第三章 北条先生の授業・1
この時間は担任の北条英男の国語の授業だった。が、何も言わず北条は板書を始めた。
つまり、きょうは教科書もプリントもない。ラッキー、と生徒たちは思う。ノートは取らなくていいし、テストにも出ない。テストよりも、ノートにたくさん書くとなぜあんなに手が疲れるのかのほうが問題だったが。
授業をほっぽらかして雑談する先生は生徒に人気がある。おもしろい先生と呼ばれる。しかしてその実態は、そういう授業だとやはりノートを取らなくていいから、そういうことにしているのである。
「情念」と書いた下に、不等号を下に向けて、ヴイの字のように書いて、さらにその下に「理知」と書いた。
情念>理知。理知よりも情念。
「自由」と書いて、同じく不等号を置き「秩序」と書いた。以下も同じようにだが、
「自然」「楽しさ」と、ふたつ並べた下に「技巧」と書いた。技巧よりも自然および楽しさ。
「才能」よりも「熱意」
「完成」よりも「成長」
「中庸」よりも「無限」
そして、少し空けて、
「富を成した成功者より、報われぬ天才を愛する」
「このポロシャツどうかな」振り返ると北条先生は黒板の文とは関係ない話から始めた。「イギリスのやつだよな、定番で人気なんだろ」
クールビズが、夏のクソダサいクソ親父の恰好であるのは、若い世代に限らず世評に定まっている。
何の変哲もない白のポロシャツで延々とツカミのようにしゃべるのだから、お堅い印象。というか、気にしてるのだろうが、おしゃれ方面はダメかと思われる。といって授業内容は四角四面の教科書どおりではない。テキストの言いなりではない。
学生のときも、ただ成績がよかったのではなく、勉強以外は疎いわけでもなかっただろうが、しかし勉強以外の話題が得意かというとそうでもなさそうで。モテなさそうで意外と彼女はいそう。でも、なんでって相手だったりしそうな。選んだ理由が人気や評判とか関係ない、となると世間に流されたり常識にとらわれたりしなさそうであるが、さりとて選んだ人を見るとこだわりもなさそうで。
そんなわけで友達のように親しまれ卒業してからも縁が続きそうな先生がいる一方で、大人になっても勉強を続ける人にはときどき思い出してもらえるような、今は差当たり、雑談になっても科目の話からは外れないのでおもしろくなくはないくらいの先生だ。
「スーツがダメっていう同調圧力ではないから。日本で人気の野球の監督だけが選手と同じ恰好してるけど、スーツはだいたい……」
ダサいことの言い訳のようにまだ話している。
「ウケないか。いや、ウケる、だと悪口と取るべきなのかな」
もう一度、黒板のほうへ振り向いてから、北条は話を続けた。
「君らは、ウケるって言うよな、超ウケる、とかな。でも、ぼくらからすると、ウケた、じゃないのか、もう笑ったじゃないかと思うんだよ。なんでそれでウケるなんだ、と思うんだよ。テレビでお笑い芸人もそんなこと言ってるけどな。笑いが起こった、それを確定したい、査定が出たことにしたいというか、ウケるみたいな現在完了形のようななんだかわからない状態じゃ、いやだってことなんだろう。まあ、それを言うなら未然形なんだが」
そこまで言うと、また黒板に向かい、「主」、「客」と書いた。
「お客さんのことじゃないぞ。主体、客体な。
ちかごろはスクール・カーストなどという言葉が普通に使われる。まあメディアやネットで取り沙汰されるように固定的に存在しているわけではないだろうけど……。
しかし、批判しないわけにはいかない、国語教師として。まず言葉として見ると、これはインドだな。多分に宗教的な区分を含んでいるのに、単に上級の意味で使われてるな。まるで、テレビのハーフタレントが白人に見えさえすれば親がどことどこでもいいみたいな……。
そんなザックリしたものなのに、カーストと呼ぶのがまたいいかげんというか。
カースト、ウケる。キョロ充、あっち行けって言われない、くらいのことかと思うんだが。
ウケた、じゃないから、カーストは規定や秩序じゃない。まだ過去じゃない。日本では既成の事実にはなってないってことじゃないかと思うんだが、どうだろう。進行形というか流動的というか、距離の問題? 学校内では言っても、外じゃ言わないという意味でも。少なくとも人間同士のことについて語っているわけじゃないんじゃないか。
ウケるの違和感は、過去形、未然形のような時間の問題よりも、これも実は笑ったという事象は確かにあったけど、人については言及しない言い方から来るんじゃないか。笑いの事実は認めても、個人は棚上げされてるから、実感がない。
つまり、ウケるは連体形なんじゃないか。客体を修飾して言ってるが付属物の扱いで、笑いという現象はとらえても、笑わせた人、笑った自分は分離していたいってことじゃないかな。
そうすれば、笑わなかったときに、笑いという事象が起きなかっただけで、笑いの取れない人や、笑わない人と確定されない。しらけるという事態になっても、つまんないやつという規定はされないし、笑えなかった自分も笑いがわからないつまらない人ではないし、笑ってやらない冷たい人でもない。さらに今の場合は合わなかったが笑いのつぼが合わない同士ではないし、元から笑いの趣味がちがう、畑がちがうっていう最悪の事態は避けられる。次は笑うかも、と思える。だから、ウケたではなく、ウケる。
どうだろうね」
ウケる問題は治郎も何回か聞いたことはあった。テレビでよりもネットで話題になることが多い。
ネットはアレつまんねの言い合いだからか。
とは思ったが、それほど興味のない話だった。ほかの生徒も黙ったままだろう、黒板に書いてあるのがなんなのかはわからないが、こんな調子の話が続くんだろうと思った。
しかし、「はい」と、おもむろに挙手したものがいた。すぐに北条先生は佐藤を指差した。
「ウケるはいいんですけど、最後の文がおかしいと思うんですけど。報われなきゃおかしいですよ。天才なら」
「いや、才能は認めてるんだから。天才が陽の目を見ないこともあるってことだ」
「そういうこともあるじゃなくて必然みたいに言ってるのおかしくないですか。天才って言ってれば、変なことになってもしかたないみたいな、現実にはそうなるみたいな。今も起こってるからリアルなんで。ブラック・ライブズ・マターは、そういうことと連続してると思います」
食い下がるというより、淡々と佐藤は述べる。
自分から議論をしに行くようなやつだったかな、と治郎は思う。先生の話がウケてないって言わないな、と思うが、煽りとは思ってないし言いはしない。しかし、ほかの生徒たちは佐藤のあの激情的なサックスを聴いているから意外とは思わない。
「いやいや、才能は認めてる。黒人も成功してるだろ。そういうこともあるってだけだ。
これはロマン主義の定義をぼくがまとめたものだから。
十九世紀が主で、と言っても連綿と続いてるけど……」
「十九世紀? ならもうジャズは生まれてたんですけど。黒人たちが始めて、ずっと報われないってか、警官にやられるのは昔もあって、有名なセロニアス・モンクの弟子に当たる人が、障害が残るくらい殴られたんです。バド・パウエルって、こっちも有名な人です」
「すまんが、知らないな」北条も十九世紀末のフランスの暗黒詩人たちの例を挙げようかと思ったが、病気と怪我はちがうからやめた。
「佐藤、バドは電気ショックでやられたんだよ、決定的なのはそれだろ」白木高久が座ったままで言った。軽音楽部のデブだ。佐藤はちょっといやな顔をした。さっきのカーストの話のとき、ななめ後ろのこいつのほうをチラッと見た。
カーストと言えばインド、インドと言えばカレー。カレーはイギリスに行って、辛いスープになった。それを日本ではごはんにかけて食べた。スープは前菜だが、コースという考えには、主菜、副菜と言う概念はない。それらはメインではなく、サブでもない。日本ではカレーを主菜の欠くべからざる相棒にしてしまった。ザックリというか、大胆な受容である。そして、テレビのデブタレントがよく口にするのは「カレーは飲み物」というジョークである。さっき佐藤は、そんな複雑な目線を白木に送っていた。それで、やり返されたのだった。
「電気ショックか? 昔の精神科の? ああ、あれはひどいんだよ、日本の作家にもやられた人いたよ。まあ前からおかしな人だったから比べられないかもしれないが、なんていうか、科学が魔術みたいに信じられて時代だったんだろうな」
先生には目もくれず、白木は「麻薬のこと言わないとな」とさらに言った。
「麻薬なのか。佐藤、おまえ、なんか変な考えになってないか。音楽のためだからってそれは……」北条先生は渋い顔になった。
「ちがいます。クスリでトリップすればふだんは思いつきもしないような曲が浮かんでくるとか、ジャズにはありません。アドリブは最初から組み込まれてるんで、そんなもんに頼るのは論外です。音楽以外で麻薬でもやるしかないような状況だったってことです」
「普通にジャズは古くなって廃れただけじゃないのか。ふつうにクスリやるような連中がいなくなって、そんな時代じゃなくなって、だんだんと……」
「偏見ですよ。なんでクスリが必要だったか。どんな時代だったか。それに聴いてもないのに、売れてないってだけでジャズをそんなふうに言われたくないっていうか……」佐藤の分が悪い議論だとは治郎は思わない。
「まあジャズは知らないんだけど……でも海外だとすごい大物ミュージシャンも普通にクスリやってるみたいだし、死ぬ人もいるしな。忘れた頃にニュースになるよな。クスリをやっては繰り返す。そのパターンではないのか?」
「クスリをやる人もいたけど、完全に断った人だっていたんです。今でもどっちもいる。クスリの危険と同じくらい、黒人が死ぬことが繰り返されてます。それでまたデモだ、また暴動だってなる。鎮圧する。やっぱりまた黒人が死ぬ。またデモや暴動になる。また鎮圧。また黒人が死ぬ」
「同情はするが、少しずつでも改善してると思うけどな。こうして日本の高校生も知ってる。BLMもネットで世界中に広まってるんだろ」
「前提として浮き上がれないのがおかしくないですか。つぶされるのは目の前のことだけど、そういう力だけじゃなくて、上に行けないのは、秩序のようになってるんじゃないですか? 不幸になるような仕組みがあるせいなのに、不幸なのは可哀そうって、報われないけど天才だから、みたいな。仕組まれてることをもうどうにかしてくれって思うのは当然だと思うんですけど」
「え? それだと黒人も秩序に参加させろって話になるが? 自由の前に秩序を、じゃ退化というより黒人に対して酷だろ」
佐藤は首を横に振った。
「自由って書いてあるじゃないですか。それでいいのに前提にすら立てない。じゃあ、白人は法を守れってなる。白人が秩序を持て。犯罪者が相手だからって警官が現場で死刑って決めるな」
私刑のことを死刑と言ってるんだろうな、と北条にも察することはできたが、
「力を欲しがってるみたいだし、それに才能あるやつは殺すな、だとそれも差別だな」
「そんなこと言ってないですよ。やっぱり前提がおかしいんですよ。
自由になるためにまず秩序を求めなきゃならないのが矛盾なら、自由は普通には得られないものになってる。そんな状況でも自由を得た人は、黒人を殺す自由も手に入れていいんですか。
じゃあ、情念よりも理知で、デモはともかく、暴動は理知的じゃない。暴動になるのはまちがってます。普通にそう思います。
でも、同情はする。損得は補わなければならないが、けど黒人は黒人のままでいろ。利害の対立は可哀そうというより、能力の違いだから、報われなくてもそれなりに生きろ。素敵な涙を流せ。
そりゃ麻薬でもやんなきゃやってられないでしょう。
黒人たちは第一次世界大戦でヨーロッパに派遣されて、そこで初めて人間扱いされたんですけど、それで戦争はすばらしいってことになるんですか?」
「結論だけ揃えても意味ないよ。すばらしい、が皮肉になる状況では、諷されるほうは優位にいるままだ。
前提にあるものならすべてが基準になるわけではないから。進歩はそのように決定づけられていない。進化なんだから」
「ジャズこそ進化するもの、自由なものです。白人にもいち早く開かれたジャンルです。でもダメだった」
「インストだから有利だったろうな。レコードの時代、音だけの時代で、黒人も白人も参加できたんだろうな。映像の時代になって、マスコミを経ないでネットで簡単に触れられるようになってもまだやってる人がいるのはやっぱり進歩なんじゃないか? ジャズ風というのもよく聞くし、手法としてだが生き残ってるんじゃないか」
先生がサンプリングなどの技法的なことを言ってるはずはない、と思いながら佐藤は、
「進歩が来る期待がもう消えかけてるのかもしれないです。ジャズが売れなくなったのもそうなのかもって思ってます。差別のない時代なんて来るんですかね? 来ないものを待つのも、始めからつぶされるのも同じ。絶対に来ない永遠て、地獄じゃないですか。ずっと地獄で、これからも生きろってこと?」
こういう表現はルイ女と併設になって以後のことかもしれないと、北条はちらりと考える。
「ロマン主義って甘い夢みたいなことを描くことじゃないから。そうだな。ジャズミュージシャンたちがアメリカの外の世界に行って初めて自由を感じられたのなら、日本の高校生がこんなに考えてるってことも、良い変化の証にはならないのか」
「日本にはいじめがあって、いじりと受け止めて笑え、みたいなことをやられてるほうが言われるけど」
「いや、問題を小さくしないで考えよう。笑いを取った人が取ったと思えないなら、笑い者だ。そんなのカネもらってやることだよ。カネ以上のことがあるから、無料でもテレビを見る人は減ってるんだろ。
続けよう。クラシックだけど、アウシュビッツで生き残った音楽家のエピソードがあったはずだ。ユダヤ人収容所の高官が自分が聴くために囚人の音楽家を殺させなかった。一方で何千人もガスで効率的に殺しながら、音楽を聴くのはやめなかった。たしかキリスト教の神父が、ほかの囚人の身代わりになって先に死んだこともあったはずだ。先に死ぬ代わりがなくとも音楽家は生き残った。そしてそのユダヤ人は戦後まで生き延びた。
ナチスさえ感動させる。そういう力が音楽にはある。
地獄のような状況でも、そうやって生き延びることもある。やがて、自由になれる日が来ることを信じてれば、だんだんと時代は進んで、殺し合いもなくなるんじゃないか」
「それこそ結果論です。そんなんで生き残ってうれしいミュージシャンなんていないと思います。たぶん生き残っても下手になってたと思います。そのナチスのやつのお気に入りだけをプレイリスト再生みたいに自動的にやってたんでしょう。技術はみがくもので、生き残るための保険じゃないと思います。
収容所の外でもまた音楽ができる、また聴けるってなって喜ぶのは、ナチスのほうじゃないですか。世界が変わって殺される側になったから。
そうならないとわからないんじゃないですか。
技巧よりも自然、楽しさってふたつあるけど、楽しくはないですよ。たとえ弱肉強食のような世界を生き延びたとしても、それで技術の進歩があったとしても絶対うれしくない。むしろ怨恨は情熱のように残るかもしれないけど」
世界が変わった、というのは確かにその通りで、北条先生も次の言葉を考える。
説明だけなら簡単だ。自然とは人工的でないことだ。楽しさは、うまくやることより、へたでも楽しくということ。
自然を、本能で説明してみようか? 生き残りたいというのは自然な感情だ。
それともナチスの話を広げてみるか?
ネットでよく目にする、ニーチェのアフォリズム。
「深淵をのぞくとき、深遠もまたこちらをのぞいているのだ」
なぜネットで特別に好まれるのかはわからないが、この場合はぴったりだ。
しかし、ニーチェの肝はそこではない。
主観は統制されている。自分の考えだと思っているものが、実は他人の考えをそう思い込んでるだけというのはよくあることで、これは真理だ。ヨーロッパ文明の根っこにはキリスト教がそういうものとしてある、とニーチェは言う。しかし、それをそのまま日本の話にするのでは、マスコミが慣用句のように言う「心の闇、白人の」と変わらない。
哲学でなく、世界文学として読んだ場合の話をすべきだ。
「例えが悪かったか。でも、実際、変化はしてることもある。文学もロマン主義以後、進化したし発展した。十九世紀になると自然主義が来る。科学を道具として扱える時代になる。さらに二十世紀にはジョイスもプルーストも出てくる。神話は、未知のものを既存の世界観のなかに統御するための便宜的な説明のレベルから、不可知なものであっても比喩として表現すればひとそれぞれに伝わる手段になった。ロマン主義も、個人主義からより高い次元に行ったと言っていいと思う」
「個人名がわかりません。たぶん有名な作家とかなんでしょうけど、モンクより無名だと思います」佐藤は、ちっとも悪びれず言った。
モンク? さっきも出たような? モンク?
北条がこの日もくろんでいたのは自然主義の批判であった。現在でも主流をなす、このクソ真面目で笑いを忘れた文学傾向は、早くから批判され続けている。舶来品のまちがった移入であったことも言い尽くされている。それでも、これが日本では文学なのだ。ここが目指すべき純文学だ。巷にあふれかえっているのが別のものだとしても、それらはまがいもので、本物とは稀少なものだ、という話になる。
世の保守的な風潮と合致しがちなことが悪循環となって、文学には本来の理想の姿があるようなまるでマルクス主義のような言い草が、矛盾とも思われず通用している。保守的な発言をすることも文学の本来の姿である。なぜなら、小説家とは和服を着るものだから。チャンチャン。じゃないのである。本気で言ってるらしいのだ。
和式便所を使ったことがない、いかな高校生といえどこの手のうさんくさいものにはだまされないはず、とは北条も思っている。テレビに出ている、先生と呼ばれている予備校講師がこの若い視聴者の間ではひょっとこ呼ばわりされてるのは知っている。
しかしこれもよく言われる「幼児の全能感」にも似た、我執に満ちて、しかもそれを正当化するような表現方法は、この年代の生徒たちには甘い毒となるだろう。
自分が書いたことは集約であるが、まとめ記事のように手っ取り早く流して見るようなものではないと思っている。どこかの部分に喰いついたなら、こちらもやり返す。佐藤の意気込みを否定するつもりはないが、知識の差による行き違いではない何かがありそうだ。むしろ、自然主義に毒されていない世代なのか。
基本的な認識を作り直すという、悪の結託をやってみるか? 明らかに自分が優位の上で正すのだから、その自戒は必要だろう。でも、まだ喰いついてくるだろうから、いいほうに展開する期待もある。
と、思っているうちに、授業の終わりの鐘がリンコンカーンとなったのだった。昼間からビシッとした議論だった。次か。忘れず勉強しないとな。
佐藤は立ったままで、クラス委員が号令をかけて皆が立ち、挨拶をした。
アドリブを吹き終わったような顔で、佐藤は座った。