしょう」

「ああ、その分冬は厳しいが。さあ降りる準備だ。建物が見えた」



フェルナンは大きな二つのトランクを両手に持ち、テオドールに続いて屋敷へ入る。

迎えてくれたのは、痩せて腰の少し曲がった老人だった。

このかたがシャルリーヌの祖父だろう。


「遠いところようこそ。テオドール、元気にしていたようだな。君は──」


老人の目がフェルナンに向くと、テオドールが答えた。


「こちらはシャルリーヌの婚約者のフェルナン・アランブール伯爵令息です。急に連れて来てしまいました」

「おお、イニヤスの孫か! 入ってきた瞬間にそうではないかと思ったんだ、目元がイニヤスによく似ている……小さな頃に会ったきりだから立派になっていて驚いたよ」

「フェルナン・アランブールです。祖父の葬儀に際しましては、心のこもった手紙や贈り物をありがとうございました。祖父の生前も、こちらから贈られたりんごをいただき、食が進まなくなってからもそれだけは喜んで食べました……」

「そうか……。イニヤスの話は後でゆっくり聞かせてもらおう。さあ、中に入りなさい」


先程から、シャルリーヌの祖父が同級生だった祖父よりも若く……たしかに腰は曲がっているが、余命を宣告されているとは思えないほど元気に見えてフェルナンは困惑した。


侍女が手洗いに案内してくれる。

そこでテオドールと二人、手と顏と足を洗い、拭き物を借りて拭うとさっぱりした。

荷物はすべて執事が預かってくれ、ベルレアン領に入る手前の宿場町で買った小さな花束だけを持った。

それから応接間のソファに勧められるまま腰を下ろす。


「あ、あの、シャルリーヌ嬢は、どこかへお出かけ中でしょうか」

「……シャルリーヌは、自室にいる。テオドールも気になっているだろう。二人を案内しよう」


建物は新しくはないがきれいに整えられており、玄関ホールの中央に半分の弧を描いた螺旋階段があった。そこを上った二階の奥は、居室になっているようだ。

その一番奥の扉の前で、シャルリーヌの祖父は立ち止まり、扉を三回叩く。


「シャルリーヌ、私だ。今日は懐かしい客が来てくれた。入るぞ」


シャルリーヌからの返事を待たずに、扉を開けた彼女の祖父は部屋の中ほどまで入っていく。

続いて入っていったフェルナンの目に映ったのは、真っ白なリネンのベッドに薄い身体で横たわって眠っているシャルリーヌの姿だった。


「……シャルリーヌ……?」


呟くようにその名を呼んでも、シャルリーヌはただ眠っているだけだった。


「……どうして、こんなに……痩せて……これは、どういう……」


フェルナンの手から花束が落ちる。

花を包んでいた紙が、カサリと小さな音を立てた。

そんな音が聞こえるほど、この部屋の中は静かだった。

その花束をテオドールが拾い上げる。


「余命あと一年と医師に告げられたのは、祖父ではなく、シャルリーヌだ……」


「……嘘だ……そんなの……シャルリーヌが……」


フェルナンは膝から崩れ、床にぺたりと座り込む。

かつて祖父が療養していた部屋にいつも漂っていたのと似た薬湯の匂いが、そんなフェルナンの鼻腔に届いた。

その匂いが、フェルナンが見てきた現実を連れてくる。

死というものは、この薬湯の匂いをマントのように纏いゆっくりと……足音もなく近づいてくる。

フェルナンは祖父の部屋で、ずっとそれと対峙していたから知っていた。

それは眠るシャルリーヌのベッドの、すぐ後ろまできていた。



「今は眠っているだけだ。この頃のシャルリーヌは一日のほとんどを眠っているが、目覚めることもある。ぼんやりと目を開けて、わしが居れば微笑んで『おじい様』と呼んだりする。痛みも相当あるはずと医師から聞いているが、この子は強い。痛いと言わないんだ……それが余計に……辛いことではある……どうして神は、この老いぼれではなく……まだ年若いこの子を、連れて行こうとするのか……」



「そちらのソファに座ろう。フェルナン殿、立てるか」


床に両手をついたままのフェルナンを、テオドールが手を引いて立たせてくれる。

フェルナンはそんな自分を情けないと思う余裕さえなかった。


余命一年なのは、祖父ではなくシャルリーヌ……。


到底信じられないことなのに、ベッドに横たわるシャルリーヌの消えてしまいそうな薄さに、これが現実なのだと突き付けられる。

美しかった長い髪が、肩のあたりの長さで切り揃えられていた。


ソファにどうにか腰を下ろしたフェルナンに、シャルリーヌの祖父が手ずから茶を淹れてくれた。

甘いりんごの香りがして、薬湯の匂いが気にならなくなる。

フェルナンの祖父の見舞いにシャルリーヌが持ってきてくれたりんごを、一つ祖父の手に載せた記憶が浮かんだ。

フェルナンはりんごの香りがする紅茶を、少し震える手で口に運んだ。

それを見届けたように、テオドールが静かに話し始めた。



「君がシャルリーヌに婚約を破棄したいと言った日よりしばらく前、体調を崩していたシャルリーヌに父が医師を呼んだ。父は何か嫌な予感でもしたのだろうか、王都で有名な高位貴族しか診ないという医師に、知り合いの伝手を頼って来てもらうことができた。シャルリーヌの下腹にりんごほどの大きさの病巣が触れるとの診たてで、もってあと一年と言われた」


「りんごほどの……何か……」


そんなに大きい何かがシャルリーヌの身体の奥に巣食っていたとは、フェルナンには想像するのも難しかった。


「シャルリーヌが病を理由に君との婚約を白紙にしてもらおうとしていた矢先、学園で君が他の令嬢と親し気にしているところを私が何度か見たんだ。それをシャルリーヌに告げたら、自分は領地で療養する。別の令嬢との関係を大切にしようとするならば、遠からず婚約解消を申し入れられてしまうかもしれない。だけど、自分の命があと一年なら……婚約を継続させたまま最期を迎えれば、フェルナン殿に何の過失もない形で婚約は無かったことになるからと、シャルリーヌはそれを希望したんだ。……君の婚約者のまま死ねるなら嬉しいと……その後で、君の経歴に何の傷もない状態でその令嬢と幸せになって欲しいと、私の最期のわがままだからお兄様は黙っていてと……」


「……それで、まるで彼女のおじい様の余命が一年であると、僕に思わせて……双方の祖父を優しく騙したまま見送ろうと、シャルリーヌは……」


空気が薄くなったように、フェルナンは息苦しさに肩で息をしていた。


「……あと、七日……もつかどうかということだ……」


シャルリーヌの祖父の言葉は、あまりにも悲しいものだった。

その時、ベッドリネンが少し動いた。



「……フェルナン様の……声が……」


もつれる足で、フェルナンは不格好にベッドに近寄った。


「シャルリーヌ……シャルリーヌ!」


「……夢では、ないのね……」


そろそろと伸ばされる折れそうに細いシャルリーヌの手をフェルナンが握ろうとすると、その左手首にアクアマリンのブレスレットがあった。

細く小さくなってしまったシャルリーヌの手は、とても温かかった。

その命の温かさに安堵して言葉が出ないフェルナンを、シャルリーヌが困ったように微笑んでみつめている。

祖父とテオドールは、静かに部屋を出て行った。

廊下に居たシャルリーヌの父と母が出てきた二人を迎え、互いに肩や腕を労わるように軽く叩き合いながら、静かな部屋の前から離れた。



***



それから、フェルナンはシャルリーヌの部屋に入れて貰ったベッドで寝起きした。

シャルリーヌの祖父、父、そして兄と、本来ならばフェルナンを許さない立場の男たちがベッドを運び入れたのだ。

だが三人は、何もかもをフェルナンに譲るつもりはなかった。

食事を運ぶフェルナンの手から祖父がトレーを横取りしたり、りんごを擦るのを父がやると言ったりした。

兄テオドールも空気を入れ換えにやってきたり、花を活けたりしている。

そしてベッドの傍らには、いつもシャルリーヌの母の微笑む姿があった。

今日がこのままずっと続くもののように、誰もがふるまっていた。






この領地のこの季節にしては珍しく、晴れて暖かな空気の日だった。


「……外に、出たいわ……」


シャルリーヌがそう言った。

昨日あたりから、目覚めると『あのウサギを抱いてもいいかしら』だとか『カップの数が足りないわ』だとか、夢の続きのようなことばかり言っている。

眠っている時間がほとんどになり、澄んだスープさえ口にできなくなっていた。


フェルナンが掃き出し窓を開けると、暖かな風が薄いカーテンを揺らした。

ベッドサイドに戻りシャルリーヌを抱き上げようとして、ふとシャルリーヌの右腕の肘まで滑ってきたアクアマリンのブレスレットに、フェルナンは目を見開く。

こみ上げようとする涙をぐっと堪える。

この頃は油断をすることができない。

うっかり気を抜くと、シャルリーヌの前なのに涙を落としそうになる。


そっと掛け物をめくり、静かにシャルリーヌを抱き上げた。

軽くなり過ぎたシャルリーヌは、抱きしめたらカシャリと乾いた音を立てて崩れてしまいそうだった。

フェルナンはそのままベランダに出て、小さなガーデンチェアにシャルリーヌを抱えたまま腰を下ろす。

腕の中のシャルリーヌは、両手の指を柔らかく組んでいた。

二人の頬を風がそっと撫でていく。



「シャルリーヌ、身体は痛くないかな」

「……ええ」

「僕だけに都合のいい言葉ですまないが……君を愛している」

「……ええ」


シャルリーヌの返事の真意を、フェルナンは知ることができなくても構わないと思った。

その言葉を口にする資格がないのに、初めてシャルリーヌに伝えた。

心の中は謝罪と後悔の言葉ばかりが溜まり、想いを告げる言葉など奥底まで浚っても見つからなかったというのに。

でも今、風がその言葉を連れてきてくれた。


シャルリーヌが柔らかく微笑んだ。

しっかりとフェルナンの目を捉え、頷くように瞬きをしている。

ふっと、シャルリーヌが小さく息を吐いた。


「シャルリーヌ?」


その身体から力が抜け、細くなってしまった右の手首から、ブレスレットが落ちそうになるのを慌てて押さえる。


「……愛しているんだ、シャルリーヌ……シャルリーヌ……」

「……」


そのこたえも、何もかもを、風が攫って行った。


物言わぬシャルリーヌを抱きしめる。

折れそうなのはシャルリーヌの細い身体ではなく、フェルナンの心だった。

シャルリーヌを抱きしめながら、声を上げて泣いた。

こんなみっともない泣き声をシャルリーヌに聞かれなくてよかったと思いながら、フェルナンは肩を震わせ続けた。





どれくらいそうしていただろうか、フェルナンはシャルリーヌをそっと抱え直し、その右手首のブレスレットをみつめる。

そしてシャルリーヌをベッドへ戻し、部屋を出てシャルリーヌの旅立ちを知らせに行った。



皆がシャルリーヌの部屋に集まり、静かな泣き声が床に溜まっていく。


「……それはとても急なことで……すぐに知らせに行かれずに申し訳ありません──」


そんな言葉も、床に落ちて滲みていく。

誰もフェルナンを責めなかった。

むしろ、最期の瞬間に君が傍にいてくれてよかったと、フェルナンの背中を撫でてくれる。

フェルナンはもう涙は出尽くしたように、ただぼんやりと立っていた。


ふと、シャルリーヌの机に、手紙があることに気づいた。

宛名はフェルナンだった。

少し文字が乱れているように思えたが、たしかにシャルリーヌの文字だ。

いつからそこに置かれているのか思い出せなかったが、フェルナンはその手紙を胸にしまった。




親愛なるフェルナン様


これは届けることのない手紙です。

私の祖父が余命一年であるかのように言葉を操ってお伝えしたこと、お詫びいたします。

余命一年と言われましたのは、祖父ではなく、私でした。

できることなら、フェルナン様の婚約者のままで死にたかったのです。

騙してしまって申し訳ありません。


ブレスレットを着ける手首によって「右手は獲得、左手は放出」との意味があると聞いたことがありました。

フェルナン様から戴いたアクアマリンのブレスレットを、左の手首に着けました。

私はフェルナン様から放たれた婚約者ですから。

最期の贈り物を離せず旅立とうとしている、未練に塗れた私をお許しください。

また、黙って私に協力してくれた兄のこともどうかどうかお許しください。


フェルナン様にはお幸せになって欲しい、ただそれだけを祈っています。

私のようなつまらない女ではなく、フェルナン様の心を明るくさせフェルナン様の毎日に彩りをもたらすような人と──。


もうペンも重たく感じられるようになってまいりました。


フェルナン様が笑って毎日を過ごせますように。

フェルナン様のご家族がお元気でいらっしゃいますように。


──お慕いいたしておりました。


  シャルリーヌ・ベルレアン





フェルナンは、シャルリーヌが刺繍を施した紺地のハンカチを握りしめた。

もう数えきれないほど思い浮かべた後悔の言葉を、フェルナンは無理に頭の片隅に追いやる。

後悔など、いくらしたところで誰も救わず何にもならない。


最期の時、シャルリーヌのブレスレットは右手首に着けられていた。

あれはシャルリーヌ自身が左手首から着け替えたのだと思いたかった。

何かを得たと、そう思って旅立ったと、フェルナンはそう信じたかった。



それからフェルナンは、シャルリーヌの家族の許可を得て、アクアマリンのブレスレットを譲ってもらった。

フェルナンはそれを自分の左手首に着けた。

後悔ばかりの自分の愚かさを、一つ残らず放出したかった。

フェルナンの元から自分の力で離れていったジネットには、どうか幸せになって欲しい。


そしていつか、愚かさからの後悔をすべて放出できたと自分で認めることができた時、フェルナンはブレスレットをシャルリーヌの墓標の右に返そうと、それをこれからの人生の目標に定めた。

これからは後悔をしないように、ひとつひとつに真摯に誠実に向かいあって生きていく。

それがいつかシャルリーヌに会うために最期に乗る、舟の切符なのだと。



今日も暖かい風が吹いている。

フェルナンの左手には、可愛らしくてまったく似合わないブレスレットが揺れている。

そして見上げた空の果てでは、シャルリーヌが微笑んでいる──





おわり


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