第九章 登校・2 フラッシュモブ
バスを降りて、少し歩きやすくなった学校への道をゆく。ルイ女の中等部が夏休みになり、カブ高の補習はニ三年生のみで、人が減ったのだ。ちなみにルイ女高等部は冬休みのほうが長い。
しかし、治郎は相変らずの足どりだった。イヤホンから聴こえる音楽は関係ない。もともとノリのいい音楽だからとそれを身体で表現するタイプではなかったが、そういう曲を選ぶどころか、あれから追加さえされていない。
あの試合からまだ練習も出ていない。夏休み明けにはカブ高にもどるかもしれないのは本当で、そこからでも追いつけると思ってはいた。カブ高だけになってからのほうが区切りっぽい。
治郎は惰性のように歩く。
しかし、それも通学路で見かけない態度ではないので、そう目立ちはしない。
ルイ女の校門を入ると丸い花壇の上に銅像が立っている。
愛と平和のすばらしき世界、という文句がラテン語かギリシャ語かで書かれてるらしいが、治郎には読めない。
しかし、銅像の前にマイコが立っているのを見て、奇異な感じがした。手にはバレンタインデーのチョコレートのようなハート型でピンク色の包み紙の、やっぱりチョコレートにしか見えないものをもっている。だが、朝とはいえ、まだ夏だった。溶けるだろうし、だいたいそれをもって立っているということは、もう告白しかないじゃないか。
見たひとは誰でもそう思うだろう。そのせいか、銅像のうしろあたりには両校の制服が混じったひとだかりになっていた。
治郎は迷った。一瞬、ほんの一瞬だけ、誰に?おれに?と思わなかったわけではなかった。だが、マイコは立ったままで、その上、人差し指をくちびるに当てて、しーっと言うジェスチャーをした。その時点で迷いよりもかわいいのほうが治郎の心を大きく占めていた。それで歩みを止めず、マイコからだいぶ離れて銅像を迂回しようとすると、その影にはルーミンもミクもいて、やっぱりピンク色の小さな包みをもっている。やっぱりハート型の。
これにはさすがに治郎もルーミンに話しかけようとした。
しかし、ルーミンも「静かに」というふうに指を口に当てるパントマイムをする。ミクも首を横に振って、ダメダメと示している。
とりあえず何が起こるのか、治郎も群衆に加わって待つことにした。
北条先生は、市内のワンルームに住んでいた。住宅手当はあっても公立なので、総じてカブ高の独身勢は1DKのアパートやそんなところであった。ただし家賃の相場は安いので、職場の近くの条件でも探すことができる。それで逆に、併設によって電車通勤のひとが多くなっていた。
車はもたない世代なのだ。といっても、ルイ女には学校内に駐車場がないため通勤には使えなかったのだが。
それで、家族持ち、家持ちの先生たちも郊外から電車通勤となっていた。
通学する途中、生徒から挨拶されるのは朝からいいい気持ちになれるものだし、ルイ女の先生たちと一緒になることもあり、いろいろ有益な情報交換ができた。
治郎が銅像のうしろで立ち止まると、次に校門を入ってきたのは北条だった。
北条は、やはりマイコを目にすると立ち止まった。
あのピアノの子だ。それでなくとも目を引くほどの美形なんだから、こんな朝っぱらから何してんだ。
持ちものが、学校では不審に思われるものだった。不審といっても教師に限ってのことで、思春期には当たり前のことかもしれないが、この時間、この場所で、すでにひとだかりになってしまっている情況がおかしい。
彼女に何を言えばいいか、逡巡していると、その次に門を入ってきたのはシスター了子だった。
「まあ……」
と、了子も絶句した。
「あっ、シスター了子、いや竹部先生」
「あ、北条先生。あの子どうしたんでしょう。……でも、絵になる子ね、マイコちゃん。映画のワンシーンみたい」
言ってる場合かと思うが、まさにその表現がぴったりで、シスターの素直な感想がいっそありがたかった。
彼女の相手が誰であったとしても、学校内のことなので予防的に対処すべきだった。しかし、シスターの修道服を横目に、北条はルイ女の出方を見るのも順序のように思った。
すると、そのまた次に校門を入ってきたのはカブ高の藤原先生と高階先生だった。
藤原先生は物理の教師、まだ若い、新卒二年目の先生だ。高階先生は漢文の教師、北条よりも八年先輩だから、藤原先生よりはだいぶ上だ。三年生の担任。教頭や校長の信頼も厚く、ヴェテランという年ではないが貫禄のある人物。
理系の藤原先生はコンピューター研究会の顧問だったので、北条はルイ女の生徒との活動について話したことがある。若い先生は機敏で、PCをルイ女側の教室に移動させ、ルイ女にもコンピューター研を作らせるという荒技で解決を図った。ルイ女の校風は自由であり、男子生徒の門限は指定されたが、活動は許可された。女子にも理系の部活を希望していた生徒はたくさんいたようで、北条があとでシスターに感謝されたのだが、でも、藤原先生がやったのは熱心さゆえというより、いまどきのサトリ世代に近いような、シンプルでドライな方法をとっただけと北条には思えた。スリムでスマートだが、クールというより地味な印象の後輩だった。
高階先生は、落ち着いているという意味で、また地味なひとだった。空手をやってたそうで、足は短いが太く、安定感がある。短躯で少しマッチョだった。
ふたりとも独身だが、これはスルーだな、と北条は思った。
治郎は銅像のうしろ側で、北条ではないのかと思い、次のシスターとその次のあまり生徒の話には出てこない地味なふたりの先生はちがうだろうなと思っていた。
とたんにマイコが走り出し、藤原先生の正面に立った。
「先生、好きです。これ受けとってください」
と言って、マイコはピンクのハート型の包みを差し出した。
治郎は、どんなふうな接触があってこうなったのかと不思議に思っていた。落胆とか、嫉妬心とか、慙愧の思いなどより、疑問のほうが大きかった。
「いや、申しわけない。私には受け取れません」
言下に藤原先生は断った。マイコはうつむいた。
「ちょっと待った!」
と、今度はミクとルーミンが駆け寄ってきた。
「先生、好きです。これ受けとってください」
と、マイコとまったく同じ台詞をふたりが言ったとき、治郎はおかしいと思った。
藤原先生も、ちょっと引きつったような表情になって、
「いや……」
と言ったままだまった。
「なぜですか、先生。
好きって気持ちはいつでも本気です。先生も生徒も関係ない。年なんか関係ない。
男も女も関係ないでしょ。
あたしの申し出を断るなら、ちゃんと理由を言ってください。
誰が好きなのか。ここではっきり言ってください。
好きな気持ちは、いつでも本気で真剣なものでしょう。
何才でも関係ない。男も女も関係ない。男のひとが男のひとを好きになっても、本気なら本物になる。
だって好きなんだから」
と、三人並んだ右端でマイコは大きな声で言った。詰問する調子などまったくない。すがすがしいほどの断言だ。
何を言ってるかを理解して、治郎はよく気づいたなと思う。このふたりが生徒たちの話に出ないのは、タブーになっているから噂にしないという意味もあった。無論、噂レベルの話で確かめたものなどいなかったのだが。
何を言ってるかを理解して、北条は驚愕した。このふたりが? そんな気配はまったくなかったが……。
では、若い藤原先生が言い寄られてて、断れなくて、それでこんな引きつった顔になるような情況にまでなっていたのか……。
「いや、しかし……」
「じゃあ、先生からどうぞこのチョコを好きな人にわたしてください。どうぞ」
と、マイコはハート型のチョコをむりやり手渡した。ほかのふたりも次々に手渡した。ハート型のチョコを三つも手にして、藤原先生は当惑していた。
「先生、どうぞ」
「いや、あの……」
と、心ここにあらずという様子で、藤原先生は言いよどんだ。
高階先生は冷静なままで、しかしひとことも発しない。
「はい、おたくさん! おねがい!」不意にマイコが大声で言った。
ジャラーンとギターをかき鳴らしながら、おたくさんが銅像の影から出てきた。
治郎は、マイコのことが気になって、いることに気づいていなかったのだ。
ゆふぐれに あふぎみる かがやく あをぞら
ひぐれて たどるは わがやのほそみち
せまいながらも たのしい わがや
あいのほかげの さすところ
こひしい いへこそ わたしのあをぞら
ギター一本で歌い上げるおたくさんに合わせて三人も歌いはじめた。銅像の左右にいたモブ集団は列をなし、銅像も一緒になってマイコたちを囲むような半円の形になって、あるいは声を合わせ、あるいは手を叩く。
英語の歌詞になって、マイ、ブルー、ヘブン、と言葉が聞こえて、なんか聴いたことあるなと思ってた疑問の一端はとけた。
ひいき目でなく、ここでも歌い出すと中心になるのはマイコだ。
三人組の情報をネットで探すと、いかにもアイドルっぽい曲の動画も見つかった。ホームページにはデビュー曲と書いてあったが、メジャーデビューではなく、オリジナル曲を持ってるということらしかった。軽いノリで、シンセも凝っててうるさいくらい鳴ってるし、KポップかJポップかわからないけどそれっぽくて、曲は売れ線だから、売れてもいいのかもしれない。マイコの声がフィーチャーされて歌ってるから口パクではないのだろうし、そろったダンスだから振り付けもある。三人とも充分に魅力的だったが、取り立ててオリジナリティーのようなものは治郎には感じられなかった。
曲は動画サイトにも転載されていたが、コメント欄がジャズに関しての話でうまってるのが不思議だった。
ジャズの要素があるのだろうか。だったら、そっちのほうで個性が出てもいいような気がしたが、治郎にはわからなかった。二曲しか上がってなくて、材料も少なすぎた。マイコが言ってたファンクは、ちょっと調べてみるとかなり濃いブラックミュージックのようだったが、その要素はたぶんどこにもない。
三人のページがあるのは地元のモデル事務所のサイトだったが、ライブの受付ができるアドレスとして聞いていたのは、まったく別のウエブサイトだった。ライブはあしたで、このサイトについて質問したいこともあったのだが、しかし、そのページがさも何も問題がないようなつくりになっていて、しかもちゃんと無料で入れるクーポンのような認証画面は普通にダウンロードできたし、あとから何か要求されそうな小さなフォントの断り書きみたいなものもなくて、しかし、あまりにも簡単なホームページの作りと大元の運営者らしき団体名が気になっていた。気にならざるをえなかったが、簡素なページゆえに何も不備がなさそうと言えないこともないし、余計な装飾は省いてライブや演者、業務に注力しているとすれば、何も怪しいところはない。手続き、と言うか、ただダウンロードしただけで、アカウントを作る必要もないし、メールの登録も不要。これでは怪しめといわれても、怪しんではいけないような気になってしまう。
でもイベント自体はあんまり訊いちゃいけないようなものだとしても、フリーで入れるってことはいわゆるファンカムなんかも上がってていいはずだ。それが動画サイトにはグループの公式の二個以外まったく上がってなくて、管理の完璧さがなんとなく怖かった。
でも、いま目の前で歌ってるマイコは、文句なしにうまい。
おたくさんも悪くはなかった。ギターを弾きながらのソロシンガーですぐにでも行けそうなくらいにうまいとは思う。でも、マイコは声の伸びがちがうようだ。古い曲だろうから、あんまり今風に歌い上げるディーヴァみたいになったら、技術だけ高くても、おたくさんを置いてけぼりに自分だけが突出してしまって、この場はちょっとしらけてしまったかもしれないが、その微妙なラインをはずさないで、朗々とした、明るい兆しがさしてくるような響きでマイコは歌う。まだ聴いていたいという気持ちを、このあとも楽しみという期待にシフトさせるくらい、ひとを魅きつける声だ。
途中で英語の詞になってからは、マイコがメインになった。英語の発音まで美しいと感じる。歌がうまいということは、言葉に関して繊細なのとセットなのではないか。なんか洋楽は歌詞はわからなくてもいいなんて話が、妄想に思えるほどだ。日本語でロックは歌えるのかという議論がむかしはあったらしいが、まずきれいな日本語を使えるのかが問題だったのではないか。日本ではロックは生き残ってるが、海外で下火になっても空いたポジションを獲りにも行かず、出ても行けず、通用したことがないのがわかる気がする。
ミクもルーミンも、そしておたくさんも、ハーモニーをよく担っている。美しい。
これは、マイコたちが予想してるような例の噂が本当だったとして、先生たちは肯定してしまうんじゃないか。この美しい説得に。
しかし、治郎の案のごとくとはならなかった。
「いや、しかし……」藤原先生はまだ躊躇していた。
おたくさんのカントリーソングのようなギターソロが終わった。日本語詞にもどって、それでも歌は続く。
「そうか、これがフラッシュモブってやつか」やっと思い当たって治郎はつぶやいた。
「ううん、フラッシュモブでやるのはもっとストレートなことよ。プロポーズとかノーマルなものしかほとんどやらない。ゲイはめったにない、アメリカでも」
ルイーザまでそこにいた。急に話しかけられたので治郎は少しどぎまぎして、
「さすがルイ女、洋風だなあって思ったけど、ちがうのか」と、言わでものことを言う。
「ルイ女っていうか、そっちの高校のことじゃん、これ。日本もけっこうやるね」
治郎ははたと気づいた。
「君、普通にしゃべってるじゃん」
「うん、あたし見た目は日本人だからさ、日本を批判するときはあえてやるのよ」
「そんなのいらないだろ」
「いんちき白人がコーケイジアンじゃなくても日本じゃ優遇されるでしょ」
「ん?」
「英語っぽくやったほうが効くから」
ぐぬぬ、と治郎は思ったが、また納得もした。
「あんたもちょっと来なさいよ。歌うわよ」
「いや、おれはいいよ」
「いいから来なさいよ」
ルイーザに手を引っぱられながら治郎は思った。なんか最近、当たりの強いやつばっかりと会うなあ。
この前の続きにしても、おたくさんの活躍をしかと見ろということなのか。ホモの前ではやっぱり美しいだろ、と思うのは男の目線で、いまは自分がまちがってるのか。いや、ホモを下に見るということではこの前のブスの話と変わってないからガキの目線か。いや、いんちき白人でも優越的なのってテレビのことで、動画でニホンスゴイやってる外人は低評価だから、テレビに影響されてるジジイ目線じゃないか。いや、待てよ。
ごちゃごちゃと考えているのは、自分がこの事態に対して何を言っていいのかわからないからだ。うすうすわかっていながら、ルイーザの強引さにかこつけて、それでごまかしてその考えに行こうとしない。
と、歩みの遅い治郎にじれたのか、手を放したルイーザは彼をそこに残し、先に行ってしまった。
治郎はほっとして立ち止まり、それから自分も歌えと言われた曲を聴いた。
古い歌なのはわかったがやっぱり歌詞は知らない。
ルイーザはマイコたちのあたりまで進んで行ってしまった。治郎はモブの列の最前列にとどまり、そこで手拍子だけしてることにした。
ルイーザは、ふたりの先生の前まで出た。マイコたちを従えるように、歌をバックに語り出す。
「教会は、すべての民の家です。
愛と平和のすばらしき世界、その象徴が教会であり、わが母校、ルイ女です。
神はすべての人に隔てなく、安らぎと平穏を与えます。
神の恩寵は、どんな人にも安心、安全をもたらします。
自分であることに何の不安もいりません。
神はあなたをそのように造られた。あなたがいやだったとしても、あなたを愛するひとは、あなたであるゆえに愛するのです。なぜなら、神がそうなさるからです。あなたへなされたことも素直に受けとってよいのです。
そのままでいい、しかし、よりよきものになることを望むなら、神もまた喜ばれるでしょう。
どのようなものであれ、あなた自身がめざすものをそのままめざしてよい。
神はどんなときでも、あなたのそばにいます。
だから、もう迷うことはありません。
日本でもむかしから言うそうではありませんか。人の恋路を邪魔するものは、馬にけられて死んじまえ、と」
北条はふたたびおどろいた。生徒が神について語り、説教のようなことまで言ってる。そして、それをとなりのシスター了子はほほ笑みながら聞いている。
治郎は、すぐうしろで聞いてて、いいこと言うなと思ったが、
「でも……」
と、やはり藤原先生は認めたくないようだ。
すると、パカラッパカラッと軽快なひづめの音が銅像の向こうから響いてきた。
あれはもしや……。
銅像のうしろには校舎が二棟、たてに並んでいて、そのあいだは遊歩道のように左右に花壇がしつらえてある。その道を中ほどまで行くと、渡り廊下がアーチ状にかかっている。くぐってさらに進むと校舎がつきた先、やや左手に体育館があり、左に折れて進むとグラウンド。体育館の右隣にチャペルがある。といっても、おしりがこっちで、小さな鐘がある塔は向こう側。さらに向こうには、学校自体の裏口として小さな門があり、そこがチャペルの正面に通じる門で、馬車が通れるだけの幅もある。
しかし、ルイ女のチャペルで結婚式をあげるひとは、やはりここの卒業生が多い。
馬車は学校の正門から入り、思い出深い校舎を左右に眺めながら、十字軍の時代また十四世紀に栄華を誇ったどこかの海運都市国家のゴンドラの伝説のように渡り廊下をくぐり、チャペルのそばを通り過ぎて正面まで回り込むように進むのが、名物のコースだったのである。
それに逆行するように、単騎で男はやってきた。
「なんの騒ぎだ?」
白馬にまたがり颯爽と登場した軽野校長が、馬上からたずねた。
しもべにされる寸前だったのも忘れて、あんたが一番騒がしいよ、と治郎は思った。そして周囲を見回した。来たぞ。佐藤いないのか。
ルイーザが手短に校長に説明した。きれいな日本語だ。
「なに、チョコレートをあげるだと? それはバレンタインとかいう二月にやる……」
ルイーザはさらに厳粛に説明した。
「いえ、聖ヴァレンタインが愛の使徒なのはどんなときも変わりありません。多少のローカライズは許されるでしょう」
「へー、そうかい。そいつはそちらさんもふところの深いことだね。
じゃあ忌憚のないとこ、おれも言わせてもらおうかな。
前から藤原先生のことは、どうも気持ち悪いと思ってたんだよ。
こういうことだったならわかるけどな」
北条先生があわてて口をはさんだ。
「ちょっと校長。 いまの時代そんな言い方はないでしょう。もう少し気を付けていただかないと」
軽野校長は平然と馬上から、
「オカマとはちがう。それくらいはわかってるよ。
ホモだったならこっちが旧套的な反応をしてたってことだ。男が女っぽくしようとしてたんじゃなくて、女の心をもっていたから女に寄って行ってただけなんだからな。
ホモのまま、男のまま男を好きになるなら、なおさら女の表象はいらない。
それなのに過剰に女っぽくなってりゃ、気持ち悪いといわれるのもしかたないってもんだ。
逆に考えると、男の心をもった女が、急に魚屋の大将みたいな角刈りになったり、エロガッパのハゲになるようなもんだろ。そんなのいるか?
普通にブスの女もいるし、男のままで男が見てもブオトコはいて、そいつらがやたら着飾るのは逆効果ってのは当然の帰結だ。
ツーブロック禁止みたいな馬鹿な校則はうちにはないしな。
たとえば、サブカルってのもなんだか気取った鼻持ちならない口釈野郎ばっかりだけど、むかしはマニアはいたけど、ヲタクはいなかったんだよな。
B級アクションを語るひとは、芸術なんてお高くとまった映画が嫌いだからこっちを観てくれてたし、語っていたんだよ。
それがなんだよ、いまの時代、おしゃれと思われないと女にもメディアにも相手にされないのか知らないけどよ、気取った連中のメインカルチャーへの劣等感にまみれた自分語りの道具にされちまってる。やたらにこまかく知ってるし、くわしいよ。でも、そりゃあ愛があってのものじゃない。メインに対抗するための理論武装みたいなもんで、サブカル同士でもいつもギスギスしてる。
メインじゃない、はしっこのやつ同士がもめてる。マウントの取り合いってやつをそのまんまに飽きもせずいつまでもやってる。
B級にはB級の誇りがあるんだよ。最初から世間の斜め上にいるんだからよ、あとはアクションを男らしく語ってりゃいいのさ。そういう写真が求められてた時代があり、しつこく忘れないひともいる。しつこいって言うと言葉が悪いかな。はははっ。
だいたい、メインカルチャーなんて言葉はないんだよ。それを言うならオーヴァーカルチャーってんだよ。
なっ、語るに落ちるというか、いまのサブカルのつまんなさがわかるだろ」
しぶい顔で校長は言募る。ホモとはっきり言われたのに藤原先生は男らしく堂々とうなづいた。
しかし、北条先生は、
「極論すぎませんか。まだ何も認めてないし、逆にって言ったってそんな男の心をもった存在がここにはいませんし。それになんでサブカルの話なんですか」
「実在するものしか信じられないなんて、それは宗教以前にディスクールの渉猟不足、想像力が貧困なのではないかね。
あと、映画の話はおれが是非したかった喩えだよ。それだけさ。
そのほかはただの洒落だ。気にするな」
気にするな、と言いながらふたりの先生のほうを見渡していたのだが、まだだまったままなので、
「おい、馬を頼む」
と、言い置いてひらりと飛び降りると、校長はたづなをルイ女の地味な男の先生にあずけた。ちなみに裏方は大事な仕事であるが、このひとはただ地味なだけである。
「よし、おれが歌ってやろう」と唐突に言うと、おたくさんからギターを借り、爪弾きはじめた。ずんちゃっちゃ、ずんちゃっちゃと、ごきげんで調子をとる。
おれは村じゅうで一番 ホモだと言われた男
うしろ指さされて 誹謗中傷
東京の大学では かくした
そもそもの そのときのスタイル
白Tに真っ赤なドリズラー
スポーツ刈りでメガネはしない
ぴちぴちのスキニーなデニム
わたくしの見せかけの彼女
黒いカラコンで ボブヘアー
背が低いが 肉体美
おまけに足までが 太い
馴れ初めのはじめは カフェ
このうちは知り合いの店よ
カクテルにウイスキー どちらにしましょ
遠慮するなんて みずくさいわ
いわれるままに一杯
笑顔につられて もう一杯
彼女もほんのり 桜色
エッとなって しかたない もう一杯
君は知ってるか ぼくの
おやじは地主で村長
村長は金持ちで 息子のぼくは
独身で これからもひとり
あらまあ それは素敵
名誉とお金があれば
たとえホモはまずくても
わたしはあなたが好きよ
おお あさましいものよ
おれの体はふるえる
おまえとならば どこまでも
打算で生きるしかない
夢かうつつか そのとき
飛び込んだ サークルのリーダー
ものも言わずに 拳固の嵐
なぐられて ぼくは気絶
財布も時計もとられ
やっぱり女はダメだ
恐いところは イベントサークル
泣くに泣かれぬホモ
「どうしてそこまで知ってるんですか」
涙にうるんだ目で、藤原先生はもらすように言った。
「先生たちには履歴書を出してもらってる。身上書も教育委員会から回ってきてる。
紙一枚からでもこれくらいは読み取れるさ。いや、二枚か。
俳優だってそのくらいのことはやる。台本にないこともやってのけるのが主役、スターってもんだけどな。
しかし、このお嬢さんたちはこっちが間借りして一ヶ月もたたないのに、このふたりの関係に気付いたってことだろう。まいったなあ。女の子ってのは、たとえいくつでも女なんだなあ。」
遠い目をして校長は言った。
「まあ、うちの生徒たちもそんなにおどろいてないってことはそういうことだったのかもな。
かわいい生徒たちじゃないか
生徒は子供も同然なんだから、男同士じゃ子供はできないが、いい仕事だと思うよ」
藤原先生は何も言わなかった。しかしそれがいままでのような逡巡でないのは、溶けるのも忘れてハート型のチョコをぎゅっと握りしめているのでもわかる。
しかしこの校長は何者なんだ、と治郎は思う。ギターをジャラーンと最後にひと鳴らしして、おたくさんに手渡すと、その音がきっかけのようになって、藤原先生と高階先生の目が合った。
なんだこのシーンチェンジは。
モブの集団も、背景のようになってふたりを見守っている。
やっと高階先生が口を開いた。
「私は生徒が尊敬できる教師でありたい。
生徒にいい影響を与えたい。教師としてだけでなく、ひとりの人間として。
ここで断ることは簡単だ」
聞いた瞬間、藤原先生は心臓をガッとつかまれたような顔になった。
北条は書物で知っているだけだが、トラウマがフラッシュバックしたときの表情の典型のように見えた。
「しかし、可能性をせばめるようなことは生徒に見せるべきではないし、すべきでもないと思う。
藤原先生は優秀な教師で、私から見ても尊敬できる先生だ。生徒にも好かれてる。
人と人として、いい付き合いができそうに思う。
これまでと変わらないのではもしかすると意味がないのかもしれないが、その先はわからないのが正直なところだ。
こんな答えでいいのなら、藤原先生の申し出を受け入れたいと思うがどうかな」
「よく言った。まあ、六十点の答えだが、ここはしょうがなかろう。
藤原先生もきょうのところは胸におさめてもらえませんかな」
校長が威勢よくそう言うと、藤原先生はもちろんだというふうに急いでうなづいた。
高階先生も小さくうなづいていた。
「じゃあ、握手ってことで、どうかな」校長は、気が早いのかそれとも回るのか、すかさず言った。
ふたりは握手しようとさらに一歩近づいたが、チョコレートを抱えた藤原先生は三つを一度に片手で持ちあぐねていた。すると、高階先生はまず手のひらを上にして片手を差し出し、そのチョコを受け取った。ひとつ渡されたところで指を一本立てて、一個でいいと示し、それ以上は拒否されたのでなくチョコを共有したような格好になって、やっと藤原先生もやわらかい表情になった。
それから、ふたりは握手を交わした。
囲んでいた人たちから拍手が起こった。
それに合わせて手を叩きながらも、チョコがふたつとひとつづつだったのは、なにか暗示的なように北条には思えた。
「きょうのことは職務になんら支障はありません。
もちろん、このあとも少なくとも教師であることを忘れないなら何も問題にならないと信じますがね。
うちは公立にしては自由な校風だと思っていたんですが、きょうで少し思い知らされましたな。
もっとルイ女のいいとこを取り入れていきましょう。
音楽の授業がもっと必要かな。
それとも、道徳かな。いや、文科省が採点基準を設けてからおかしくなったからダメか。
間借りさせてもらってるあいだに、このような交流は是非とも進めていきましょう。
ああ、言うまでもないことですが。
プライベートはプライベートでってことで、あんまりあけっぴろげにはやってほしくないですけどね。生徒がまねしちゃ困るから。
電車の中で化粧する、キスする。そんな東京のまねじゃなくて、まずはルイ女にならってればいいのに、その辺は若いから飛びこえちゃうんですかね」
校長の言葉は、最後のほうは若いひとへの愚痴みたいになって、どっちなんだよと治郎は思う。
だが、ふたりの先生は同意したように顔を見合わせている。
「いいんですかね」
北条はとなりのシスター了子に訊いてみた。
「いいんじゃないですか。教会はすべての民の家であり、平等で安全な場所なので」
「いや、しかしカトリックはたぶん同性愛は認めてないんじゃ……」
「ここは日本ですし。稚児の文化も古来からあったようですし、旧制高校でも似たようなことはあったようですから。昭和まで続いてたんですってね」
そういえば、このひとは日本の歴史にもくわしかったのだった。
「生徒同士はちょっと困りますけど、そちらの学校の、しかも先生同士のことですからね」
「そんなもんですか」
「両校のいい交流は歓迎です。わたしも馬に乗る練習しようかしら」
最後の冗談にも笑わず、北条はまだ考えている。ホモを認めはした。相手にその承認はあったが、それが受け入れられたわけではないんじゃないか。だったら、ただ、ホモが公認されただけじゃないか。そんなふうには誰も思ってないようだが、それだけだから収束になっているとしたら、解決とも理解ともちがうんじゃないか。
いつまでも腑に落ちない北条を残し、生徒たちもばらばらと解散しはじめていた。
「さあ、きょうも暑くなりそう」
シスターはうれしそうに言った。そして、ルイ女の校舎へと向かった。
治郎は歌いもせずいたので、ルイーザはさっさと行ってしまった。
しかし、マイコはいたずらっぽい笑みを浮かべ、やはりジェスチャーだけで、いいねと手で示し、治郎の前を通り過ぎていった。三人でなにやらおかしそうに会話しながら、ルイ女のほうの棟の玄関へ入っていった。
治郎も別棟の校舎へ歩き出した。
こうして朝のサプライズは終わったのだった。