1. 時をかける成人男性
俺は二十代半ばの会社員。都内の中小企業で営業をしている。特に優秀というわけでもなく、大きな失敗をするわけでもなく、ただ毎日決められた業務を淡々とこなしている。
仕事が終われば、まっすぐ家に帰る。寄り道するほどの趣味もなければ、飲みに行く友人も少ない。部屋に着いたらスーツを脱ぎ、適当に買ったコンビニ弁当を温める。食事をしながらスマホを眺め、アニメの最新話をチェックする。食後はゲームの電源を入れ、ひたすらレベル上げに没頭する。
そんな生活を、もう何年も続けている。特に不満があるわけじゃない。でも、ふとした瞬間に思うことがある。
——このままでいいんだろうか、と。
昔は楽しかった。
中学の頃は、毎日が新鮮だった。授業が終われば友達とゲームの話で盛り上がり、放課後はそのまま誰かの家に集まって対戦した。くだらないことで笑い合い、夜遅くまでチャットでやりとりを続けた。
高校では、好きなアニメや漫画の話で友達と盛り上がった。放課後のファストフード店で延々と語り合い、気づけば閉店時間。文化祭や体育祭も、それなりに楽しんだ。先のことなんて深く考えず、「今」がすべてだった。
でも、大人になった今、あの頃みたいに心から笑ったことがあっただろうか?仕事と家を往復するだけの毎日。淡々と過ぎていく時間。
ふと、昔の自分が遠い存在に思えた。
「……昔に戻れたらな」
誰に言うでもなく、ポツリとつぶやいた、その瞬間——
視界の端に、強烈な光が飛び込んできた。反射的に顔を上げる。目の前に、トラック。
——あ。
考える間もなく、鈍い衝撃が体を貫いた。何かが砕ける音がして、視界が一瞬で暗転する。
* * *
静寂の中、ゆっくりと意識が浮上する。目を開けると、そこは白く輝く空間だった。まるで雲の上のようにふわふわとした床。そして、目の前には——信じられないほど美しい女性が立っていた。
「目覚めましたね」
透き通るような声が響く。長い銀髪、透き通る青い瞳。まるで絵画の中の女神のような存在が、微笑んで——いや、なんかめちゃくちゃムスッとしてる?
「しかし……あなたは本来、ここに来る予定ではなかったのです!」
「えぇ……?」困惑する俺をよそに、女神はギリッと歯を食いしばる。
「本来ならば! 超イケメンで、誠実そうで、文を考えて、若者を導くような立派な男が来るはずだったのよ!」
ピシッ! と女神の背後で雷みたいな光が弾ける。めちゃくちゃ怒ってる。
「それなのに……ぼーっとして、馬鹿みたいに死んで……!! なんでこんな死んだ目をしたやつが……」
俺は思わず手で自分の顔を触る。そんなに死んだ目してる? っていうか、俺の死因、ぼーっとしてたせいなのか……?
女神は荒い息をつきながら額を押さえ、ブツブツと文句を言っている。——なんか、俺、異世界転生早々めちゃくちゃ嫌われてない?
——いや、流石にイラッとするんだが。
別に好きで死んだわけじゃないし、そもそも異世界転生ってそういうもんじゃないのか? なんでこんな全力で拒絶されなきゃいけないんだよ。
「なによ……その顔……!」
女神がギリッと歯を食いしばりながら睨みつけてくる。
「ふん……アンタみたいな奴は、こっちの世界でもすぐに野垂れ死ぬでしょ……! さっさと死んで、この世界から消えなさい……!!」
ズンッ——!!
突然、空間が揺れるような衝撃が走った。眩暈がするほどの圧力。な、なんだ!? 何が起こった!?
「ふ……アンタの転生した先での魔法と能力の習得をできないようにしたわ!」
女神が不敵に笑う。
「はやく死になさい……!!」
言葉の意味を理解した瞬間、背筋が凍った。
——魔法も、能力も、何も得られない?
異世界に転生するなら、当然チート能力がもらえるものだと思っていた。強大な魔法、優れたスキル、最低でも生き抜くための何かがあるはずだった。それが……ゼロ?
つまり俺は、この世界でただの一般人として放り出されるということか。戦う力もなく、生き抜く術もなく、ただ——死を待つだけの存在として。
血の気が引いていく。喉がカラカラに乾く。これが異世界転生? いや、違う。これは——ただの処刑宣告じゃないか。
意識がぼんやりと霞んでいく。足元がぐらつき、立っているのか倒れているのかさえわからなくなる。頭の奥がじんじんと痺れるようで、思考がうまくまとまらない。まるで、自分という存在そのものが霧の中に溶けていくような感覚だった。
——このまま、俺は異世界へ転生するのだろう。
女神の冷たい視線が、遠くでぼんやりと揺らめく。声を出そうとしても、喉が動かない。もう俺にできることは何もない。ただ、流れに身を任せるしかない。
次に目を覚ましたとき、俺はどこにいるのだろうか。どんな世界が待っているのか。そして——生き延びることはできるのか。
意識はゆっくりと、闇の中へと沈んでいった。
まるで深い水底へと引きずり込まれるように、意識が遠のいていく。音もなく、ただ静かに沈んでいく——。
しかし、その暗闇の奥で、ぼんやりとした光が現れ始めた。最初はかすかな輝きだったが、次第に強く、はっきりとしてくる。光は波紋のように広がり、闇を押しのけるようにして俺を包み込んでいく。
ゆっくりと目を開く。目を開けたのは、温もりを感じたから。
そこは異空間——漆黒の闇に包まれているはずなのに、不思議と輝いて見えた。まるで夜空に浮かぶ星々のように、淡い光がゆらめいている。そして——俺の手を握る、ひんやりとした柔らかな感触。
視線を向けると、そこには一人の女性がいた。あの女神よりも、はるかに美しく、神秘的な存在が。
「申し訳ありません……」
透き通るような、まるで静かな水面にそっと落ちる雫のような声だった。優雅でありながらどこか儚く、耳に触れるたびに心を震わせるような響きがある。まるで旋律のように流れるその声は、ただの言葉以上の何かを伝えてくるようだった。
「あの者が行った……行為は……決して許されるものではありません……」
その声は静かでありながら、どこか深い悲しみを帯びていた。まるで凍てつく風の中に、かすかな炎が揺らめいているような、そんな儚さを感じさせる。
俺は彼女の言葉の意味を飲み込みきれず、僅かに眉を寄せた。あの女神のことを指しているのは明らかだったが、それ以上の情報は何もない。
「……一体、あの方は何者なんですか?」
慎重に言葉を選びながら尋ねる。あの女神は俺に強い敵意を向け、何の力も持たせず異世界へ放り出そうとした。その理由が知りたかった。
「あの者の名は……エリス。転生神です」
彼女は静かにそう告げた。しかし、その表情にはどこか躊躇いがあった。
「……じゃあ、なんで俺はあんな仕打ちを受けたんですか? 転生神なら、本来は新しい人生を与える存在なんじゃ……」
俺の問いに、彼女はしばし沈黙した後、小さくため息をついた。そして、申し訳なさそうに口を開く。
「……それは……あなたが、彼女の好みに合わなかったからです」
「は?」
「彼女は……転生者として相応しいのは、優秀で、誠実で、そして容姿端麗な者であるべきだと考えています。あなたが転生の対象になったことが……どうやら、彼女にとっては納得のいかないことだったようです……」
俺は絶句した。つまり、俺がイケメンじゃなかったから、あんな理不尽な仕打ちを受けたってことか? そんな理由で能力を剥奪され、異世界で死ねと言われたのか?
「……ふざけるなよ……」
思わず、奥歯を噛みしめる。ふざけるな、そんな理由があるか。俺の人生は、こいつら神様の好みで決められるのか?
「……それで、あなたは?」
俺は目の前の女性を見つめながら尋ねる。エリスとは違う、どこか神秘的な雰囲気を纏った彼女は、一瞬だけ微笑んだ。
「私は時空神・ティアナ」
その名が告げられた瞬間、空間がわずかに揺らいだ気がした。時空神——つまり、時間や空間を司る神ということか。
時の女神……なるほど、確かにそんな雰囲気がある。エリスとは違い、彼女の瞳には穏やかさと知性が宿っているように見えた。少なくとも、いきなり罵倒してくるようなタイプではなさそうだ。
「もう時間がありません……! 貴方に私の力の一端を……」
ティアナの声が切迫したものに変わる。時を司る神が「時間がない」とは、なんとも皮肉な話だ。しかし、今はそんなことを考えている余裕もない。
次の瞬間、眩い光が俺の身体を包み込んだ。時間そのものが歪むような感覚に襲われ、意識が一瞬遠のく。
そして——俺は手に入れた。
時刻神威クロノス——時間を操る力を。




