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戦場の日々 2  作者: 諭吉
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戦争の無い平和な世界が実現する為

暫く走るうち、小隊長のすぐ後ろを走っていたので小隊長が倒れてる兵士を飛び越して行ったのに気付かず、自分が躓きかけたので振り返って見れば、戦場で汚れてはいるが日本兵の軍服で友軍の歩兵ではないか頸、胸部に数弾受け口から、鼻から鮮血の泡を出して、今にも息絶えんばかりだ。

その姿を見たとき、思わず目頭が熱くなる、躓いたことに「すまぬ、赦せよ」と詫びて小隊長に続いて走った。

一抱え程ある大きな木が一本ある陰で、二人の歩兵が腹這いになってエンピで穴を掘っている。

小隊長が二人に「敵情はどうだ」と聞くと「どうか知りませんが、弾だけはよく来ます」と答える。

自分も「来ますね」と言えば「来ますよ、この先が狙われてますから危ないですよ」と答える、よく見れば二人は傷ついて動けぬのだ。

一人は大腿部を、もう一人は手首を三角巾で吊るし鮮血が滲み出して布を染めている。

自分は驚いて「やられましたか」と言えば「畜生からやられたです」と顔をしかめて笑っている。

全く気の毒だ、この負傷に対して初期の手当てのみで塹壕を掘らねばならないとは。

「気を付けてやれよ」と言い残して二人で走って前進した。

また一つの木立の下を出て百メートルくらい走ったろうかと思われる所で「良し、此処で良かろう、此処から見るぞ」とのことで自分は線路上に砲隊鏡を整置した。

敵の小銃弾は何処から来るのか解らぬが来る、来る雨霰の如くと言うが全くそんな感じがする。

何しろ何時、敵の銃弾が自分に命中するか知れぬので今か、今かと心配になる。

ところが小隊長が「此処では観測は出来ん、少し下がるぞ」と言われるや走って行かれる、自分も整置した砲隊鏡を左手に持ち、右手に嚢を引ったくって木陰の下の所まで走って行く、此処は余り弾は来ないようである。

再び線路上に砲隊鏡を整置し敵情を偵察する。

先ず眼鏡に写ったのは四~五百メートル前方の線路を右から左側に盛んに移動している人達、中には黒い着物を着た農民の婦女子まで見える。

さらに担架に負傷者を乗せて移動しているのが幾つも見える。

自分は最初は突撃のため展開していた友軍歩兵の前進と思っていたが、少し様子が変である。

友軍の中での支那農民の婦女子はおかしいと思い、よく見れば兵隊の背には、日本農民が簑を着るときに被る笠を背負っている。

敵に絶対間違いない自信を得た、また左前方五~六百メートルのクリークの中央に見えている小さな部落を見れば、家の壁に銃眼を設けてチェツコで激しく此方を射っている。

時々、部落の中を移動する敵兵を認める、これ等も詳しく小隊長に報告する。

敵を偵察中に中隊長が到着される、宮田曹長も自分の後ろに立って「敵は何処にいるんだ」と立ったまま尋ねるので「立ったままでは、狙われるから危ないですよ」と言えば「そうか大事に、大事に」と腰を屈める。

だいたいの敵情を知らせれば、曹長は小さな眼鏡を出して眺め、敵の負傷者が担架で運ばれているのを見て盛んに喜ぶ。

「やられた」と誰かが後ろで叫んだ。

振り返って見れば高場一等兵が青くなっている「何処だ」と皆が見れば、幸いなるかな銃弾は胸の乳の所を真横に貫いて軍服は鈍刀で切ったように「ばっかり」と口を開けているが、かすり傷さえ受けてないのだ。

高場一等兵は「敵の銃弾を受けた時、痺れたような衝撃を受けたので、その時はすっかり殺られたと思ったので叫んだ」とのこと。

皆、戦友の無事を喜ぶとともに「殺られた」と言って、殺られてなかったので可笑しくなって笑う。

数ミリの差が生死を別ける現実に人間には目で見ることが出来ない宿命を背負っているように思えた。

その時、何処から現れたかフロートを付け、日の丸を銀翼に輝かせた海軍機が上空を旋回している。

「フーッ」とプロペラの音も微かになり地上に真っ逆さまに落ちてくる。

墜落かと思い冷や汗をかけば「ウォーン」と変な唸りを上げて真上に機首を上げ上昇して行く。

見てると鉄道線路の左側に密集していた敵の真っ只中に「ドカーン」と中天に火柱を上げ、大地も裂けるかと思う大爆発音を上げる。

再び上昇した海軍機はまた、急降下し「ウォーン」と変な唸りを発して上昇し、その時また物凄い爆発があった。

敵兵は木っ端微塵に吹き飛ぶ、遠くにいる敵は蜘蛛の子を散らすが如く逃げて行く、自分は砲隊鏡でこの光景を見て胸がすーとする。

我々も後方砲車陣地との電話連絡が出来るようになる、自分が観測し報告した目標に向かって、中隊長より号令は次々と下され、通信手の伝達で砲手に伝えられ砲撃する。

自分の頭上を「ヒュル、ヒュル、ヒュル」と砲弾は唸りを上げて通り、敵陣地に落ちてゆく。

「ドカン、ドカン、ドカン」と屋根が吹っ飛び、地上では土煙を上げ、クリークに落ちたのは水煙を高く上げている。

何処から来るのか知れぬ我が砲弾に敵は狼狽し右往左往逃げ惑っている。

我らの砲撃で歩兵は稲田の中を容易に前進して行く、部落の端では日章旗が振られているのを見て、今度は線路側の敵を砲撃する。

飛行機が帰るのを見て、敵は安心して藁などを被ったままで集結している。

そこを狙った我が砲弾は「ヒュル、ヒュル、ヒユル」と唸って行き、ものの見事に敵の中で真っ黒い土煙を上げて「ドカン、ドカン、ドカン」と続けざまに爆発する。

慌てる敵は。死傷者はそのままにして逃げて行く。

機関銃の一個分隊が我々の援護に来てくれた。

中隊の観測班も到着、大隊長も来た。

線路上には、だいぶ多くの人が集まったので、何処からか知れず盛んに敵銃弾が飛んで来る。

自分が砲隊鏡で観測していたら「パン」という音と同時に顔をいやというほど「ビシー」と打たれた「ハッ」と思って見れば、顔の下に落ちた銃弾が小石を弾いたのだ、本当に危ないところで宿命を感じた一瞬だった。

この銃弾は前方四~五百メートル先の竹藪の中の部落が怪しいとのことで、今までは軍服も友軍の色と同じで、動作も似ていたので正面から来た友軍の歩兵が進出しているのだとばかり思っていたが、懸命に観測してると部落からの伝令であろう、二名が出ていくのを見れば友軍の背嚢と色合いが違っているので、その事を中隊長に報告すれば大隊長が「覗かせろ」と言って、自分が見ていた砲隊鏡で見る。

自分は近眼なので大隊長とは視度が合わず、大隊長から「こんな目で観測手か」と皮肉を言われたが、大隊長も砲隊鏡で見て安心して砲撃を開始する。

砲弾が「ヒュル、ヒュル、ヒュル」と唸ってゆく、唸ってゆく時の気持ちよさ、胸が「すーと」とする。

「ドカン、ドカン、ドカン」と竹藪の中の部落は砲弾の土煙に覆われてしまう。

この正確な砲撃に敵はいたたまれず

総退却を開始する。

四~五十名づつ固まって左の方へ稲穂の中を移動している、砲口は次々に逃げる敵を追って左に向ければ逃げて行く敵の身辺に落ちて、敵の慌て方は走る奴、土手に伏せる奴様々だ。

この状況に宮田曹長が茶目っ気を出して、歩兵の銃を借りて逃げる敵兵を射つ。

皆、お手並みを拝見すべく、眼鏡で眺めているが余り手応えは無さそうだ。

ここ数時間の砲撃での敵の沈黙を見て、観測班は左前方の一軒家に前進する。

途中、線路を越す時、日本兵の五~六名の戦死者が硬くなって横たわり顔には手拭いが覆ってある。

我々は斃れている友軍の勇士に目礼して前進し、自分は一軒家の屋根の上に登り観測する、敵の銃弾は時々しか来なくなった。

眼鏡で見れば、稲田の中を見えつ、隠れつして逃げて行く敵に数弾砲撃して中止し、陣地を撤収し舟の所に帰る。

再び舟で出発し鉄橋を潜って進む、ふと見れば歩兵部隊が陸続として来ている、この部隊の兵力を見て随分日本軍もいるものだと感心する。

我等の舟が大きなクリークに出て見ると、友軍が大きな木船を何隻も分捕っていて、積み荷は敵の兵糧米であるとのことで兵隊が乗り込んで盛んに南京米を川の中に放り込んでいる、戦争でなければ見られない光景だ。

大きなクリークから小さなクリークに入る。

ここで歩兵四十七連隊が先進し過ぎて、敵に包囲されているので野中少尉が一門の砲を率いて援護に向かい別れる。

満潮で容易に進んでいた舟は干潮に変わったので、また舟を引っ張らねばならなくなる。

夕方、日の落ちないうちに某地点に陣地を築き敵情探索すると松江なる町が空爆を受けて火災を起こし、火煙が空を覆っているのが彼方に見える、が敵影は見えず、友軍が稲が実っている田圃の中を前進しているのが眼鏡で見える。

此処では誰もいない近所の民家に入り、竈で夕食の準備をしていると、連隊本部の堺中尉が軍刀を右手に下げて息を切らして帰ってきた。

何でも松江の手前のクリークで兵三名と乗っていた小舟に敵の空爆を受け一名は戦死、一名は重症とのことで、直ちに救助に行く。

我等は夕食を終わり出発を待っていると、土手の所では先刻の戦闘での戦死者、二十数名を多くの戦友の手

に依って葬っている。

煌々たる中弦の月は中天に上がり、秋深き松江の平野を照らし、黄葉したポプラは大地に長く影を落としている。

埋葬している戦友のエンピが月光に光り、土は円く盛りたてられ、何処から持ってきたのか各墓には花一輪が手向けられた。

連隊長が、微かに揺らぐ線香を各墓前に捧げ、頭を深く下げられ暫くは頭を上げなかった。

部下を亡くした隊長の心情は如何ばかりであろうか。

此の戦いが終わっても、場所も知れぬ遠い異国の土手の墓標に、誰が再び線香を手向ける人があるだろうか。

舟中、我等は惜として声なし、起立して舟中より勇士達の冥福を祈る、

深い深い悲しみは全身を覆い「眠れる勇士よさらば」と櫂を取り進む。

我々は再び敵を追撃しなくてはならないのだが、月下の舟の中は寂として誰も言葉が無かった。

戦闘は別にして、こんどの行軍も楽ではないが北支の苦労と比較すると、面倒千万な馬に煩わされず、舟中では遠い故郷の思いに耽り、戦友とは尽きぬ話が出来た、他の家に客にでもいった様な気分だ。

その夜は途中でクリークに舟を繋ぎ、誰もいない民家で宿営する。

第一線の戦闘で多くの戦死、負傷者を出した長い、長い一日が終わり、夜の寒さに焚き火をして、何時しか深い、深い眠りに落ちる。

出征から、ちょうど三ヶ月経った十一月十一日、末安一等兵から起こされて目覚めれば午前六時にいくばくもない。

馬がいないので馬の世話をしなくてよいので、其のまま舟に行って櫓を漕げば良いのだ、慌てて身支度をして家を出ようとしたら、入部上等兵の靴が昨日濡れたのを焚き火で乾かしたので、カチカチになり少し小さくなったとみえて一生懸命で履いているが、足が入らないのだ。

自分も懸命に引っ張って加勢して漸くのことで靴に足が入った。

外は未だ真っ暗で星が空に瞬いている。

舟は出発するのを待ってくれていて

、小隊長から散々に叱られた。

夜が明ける頃、陥落して間もない松江に入る、家には人の気配は無く、戸は堅く閉ざされている。

さらに進んで行っていると、街角から逃げ遅れた支那兵が血迷って出てくるので、舟の中から射てば距離も近かったので見事に命中し倒れる。

狭いクリークに入り込み進んでいたら舟の底がつかえた。

そこで舟の底に積んである石灰の袋を捨てる、濛もうと石灰の埃は喉に咽んで苦しかったが舟は軽くなった、けれど干潮になり水位が下がった為、舟は動かず。

満潮にならなければ舟は動かないので上陸することになる。

上陸して町を見れば、空爆された家は跡形もなく吹き飛んで見る影もない。

建っている家もガラスは風圧で壊れていて、瓦も同じく風圧のため並びを変えており、町の半分は空爆による火災で焼け跡と化し、今尚焼け続けている。

全く惨憺たる光景だ。

我々は悪路での行軍だった為、後方の補充部隊との連絡が全然取れてないので、食糧は全部が現地調達だが、此の地方は北支と違って砂糖、醤油、米があるので助かっている。

その夜は城内に入り宿舎を取る、近所に大きな支那兵の兵舍があったので行って見れば、汚い兵舍は雑然としていて、広い庭内には地下道を掘って逃げ道が作ってあったり、庭内に散乱していた服の中に写真機を見つけ、手に取って見れば松江図書館の印がある。

戦乱に紛れて略奪したけれど、我等の進撃が急で逃げあわせず服が捨ててあるところを察すれば写真機どころではなく逃げたのだろう。

アメリカ製の相当なものだったので持ち帰ったが、フィルムが無いので写すことが出来ず捨てた。

松江では悲惨な事を多く見た。

三十二~三歳の夫人が流れ弾に当たって倒れた夫の死体に泣きついている、また家が火炎の中で天井にも炎が這っている中に、赤ん坊を抱いて椅子に腰掛けて口には泡を吹いて歌っている二十歳ぐらい母がいたので、自分は飛び込んで引き出さんとしたけれど頑として動かず、引っ張っても目は天空を睨んでいて動かない、天井の板が焼け落ちてきたので慌てて飛び出したが、女は火に包まれてしまった。

また橋の上から子供を抱いて飛び込む女の人の姿も遠目に見た。

全く地獄絵図の中にいる様で、その夜は何だか涙が浮かんで眠れなかった。

十一月十二日 上海方面の敵将校七名が軍使として来たとの情報が入る、何でも相当の部隊が投降してくるとのことだ。

約二千人の投降兵士の武装解除をし

、解除した支那兵は解放したとの事。

この解除を見てきたと言う中隊の者もあり、山川少尉は解除した際、拳銃を貰って来たとのことだ。

自分は解除のところを見ることが出来なくて残念でならなかった。

遅れて上陸した馬が夕刻に着くとのことだが馬糧が無いので馬糧の徴発に出る。

途中、道で歩兵部隊に会ったので故郷を尋ねれば「俺は玖珠の者だが」と言う。

顔を見れば色は黒く髭は伸んで、長い戦いで人相はだいぶ変わっているが、子供の時の面影が残っている。

小学校の同級生だ、学校を出てから同級生は遠方に働きに行ったので忘れていたが、祖国を離れて遠い異国の戦地で会うとは夢にも思わず、懐かしくて忽ち小学校時代の友情に返る。

今まで、戦場で経験してきた幾多の話は尽きることを知らず、お互い路傍に立って話す。

同じ戦線にいる同級生の現状を知る、一人は負傷し病院にいる、一人は戦死し、ある者は頸部を貫通したが、今は元気で戦線にいるとのこと。

彼も保定戦で銃弾が足を貫通したが「今は、このとうり」と元気な足を出す。

同級生も行軍中であり、自分も任務を有する身であるので長く語ることは出来なかった。

「同級生に会ったら、よろしく言ってくれよ」と頼み、御互いの健康を祈って別れる。

夜、馬は到着した、馬と一緒に来た者の為に出来るだけの御馳走を作って出した。

御馳走と言っても野戦場での男の手料理なので大したことは出来ない。

馬が来ると朝夕は馬の世話で目が回るほど忙しくなる。

馬に乗っての行軍中は良いが、戦闘中は忙しいので馬の世話が嫌になる。

我等が町の中を歩いていると、先日武装解除し解放された支那兵が食糧に窮し四~五人で誰もいない家の中をあさって歩いているのに出会う、我等の姿を見ると鼠の如く姿を隠す。

我等が先回りをして行き、出会うと又逃げよぅとする。

昨日は敵であっても、今日は降伏して武器を持たない者に何の危害を加えよう、笑って手招きすれば我々の顔を見て恐る恐る近づいて来る。

「君達は食糧は無いのか」「君の歳は何歳か」とか「君には妻がいるのか」と知っている限りの支那語で簡単なつまらぬことを尋ねる、難しいことは我等には話せず。

十一月十五日 まだ真っ暗な中、舟に着き準備を終わり、出発を待つ頃には夜は白々と明け始める。

原隊にいた時の教官であった大隊本部の池知少尉が北京で買った写真機を持っていて、私を写してやろうと言うので、自分は硬くなって焼け跡に立ち一枚撮って貰った。

だが、その写真は未だ貰えず。

十時頃には水路を出発する、大小のクリークを幾曲折かしてクリークを進行中、干潮で全部の舟が動かなくなる、やがて潮は満ちて舟は進む。

途中、見れば農民が此の戦闘の中でも働いているが、我々の姿を見ると逃げて行く。

金山まで行くはずが途中の小さなクリークで折からの干潮でまたしても座礁する。

やむを得ず、月が地球を回転して満潮になるのを待つことにした。

満潮になるのを待つ間、近所の農家で炊飯しようと行くと、農民の一家であろう老若男女が二~三十人も出て来て、異国の兵隊を珍しそうに迎える、だが顔にはありありと恐怖の色が現れている。

この地方は大家族主義とみえて、大きな家の中には幾棟にも分かれていて竈も多数あるので、その一つを借りて小隊全部の飯を竈で炊く。

この家の十七~八歳くらいの娘と、七十に近い婆さんが、なにくれとなく世話をしてくれる。

戦場に於て女というものは北支戦線では見たことも無かったが、こうして会うのが珍しく、竈の前で綺麗な顔、長い髪、横の切れている美しい支那服を竈の火の光に輝かしている娘の側で、鉛筆とノートを持ち込んで話し込む。

相当のインテリであり、支那の女性としては相当モダンとみえてはき、はき答え、達筆な字で書く。

何でも、松江の町にいたが、この度の空爆でいたたまれず、此の地に避難したとのことで、学校は今なお専門学校に在学中とのことである。

娘に蒋介石を如何に思うかと尋ねると「打倒、蒋介石」と書く。

異国の兵に蹂躙されては蒋介石を怨まざるを得ないであろう。

良民は、我々の敵ではないので「君も我等と同胞だ」「ミンパスか」と言えば首を縦に振り頷いてみせる。

蒋介石の排日運動が支那事変になったのであるから、蒋介石を倒しに来たことを再三説明する。

簡単な単語では以上の事しか語り得なかった。

彼女も日本について意見はあったかも知れないが、武装した我々を見て無事を願って、何も語らなかったかも知れない。

彼女からは日本については何も聞けなかった。

その家で夕食を摂る時、彼女が各人に卵を一個づつご馳走してくれた。

夕食も終わり「謝謝」の言葉を連発して舟に帰り、皆ひとかたまりになって蒲団を被り、天上に煌々と光る月を仰いで眠りにつく。

寒さで目覚めて、見れば舟は浮き始めている、満潮になったのだ。

十一月十六日 午前八時に出発、澄み渡る大空のもとで実り豊かな秋の光景のクリークで櫂を取る、舟での行軍は、又楽しからずやである。

我等は全く馬の世話の心配が無くなり、食事は舟を交代で漕ぎながら、舟の中で携帯用の竈を据え付け、舟べりの水を汲んで炊事をするのであるから楽なものだ、北支で水捜しで苦労したのが嘘のようだ。

戦闘中の事なので自由はならず、制限あるので、綺麗な水を遠方から持ってくる様なことは出来ない。

川では米を洗ったり、野菜を洗ったり、放尿してる水で炊事するのである、北支みたいに水や食糧にもあまり困らず、北支の苦労の半分である。

しかし舟を漕ぐのは相当骨折り、手には豆が出来だし、干潮の時は陸から縄で舟を引っ張らねばならない苦労が無いではないが。

目的地に午後五時半着、そのまま待機する。

その辺りにはクリークの中に島があり、水面に高いラマ塔と空の白雲が共に映っていて美しい眺めである。

二中隊の同年兵と会う、彼が言うには「昨日、この地の手前で戦闘があり、この町は今日陥落した」とのことであった。

陸に上がって町を歩いていると、友軍歩兵が装具を何れの家の前にもいっぱいに下ろし、戦闘の疲れを取っているが、決して寝ているのではない。

敵弾下で飯を炊くなんて想像も出来ない事で、戦場に於ては飯食わぬは常である、寝食を忘れて敵弾下を命懸けで走り回っているので、戦闘後に暇を得れば何は置いても食事が唯一の喜びである、見れば皆、炊事に忙しそうである。

町は兵隊ばかりで一杯だ。

町の外れに大きな発電所があったのて行ってみると、火力発電所で自分達より大きい機械が五~六個据えてあって、全部今まで動いていただろうに、今は眠ったように静かに横たわっている。

夜は舟の中で露営する。

夕方から曇り始めた空は、明け方近くは秋雨となり、我等の顔を打ち軍服を濡らす。

寒くて、到底舟の中で安眠と言うわけにはいかない、震え上がって近所の家の所に行き、火を焚いて暖まったが既に遅く寒さは容易去らなかった。

自分はついに風邪を引いて南京攻略が終るまで良くならなかった。

夜明けには本降りとなり寒さは一層身にしむ、この状態では舟の中にじっとはしておれないので、皆で屋根を作る。

忽ち、ムシロの屋根が出来上がる。

十一月十七日、午前五時、辺りはまだ暗い雨の中に出発準備をして待っていると、夜が明けた頃、出発命令が来る。

歩兵、山砲を以て形成している水上挺身隊は数十隻の舟に乗り、櫂を操り出発する。

向かう所には敵はいなくて雨の中を突き進む、その夜は何処に宿営したか記憶にない。

十一月十八日も敵影を見ることなしに水上を「ぎっこ、ぎっこ」と漕いで進む。

時たま通る町は、岸には家が並んで建ち、その光景は水都さながらでベニスもこんな光景かなと思う。

夜には星、月、夜灯が水面に映る。

このクリークに小舟を浮かべて両岸の家の窓から漏れる幽かな光の中に、月を仰いで彼女と恋を語ったら、どんな気分だろうかと思う。

数多くの眼鏡橋を潜る時は、水面に映った美しい眼鏡橋の影を舟は乱して進んで行く。

午後であったと思う、大きなまジャンク二隻を支那兵が一生懸命に漕いで行くのを見つけ追走する。

ジャンクは遅いので何の苦もなく追いつく、我等の舟の舳先にいた一人が横付けするや、身に一物も持たずにジャンクに乗り移っていった、全くこの無謀には驚いた。

敵の中に無防備で行って、どうするのであろうと思っていたら、怒鳴り散らし手には早くも船上にあった棒切れをにぎっている。

支那兵は気を飲まれてしまって、為すところを知らず茫然と立っている。

彼はこうして一人で舟中にいた七名の支那兵を捕虜にしてしまった。

無手で此の収穫をしたので、各舟の中から笑い声や拍手が起こる。

二隻とも分捕ってみれば、舟底には相当量の弾薬を積んでいたので火を放ち爆破して、我々は再びクリークを進む。

クリークを漕いで進んでいると、連隊本部が何処で徴発したのか小さな蒸気船に途中から曳航されて行く。

今まで工兵の発動艇の舟に追い越されてゆく時、全く癪でならなかったが、今日は櫂を握らずにすむのかと思うと嬉しかった。

二~三時間、多くの舟と共に曳航されていたが、小さなクリークに入り

到底曳航は困難となり再び舟を漕ぐ、夜になっても止まることなく前進する。

暗闇の中なので舟の姿は見えず、蛍の光の如き舟の灯の後を追って行く、枝道が多いクリークなので漕ぐのを緩めて舟の灯を見失ったら最後、はぐれてしまい大変な事になるので懸命で交代で舟を漕ぐ。

湖のような広い所も通り、眼鏡橋もだいぶ通った。

眼鏡橋潜りは今まではほとんど通過してきたが、今回は舟に屋根を付けたせいか、ぶつかる眼鏡橋もあり大変だったが、途中で歩兵の伍長一名、兵三名が「舟に乗せてくれ」と言うので、喜んで乗せると、その重みの分だけ舟は沈み、難なく眼鏡橋を潜る。

今朝作った屋根の中で夜風をしのぎ、ローソクの光に顔を照らしながら不意の客と語り合う。

聞けば中支に来るまで、北満州の国境で守備隊についていたそうで国境の紛争事件などを話してくれ、我々には珍しい話しばかりだった。

締まった口元、沈着な目、自分は十年来の知り合いの如く親しさを感じたが、間もなくして御互いの健闘を祈って別れた。

夜の十二時過ぎに某町に着く、何時ものようにクリークに舟を繋いで宿舎に入る。

宿舎は精米所で二~三馬力くらいの発動機があった。

この発動機を我々の舟に据え付けて進む方法が無いものかと、思われてならなかったが、如何にせん材料も無く、知識も無い我々にはどうしようも無かった。

十一月十九日 朝早くより準備したが、昼食が終わって午後一時頃よりクリークを出発、この日は日が暮れても前進する、夜七時頃某部落に着き、夜はそのまま舟の中で明かす。

十一月二十日 静かに夜が明ければ、今日は雨がしと、しととクリークに波紋を描いて降っている。

出発命令は来ず「夕方から出発して夜行軍かも知れぬぞ」と私物命令など飛ぶ。

皆が一番心配しているのは早く前進して、南京城を一刻も早く陥落させたい一心だから地図を見ては、今日はこの地点まで来たので後何十里、一日一里づつ前進して何日頃は陥落と指折り数えて何時、南京城が陥落するか心配している。

一日一里か二里の前進では誰も気が気でない。

歩兵部隊は朝から戦闘を開始して秋雨の中、銃声は絶え間なくひびきわたっている。

この日はついに暮れる、このように敵が頑張っていては南京城は遠い、遠い場所になったような気がする。

十一月二十一日 午前五時起床、準備をして夜が明け始めるや、一線歩兵部隊との連絡に小隊長と二人で行く。

舟には四人ぐらいしか乗れないので、小隊長と私と支那農民で舟の漕げる者を二人ばかり乗せて漕がせる、舟が小さいので舟足は他の舟より非常に速い。

途中で舟を捨てて上陸し陸上を前進する。

辺りには友軍の人影は無い、敗残兵に狙撃されてはたまらないので四方に目を配りつつ前進する。

連隊本部に至り命令を受ける「第一線大隊に協力せよ」との命令だ。

我々、四名は第一線大隊本部に連絡に行く。

愈々、第一線だ、時たま頭上を銃弾が「ヒュー、ヒュー」と通過し始める。

前方に高地が目前に見え始めた、その高地から見下ろしの、この道の両側は湖水になっていて、この道のみが第一線大隊へ通じる唯一の道なのだ。

だんだん敵銃弾の唸りが激しくなり、水面に水煙を上げて「プス、プス、プス」と音を立てて落ちる。

路傍の石の前に雨の中、死んだ如く倒れている兵隊がいるので「やられたか」と尋ねると「いえ」と言って笑っていた。

前進するに従って敵の狙うところとなり、チェツコ弾が「ピュー、ピュー、ピュー」と来たと思うと「プス、プス、プス」と間隔をおいて水の中に落ちてゆく我々、四名は土手に伏した、だが如何せん山の上から射つ敵に対して、我々の姿を隠す方法は無く丸見えなのだ。

前進が止まって伏している我々、四人を見て益々激しくチェツコで射ってくる。

自分の身辺にも「パシー、ビュー、プス」と土に落ちたのは泥しぶきを、水に落ちたのは水煙を上げて落ちている。

第一線大隊の前線の様子は如何にと見れば、土手の上には大隊砲があるが一人も兵士がいないのだ、大隊砲兵士は全滅したのかなと頭をよぎった。

いないと思っていた兵士は暫くしてから土手の下から這い上がり、照準して二~三発砲撃して土手を降りてゆく。

その時、我々四人の側を走って通り過ぎようとした歩兵が「ウーン」と唸ったと思ったら、バタリと倒れた。

見れば息絶えている、心臓をやられたのだろう。

敵に丸見えなので危険だが、四人には命令された任務があるので、第一線大隊本部まで這ってゆく。

這っても敵の射界にあるので、白い道より草のある土手の方が幾分でもカモフラージュ出来て良いだろうと思っていると、池知少尉の腹部に銃弾が「パチッ」と来たと思ったら、泥しぶきが上がり、くるりと返った少尉の顔が青色だったので、自分は少尉がやられたと思い「やられましたか」と尋ねれば「何でもない、大丈夫だ」と笑っている。

斯くして、ようやく大隊本部に至り「前方の左高地、中央の高地、右の高地、この三高地のチェツコを制圧してくれ」とのことを受けて、来た道を再び散り、散りに距離を開けて懸命に走る、だが滑る路面には閉口した。

自分は土手に着き、しばらく這って帰っていると四~五百メートルも行った頃、我が中隊がクリークを前進して来ていたので、大隊本部で受けた攻撃目標を伝え、クリークの右岸、左岸に砲列を敷く。

自分は左岸にある部落の小さい建物の屋根をほかし、そこから敵情を観測するが「プチ、プチ」と敵弾が屋根に当たる。

秋雨煙る中、前方百メートルくらいの小高い丘に敵の動いている姿が見え、そこから敵のチェツコが激しく吼えている。

先程、我々四人が通った道路を行く友軍の身辺に、物凄い水飛沫を上げてチェツコ弾が落ちている。

我が中隊も第一線大隊本部と電話連絡をする為、戦友の川上一行が壮烈な敵弾が来る中を出て行く。

敵弾の中を出て行く戦友を見てるとはらはらして見ておれず、無事を祈るのみ、幸いにして第一線大隊に到着し、ほっとする。

電話連絡はなり、攻撃地点を指示されれば、我が山砲の砲弾は秋雨に霞む敵の高地に、山よ碎けよと命中し炸裂する。

十一月半ばの冷たい雨の中の観測は武者震いでなく、寒さでがたがたと震える。

自分が観測している家の中では寒さしのぎの為、焚き火を始めたので煙は天井に上がってきて、家の屋根の上の自分は寒さと、煙たさで居られたものでない。

焚き火をしていた宮田曹長は、この我が苦境を見て、笑って火を消してくれた。

砲撃は夕方まで続け、日が暮れてから再び山砲を小舟に乗せて、昼来た道を帰る。

落とされた橋を潜って、小さな部落に舟を繋ぎ民家に入り炊事する。

夕食も終わって寝ろうとするけど家の中には明日の戦闘か、故郷の夢を見ているのだろう、寝息も微かに眠っていて、我等が割り込んで寝る余地は寸尺たりとも無い。

しかたなしに焚き火を盛んに燃やして微睡む、誰も話す者もなし、火が消えんとすれば薪をくべるのみ、外は暗く「しょぼ、しょぼ」と秋雨の音も寂しい。

第一線の塹壕では此の雨の中、兵士はずぶ濡れで、寒くて随分辛いだろうと思っていた。

そんな事を思っていたら、濡れ鼠になった歩兵三名が入って来たので、我々も焚き火近くの席を譲れば、三名はがたがたと震えている。

「随分、寒かったでしょ」と尋ねれば「寒いどころではありません」と語るところによれば「昨夕、クリークを小舟二隻で斥候に出たが、この先の高地下まで来たら不意に陸上から射撃されたので、取るものも取り敢えず、ただ銃と弾のみを持って陸上に上がれば、其処にいた敵は塹壕を捨てて逃げたので、その塹壕の中に入ったが、舟は干潮の流れに連れられて下流へと流されて行った」とのこと。

しかも此の塹壕は二~三日来の雨で胸のとろ迄、水が溜まっているが、この溜まった水の中に入ってなければ身を隠す術もないので、寒い晩秋の冷たい水の中に入ったまま身動きが出来ず、寄せてくる敵を撃退していた。

しかし戦友のある者は頭を撃ち抜かれ、ある者は胸を撃たれて倒れてゆく、夜の更けるに従って寒さと、飢えは刻一刻と迫ってくる。

最早、来るべき時は、すでに来たと覚悟して倒れた友を庇いつつ長い、長い夜を戦えば、幸いにして敵は突っ込んで来ることは無く、二十メートルぐらいまで来ては手榴弾を投げるのみであった。

たぶん塹壕の中の彼等は、愈々君国の為に死のうと思った時、鉄兜に降る雨の音も忘れて故郷の事が頭をかすめたであろうと思われる、その時の心情は我等の経験で察せられる。

友軍は遠い所にいて彼等を知るよしも無く、死あるのみの暗夜が明け渡った時、塹壕の中には数えて見れば、僅か五名が生き残り弾は早、尽きんとしていたので死んだ友の弾を取って戦ったと。

後方で遠くに聞こえるのは日本軍の機関銃の銃声だろうか、もしかしたら助かるかもと頭に浮かんだとのことだった。

しかし一向に日本軍が近寄る気配がないと思っていた正午頃より、日本軍の砲弾が頭上に来て炸裂するので、此は友軍の砲弾で死ぬのではないかと思ったが、友軍の砲弾は我々の所には落ちず、目の前の憎き敵陣に落ちて痛快であったが、敵は絶え間なく射って来るので生き残りが三名になってしまい、我々のみが生き残ったのが全く不思議でならないと、亡き友を思い、曇った顔で語っていた。

「夜の暮れるのを待って友軍の所までたどり着き、それから此処まで来たのです」と語る、無精髭の顔にはまだ、その興奮が去っていない。

語り終わって、今までの緊張で忘れていたずぶ濡れの寒さも、終日何も食べなかった空腹も気の弛みに依って覚えてきて「寒い、腹が減った」と言い出したので、米を出して上げたら「貴方が要るんだから」と彼等が断るのを「武士は、相見互いだ」と言って米を渡す。

それまで家の中で気持ち良く眠っていた歩兵は、夜の二時に出発準備を始め、暗闇に聞こえる歩兵の整列番号の声は鋭く雨の中に消えてゆく。

我々は三時出発なので少し時間があり、火の周りに足を伸ばして一睡をする。

機関銃の音は終夜、絶え間なく真夜中の雨の中に響いていて、月なき暗闇のクリークの上を舟は静かに滑って行く。

銃声が聞こえる中に櫓を漕ぐ「ギー、ギー、ギー」の音が聞こえる。

暗闇を利用して敵前間近まで漕ぎ寄せて砲列を敷く、敵は気付いたのか時々身近に「パン」と敵弾が水煙を上げて落ちる。

山砲を下ろした舟は後方に下げる。

我々、観測班は一本しか無い道路を伝って前進する、道の中央は白く夜目にも光っていて、大隊本部の観測班と一緒に約十名の影は声も無く動いて行く、井上大隊長も同行する。

暗闇に「ピュー」と通る弾の音に誰もピクリと頭を下げる。

こうして敵前間近の橋の焼け落ちた所まで来たが、我々も夜が明ければ敵弾の洗礼を受けるので、各々持ってきたエンピで塹壕を一生懸命に掘る、敵弾下で掘る塹壕はみるみる内に深くなる。

観測班と砲列との電話連絡は出来るようになり、万端の準備は出来て夜の明けるのを待つ。

一足先に出発していた歩兵は、此の橋を渡って向かいの土手にいる。

東の空が白み始めれば、山頂に動く

敵影を認め中隊長に報告する、中隊長の号令は電話を伝って砲列に至り砲弾は発射されてゆく。

「ヒュー、ヒュー、ヒュー」と唸る砲弾が頭上を、まだ明けやらぬ空気を裂いて相次いで通ると「ドカン、ドカン、ドカン」と数百メートルしか離れていない敵の山頂に黒土を打ち上げて爆発する。

稲も刈り取られた寒い初冬の夜が明け渡れば、敵がチェツコを射っているのが手に取るように見える。

砲弾一発毎に誘導してゆけば見事命中し、敵兵士がチェツコ諸とも赤く裂けて飛び散るのが砲隊鏡で見えるではないか、緊張した身に痛快の情が込み上げてくる。

されど、敵は堅陣でチェツコを二十挺ぐらい並べて据え付けており、倒れても、倒れても、後から、後から出てきて我々を銃撃してくる。

特に、後方で砲撃している砲車陣地に死にもの狂いで、銃弾をあびせてくる。

我々も此のチェツコ弾のために身動きが出来ない。

困ったのは生理作用だ、いくら食べなくても出る物は出る、自分の塹壕の中に出して、その臭いを我慢しなければならない。

敵の物凄いチェツコの銃声、耳もとを通る敵の小銃弾の唸り、我が軍の重、軽機関銃の銃声、我等が撃つ砲弾の唸り、炸裂、全く耳の鼓膜も裂けそうだ。

こうして昼食も無く過ぎて午後三時頃と思う、土手の下で待機していた友軍歩兵は敵銃弾が飛んでくる中を行動開始し始めた。

山の麓の桑畑の中を歩兵が一人、又一人と走り過ぎて、向かいの窪地へと姿を消す、どうなってゆくんだろう、今宵も此の塹壕の中なのかなと思う。

我等は顔を出す敵には片っ端から砲撃を続けていた。

ところが雨霰と飛んでくる敵銃弾の中を一歩、一歩と一人の歩兵が、小高い丘を這い登って行くではないか。

見ると背曩の代わりに天幕に包んだのを背負って軽装しているのに、小さな日章旗をひらめかし、ひらめかしつつ小高い丘をどんどん登って行く。

その姿を眼鏡で見た時、何と勇敢な兵であることか、思わず涙ぐむ。

神か人か、此れこそ大和魂だ、眼鏡が涙でかすんで見えなくなる。

自分は直ちに中隊長に報告する「中隊長殿、友軍が一人で日章旗をかざして中央高地に登って行ってます」と、その声は感動のあまり震えていた。

我々は彼の無事を祈りつつ砲撃を続ける。

眼鏡を持っている者は皆、眺め誰も話す声は感動で震えていた。

この敵陣に登って行く日章旗の歩兵の姿は、終生忘れ得ぬ感動する姿である。

自分は彼の勇敢さを語る言葉を知らない、がこの姿、この感動を銃後の国へ送りたかった。

遂に、勇敢な歩兵は小高い丘の中腹にまで達した。

天祐か、空に日本の陸軍機が四機銀翼を連ねて来るではないか、暫く旋回していたが「パン、パン、パン」と空から総射撃を始め、爆弾を落とし始めた。

その時には、一人の日章旗の歩兵を追って、さらに三名の歩兵が登っている。

不幸にも、空からの爆弾は敵陣ではなく山の麓に落ちた。

中腹で腹這いの勇士は鉄兜から大きな日章旗を取り出し大地に広げた。

敵陣へ唸り行く我等の砲弾と、空からの総射、爆撃にあって、敵は慌てだし、チェツコの音は絶えがちである。

勢いを得た四勇士は一斉に敵の陣地に突入してゆく。

敵が不意を食らって逃げ惑うのを射ちまくっているのが眼鏡をとうして良く見える。

この四勇士はこの世の人とは思われず、我々には神としか思えなかった。

十数名の歩兵が続いて登り、敵が逃げるのを射っているのであろう、銃を当てた肩が盛んに揺れ動いている。

両翼の山の陣地は陥落して日章旗が盛んに振られている。

今まで、銃弾が飛び交っていた緊張した空気は、静かな音に戻って空気に柔らかみを感じる、我々も塹壕を出てゆっくりと用をたす。

舟に帰り朝と昼の食事を一緒に食べる、戦いが終わって食べる飯の味は何とも言えぬ格別なものだ。

我々も再び前進せんと櫂を取って陸を見ると、続々と師団の精鋭が広い道一杯になって来ている。

一緒に戦車も来る、大砲も来る、こんな大部隊が我々の後方にいたのかと思った。

先刻の戦闘まで、どうなるかと思って不安でならなかったのは杞憂に過ぎなかったと思うと力強く感じ、南京攻略も目前に近まってくるような感じがしてくる。

我々は雨上がりの水路を進んでいると、先ほど戦闘があった高地の麓にある広い桑畑には二~三尺に伸びた桑の木は傘を広げたようになり、今は桑の葉の一片も留めていない、竹は銃弾に砕かれて倒れている、如何に激戦が展開されたかを語るのに十分である。

更にクリークを進んで行くと土手の上で友軍の戦死者、十数名の者を埋葬している、彼等の鮮血に滲む硬くなった体を見た時、目頭が知らずに熱くなる。

この兵士達の犠牲により如何なる堅陣も抜かれてゆくのだ、勇士の霊よ安らかなれと祈る。

体は、もはや故国に帰ることは出来ないが、せめて御霊だけでも故国に帰って貰いたいと、強く願う。

我等は、この戦闘の後を受けて進撃し、この怨み深き仇は必ず取ってみせますと誓う。

此の辺りのクリークの岸には敵兵士の死体が様々な形をして斃れている、橋の下に隠れたまま死んでいる者、橋の上では砲弾で頭を砕かれて死んでいる者、路上に倒れて死んでいる者、その数は数える事が出来ず、痛憤は幾分晴れる。

夜は、この町で明かすはずの予定だったが、湖州に向かうとの事で、午後六時に出発する。

何でも、情報に依れば湖州には約十万の敵がいるとの事である、この十万の敵兵の声を聞くと、南京が遠くなった様な気がしてくる。

クリークから大きな湖上に出る、眺めれば向かいの岸は遠く霞んで見える。

暮れ迫る湖面は、折からの風で尺余りの波が立ち、百に余る我々の小舟の大群は夕暮れの湖面を圧して渡って行く。

湖州へ、湖州へと広い湖水を渡って岸に近づけば、葦の陰に大きなジャンク二隻が帆影を見せている。

何者だろうと行って見れば避難民だった。




彼等は風雲急を聞き、住んでた家を捨てて湖水の葦陰に日を過ごさねばならないのだ。

夜になれば湖水に灯の影を映して大軍は進む、山蔭の所で夜は舟の中で明かす。

十一月二十三日 辺りが明け始めた頃、我等は舟を進め四~五百メートル行った所で山砲を山の上に担ぎ上げる。

山は百メートルぐらいの高さだけど急勾配で弾薬まで担ぎ上げるのは相当な困難に感じたが、皆の懸命な努力で速やかに山頂の松蔭に砲列を敷く。

自分も松の間から砲隊鏡で敵情を覗く。

我等の出現を悟った敵は盛んに射ってくる、敵銃弾が「ピュー、ピュー」と掠めて通る。

四百メートルくらいの前方の松林の高地に敵兵が動めいているのが見えるので、砲撃を開始すれば砲弾の物凄い炸裂が敵陣地で起きて、敵兵が慌てている。

友軍の大隊砲、重機関銃も側に来て

撃ちはじめる。

暁まだ冷めやらぬ湖州の平野に、殷殷と銃、砲声が響きわたる。

先刻より右後方の高地で盛んに銃声がしていたが、今は日章旗が振られている。

右の斜面を友軍に追われた敵兵が下りてゆく姿が見える、この逃げる敵兵を追って我が砲弾が炸裂する。

四~五百メートル前方の高地に迂回した友軍歩兵は側面より攻撃する、松の間を黒光りの鉄兜や、白く光る銃剣が用心深く、敏捷に進んで行く、日章旗が松の木の間を見えつ、隠れつ登って行く。

やがて、友軍歩兵が山の側面から頂上に登ったので、正面の山の中腹には三名ばかりの敵兵が逃げ遅れている。

我が軍が背後に迫っているのを、松林の中なので気付かずにいるのか、敵兵が逃げた後の山は静まりかえったので、三名の敵兵は戦闘が終わったと思ったのか射撃をやめて、腰を下ろして装具か何かの整理を悠然としている。

友軍は山を占領し、機関銃を据えて山頂から盛んに敵兵を撃ち始めている。

しかし、友軍の大部分の兵士は、逃げる敵兵を立って眺めている。

我々の所にも小銃弾が来なくなったので、悠然と姿を現して砲撃を続ける。

今、友軍が占領した山の一つ向かいの山に、逃げた敵が盛んに移動している。

第一線大隊本部よりの連絡に依れば今、敵兵が盛んに移動している高地が、我が軍の進撃を阻止しているとの事で、その高地で吠えている敵のチェツコを狙って砲撃する。

砲弾は敵に見事に命中して、敵兵を木っ端微塵に吹き飛ばしているのが眼鏡から見えて痛快である。

右翼の進撃により、その高地から追い出された敵兵が、山の斜面を下りて次の山に移動し、陣地を構築しているのが眼鏡で見える。

一刻も猶予してはならじと直ちに砲撃する、敵兵は山の斜面をうろたえながら右に、左に逃げて行く。

先刻、砲撃した向かいの山を八門の援護で集中砲撃し、歩兵の占領するところとなる。

我等は「速やかに、陣地を進めるべし」との命令を受けて、再び担いで山砲を山から麓に下ろして小舟に乗せる。

自分は小隊長と伝令と三人で、大隊本部と共に出発する。

大隊本部の村上少尉が小舟の舟足が遅いので「陸を行く」と言って陸を歩いていたが、小さな御堂の陰に敗残兵がいたので、軍刀を抜いて斬っていた。

我々は今、歩兵が占領した山の麓の所で舟を下りて、山へ登る。

見れば、戦乱の中に静寂としている湖州の町が見える。

山での陣地を点検し終わり敵情探索をすると、山の麓の家に敵兵が隠れているのが見えたので、麓へと下りて行く歩兵に知らせる。

眼鏡で湖州の町を見れば、大きな町が手に取るように見える。

町の中央には英国旗が翻っていて、四階建ての家が近代都市としての趣をそえている。

町の中央には二条の大きなクリークが通っていて、その手前にある家の壁には煙草の広告があるのが眼鏡で見える。

町は静寂で煙りも上がっていない、友軍の飛行機二機が爆音を立てて飛来し、湖州の町の上空を旋回している。

また、町の後方の道路を幾千の敵兵が総退却を開始しているのが見える、一中隊の砲車が山頂まで運ばれて来たので砲撃する、直距離約一里、発砲すれば見事に命中する。

敵兵は悠々と退却していたが、不意に頭上に砲弾を貰って、慌て方は尋常ではない、蜘蛛の子を散らすように逃げて行く。

砲弾は次々と「ヒュー、ヒュー、ヒュー」と唸って、敵陣に落下してゆく。

見事な砲撃に大隊長は感心して西田測遠技手を褒めている。

西田上等兵は原隊いる時から師団一の名測遠技手として有名であり、名物男でもある、砲兵の至宝と謳われているから、さもあらん事である。

我々の砲撃を見て友軍の飛行機が空爆を開始する「ボカン、ボカン、ボカン」と敵兵に命中爆裂し痛快なものだ。

我等の数十発の砲撃はたいした手応えも無く敵兵を逃す。

今回は、我が中隊は山の麓で待機していたので砲撃はしなかった。

再び、前進するため機材をしまい、山頂に立って四方を眺めれば湖水の町は不気味な沈黙を守っており、他の山々は戦乱も知らず静寂である。

足下を見れば前陣地からの砲撃で、砲弾に打ち砕かれた敵兵の死体が散乱している。

皆で死体の数を概算で百か二百かと議論していたが、大隊長の説では二百以上だろうとの事であった。

山を下りて中隊の舟に至り出発、自分達の小舟は支那農民二人に交代で漕がせ、昼食を取ってないので樋口上等兵と二人汁粉を作ることにする。

数十隻の舟と共に敵前を進むのに、汁粉作りも又一興である。

ところが多くの舟が進んでいるので、二度も衝突して大事な汁粉をひっくり返してしまい、後で皆で食べた時には少ししか残ってなかった。

午後七時半、辺りは暗くなり人の顔も見えにくくなる。

湖州の入り口の橋の袂まで来ると、何処から来るのか我等の頭上を「ピュー」と掠めて小銃弾飛ぶ。

何処からか「敵襲」」と言う声がする、

敵襲と思って緊張すれば、敵襲ではなく友軍の戦車隊が、後方から着いたとのことだ。

が、戦車隊の兵士は「でたらめだ」とぶすぶす言っている。

何でも、敵戦車と間違えられて友軍から今、射たれたとのこと。

宮田曹長が宿舎の設営から帰り、我々も舟に番人を置いて宿舎に行く。

暗闇の中で良く解らなかったが、城門を抜け家、家が閉ざされた暗い町の中を暫く行く、幾曲がりかしてクリークの端にある割り当てられた民家に入る。

宮田曹長の語るところによれば先刻、設営の連中と此処まで来た時、向こうから五~六人の兵士がクリークを渡って来る、皆は友軍と思っていたら先頭の者が「敵だー」と叫んだそうである。

設営に来てた者達は皆、砲兵の者達で小銃を持っている者は少ない。

「敵兵だー」の声を聞いて、敵兵は驚いて一目散に逃げた。

我々も逃げ隠れした後、砲兵同士で御互いに顔を見合せて大笑いしたとの事。

この夜は敵地故、各分隊は至厳なる警戒のもとに夜を徹せよとの命令で、不覚を取らぬよう自分も歩哨に立つ、月無き空なので見通しはきかず、あまり気持ちの良いものではなかった。

湖州の夜は、川上がクリークの中に落ち込んだとのことで朝、起きてから盛んに「夕べの鯉は大きかったろうな」などと皆が冷やかしている。

十一月二十四日 夜の明けるのを待って、我々は食糧を持たないので朝、徴発に諸左上等兵と二人で郊外に出かける。

なかなか民家には人もいず、米も無かったが、ある家に入ったら中年の婦人と、二十歳過ぎと思われる上品な娘がいて、米を分けてくれた。

もう無いのかと支那語で「米没有」と訪ねたところ 「ありません」と返事されたのには、以外で開いた口が塞がらなかった。

娘は、何の臆するところもなく、コーヒまで持って来てくたので「謝、謝」と敬礼すれば、ニッコリと笑っていた。

代金を払って帰ろうとすると「さようなら」と娘さんから別れの言葉を言われたのには、再び驚いた。

そこで、自分が日本語で喋ったら「日本語、少ししか知りません」と半分支那語を交えて答える。

自分はノートと鉛筆を取り出して、文字で意志の交換をすれば「子供の時、大連の日本小学校に、ちょつといったので日本語を少々知っている、その後は満州で勉強してロシア語も話せる」とのことである。

鉛筆を握る我が手を見れば、杭州湾に上陸以来、一ヶ月近く入浴もせず、手も洗わず、毎日の炊事で手は乞食の如く真っ黒で、その上皺で見られたものでない。

娘の綺麗な手で返答を書くのを見た時、いささか恥ずかしかった。

語るところに依れば「両親はもはや無く、此処にいる中年の夫婦は遠縁の者で、自身は天涯孤独である」と、にっこり笑って語る。

純情な瞳を見た時、本当に可憐で敵国の女性に淡い恋心のようなものを感じた、名残を惜しみ御礼を言って帰る。

徴発後、宿営に帰ってみると五島上等兵と中島と、二人で川向かいに行き民家の戸を開けてみたら、六名の支那兵がチェツコを横に置いて眠っていたので、二人でやわら飛びかかりチェツコを取りあげ、この不意の乱入に敵は飲み込まれ、ついに二人の捕虜となり連れて帰ったとの事であった。

分取ったチェツコは新品であまり使った形跡は無かった。

我等は此処に多分二ヶ月位の滞在になるだろうとの事で、家の内外に於いても万全の準備をする。

昼は舟に乗り、町の中を乗り回せばクリークの両側の家の大部分は堅く閉ざされている。

宿舎にいる兵隊は、久しぶりの休養に虱の出来た真っ黒な襦袢を洗濯している。

町中から帰ってみると山川少尉が捕虜を斬っていた、年の頃は二十歳になるや、ならずの青年である、キラリと光る日本刀を目の前に差し出して見せて「明白」かと言えば、首を縦に振って頷くのは、最早諦めたのであろうけど、敵の前でこの自若たる態度は、実に見事なものだと感心した。

国のために泰然と殉ずる心は日本も、中国も同じなのだ、お互いの国民は個人としては何の怨みも無いのに、命の取り合いをしなければならないのが戦場である。

「一将、功成りて万骨枯る」ではないか。

戦争は勝敗に拘わらず、当事国の多くの国民に悲惨な限りの犠牲を強いる。

この時、更に死すとも捕虜には絶対なってはならないと肝に銘じた。

午後、町の中を歩いて回ると驚いたのは「排日、抗日、悔日」と看板に書かれていることだ。

一時的に書かれた物ではない、永久的な物ばかりだ。

通りの上にも「打倒日本帝国主義」とか「男子、兵士になって日本を倒せ」とか、それはそれは凄い文句ばかり書いて吊るしてある。

これらを以て、如何に抗日の盛んな所であるか察しられる。

これ等の文句は最近吊るした物ではない、古びているところから見れば随分、昔から吊るされていると思われる。

この空気の中で育った少年の頭を、日本への親日に変えるのは余程、困難な事ではないかと思われた。

翌々日、十一月二十六日午前十一時、後続部隊が着き、久し振りに愛馬の顔を見る。

北支では死にかかった馬であり、余り元気とは言えないが、生命に異常はなく長い間、生死を共にした愛馬の顔は懐かしかった。

十一月二十七日 午前九時、今まで乗って来た舟を捨て、長い滞在の予定だった湖州を後にし出発する。

これ迄の舟での戦闘生活には、馬というものが無かったので、馬の手入れ、馬糧の心配は不要であったが、

これからは毎日、出発二時間前から起きて準備をしなくてはならず、目が回るほど忙しくなる。

昨日までの舟の生活が懐かしく、久し振りの行軍は珍しくはあったが、

楽ではなかった。

途中、敵兵の死体が所々に転がっている、我々が馬の到着を待っている間に、先発隊の急追で斃れたのであろう。

敵が軍用に使用していた民間のバスが道から田の中に落ちていた、軍用車両もあった、我がぐんの戦車隊の急襲にあった為だろう。

湖州から出ている電柱は悉く倒してある、日本軍の使用を防ぐ為である。

秋も終わり、十二月近き冬の野山は淋しい景色だった、此の辺りの田の稲は全て狩りとられていた。

午後五時半、某部落に到着。

田は水でいっぱいなので馬を繋ぐ所が無く、道路上を馬繋場とする。 馬の手入れを終わり、宿舎に着いたのは日も暮れ始めてからであた、夕方より小雨が降り始める。

昨日までは、多量の物資を舟に持っていて、食糧も充分であったので野戦汁粉を作り、皆で飲んでいたのが、今日は昨日と変わって哀れで、僅かに携帯食糧を持っているのみで、塩も砂糖も無い始末である。

何しろ行軍となると持てる物はわずかである、それに今までの習慣で何時でも手にいるとの思いで、出てきたので全く困り抜いた。

皆のところに行って塩少量を貰って、夜は塩飯を炊く。

十一月二十八日 暗い内からか起きて馬の手入れなどの準備をし午前八時出発、昨日と同じく先発隊が戦闘した後を行くので、敵も無く順調な行軍である。

この度の我々の戦闘は半月にのぼる舟上生活だったので、自分の馬は運動不足により非常に弱っていて、乗馬は困難なので砲隊鏡のみを鞍に積み、自分は徒歩で行軍する。

行軍途中、山の中の民家に日本国旗が翻っているのを見て、怪しく思えば工兵が民家より出てきて、喜んで我々を見送ってくれる。

一個中隊にも足らぬ兵力で此の一帯の守備との事だが、兵力不足での守備は、あまり気持ちの良いものではない。

江南の平野に夕暮れの迫る頃、陳家村なる部落に着き宿営する。

十一月二十九日 馬の世話も終わり早朝に出発する、道端に多くの支那兵が斃れているのを見る、先発隊の友軍の奮戦の様が窺える。

午後より彼我の砲声が殷殷と聞こえ始める、先発隊の野砲が砲撃しているだろうとこと。

まだ暮れやらね頃、目指す広徳まで後ニ~三里という所で戦闘している友軍と出会う。

山に砲列を敷いている野砲の陣地が見える、盛んに砲声は野を圧して敵陣を砲撃している。

第一線に来ると右へ行く部隊もあれば、前へ急ぐ部隊もあり忙しくなる。

我々は夕食を炊いて間もなく、敵の背後を突くべく道路を離れ、小さな道か、畦か解らぬ田圃道へと入る。

明朝、払暁を以て敵を総攻撃し敵を包囲殲滅しようという作戦らしい。

我々、一兵卒には、この作戦を察することは出来ないけれど、月無き真っ暗闇の中の行軍は、実に困難を極めた。

半月もの船上生活で運動が出来ず、衰弱しきった馬の足は弱くて、砲車や弾薬を駄載をしてるだけでなく道は狭く、足元も見分けがつかぬ暗闇である為、狭い道から落ちれば、泥田の中で馬は出発間もなく弱り始めた。

まず、我が分隊では観測器具を積んでいる馬が道から落ちる。

入部上等兵の馬が上陸後、間もなく死んだので、その鞍を運んでいる北支から連れてきている驢馬が同じく落ちる。

このように先頭に事故が起これば後も進めず、前を行っている歩兵とは離れしまい、この田圃道をやっと抜けて小さな松林に入った頃には、我々は歩兵の行方が知れぬので、立ち往生してしまった。

夜の作戦というものは、敵の不意を襲うのであるから、敵に察しられぬことが最重要なことである。

歩兵の行軍は咳もせず粛々と敵に迫るのであるから、何処を行っているか解らない。

我々、四~五名の者で右に行き、左に行って歩兵の後を尋ねるが解らず、途方に暮れる。

しかし、努力が報いられ歩兵との連絡がつき後を追う。

再び田圃道に出る、我々は馬と共に

行軍しているので、馬の故障で遅れれば大きな声を出さなければ、暗闇の中なので前の者の行方が解らなくなる。

また、後方の者への思いやりで「穴があるぞ」とか「右に馬を寄せよ」とか言い残して行くので賑やかで、これでは敵に直ぐに察せられてしまう。

我々は懸命に連絡を切らぬよう行軍する。夜の更けるに従って刻々と空腹は迫り、十一月の終わりの寒さは身に染みる。

この行軍が幸、不幸の原因となったかは、神ならぬ身では知る由も無かった。

「飢え迫る、夜の寒さかな」歌の文句、そのままである。

行軍途中、我々が不思議に感じたのは道端の家が焼かれて、炭火になって僅かに煙っていることであった。

後程、解った事だが薄暮に我が軍が広徳城の城壁の一角に突入したので、追われた敵兵が焼け跡付近に集結する為に、部落に火を放った跡

だったのだ。

その集結していた敵兵は、攻撃に向かっていた我が軍の右回り部隊に出会って、我が軍の急追と思って、ひとまず集結していた焼け跡集落から敵は一線を引いたのだ。

我々は焼け跡集落を抜け、田圃の中を行軍中、騎兵の伝令が帰ってきて「此より先の道は駄馬では到底行軍は困難であるから、中隊はこの付近で露営せよ」との命令である。

マッチ棒を擦り、腕時計を見れば午前二時過ぎである。

着のみ着のままの我々は汗で冷えきっている、その上に飯食わぬ腹には寒さは一層身にこたえる。

我が中隊は付近に民家を捜して宿舎とする。

家の庭を馬繋場として馬を繋ぎ炊飯中、入部伍長は連帯本部に連絡に行く。

飯も食べずに、何処にいるか知れぬ連帯本部に連絡に行くのは少々気の毒であるが、我々は既に国のために生命を捧げているのであるから任務のためではやむを得ない。

我々が炊飯が終わりかけた時「パン、パン、パン」と凄い銃声が耳をつんざいて聞こえる。

「敵襲」と言う声が張りつめた空気を破って響く、続けて「火を消せ」と誰かが叫ぶ。

我々も出来上がりかけた飯は惜しくも火を消す。

我々が馬繋場に走り出てみれば「ビューン」と何処からとなく流れ弾が頭上掠める。

家の中に全部の馬を引き入れて、自分は何時、出発になるか知れないので、馬に鞍を乗せておき、万一を考慮して準備をしておく。

「腹が減っては、戦は出来ぬ」、何はともあれ出来かかった飯を暗闇の中で、皆と一緒に食べた。

空腹だったので、不煮えもへったくれもなく美味しくて咽を通るのも解らなかった。

思えば今頃、入部伍長はどうなっているんだろう、我等が敵襲を受けているのも知らずに、帰って来るのであろうか、これから敵の中に、いやもしかしたら最早、敵の中に迷い込んでいるかも知れない。

分隊長の身を思うと胸は重く、次第に飯も咽を通らなくなる。

騎銃、携行者は即時に警戒につく、頼りは塚本上等兵が持っているチェツコだ、塚本上等兵に皆「しっかり頼むぞ」と言っている。

我々が身に持つものは、一尺の銃剣あるのみで、如何とも致し難し。

近くにあった一間足らずの竹竿の先を尖らせ、もし敵が突入してきたら、この竹槍で敵を刺し、あわよくば敵の銃を取り上げて、最後の一瞬まで戦って、死んでゆこうと待ち構える。

家の中に十数頭の馬が入っているので狭くて仕方ない、馬の番を交代でする。

耳を澄ませて聞けば真っ暗闇の中、冷たい空気を震わせて支那兵の突撃ラッパが、夜泣きうどんの笛のように不気味な響きをもって聞こえてくる。

支那兵が何か「ペチャ、クチャ」言っているのも微かに聞こえる。

山川少尉が兵二名を連れて敵情偵察に出る。

心配なのは馬を田圃の中におとした為、部隊から遅れている四~五名の者である。

今の我が中隊は、野中小隊が昆山方面の戦闘に参加しているので、一個小隊弱の兵である。

小銃が少ない砲兵が本隊と遠く離れて、敵襲を受けたので困り果てた。

歩兵との連絡に出た入部伍長は未だ帰らず、歩兵との連絡は未だにつかず。

登本准尉は中隊の全員に向かって、日本刀を抜き放って「愈々中隊全員、中隊長殿と枕を並べて討ち死にだ」と言っている。

辺りは真っ暗闇だこの暗闇の中、中隊全員は死を覚悟している、馬を持った者は馬を持ち、各々の任務につく。

敵弾は相変わらず暗夜に不気味な音を立てて頭上を掠める、銃弾が壁に当たって土がパラパラと落ちる。

もし、敵の突入があれば最後の時で、今か、今かと危機感を持って、その時を待つ。

誰も寂として声を発せず、不気味な時間が過ぎてゆく。

マッチの灯りで腕時計を見ば五時前、夜の白むのを一刻千秋の思いで待つ。

夜が明け、天地万物の物が肉眼で見える時がきたら、その時は砲撃し撃って、撃って、撃ちまくり恐怖心を晴らす時である。

そうなれば歩兵本隊との連絡も出来るだろう。

この死の覚悟も思い出として、笑って話せる時があるかも知れぬ。

ひとまず、大砲を分解したままのを組み立て前方に設置する、暗闇の中で砲手が集まらず、さかんに分隊長が捜していた。

敵兵の突入があれば全滅であるが、敵が砲撃の脅しで突入しなければ、効果があり助かるかも知れない。

が、何れにしても最後まで、最善を尽くして戦わなければならない。

時間は、五時から六時と進み、死を覚悟した長い、長い不気味な夜が明け始める、待ちに、待った夜明けがきた。

その時、右前方に約七~八十名の敵兵が移動中なので、敵兵をを銃撃するため「騎銃携帯者、前へ」との声が飛ぶ。

一夜、まんじりともせず人生最後と思って過ごしたが、疲れも知らずに元気づいてくる、騎銃を持った者が四~五名走って行く。

平素の行軍、戦闘では我々、砲兵は白兵戦は稀なので、さほど銃の必要性を認めず、銃を非常に厄介視して無用の長物でも持っているように思っていたが、このような時は何と言っても銃が無ければ話しにならぬ。

銃を持って四~五名が走って行ったのを見ると、自分も射ちまくりたい思いでいっぱいになり、残念でならずにいると、傍らで騎銃を右手に持ち、居眠りをしている者がいたので、この際は一挺でも多く、一発でも多く射たねばならぬと思い自分が、その銃と銃弾を取って走り出た。

四~五十メートル前方の部落の前を敵兵が移動しているのが見える。

射とうと思って伏せたが、草が深くて邪魔して射てず。

我々、砲兵はかかる散兵した経験が少ないので、思うように射てない。

癪でならないので射てば、運良く敵兵に当たるかも知れない、この敵を目の前に見て射たずにおられぬものかと、立って射撃する。

今、敵は移動しつつあるので射って

こない、だが時々銃弾が「ピュー」と朝の冷えた空気を震わす。

そんな時、我々と一緒に居合わせた歩兵の二人が「敵の背後に行って、狙撃をやろう」と言い出す。

自分も踊り上がって二人の後をついて行く、百メートルぐらい行った頃、我が中隊の砲撃が始まった。

「ドン、シュル、シュル、シュル」と砲弾が飛んで行き、敵の真っ只中で「ドカン、ドカン、ドカン」と土煙を上げて爆裂している。

今日こそ、怨み深い敵兵の首を取ってやろう、自分で射った銃弾で敵兵を倒すのも、実に痛快であろうと思って勇んで行くが、クリークに阻まれて渡れないのでクリークを伝って行っていると、三~四百メートルぐらい行ったと思う頃、我々の近所に銃弾が「ビシュー」と来ては「パン」と響きを立て、土煙を上げて落ちてくるので少々、気味が悪くなる。

任意に、余り部隊と遠く離れては、どうなるかも解らないので、一人の歩兵が「引き返そう」と言う。

他の一人は偉くきりっとして、如何にも精悍そうな顔で、首には兵隊の間で当時流行の襟巻きをしていて、ギョロリとした目で「支那兵の弾などに当たってたまるか」と言う。

自分は白兵戦の戦闘は全く素人なので、二人のするままに従って行くと「パン、パン」と我等の足元に再び土煙が上がったので、さすがに勇者襟巻き氏も「引き返そう」と言い出す。

何しろ、敵には全然知られぬように潜行していたのに、何処からとも知れず射たれるので、このままでは我々が危ない。

我々が皆の所まで帰って来ると、自分の分隊の本田一等兵が「何だ、お前か」と言い。我々三名を敵と思っていたと言う。

さてはと思ったので「「今、射ったのは皆で射ったろう」と言えば「危ないところであった、今少しで命の終わるところであったぞ」と言うので、可笑しいやら、癪でもあった。

二人の歩兵の勇士も「可笑しい、可笑しいと思っていたんだ」といきり返す。

中隊は盛んに砲撃を開始しているので、自分はそのまま砲車の所に帰って行くと観測下士の中園上等兵が「何をしていた」と叱られた「敵兵を射ちに行っていたんですよ」と言えば「お前がいないので大騒動だ、おかげで中隊長から散々に叱られた」とこぼす「皆も、お前がいないので、とても捜したと言っている」と言う。

少し血気にはやって前線を歩き回っていたので、味方にまで射たれてしまった。

本当に申し訳ない事をしたと思った。

自分の任務である砲隊鏡を中園上等兵が見ていたので交代する。

砲隊鏡で見れば、敵兵が盛んに移動している。

敵情を初めて見るので、此の敵情が良く飲み込めぬ。

敵は逃げているのであろうか、それとも何かの作戦の為か、友軍が追撃している様子でもないのに、と思って良く見れば、慌てて走ってる中には負傷兵もいる。

我が部隊を包囲していた敵兵は夜明けと共に、我が軍の一斉砲撃を受け、そこ、此処でも退却しているのだろう。

我が砲弾は違わず敵兵の真ん中に炸裂する、砲撃していて敵影が少なくなった頃「反対方向で、敵が移動中です」との報告があったので、そちらに向かう。

向かった所では五~六百まメートル先の道路を二~三十名の敵兵がほうほうの体で逃げている。

眼鏡でよく見ると負傷兵が多数いる。

ただ逃げてばかりのところを見れば敵は戦意を無くしているようだ。

暫くして敵影が見えなくなったので、撃ち方やめとなる。

後で解った事だが、負傷兵の多い部隊だったので夜襲は無かったが、普通の部隊だったら夜襲されて、我が中隊は全滅したかも知れない。

夕べ連帯本部へ連絡に行き安否を心配していた入部伍長が帰って来た、昨日から連絡に行っていた三~四名も一緒だった、宮田曹長もいた。

入部伍長の話しによれば、火が燃えている所なら、友軍が炊飯しているのであろうと思い、捜したけれど見つからず、田圃の畦道をあっち、こっちと捜すうちに、漸くのことで連帯本部の一部が連帯本部の部隊との連絡がつかず二~三十名で小さな民家に宿営している所に行き着き、ほっとして中に入れば中隊の連絡係三名もいたと言う。

帰ろうとしても中隊は何処に宿営しているかも知れず、此の暗闇で地理も全く解らぬ広野の中では、しかたなく夜の明けるのを待っていたが、皆も元気づいてきたので中隊に帰るため、暗闇の中、民家を出る。

二町も行かないうちに「ウリャ、ウリャ、ウリャ」と言う者がいるので、はっと立ち止まれば敵の歩硝線で、敵の歩硝は慌てて銃を取り直し「ガチャ、ガチャ」と銃弾の装填を始めたので、すわ一大事と暗闇に紛れて土手を這って引き返した。

敵兵は手榴弾に引火させたので「シュー、シュー、シュー」と導火線が燃えるのが聞こえ「あー、終わりだ」と思ったが、敵兵は曹長の在所が解らず、手榴弾を持ったまま暗闇をすかし見てるようすで、天の助けのおかげか手榴弾は敵兵の手の中で轟然と爆発した。

敵兵は「リヒャ」と世にも哀れな叫び声を上げて「ドウ」と地に倒れたので助かったとの事である。

四分隊が大砲、兵士共に着いてないとのことで、手分けして捜索に出る。

自分も銃を手にして捜索に出る。

田圃の向こうの端の土饅頭の墓から、二つの支那兵の帽子が見えるので、歩伏で近寄り銃を突きつけたところ、二人は日向で眠っていたので、驚いているところを射った。

股を射ち抜いたら、もう一人が立ち上がって銃を向けたので、先に腹を狙って射った、二発目で倒れたので一目散で引き返した。

目の前で敵兵を倒したのは初めてだったので、三年後の今でも思い出すが、あまり気持ちの良いものではない。

その後、道に迷って宿舎に帰り着かない、散々捜して漸く宿舎に帰り着いて見れば、出発した跡で足跡を辿って追いかけ、危うく追いついた。

それから一里も行軍したところで連隊本部より「引き返して、広徳に入城せよ」との命令で来た道を引き返す。

その途中、午後四時頃には連隊本部に連絡に行った後藤上等兵が段列の下士官と二人で、入山村の山の中から現れた。

聞けば一晩中、山の中を歩いたが出会うのは敵兵ばかりで大、小の敵に遭遇し、最早最後と諦めて山の頂きに登ったら、日本馬が見えたので出てきたとのこと。

「昨夜から夕食も、朝食も、昼食も取らず、命からがら一晩中、不眠不休で歩き回った」と言う。

我々は昼食中だったので分けてあげ二人共、元気を取り戻し無事を皆で喜びあった、

昨夜、遅れていて宿営地に着かなかった、四分隊の隊員も山の中から出てきた。

話しによれば、行軍中に前の隊列と連絡が切れて、分隊を縮めて前進していたら、不意に数十名の敵兵に包囲され、大砲は分解して馬に駄載していたが、そのまま放置して全員クリークに飛び込んで、クリークの緑の草むらに身を隠して逃げた。

敵兵はクリークの土手を右往左往して、時たま手榴弾を投げ込んで爆発させる。

そんな中で半夜中、水の中で我慢し、寒さで生きた心地は無く、明けるのを待って山に逃げ込み、山の中をさ迷ったと、勿論食事もしていないとの事だった。

広徳に引き返す途中の道端に、行方不明の一等兵の遺留品が落ちていたので、無念の戦死かと一同、死を悼む。

大砲は砲兵の軍旗である、何れにしても四分隊の大砲一門が分捕られたので、中隊の名誉の失墜はこの上なしである。

十二月二日 広徳に帰り、一夜明ければ連隊長より「中隊は決死隊を募って、分捕られた大砲を名誉にかけて取り返せ」とのことで四十名の決死隊を募集する。

敵は広徳の前方五キロメートルの地点に集結していて、兵力は五個師団とのことである。

我々、四十名が突入したところで、大砲を取り返せるとは思われぬが、四十名の決死隊で名誉を回復せよとの事である。

四十名の決死隊は集まり隊長は山田少尉、中隊長と水盃をして中隊長の別れの訓辞がある「名誉ある成功を祈る」との事である。

中隊全員より激励を受け、小銃弾は二百発を身につけて見送られ、戦車二台を先頭に、トラック四台に分乗して戦車の轟音の後についで出発する。

我等、四十名で大軍の中に突入しても「九牛の一毛」に過ぎず、死は恐れないが如何なる作戦を持ってするか皆、不安でいっぱいである。

「敵の包囲の中、二~三日も頑張れば援護があるのではないか」との意見もあるが風前の灯である。

一里程、前進した地点で戦車とトラックは広徳に帰って行く、ついて行きたい気がする。

激戦の跡か、死体が散乱している。

日本軍の軍服に血糊の着いたのや、

軍曹の肩章の落ちたのや、従軍手帳や鉛筆が散らばっていて、従軍手帳を拾って開けば上陸以来の記事が細々と書いてある、粛然として皆黙祷を捧げる。

「おーい、この敵はまだ生きているぞ」と言うので集まって見れば、虫の息である「苦しんでいるのは、可哀想だ」と一発の銃声は広徳の平野に響き渡った。

我々、小部隊の行動は包囲される危険があるので、四十名の決死隊は三百メートル幅に展開して前進することにする。

部落に着いたら四十名は集結して、残っている部落の住民より情報を収集して、再び散開して前進し日暮れ頃まで捜したが行けども、行けども何も得るところは無く、暗くなったので重い足を引きずって広徳城へ帰る。

十二月三日 早朝八時出発、夜明けが日毎に遅くなる、稲の刈り取られた田圃の細道を、連隊は長蛇の行軍をする。

午後二時頃、前方部隊から盛んに銃声がする。

歩兵部隊へ連絡に出ていた中園上等兵が帰り「砲兵中隊は速歩前進せよ」との連絡である。

人馬、共に疲労していて速歩の出来る状態とは思われぬが、戦場での命令は絶対である。

中隊長が速歩を命じたのであるが上陸して以来、重い軍装であるので走ったことは無かったけど、兵隊は脂汗を拭き、拭き力の限りを尽くして走る。

ほどなく、銃声は止み、よく聞けば連絡者の聞き違いとの事だったが皆は、青息吐息だった。

暫く行軍すると川に突き当たった、川の幅は五メートルだけど一枚の板が渡してあるのみ。

歩兵は板が揺れるので間隔をおいて渡るも、砲兵は馬を伴うので渡れず。

深さを測れば胸ほどの深さで川の中を、馬三頭一組で渡る、川の中で倒れる馬もあって骨折ったが無事渡河。

渡河が終わり集結した時、後方より「敵襲」の声で歩兵部隊が後方へ急いで行ったが、間違いであったとのこと。

十軒ばかりの部落に宿営となるが、大部隊なので十二時頃食事を終え、天を仰いで星空を眺め鞍を枕に寝るが、十二月の外気は肌に刺さる、藁を被って眠る。

足が痛いので目覚めれば、馬が前掻していて足を蹴っているのだ。

十二月四日 五時起床、馬の世話が終わり、出発準備して七時出発。

この地方の住民は行動するのに天秤棒の一方は大きな盥を担いでいる、クリークが多いので橋もあるが、盥に乗った方が早くクリークを渡れるのである。

郊外の村では日の丸の旗を立ててあり、鶏も各家で二十羽近く飼育していて、鶏を安く売ってくれた。

この夜は健平城に入城し宿営する。

十二月五日 休養、愛馬の蹄鉄の交換をした、馬も病気をするので常に心配が絶えない。

十二月六日 午前八時出発、行軍途中の午後六時頃、農家で結婚式が行われていて簡単な式のように見えたが、行軍中の我々を見ると忽ち姿を消して逃げ去ったとか。

交通連絡が行き届いてないので、日本軍の進軍が解らず予定通り結婚式を行っていたのであろうが、日本軍の急進撃に驚いて新郎新婦の楽しかるべき結婚式に水をさして、誠に気の毒なことをした。

十二月七日 朝起きて、お互いの顔を見れば顔を洗うこともなく、連日の焚き火で顔は真っ黒となり、手は炊事の煤で黒光りになっていたので、久しぶりに顔や手を洗って、お互い顔を見合せて皆で笑いあった。

行軍途中に湖畔を通った、湖には鴨が数千羽ぐらい真っ黒に集団をなして泳いでいた。

十二月八日 太湖であろうか、馬を残して我々は大きな塩船に移る、塩が百俵ぐらい積んであったので全部、運び出して捨てた。

中隊は塩船に帆を張り進行する、夜半に風が静まり動かなくなったので、大きな櫂を左右に出して苦力と交代で櫂を漕ぐ。

十二月九日 明け方に船は長い土手の端に着いた、炊事するのに釜が必要とのことで、釜を捜しに後藤上等兵と二人で出かける。

街の入り口では両籠に大きな鯰を入れて、担いで売りに出かける人に出会った。

初めて入った民家では豆腐が出来たばかりであった。

釜は見つからぬので、街に出れば街は賑やかな人出だ。

饅頭屋は作り始めるところで、昨日の残り物がガラスケースの中に五~六個あったので、二人で二個づつ食べたら、饅頭屋は唖然とした表情をしていた。

魚屋が一メートルもある鯉を中心に並べて売っていたので「鯉をくれ」と言ったら「ただでは駄目」と色々と争っていたら、町の人が集まってきて取り囲まれた、二人とも身に寸鉄も帯びてないので危険を感じた時、町の端の方で銃声がしたので町の人達が騒ぎだし、鯉はくれて取り囲んだ町の人達は皆、立ち去った。

太湖上の小さな島であるので、家の裏には小舟が繋いであって、一斉に家族全員が舟に乗って漕ぎだし逃げて行く、二百隻余りの舟の一団は見てても壮観であった。

実は、この島は平和な日常の夜が明けたのに、日本兵の姿を見て、また銃声を聞いて、日本軍の襲撃と思い逃げ出していったのだ。

何だか申し訳無いことになったと思ったが、一斉に舟で逃げて行く姿を茫然と見るしかなかった。

徴発では住民が逃げて誰も居なかったので舟一杯の収穫があった。

鯉は全中隊に分配したが太湖の鯉の味は不味かった。

出征して四ヶ月間の戦場生活での殺しあいの中では、人間の感情は荒んで来るもので、段々と友軍の物以外は我々の物と思われ、人情も薄らいできたなと思った。

健平で賃金を与える事で承認された一人の支那農民を同行させて舟を漕がせたり、荷物の運搬に加勢させていた、名前はペンと呼んでいて良民である。

ペンは太湖の地で証明書と腕章、給料、食糧を与えて帰した。

夕刻になり塩船を捨て、工兵の発動艇に移乗した。

漕ぐ心配もなく爽快に波を蹴立てて進むので、愉快な気分になった。

夜半に大平鎮に上陸、街の中を通って宿舎に着いたのは午前二時だった。

寝ていると胸の肋骨が呼吸する度に痛い、広徳での決死隊で大砲を捜しに出た際、クリークを渡る時に足を滑らして転倒し、胸のポケットに小銃弾を詰め込んでいて、胸を強く打った為である。

何処に行くのか、行き先が心配になってくるが最早、斃れるまで戦う外にないと諦める。

十二月十日 朝十時出発、今は馬がいないので出発準備が楽である。

幅四百メートルの大きな濁流を進み、小さな集落に上陸して、高さ二百メートルの集落の裏山に登り敵情偵察をする。

岸辺では敵水兵三十名を捕虜にしたと騒いでいた。

眼下には揚子江が横たわっていて、水平線の彼方に流れ消えていて、雄大な眺めで川幅は四キロメートルか。

我々の来たクリークに向かって蒸気船が黒煙を濛もうと上げて来ている「敵艦を拿捕せよ」と手旗で連絡すると、下より「観測手よく見られたし」の手旗を受けて良く見れば、船尾に小さな日章旗がはためいていて大笑いされた。

敵影は無く水牛が悠々と草を食んでいて、後方を見れば陸上部隊が続々と連なっている。

夜は山から下りて集落に宿営する。

この集落には発動艇で進撃して来たので、村民は大変な驚きであったとの事で、皆の伝えるところに依ると、赤ん坊を抱いた夫婦が共にクリークに飛び込んだとのこと、平和な村に突然武装した日本軍が侵入して来たので、気も動転したことと思われ実に気の毒だった。

十二月十一日 午前九時、歩兵一個小隊が揚子江を対岸に渡河することになり、対岸を砲撃し援護した。

第二次、第三次と歩兵は渡河し、続いて砲兵も渡河する。

愈々、これから揚子江を下り南京攻略に向かうのである。

出発前の我等の船艇の舷に、赤い赤ん坊の帽子が浮いて見え、水中には支那服を着た赤ん坊の手足も見えた。

昨日、親子で飛び込んだ赤ん坊であろう、罪なき赤ん坊は戦争の犠牲者で、葬る者も無く、哀れさが身に染みる。

この出発の折、四分隊の兵五名が宿舎に忘れ物を取りに戻ったが、若い工兵の中隊長は五名を待たずに宿舎を出発、予定どうりに船艇も出発したので、五名の工兵は取り残された。

我々の部隊は渡河して、その夜は上陸して揚子江の左岸に露営する。

十二月の夜の寒さに震えて眠れず、

歩哨が立っている近くで焚き火をしていたので、焚き火で暖を取る。

微かだけど異様な音が聞こえてくるので耳を澄ます、暗夜を透かして見れば蒸気船が近寄って来る。

支那語の話し声も聞こえてくるので歩哨が「誰か、誰か」と叫ぶと、船は全速力で上流へと向かって行く。

「敵船だ」と歩哨が叫ぶ、眠っていた者も駆けつけて来て、一斉射撃して暗夜は騒然となり、大砲を引き出す者もいた。

蒸気船の姿は見えなくなって「逃げてしまった」と皆で笑う。

暫くしてモータボートが白波を蹴立てて近づく、歩哨が一発射つと、猛スピードで上流へと姿を消す。

十二月十二日 早朝、出発準備をして船艇に乗ろうとした時、遥か下流の水平線より二本のマストの蒸気船に、四隻のジャンクが見えてきた。

千五百メートルまで近づいて来たので砲撃する、砲撃する度に反動で船が揺れるので、なかなか命中しないが修正して砲撃すれば、命中し次々にジャンクが沈んでゆき、蒸気船は一弾命中するも悠々、旋回して逃げられた。

八時、我々船艇部隊は歩兵一個中隊、山砲二個中隊で出発し揚子江を下る。

下っていると十一時頃、折からの霧の中に軍艦二隻、三千トン級汽船三隻が水平線上に見える。

支那軍艦なら僅か四十隻の我が船艇部隊では相手にならぬ、もし敵艦なら一撃で打ち沈められるので、後退して偵察することにする。

葦の繁った入江に入って上陸、観測手として軍艦の偵察を命じられ、一人で葦の中に潜入して、約二キロメートル行った所で良く見れば駆逐艦の前甲板の屋根に英国旗が大きく描かれ、もう一艦には米国旗が描かれていて二艦とも艦砲は天に向かって仰角としているので、戦場の中では一切戦わないという意思表示なので、急いで帰り報告をする。

中隊の大平軍曹が上海で税関官吏をしていて、英語がブロークンであるが話せるとの事で、軍使として白旗を立てて二隻の軍艦に向かわせる。

交渉の結果、通過に意義なしとの事で出発、軍艦の横を通過、すると軍艦からは手を振って挨拶してる、我々も皆で手を振って挨拶をした。

暫くすると、三隻の三千トン級の汽船に遭遇する、三隻とも南京よりの避難民であろう、甲板には黒山の人がいた。

下っている途中、右岸土手に沿い千名に近い銃口がある、

「敵だ、砲撃せよ」との命令で船艇を敵に向かって進行させ砲撃するけど船が上下揺れての砲撃で、砲弾は水中に落ちたり、空高くにとんで行き命中はおぼつかない。

敵は昼食のため、大休止かと思ったら白旗を振りだした。

船艇はどんどん土手に近づいているが敵は大部隊、我々は小部隊なので逆に捕虜になる可能性があるので、工兵に急反転させて土手から離れ、南京に向けて進行する。

遥か水平線上に丸ビルのような建物が見え、窓も明瞭に見えてきた、愈々待ちに待った南京だ皆喜んでいる。

先頭を進んでいた歩兵小隊の船が引き返して来て「両岸は敵が多い」と告げる。

すると、前方からの銃撃が盛んになり、敵銃弾が身辺に唸りを立てて落ちてくる。

工兵の舵手が中隊長に「撃ちますか」と尋ねると「撃て」との返事で、敵に向けて銃撃するが、狭い小船の中は耳をつんざく銃声の音がする。

敵の銃弾は我が船艇に集中し、一名負傷するが船は真っ直ぐ土手に向かっている。

「危ない、船を返せ」と艇長の声だが

舵は高い台の上にあり、誰もいない。

舵手は下段に伏せていたので上がって舵を取り反転させた。

我々の反転と同じく、敵も総反転して逃げてゆく姿が見える。

南京まで、指呼の所まで来たが南京はまだ陥落してないたとの事で、残念だが小部隊では引かざるを得ない。

南京まで三里の地点の河岸に露営する、先ほどの負傷者は危篤とのこと。

クリークの入江に敵の兵船三隻が折からの干潮で船腹をだしていた、船の中には新しい襦袢、布団、毛布が積まれていて、籠には梨があった。

船底には弾薬もあったので三隻を捕獲した。

近くには小学校があって、粗末な建物であったが孫文の肖像画が壁に掲げてあった。

午前十時、轟音で空を見上げれば九機編隊の重爆撃機だが、翼を見れば支那軍機だ、慌てて日の丸の旗を取り外す、頭上の敵機は気持ちの良いものではない。

二百キロ弾、一発で我々小船集団は終わりである。

この日は進撃もならず、入江ですごしている時、艇長が「五~六間はある大魚を俺は見た」と言っているが、誰も笑って気にする者はいない。

皆が「揚子江がいくら大きくても、そんな魚はいない」と否定すると「それでは俺が見せてやる」と言う。

指差す方を見れば、頭を水上に上げたと見ると、後ろに背びれがぬらぬらと見えて四~五間の長さである。

一同はビックリ、はては大蛇か龍かと不思議な思いを巡らす。

 (後で判明したが、それは揚子江

 に住むイルカの群れであった)

十二月十三日 民船を引っ張って来てクリークの入り口に沈めて封鎖する。

封鎖も終わり出発準備の時、揚子江の下流から黒煙を上げて来るのは、日の丸を掲げた日本の駆逐艦だった。

我々は日章旗を高くうち振り、万感胸に迫り嬉し涙が出る、出る、出る。

駆逐艦が南京上流まで来るのは、南京が陥落したのであろうと、我々は出発する。 

一路、南京へと向かう、二時二十分南京到着。

途中の河面は支那人が竹の筏に一人、または二人乗って避難している。

そんな中、日本の駆逐艦四隻が堂々と錨を下ろしていて、心強さを感じた。

南京の南門埠頭の葉の落ちた大木には日章旗が翻っていて、白い大きな洋館には海軍旗が掲げられ、揚子江上には大きな汽船数十隻が停泊しており、日章旗が立てられている。

昨夜、南京中華門より日本軍が南京城へ突入占領したとの事で、南門埠頭も戦場での戦い、まだ覚めやらぬ状況であったが、我々は船艇より上陸した。

埠頭では捕虜に目隠しをして、初年兵に揚子江へ突き落とさせていた。

まだ十数名の捕虜が目隠しをして残っているのを見て、最早戦いは終わったのに戦場の恨みが消えぬのは、戦場で多くの戦友を亡くして敵愾心が、まだ覚めやらぬ部隊であろうか、人の殺しあいの戦場であるので止むに、止まれぬものかも知れないのだろう。

まだ、南京城内は戦闘状態とのことで浦口宿営を命じられた。

中隊は浦口宿営となり浦口鎮に上陸して鉄道官舎に入り宿営する。

以前、取り残されて敵中を漂流した四分隊の工兵五名は軍艦に拾われたとの事で此処で再会する。

浦口の街の中には防空壕が掘ってあって、立派な防空壕があるとの事で

見に行く。

コンクリートで固めた頑強な設備で換気孔、時計、机、電話、換気装置もあり、両側には腰かける設備もあるが、我が軍の空爆の弾痕跡も多く、死体は至る所に転がっていて、紫色になっているものもある。

駅構内に入って見れば線路は飴の如く伸びており、駅舎には大きな穴が開いている。

この夜は歩哨を命じられ、街外れの田圃の所で歩哨を一人でしていたら午前一時頃、大隊本部の兵二名が一人の少年捕虜を連れて来た。

自分の所から五メートル横に一人入りの塹壕があり「これは、よい穴がある」と言って、捕縛してある捕虜を打ち首にして、塹壕の中に転がしこんで、そのまま立ち去って行った。

真っ暗闇の中、人家から離れた場所で一人での歩哨中、今まで生きていた支那兵の死体を横に見て、鬼気迫り地獄の果ての世界かと思った。

人類は何故、非道の世界までして戦争をしなければならないのか、戦争はすべきでは無いのではないか、強い者が、弱い者を抑圧するのが人類の歴史なのだろうか、ふとそんな事が思い浮かんだ。

翌日、鉄道官舎を出発。 道端に斃れている、支那軍服の若い女性兵士を見た。

その姿に、祖国のために戦死した報国の情熱に天晴れなるかなと、敬意を捧げた。

十二月十八日まで休養、魚など取って食べる。

十二月十九日 揚子江を渡り南京城に入る。

高さ四メートルの城壁が延々と続いていて、その城壁には城内から脱出に使用した縄が幾千条と下がり、点々と梯子も掛かっている。

城門は数百俵の土嚢が積まれていて、一部を開けてある所から入城した。

城壁の内側には「信義」と大きく書かれていて、看板には排日、侮日、日本兵が支那人を食っている絵もある。

町中の十字路には四方に銃眼の開いたトーチカが造ってあって、首都の中心街もかかる防備を必要としなければならないとは、国家として悲しい事であると思われた。

獅子砲台の近くの醤油工場に宿営。

翌日は市内見物に出たが、街の中の通りには支那住民は僅かな人数だった。

占領して、まだ二~三日なので住民は住民区に籠り、日本軍の一般兵は住民区への立ち入りは禁止され、住民区に通ずる入り口には憲兵が立っていた

十二月二十一日 獅子砲台を見物する。

十二月二十二日 正月準備を始める。

部屋にソファーなど持ち込んで綺麗にし、ストーブも設置する。

門松も立て正月準備も終わる。

出征後、今日で約四ヶ月となる。


昭和十三年一月一日 

全員で半日を費やし、困難して作った門松は無惨にも引き倒されていた。

戦地で何も無いけど、軍の心ずくしで朝は雑煮で、久し振りの日本酒で乾杯をして正月を祝し、お互いの無事と一つ年を重ねた事を祝い合った。

獅子砲台での連隊の四方拝に出向く。

一月三日 元気旺盛で三日間の正月を終わる。

一月七日 午後三時、出発準備して駅へ向かう。

午後五時、駅での搭載開始、慰問袋など山程あった、夕刻に搭載は終わり宮田曹長の指揮で駆け足で宿舎に帰る。

一月八日 午前六時、出発準備を終わり駅へ向かう、今日まで使用していた支那人を解放し、三十円の金を支払う。

午前七時半、思い出多い南京城を後にする。

田園の中にある家は焼けたのあり、壊れたのあり、主無い家が多い、兵火を避けて人は何処かに去っていないのである。

その田園の向こうを汽船のマストと煙突のみが走っている。

それは揚子江を遡っている汽船なのだ、この広い田園の中で、このような異様な光景を見るのは珍しい。

そこ、ここに戦禍の跡が生々しく残っている、多くの英霊が斃れたであろう、皆の苦戦の様が目に浮かんできて、粛然として知らずに襟を正す。

汽車は広大な平野をひた走りに走る。

貨車の戸より入る風はひどく寒いので、僅かに採光程度に窓を開け、毛布を深くかぶり、小さな窓から移り行く景色を眺める。

貨車の中では談笑が盛んに起こり、貨車の中での長い旅も、時の過ぎるのを忘れ、知らずに眠りの中に落ちる。

鎮江の駅で四十分停車、ここには守備隊もだいぶいて、日本人の酒保もあるとの事で降りて羊羮など求む、戦友の川上一等兵は一抱え羊羮を持って帰り皆を驚かす。

持っていた全財産十円で求めてきたとの事で「今まで羊羮を食えず飢えていても、それ程食ったら腹も収まるであろうな」と野次が飛ぶ。

しかし十円もの羊羮は川上先生も持てあまし、皆で分配してくう。

見るまに貨車の中では羊羮は飛んで売れ、貨車の中は羊羮の皮で一杯になる。

午後六時、武進駅着、集合時一名不在たった為、寒風の中を二時間立たせられ、多分飲んで遅れた者も立たせられていた。

駅内で炊飯し、貨車の中で眠る。

一月九日 明けて再び出発、汽車は広大な中支の田園の中を走って行く。

車中では昨日と同じく皆、重なりあって毛布を被り戦場の追憶談に、故郷の話しに、今日着く予定の上海での事にと尽きない語らいに、笑いつつ過ぎて行く。

午後一時 上海駅到着、駅構内に入れば凄惨な状況で存在する物、全てに弾痕が数多くついている、駅名を書いた板も、柱もいっぱい

弾痕がついている。

多くの家は焼かれて、焼け落ちた煉瓦造りの家にも小銃弾、砲弾の跡が一杯ついていて激戦の跡が偲ばれる。

街は見る影もない全くの廃墟なのだ、我が中隊が行く道々に見るのは

、今までは繁栄を極めた美しい町であったのであろうが、今はそれを偲ぶ町並みは無く荒涼たる焼け跡なのだ。

戦争と言うものが如何に悲惨なものであるのかと思われた。

途中、日本租開を通る、我々は此処ではいろんな物を不思議な感じで眺めた、今まで通って来た街並みと較べて、店頭には商品が美しく並んでいることだった。

日本租界は平和だな、平和であれば、こんなにも店頭を美しく飾れるんだなと不思議に感じた。

それに夢にだに忘れることが無かった、祖国の人が往来しているのには懐かしくてならなかった。

我々は日本人町を初めて異国の地に見て、戦場から帰ってきた為か感激でいっぱいだった。

日本婦人が苦力が引いてる人力車に乗っているのを見ても不思議な感じがした。

我等の顔は真っ黒に戦場焼けし、髭は伸び放題の姿で市中を歩いていると、四十に近い中年の上品な日本の婦人が七~八歳の洋服を着た、可愛い少年の手引いていたが、感謝一杯の目で礼をしてくれ、続いて少年も小学校の帽子を可憐な手で取り、深く頭を下げてくれた。

我々は異国での戦場生活で日本人に会えた懐かしさと、嬉しさと、命を懸けて戦っている我々に、このような感謝を受けた感激で、胸はいっぱいになり熱い涙が、はらはらと頬を伝って流れてゆく。

近寄ってくる貨物自動車の中に乗っている四~五人の小学生が一斉に、帽子を取り頭を下げてくれた姿に、感極まって万感の涙が流れるとはこの事か。

夕方近くに、四階建ての宿舎に着く、屋上に登って見れば眼下に黄浦の濁水が流れている。

幾つも、幾つも大小の汽船が河幅三百メートル位の河にところ狭しと浮かんでいる。

さすが国際都市だけに英国旗あり、米国旗あり、ドイツ、イタリアあり、日章旗も幾つも翻っている。

日本の軍艦が黄浦を我が物顔で浮かんでいる。

上りあり、下りあり、その大きな船の間を、支那に特有の舟乞食か二本の櫂を巧みに操って、いろんな物を拾い集めている、兵隊の投げた残飯を競って拾っている。

ガーデンブリッチの辺りには大きな建築物か数限りなく建っている、そこは諸外国の租界がある所だ。

しかし支那人街を見れば、見る影もなく焼け落ちている。

漸く日は西に傾き、戦禍の上海の街に夕日が沈んでゆく。

一月十日 四階建てで広くて、大きな部屋の中、明るい電灯の下で眠る。

外出は非常に厳しい、炊事は薪も無く、水は冷たく苦心する。

屋上に登って見ると上海の町は遥か彼方まで続いている。

眼下には名高い浦江が流れている、幅は三百まメートル位の河であるが大きな汽船が続々と自由に上下している。

小さな伝馬船も通る、支那人の舟が兵隊の残飯を取りに来ているのが見える。

寒風の中、洗濯物を屋上に干す。

一月十四日 馬の運動で日本人町を走る、日本人がいる中で馬に乗って回るのは、何だか張り合いがある。

一月十五日 中隊で娯楽会を催す皆、いっぱい飲んで盛大だった。

一月十六日 寒気が厳しい、つららが下がって溶けず。

一月十七日 大平軍曹が大阪商船まで遊びに行くと言うので自分もついてゆく。

途中、通りがかりの貨物自動車を止め、乗せて貰って雑作もなく埠頭に着く「サンキュー」を連発して降りる。

大平軍曹は応召前、長崎の税関にいたので、上海には時々来ていたとのこと。

今日は、上海に来ている香島丸に税関の友を訪ねるとのことで、自分も一緒に久しぶりに舟に乗る。

船引の中のホールに立った時、右に、左に白人が、日本人が通る、盛装した婦人も通る。

天井も、床も美しく輝いている。

自分を見ると朝、起きてから夜、寝るまで馬の手入れも、他の仕事も唯一着の軍服のみなので汚れ放題で、馬の毛も沢山付いていて、靴も泥だらけだ。

コップを持つ手を見れば毎日、炊事の際の飯盒の煤で真っ黒だ、自分ながら世にも憐れな姿に思えて、気が引けて仕方ない。

が、自分に「俺は軍人ではないか、しかも半年の間、戦場で戦って来たんだ、この汚い服は名誉でこそあれ、何も恥じることはない」と言い聞かせたが気が引けた。

一月十九日 午前八時、出発準備完了。

埠頭には午前十時着、乗船開始するが小雨になる。

機材、積み込み終了後、後藤上等と脱出しビールを飲む。

午後三時、懐かしの上海を後に泥水の黄浦江を下って行く。

両岸に建っている煉瓦造りの建物には砲弾に依る大きな穴が幾つも開いている、爆撃された重油タンクなども見える。

我等の一週間の宿舎が虚然として岸に淋しく建っていた。

黄浦江を下りつつ幾多の巨船が、色々の国旗を掲げて盛んに往来している成る程、国際都市上海と思った。

小雨の中、甲板に立って去りゆく上海を眺める時「中支よ、さらば」と南京戦の思い出が甦ってくる。

大きな泥海に出た、向こう岸がかすかに見えたり、見えなかったりする揚子江に出たのだ。

流石、世界の大河だ我等、島国に育った者には河とは見えぬ。

ウスンの砲台もこの辺り有るとの事だったが、あいにく雨に煙って見ることは出来なかった。

船は黄褐色の揚子江を下り、河口に出たであろうという頃から船は盛んに揺れ始める、次第に船酔いが始まる。

自分は馬の飼付けに行き、揺れる中で動いていたら気持ちが悪くなってしまい飼付けが終わらぬうちに、皆に後を頼んで船室に帰る。

深く毛布を被り寝込んでしまって、頭が上がらなくなってしまう。

今にも吐きそうになるのを我慢するのは、全くやりきれない額には脂汗が出てくる。

船は何時、何処に着くか知れないので、早くこの揺れが止まって欲しい、一刻千秋の思いである。

まあ、生きている内に陸地に着いてくれるとは思うが、大抵の者は船酔いで飯も食えない。

以前、漁船に乗っていた戦友の川上と中島のみ、皆が青くなっているのを見て、皆の分まで食ってやると太平楽を言って食べている。

一月二十一日 海は相変わらず荒れている、我々の乗るタスマニア丸は白波を蹴立てて波の山を越えては下って進んで行く。

揺れはおさまらず、気分は愈々ひどくなり天を仰いで嘆息する。

午後二時頃だったと思う「山が見える」との声が聞こえる。

我々は山どころの騒ぎではない一生懸命、頭を床に着けていたが「段々、陸に近づいている」との声を聞いて嬉しくなってくる。

「船は今日、港に入る」とのニュースに皆、喜んで目を輝かす「しめた」と叫ぶ者もある。

「陸は下浦であろうと言う者もあれば「大連」と言う者もある「青島」などと自分の想像で言っている者もある

船員の話しに依れば「後ろは禿げ山、前は海で名高い青島」とのこと。

当地は歌でも、歴史でも有名で赤レンガの家、洋館の家がいっぱい建ち並んでいて綺麗な町だ。

歌の文句に有るように禿げ山が連なっていて山は白雪を被り聳えている、海は青く支那には珍しい。

甲板では上海から積んで来た自動車はラジエータに水を入れたままであったので、エンジン部分が破裂したと騒いでいる。

看板に落ちた水は凍って滑るので、歩くのに注意が必要である、海を渡ってくる風は肌を刺すように冷たい。

港の入り口には港を封鎖する為に沈めたという、艦船や汽船数隻が寒い海上にマストや煙突を出している。

一月二十二日 青島は一月十日に日本海軍により無血入城したとのこと。

我等は午前九時より上陸開始、第一次大戦以来、有名なこの地に印象深い一歩を踏む、港の中には多くの漁船が繋がれている。

雪に閉ざされた青島の町を行軍する、町の支那人が少しだが日本語を理解するのには驚かされた。

ドイツ文化の流入により町は大抵が西洋建築で、中には中国人の大きな建物もある。

赤レンガの家が多く、支那の町としては珍しく綺麗な町であるが、

家々は固く閉ざされていて、町の大半は空き家である。

聞くところに依れば一次大戦以来、租借地として日本人が相当移住して来ていたとの事だが、町は犬が歩くのみで寂しいものだった。

そんな中、橋本商店の看板があり、店頭には日の丸と海軍の旗を交差させて掲げ、若干の日用品、食料等を売っていたのにはなつかしさを感じた。

我々が通る蹄の音を聞き、家の中から十七~八歳の娘さんが、三~四歳の子供を抱いて出てきたのには驚かされた。

段々人々が家に戻って来ているのだなと思った。

青島郊外に有る支那工場の職工の宿舎に入り、夢を結ばんとしたが、その夜は厩当番で寒さが身にしみて仕方がないので、松の木を切り倒し雪を払って燃やそうとするが、容易なことでは火はつかず、暫くして「パチ、パチ」と音がして燃え始めた頃、馬が数頭寒さの為、綱を切り放馬したので雪の中、捕らえるのに半夜かかった。

この事により、寒冷地での戦いでは如何ばかりの困難が伴うのかと、不安になった。

半夜を以て当番を交代し、冷たい床に入り寝る。

こうして、青島での守備生活が始まった。

一月二十三日 ドイツが築いた要塞を見物に行く、実に堅固の限りを尽くしている。

兵隊の居る場所は、地下に一メートル余りの厚さのコンクリート造りで交通路、銃座、砲座は昔日のままで、一次大戦を偲ぶに充分であった。

また、当地では寒冷地の為、池に水を張って凍らせて、宿舎の裏の池で軍靴に鉄の鋲があるのを利用してスケートを始める。

最初はなかなか上手く滑れず、足のみ先に行き、体は後方に残ってドシンと引っくり返り、頭を「ギュツ」というほど打った。

皆、懲りずに稽古して滑っている、自分も努力のかいあって十四~五メートルぐらい滑れるようになる。

青島で困ったのは薪がないことで、遂には 遠いところの生木を切ってきて炊飯する始末で困り果てた。

入浴は支那人の浴場に行くが、天井は低くて、湯気の抜け穴が無いので蒸し暑く、息苦しく、話をすれば「ガン、ガン」と耳に響いて不快であること夥しい。

一月二十九日 旅団巡察を小隊長に命じられ、随行して市内を見回る。

巡回により見た青島の感想を述べてみる。

青島は支那では稀に見る美しい町で、家は欧州文化流入のためこざっぱりした家々が並び、海は沖まで青く、海岸には緑をなす松が多くあり、日本の須磨、明石を思わせるものがある。

街の中には日本人街があり、故国日本そのままの建て方で畳がある。

緑の松に覆われた山の中腹に青島神社があって、大きな鳥居、参道の奥には外国では見られない、お社がある。

街の裏に当たる所に西欧式の青島公園があり、其処には忠勇なる兵士を祀る、大きな忠魂碑が建っている。

碑の下には幾多の老いた桜の木が並んでいて参道を覆っている。

青い海を眺めると、彼方に汽船が浮かんでいる。

山を下って行けば、両側には美しく手入れされた庭園があり、この一帯は外人の避暑地とかで外国風の家が存在していて、中からは青い目をした子供が飛び出してきて、珍しそうに我等を眺める。

さらに下りきった所に広い草原があり、草原では支那馬の競馬が催されるとの事である。

また、草原には大きなグランドがあり、青島に於ける体育の盛んな様子が窺える。

草原の先は海になっていて、波が砂を洗っている。

夏には砂浜は海水浴場になるとのことで、海岸には赤と青に塗られたボートが砂の上に放置されている。

夏場は、光輝く太陽の下に赤、青、黄と色とりどり海水着に、この美しい浜辺は埋め尽くされる事であろう。

海には魚が多くいて、釣も面白いとの話であつた。

我等の連隊にも酒保が設けられビール、羊羮、日用品等も売られ始める。

蓄音機も来て、故国の歌を聞く事が出来るようになり、我等は音楽というものは出征以来、遠のいていたので、流れるように高く、低く、美しい音律は、我等の耳を恍惚たらしめるのに充分だった、

自分は夕方の暇をみて、戦友と出かけて聞いた、多くは軍歌だった。

一本のビールを中島、川上と両三名で互いに飲み交わしつつ聞いたものである。

軍歌は「国のため、涙も見せず、心おきなく、励まして、我が子を見送る、朝の駅」悲痛な音律が流れるに従って皆、粛然となり耳を傾けて聞く「男と生まれて、戦場に、銃剣取るのも、国の為、日本男子の、本懐ぞ」誰の顔にも血の気はのぼり、目は耀いている。

今まで、戦場で生死の境を往来してきた心を誰も慰めてくれる者も無く、故国の優しい慰めの言葉を聞き、感動で胸が潰れそうになる。

「生きて帰ると、思うなよ、白木の箱が、届いたら、でかした我が子、天晴れと、お前の母は、誉めてやる」誰も語らずに、涙が出るに任せて聞いている。

祖国の人の感謝の言葉を聞いて、どっと堰を切った如く、感激は胸を覆う。

本当に、命を懸けて働いてきた我等を、充分に察してくれているという感謝であり、思われるのは戦場に於て隣に斃れた戦友のことである。

軍歌を聞いて思うことは、祖国の為に斃れた戦友を思えば、護国の鬼となり尚、祖国を守り、我等は今尚、銃を取っている。

来るべき戦場では、必ず祖国の為に戦い、君のもとへ行くぞと誓う。

「強く雄々しく、軍国の、銃後を守る、母じゃもの、女の身とて、伝統の、忠義の二字は、変わりゃせぬ」銃後の決然たる覚悟を聞き、暗い電灯の下でそっと涙を拭う、誰の頬にも涙が光っている。

戦場に行けば、今日の命すら判らない日々を送らねばならない、軍歌を聞いて、やるせない心がいくらか慰められた気がする。

皆、何回も、何回もこれらの歌を繰り返し聞いて、歌を覚えようと一生懸命に稽古した。

青島で出征以来三回目の慰問袋を頂く、我々は戦地では毎日慰問袋を頂けるものと思っていたのだが、半年間にやっと三回目の慰問袋を頂く、第一回目の慰問袋は三十名に一個の慰問袋で、自分は鉛筆一本を有り難く頂戴した。

その日は夕食後、下給の酒を少々頂いて皆、上機嫌のところ慰問袋が来たとの声を聞いたので、室内は割れんばかりの騒ぎである。

慰問袋は各人に一個は手渡された。

皆、さっそく慰問袋を開けると思っていたが、なかなか開けずに手で触ってみて、中に何が入っているのか

な、他人の所まで出張して互いに外見から中身を推察している。

縦から、横から、上から、下から眺めて喜んでいる。

皆、どんな物が出てくるであろうかと、色々想像して楽しんでいるのだ。

それは丁度、子供が長い間欲しかった物を、買って貰った時のような喜びであり、その喜びを少しずつ楽しもうという算段なのだ。

慰問袋の発送人の名前を見て「これぁあ、美人らしいぞ」と叫びあっている。

そんな風な楽しみが終わると皆、一斉に開けるのではなく一人、一人の袋を皆で眺めて開けるのだ。

其処、此処で四~五人づつ固まって歓声を上げながら開けている。

風船が出たと言って髭の大人が、やんやと風船を突き回している。

室内は全く歓喜の坩堝だ。

自分の慰問袋の送り主は、新潟市の根岸サハ子さんなる麗人で中から褌、ドロップス、俳優のプロマイド、手拭いが出てきて、さらに一枚の写真が出てきた。

写真は御自身のものでニッコリ笑っている、裏を見れば当年二十二歳と書いてあり署名がしてある。

誰かが写真を「おお凄い」と手を出して

取って行き、皆が「やんや」と引っ張り回して見ている。

写真は粗暴な取り扱いで、引き千切れて紐がくっつけてあるのみで苦笑せざるを得ず、千切れた写真を有り難く頂戴した。

恋心など無かったがお礼の手紙を出す、が鉄砲の弾で返事はなかった。

その後、皆のところには返信が色々と来ていたが、自分には返信は無く、少々寂しかった。

その後、青島に避難民が上海から続々と帰って来る、街の空き家には煙りが立ち上がり始め、寂しかった街は黒い服の支那人で賑やかになってくる。

こうして、二月となり、三月となり、四月となり桜の花の蕾も日増しに膨らみ、中には白い花びらも見られる季節になった。

春の日差しを浴びて、日本娘が明るく、美しい振り袖の着物を着て青島神社に参拝に来て、ほころびかけた桜の木の下を過ぎて行く。

青島神社の桜の満開を待たずに、我々に出発命令が来た。

同胞の「万歳」の声に送られて数十日間、住み慣れた宿舎を後に出発する。

去り行く街の家、宿舎を見れば故郷のような感じで、懐かしい思い出を残して去って行く。

午後四時、高密なる駅で下車、再び戦場生活が始まる、馬の水飼をしようとすれば水は無く、飯を炊こうとすれば薪は無しで、春の日は暮れやすく夜になる。

その夜は、郊外の支那軍兵舎の跡の宿に着く、明日の準備が終わり土間で眠りについた頃は、十一時過ぎであった。

昨夜は夜目で解らなかったが、夜が明けて見れば大きな兵舎であるが、粗末なもので至る所の壁に排日文句が書いてあったが、書いてあった文句は、今は記憶に甦ってこない。

四月十日 午前八時出発、愈々目指す戦線へと急ぐ、戦線では第二中隊が苦戦しているとのことだ。

今、畑には麦が寸と伸びて見渡す限り緑の絨毯だ、それに明るく、暖かい太陽が輝いていて、のどかな春だ。

そんな中に、北支特有の土の家が四~五十軒づつ集まって部落を形成し点在している、柳は未だ芽を吹かず。

木はごく少なく、畑の中にある墓地に檜の木が数十本づつ見えるのが、広いばかりの麦畑に風情を添えている。

麦畑は行けども、行けども尽きることを知らず地平線まで続いている。

一月以来の行軍で皆、足に豆が出来て世にも憐れな格好で歩いている。

友軍が苦戦しているので応援の為の強行軍故、足の痛みを堪えての行軍で、皆の苦心惨憺は一方ならず。

また、周囲には敵多しの情報により、警戒は厳重である。

自分は小隊長と、川上で尖兵として一個分隊の歩兵と共に先行する。

我々、乗馬の者は暖かい太陽、麦畑を渡ってくる心地よくて、そっと頬を撫でて、さっと通り過ぎて行く涼しい風で快い気持ちになる。

午後、中隊から宮田曹長と二人で大隊の設営に行く。

飛ばす、飛ばす馬は汗ぐっしょりで疲れてしまう。

装具に堅確でないのがあり、水筒など落として大騒ぎする。

戦場で必須なのは装具の堅確ということで、自分も北支の戦闘で堅確の大事さを経験した。

戦場では必要最低限の物しか皆、持ってないので紛失したら補充が出来ず以後、困難な状況が続くからである。

どれも必要であるが水筒は特に必要である、水筒が無ければ水が飲みたくても、次の水源地まで水が飲めなくなる。

水の乏しい北支では泥水であっても飲んでいた、汚なくて飲めないと言っていれば、命の方が危なくなる。岳講なる部落に宿営する。

皆、足を出して見ると五つも、六つもの豆が出来ていて「ヒイ、ヒイ」言っている。

中には、「足じゅう、豆ばかりになった」と言って、笑っている者もいる。

誰も、背嚢の中の不必要な荷物は勿論、必要品も捨てている者もいる。

自分も背嚢をかついで馬に乗る、馬が可哀想なので、戦争と生命に必要の無い物を捨てる、自分が塵紙を捨てたら「そんな物は捨てても、持っていても同じじゃないか」と皆笑った。

しかし、このような状況になると苦痛に耐えかねて、塵紙一枚でも軽くしたいと思うのが人間の性なのだ。

夜は、南京虫の総攻撃を受けて眠れぬので、外の高粱畑の中で馬の汗臭い、馬の毛だらけの毛布を被って眠りに落ちた。

四月十一日 皆の足は豆だらけのため、びっこを引き、引き背嚢を背負い、馬の手綱を取って今日も広い、広い麦畑を南へ、南へ、戦線へ、戦線へと行軍して行く。

振り返って見ると長い、長い隊列が麦畑の中を砂塵を上げて続いている。

午後四時頃、ある城の場外で宿営する、城壁だけは見るからに大きく立派なものである。

路上に馬を繋ぎ、皆は先ず足の手入れをする。

豆で足の皮は剥げて赤い肉が出ている。

この状態で、重い軍装を身につけて一日、七~八里の行軍はやりきれたものではない、故国でこれ程の豆が出来たら皆、動く者は無く寝込んでしまうだろう。

だが、身は戦場にあり、友軍が敵に包囲されて苦戦していると聞けば皆、一言も不平、不満を発せず黙々とびっこを引き、引き行軍して行く。

自分もびっこを引き、引き歩いている者と乗馬を交代して歩いていたので、足に二つの豆が出来た。

青島での駐屯生活で二~三ヶ月の間

あまり歩かなかったので、足の裏の皮が軟らかくなってしまったのだ。

人間は進歩しなければ、退歩するものである。

ある一定に達したら、其処に留まると思ったら大間違いで、何にもしなければ留まることなく、どんどん落ちてゆく、ある一定に達していても前進する精神力が必要だ。

この城は我等の先発隊が占領した所で、今は兵站が設けられていて、我等も、馬も共に食糧の下給を受ける。

聞けば毎夜、敵の襲撃を受けるので、警戒を厳重にせよとの事である。

我等の馬の手入れが終わった時、日本語を話せる三十歳近い支那人がいたので、腰を下ろして話をする。

彼は青島で日本人の家で働いたことがあり、この地一帯は日本語を話せる人が多いとのこと。

彼が日焼けした顔で笑って語る所によれば、支那の軍閥は非道を極めて金持ちの金銭は全て徴発され、穀物も強制徴収され、若者は皆、兵隊に取られて行ったなどと語り続けた。

夜中は小銃の音が少々していたが、たいした夜襲は受けなかった。

四月十二日 早朝出発する。周囲は続く限りの青い麦畑で、南に下るにつれて柳も芽吹き始めており、足の豆さえなかったら、誠に心地良き行軍なのだが、足の豆が一切の快感というものを奪って豆の痛みのみ、づき、づきと感じる。

皆、顔をしかめて一言も語らず、痛みを我慢してびっこを引いて行軍するのは、泣くに、泣けずとはこの事であろう。

午後、宮田曹長と二人で設営隊となり、馬を走らせて砂埃を上げて先行する。

地図上の目的の部落に着いて見れば、家々は全焼しており四囲の土壁のみが燻って残っているのみだった。

宮田曹長と二人で部落の中を馬で中隊の宿舎を捜していた。

焼け跡から畑に出る所に四~五人の黒く汚い支那服を着た農民が、狡猾そうにニヤニヤ笑って頭をちょと下げて挨拶をする。

宮田曹長は神官をしている人であるが、中隊でも面白い事を言う人で有名である。

我等は馬を止めて支那人を呼んだ、農民は恐る、恐る近づいて来た。

曹長は「来来、来来」を連発して足元の所まで近寄せた。

どうするのかと思えば、近づいたと見るや、さっと軍刀を抜いて空を斬り、彼等の頭上を掠めた。

自分も驚くのも、驚いたが、一瞬にして支那人達は真っ青になったと思ったら蜘蛛の子を散らす如く一散に逃げて行った。

曹長は悪戯をするのが好きな人であるが、随分と凝った悪戯をするものだと可笑しかった。

その夜は、近所にあった野菜に舌鼓をうち、青天井に高粱を敷き、馬の毛布に外套を被り、行軍の疲れで夜の寒さを忘れて深い眠りに落ちた。

四月十四日 朝まだ暗いうちに起きて馬の水飼、飼付け、朝、昼食の炊飯を終わり朝食を摂り、馬に鞍を置き、自分の装具も整えて、午前七時に出発する。

途中、行く手の小高い稜線に点々と黒い影が動くのを見て、敵かも知れぬとの事で二~三発砲撃する、砲弾の炸裂で黒い影は何処にも見えなくなるが、段々と敵襲の情報が入る。

夕闇が迫る頃、曲がり道の所であろうか、 多くのサーチライトがビカリ、ピカリと次々と麦畑を照らしては方向を変えている。

昔そのままの生活をしている、荒莫とした地の麦畑の大平原に、かかる光は不思議な感じもするが、都会の夜の光の美しさも久しく見ていないので、実に美しいものであった。

自動車部隊の話に依れば先刻、敵襲を受け隊長某中佐、並びに十二~三名の戦死者が出たとの事、この事を聞いて我々も豆だらけの足に緊張が走る。

その日は暮れてから麦畑の中の某部落に宿営する。

中園上等兵が衛兵に行くので「今宵は敵襲が有りますぜ、しっかり頼みますよ、我等は此処でゆっくり休みますからね」と言って笑い合う。

夕食には鶏の肉が食前に上がり、大変な御馳走であった。

此処まで南下すると民家の造りもだいぶ変わってくる、オンドル式の土の床でなく、家には粗末な竹の寝台が数個ある、その寝台を皆、競って取り合うのである。

自分にはかかる物は手に入らず、宿舎も狭いため数日前まで馬が居たらしい厩に多くの麦藁などを敷いて、一日の疲れを感じながら眠る。

四月十五日 中園上等兵は眠そうな目をこすりながら帰って来た、昼は全力を出しての強行軍、夜は寝ずの番で心身の疲れは想像以上であろう。

前線より「速やかに、急追すべし」との無電命令を受け、早朝から今日も再び、相も変わらぬ広い麦畑を南へ、南へと行軍するが、行けども、行けども山らしきものは見えない。

灰燼と化した部落の中を通過する時、中央の路上で軍用自動車が一台焼かれている、車体は燃えていず、タイヤは灰になっていた、その灰等から察して襲撃を受けてから、そんなに時間は経っていないと思われた。

前面のガラスは銃弾を数発受けて粉々に砕かれ、車体も銃弾で撃ち抜かれている。

運転台は、どす黒い血で染められ、軍服の千切れたのが散乱している、戦闘帽も自動車外に落ちていた。

単身、任務を帯び任務遂行の途中、

敵の襲撃を受け、どんなにか苦しんで斃れていったであろう。

死体を捜したが、近所には見当たらなかった。

我等は友軍兵士のこの悲痛な最後の姿を見て、我々も戦場の連絡係につくので、敵に発見され一歩間違えば、このような悲惨な事になると思い知らされ、胸をかきむしられるようだった。

正午頃、広い浙河なる河を渡り大休止となる、岸辺には馬を繋ぐ所も無いので、手綱を足にくくり、馬にも袋で餌付けして昼食を摂る。

その時に少し強い風が吹いて、砂が舞い上がり昼飯は砂飯に変わり、馬は口に付けた汚い餌付け袋を振り回すので、食べられたものでない。

昼食は終わり出発、行軍中に麦畑の中に立っている石に、日本兵に告げると平仮名の日本語で長々と書き連ねてある。

その要旨は「日本兵士諸君よ、兄等の故国には老いたる母、恋しい妻子が一刻千秋の思いで待っているぞ。何のために我等と戦を交えて相殺すのか、我等は兄等と同胞ではないか。

兄等は日本軍閥のために身を戦場に晒しているのだ。兄等の敵は支那ではない、日本軍閥なのだ、軍閥を殺せば兄等は楽しい家に帰れるのだ」などと連れんと書いてあり、軍閥の所には赤丸が付けてある。

多分、日本に留学でもした者が書いたのだろう。

其れを見て皆、嘲笑して珍しそうに笑って行く。

「我等が支那兵に言うことを、先方がお先に書いてあるは」と言う者もある。

この様な事をしても何の効果があるものではない、日本から支那の方にこのような事をしても効果はあるまい。

広い麦畑を行軍中、行くてに盛んに機関銃音が聞こえてくる。

早くも敵が来たのかと思っていると、小銃弾が頭上を「ヒュー」と掠めて飛んだと思うと、続いて「ヒュー、ヒュー、ヒュー」とチェツコの銃弾が飛んで来て麦畑に白砂を打ち上げる、その度に「プス、プス、プス」と変な音を出す。

広大な麦畑の真ん中での出来事である、急いで身を伏せるが麦は五寸と伸ぶや、伸ばずで隠れようとしても、隠れる術は無く、まして大きな馬と共にいるのだ。

久し振りの銃弾の洗礼だ、

銃弾は身辺に落ちて砂煙を上げれば、やはりよい気持ちはしない、知らずに身は緊張する。

早速、自分は馬の背の器具箱より砲隊鏡を取り出し、畑の中に立って懸命に覗き見れば五~六百メートル向こうの麦畑の中に居るは、居るは盛んに展開の最中で黒い姿がチラ、チラ、チラと右に、左に動いている。

直ちに中隊長に報告、中隊の砲列は敷かれ、砲弾は砲口を離れ「シャリ、シャリ、シャリ」と麦畑の空に打ち上げられ敵陣で爆裂、その爆裂に驚いて敵兵が右に左に走り回っているのが手に取る様に見える。

敵の小銃弾、チェツコ弾が盛んに飛んで来る。

皆、麦畑に鉄兜を被り伏せている、器具箱の後ろに行って隠れている者もいる。

自分も背中にあった鉄兜をしっかり被る。

銃弾の来ない時には、鉄兜を頭に被るのは重くて仕方がないものであるが、銃弾が来るときは、妙に重さというものを感じないのである。

砲弾の着弾を観測し中隊長に報告すれば、中隊長は報告により方向、距離を修正しつつ、次々と砲弾は放たれゆく。

次第に接近しつつあった敵は、我等の物凄い砲撃にあい退却を始める。

我々の後尾を行軍していた野砲も砲撃を開始し、砲声は殷殷と青い麦畑を圧して振動する。

宮田曹長が敵の銃弾が転がっているのを拾い珍しそうに眺めている、自分も行って見れば、螺旋の入った敵弾はまだ熱かった。

「此が当たれば南無阿弥陀仏か」と誰かが言って大笑いした。

我等は敵の退却を見て前進しょうとするが、前方の部落に居るのは敵部隊ではないかとの疑いもあったが、前方部落の兵隊はどうも友軍らしいとの連絡があり、再び麦畑のなかを行軍する。

皆、疲れていて足の豆の痛さを紛らわすためか「敵でも出なくてはかなわぬ」と言っていたのに、敵に遭遇し敵が逃げ出したので「一休み出来た」と言って喜ぶ。

敵の襲撃にあい手間取ったため、夜になっても行軍する。

今夜中に目的地まで行くとのことで、まだ二~三里はあるとのことだ。

数日来の強行軍で足は豆だらけの、体は疲れきっていて、暗い麦畑の中で「もう歩けぬ」などと言って座り込む者もいる。

しかし、近辺には敵兵がいるので「歩けぬ」などと言っておれず、また立ち上がってびっこを引き、引き後をついてくる。

今、思い出してみると皆、歩ける状態ではなかったが渾身の力を出して歩いていた。

歩いて、ついて行かなければ、敵の中に残され命の保証はない。

戦闘中に命を落とすこともあるが、今、歩くことを止めると言うことは、その時点で死を意味する。

戦闘するのも命がけ、行軍するのも命がけだ。

我々の部隊は人も、馬も粛々と声も無く歩いて行く。

途中、小さな川を一つ渡った所に、山砲第一中隊の下士官が道案内役で迎えに来ていた。

見れば鉄兜を被り、手にも軍刀をしっかりと握っているのが夜目にもはっきりわかった。

下士官は迎えに来たこと、戦闘の状況を大隊長に報告していた。

自分は中隊より大隊本部へ連絡として来ていたので報告を大隊長の後ろで馬上で聞いた。

報告の内容は「本日、午後一時をもって総攻撃は開始され随分激戦であり、山砲第二中隊は朱鎮なる部落で籠城を続けている」との報告だった。

敵は砲兵も相当いて、すこぶる頑強らしい。

我等は麦畑の中を一戦へ、一戦へと夕食も取らずに急いだ。

師団司令部に着いたのは午後十一時過ぎである。

ここで一時間の大休止あり、皆は寸刻を惜しんで、そのまま麦畑の中にばたりと横になり、なったと思ったら深い眠りに落ちている。

自分は馬の手綱を足に結わえて眠れば、しょっちゅう馬が麦を食べようとして足を引き回すが目覚めても起きず、そのまま次に足を引かれるまで眠るのである。

第一、第二中隊は、だいぶ戦死傷者が出ていて、この近くの野戦病院に収容されて何処からか知らせが入ってくる、愈々第一線だと思われ、身は一挙に緊張する。

第一線配属を命じられ、我が中隊は直ちに出発する。

一線に近づくにつれて夜半を過ぎようというのに小銃弾が盛んに「ピユー、ピュー、ピュー」と来る、来る、来る。

身辺を掠める銃弾の音に飢えも、疲れも忘れてしまう。

夜間の事なので第一線本部も解らず、陣地も不明で手間取るが、第一線本部との連絡はつき、我等も砲車陣地を敷く。

敵は閃光弾を射っているとみえて幾十条の真っ赤な光線が縦に、斜めに描かれて全く美しいが「プス、プス、プス」と気味の悪い音が盛んにする。

暗闇の中に「看護兵、前へ」の声が聞こえてくる、一名負傷との事、伝え聞いたところに依れば腹部貫通とのことだ。

敵銃弾を遮る何物もない広いばかりの麦畑の中なので、暗夜の射撃とはいえ敵弾も命中するのである。

敵は死にもの狂いであろうか、まあ盛んに射つ、射つ、射つ、誰か「馬がやられた」と言っている。

近くに、ちいさな土の家があったが銃弾が当り「パチッ、パチッ、パチッ」と音を立てている。

その近くのクリークの水にも「プシュ、プシュ、プシュ」と銃弾が落ちていて、気持ちが悪いこと甚だしい。

そんな中、第一線大隊本部との電話が通じるようになる。

馬は、少し後方に小さな墓地が並んでいたので、そこにいた小野一等兵に預けた。

我等は観測場所を土を掘ってつくる。

皆、十日に近い行軍の疲労も、夕食を摂らないことも、飛んで来る敵銃弾の音で忘れ、一生懸命に塹壕を掘る。

皆、掘った塹壕の中で一休みする。

中隊長は「右側方の部落に友軍が入っていたので何時、敵が入るかも知れないので警戒を厳重にせよ」と命じられたが、我が友軍の状況は全く解らず。

一度、塹壕に入ると頭は上げられぬ「ピュッ、ピュッ、ピュッ」「バチ、バチ、バチ」と銃弾が飛んで来る。

自分は鉄兜を被り、顔だけ出して右側方の部落を警戒する。

前方の部落より「パッ、パッ、パッ」と発火するのが見える、敵が暗闇にも関わらず射っているのだ。

我が軍の大隊砲であろうか、焼夷弾を撃ちだすと、みるうちに部落の左隅に火がついたとみえてボーツと燃え上がる。

こうして、夜は刻々と更けてゆく。

ところが左後方を中隊長が指差して「何だろう」と言われる、暗闇を透かして見て「何者かが立っている、敵ではないか」と言われる。

自分は「それでは、行ってみましょう」」と伺うと「では、行ってみよ」との事で、原田上等兵が持っている銃を借りて着剣し、弾を装填して麦畑の中を這って近寄ったが、何の変化も無いので、なお近づくと一本の木が風に揺れていた。

可笑しくなって一人で笑ってしまった、それた同時に「何だ、つまらないな、一発で仕留めるところだったのに」と残念にも思った。

四月十七日 戦線の夜は、ほのぼのと明け始め、歩兵よりの電話で「今から、突入するので援護を頼む」との連絡で、前方部落に向け砲撃の火蓋は切られた。

我が中隊の一個小隊は別場所の守備に行っているので、砲は二門しかないが、大地を震わして発射された砲弾は敵陣に轟然と炸裂し土煙りを中天高く打ち上げているのが眼鏡で見える。

まだ明けやらぬ払暁に「わあー」と言う声が、冷たい朝の空気を震わせて聞こえる。

我が軍の歩兵部隊の突撃だ、眼鏡を目にあて離さず見れば、鉄兜が土壁を越えて行くのがチラ、チラと見える。

この光景を見て、思わず身震いをした、中隊長に「我が友軍は今、突入しました」と言う声は感動で震えていた、土壁の一角に日章旗が大きく振られているのが見える。

中隊長の「前方、敵の主陣地を奪取せり」との声に皆、ほっとして喜ぶ。

犠牲を伴う歩兵の突撃には、砲兵全員が成功を願って懸命の砲撃をしているが、残念に終わる事もある。

中隊も続いて前進、右側から銃弾の雨が来る中を、各個前進で走って行くのである。

戦場での敵弾、雨霰と来ると言うのは何と大袈裟な表現と思っていたが実際、第一線の戦場に於いては正に敵弾、雨霰と来るように感じた。

敵弾、雨霰と来る中を走っていると

「ピュー、ピュー、ピュー」「プス、プス、プス」と音がする中、戦死するのは今か、今かと思いながら自分も走って行く。

前方を走っていた歩兵の弾薬車が敵の地雷にかかり吹っ飛ぶ、幸いにして人馬共に助かって、車の輪が吹っ飛んだのみだった、全くの奇跡である。

戦場に於いては奇跡と言うものが多くあるのである。

馬を森の陰にやったが至る所、敵弾下にさらされて何処も居場所がないのである。

森の中も地雷で危険とのこと、森と言っても此の地によくある畑の中の墓地に十数本の檜が植えてあるのみ。

我が山砲は我が軍の前の陣地と、敵部落との中間に砲列を敷くことになる。

自分は馬を人に頼み、砲列を敷いた陣地より出て行く、友軍の掘った塹壕があったので、それを観測所に選ぶ、そこに中隊長、曹長、小隊長も来る、敵のチェツコ弾が頭を撫でて通る感じがする。

自分は敵情がよく見えないので前進して、膝までぐらいの程良き小さな穴があったので取りあえず、その穴に入り砲隊鏡で敵情を探索する。

敵がいる、いる、いる身の丈程の塹壕の中から鉄兜だけを出して討っている、チェツコ弾が鉄兜を掠めて通る。

その時、一人の歩兵が連絡の為であろう、自分の側まで走って来たと思ったら、バッタリ倒れたので振り返って見れば「危ない、危ない」と笑っている。

自分は「ここは、弾が来ますぜ」と言っていると「シュル、シュル、シュル」」と迫撃砲弾が飛んで来て、二~三間後ろに「ドカン」と着弾した。

全く驚いて目を開けて見れば、藍色の硝煙が一面に拡がっている。

倒れていた歩兵は「こりゃ大変だ」と自分の顔を見てニッコリ笑い銃を手に取り走って行った。

後方では、中隊長は自分の姿が見えなくなったので「やられたぞ」と言っていたとのこと。

硝煙が晴れて、自分が笑っているのを見て安心して皆、一斉に笑っていた。

迫撃砲の第二弾が来たと思ったら、砲車の後方に落ちて、山川少尉が負傷した。

我等も小癪なと思って砲撃すれば、迫撃砲弾は来なくなったので有り難かったが、相変わらず小銃弾が来る。

中隊長が「そこから敵が見えるなら、撃ってみよ」との事で、自分が号令を出して撃ったが、残念なことに砲弾はいっこうに敵の迫撃砲弾陣地に命中しなかった。

中隊は前進の為、再び陣地を変える。

山川少尉は手と、足の負傷の為、右手は三角巾で吊り、左手は足の負傷の為、杖をついて野戦病院に向かった。

部落に入ると、入り口の所に井戸があるが、付近には白い粉が散乱しているので多分、毒が投入されたであろうとの事だったが、我等は昨夜以来飯もなく、幾度か敵弾下を疾駆して水が欲しくて堪らないので、側に汲んであった水を、ぐっと飲んだ。

死ぬも何も、水の欲しさに考える暇は全く無いのだ、死んでしまえばそれまでと皆も飲んだ。

部落の右端は焼け落ちて煙りを上げているが、北支の家は周囲が土壁なので、土壁は依然として残っているが、屋根は焼け落ちて無くなっている。

歩兵は占領後、直ちに左に回ったので、右端は掃討していないとの事である。

自分は偵察を命じられたが、観測手で銃は持ってないので、銃剣を抜いて焼け跡の土壁を伝って行く。

後藤上等兵も後に続いて来る、用心しながら行くと家並みを出て畑に出る。

敵はいない、直ちに報告すれば中隊の砲は、そこまで移動して来る。

そこからは、身の丈程の敵の塹壕が蛇行して、七~八百メートル向かいの部落まで続いている。

塹壕は実に堅固を極めている、

敵は向かいの部落の塹壕の中から、あいも変わらず射ってきて、銃弾は身を掠めてゆく。

左翼の方でも盛んに銃声、砲声が野を圧して響いてくる。

眼鏡で見ると、塹壕の前に大きな木がいっばい並べてある。

歩兵が突撃する際、大きな木を越えようとする時、機関銃で一斉射撃し歩兵の突撃を阻もうとする物だ。

敵の塹壕には鉄兜、戦闘帽が動く、時たま蛇の様に首を上げて、我等の方を眺めている。

小癪な憎き奴等にバッチリ砲弾が当たらぬものかと思う。

「右側の警戒が必要」と言うので、また自分は銃を借りて一人で行く。

もし、家の後ろから敵が来たらなど警戒していると、岩本一等兵がのこのこやって来る。

この人は、三十五~六歳の年配の人で、顔には針金のような髭が伸びていて無表情で面白いことを言うので人気のある人だ。

「衛藤、敵はおらんかい」と言いながら来る、自分は二尺足らずの土壁に顔だけ出していたので「いる、いる」と返答すれば「へーん」と言って屈んで来る、敵を指差せば「うーん、居るわいのー」と頷いてみせる。

我等を中隊の者が呼んでいるので、二人で帰る。

暫く行った時「ドカーン」と迫撃砲弾が落ちたので、振り返って見れば、これは如何に、さっきまで自分達がいた側の木に迫撃砲弾は命中して、木は途中からポッキリ折れている「危ない所であった」と走って帰る。

砲車の所では、中園上等兵が代わって眼鏡を見てくれていたので交替する。

砲車分隊長は原隊に於いて同中隊で同班にいた二年兵の光吉伍長である。

彼が自分を見て「衛藤、お前が中隊長じゃ、お前の言う通り撃つぞ」と言っていたので、自分も良い気持ちになって、敵陣に落ちる砲弾を観測して修正する。

こうしている間に砲車を下げるとの事で、自分も砲隊鏡を背曩に入れ背負って部落の中に入る。

飯を炊いてくれてあるとの事で、皆の所に行ってみれば、多くの負傷者が収容されていて呻吟している。

背に、腰に、腹部に傷があり軍服は鮮血で染まっている、顔の色は皆、青色だ、果たして助かる事が出来るだろうか。

再び砲声が聞こえるので、砲撃が始まったと思い観測に走って行くと「光吉伍長、負傷」の声を聞く、自分は脳天を叩かれたような気がした。

伍長とは出征以来「お互いに骨は頼むぞ」とあれほど言い交わした仲ではないか、それも先刻まで冗談を言って、笑いあっていたのにと、走って行けば、向こうから来る戸板に乗ってる人を見て、はっと胸をつかれた。

変われば、変わるものだ先刻の元気は、笑いは何処へ。

頸の所から止めどなく鮮血が流れ出ている。

手も、軍服も血がべとべとに付いていて、顔の色は全くの土色で、目は虚空を睨んで動かない。

思わず「光吉伍長殿」と呼んだ、二度、三度。

戸板は置かれた、心が通じたのか、意識してか、無意識か自分の手を、ぎゅ、と切れるかと思うほど握った。

さぞ苦しいだろう、最後の苦しみに耐えかねて、手に触った物を力の限り握ったのであろう。

この変わり果てた姿を見て、涙で言葉はでなかった。

これが戦場の常とは言え、残念でならず自分の水筒を取り、口に当てがったが口か「ごろ、ごろ」と鳴って、僅かの鮮血を出して心臓はぴたりと止まった、時は十一時十分。

再び帰らない亡骸をとりまいて皆、一言も語る者はない、無念の涙が腹の底から湧いて来るのを禁じ得なかった。

誰かが合掌させた、土色の硬い手は組んだままじっとしている。

「光吉伍長殿、必ず仇は討ちます、この身は死んでも仇を討たずに、死ねるものではありません」と誓った。

遺骨として指は切られ、穴は掘られてゆき、看取る親身の者も無く、所も知らない異国の土に埋もれてゆく。

兄とも仰ぐ戦友を一瞬にして奪われた、その悲しさ、淋しさは言うことも、書くことも出来ない。

自分が「かねがね遺骨は頼むと言われていたので、遺骨は自分が持ちます」と言い出すと、我等の分隊長は「我等に依って遺骨は送る」と言って聞かぬので、さもあらんと思い、懐かしの戦友の遺骨は分隊長に託す。

我等も再び砲撃、再び歩兵の勇敢なる突撃で前方部落を占領。

我等、砲兵も速やかに後を追って、飛び来る敵弾の中を十メートル間隔

をおいて、一生懸命走って行く。

昨夕より、今まで一粒の米も咽を通っていないのだ、足は千斤の重みを付けた様に自由がきかず、もつれて倒れそうであるが馬の手綱をしっかり握り、倒れてはならじと走りに走った。

部落の土壁の所に着いた時は、倒れそうだった。

占領した部落に行って見れば、敵は逃げた後で家が焼けているのあり、敵の銃が落ちているのあり、支那兵特有の笠が転がっている。

取りあえず飯をと飯盒を取り出して、川上一等兵と分けあって食べようとするが一口、口にしても咽を通らない、漸くのことで一口飲み込み腹に収めたが、後はどうしてもつかえて咽を通らぬ、川上も一口しか食えぬとで飯盒は鞍曩の中にしまう。

中隊は占領した部落の先端に出て砲列を敷く、自分も砲隊鏡を据えて観測する、

相も変わらず小銃弾が唸りをあげて飛来し、パッと土煙りを上げて落ちる、耳を「キューン」と掠めて通ると、その空気の圧力で耳が「ジィーン」とする。

七~八百メートル向こうに、少し高い立派な城壁が見える、少し手強いと思われるが砲撃を開始する。

暮れかかった城壁に「パッ、パッ」と砲弾が炸裂している。

夕闇も迫る頃、右翼隊が夜襲を敢行するので、山砲も本部と共に続行してくれとの命令である。

川上と二人で、暇をみて鞍曩より飯盒を取り出して、再び分けあって食べる。

今度は腹も空腹を感じる様になっており、僅かの塩を振りかけて食べると実に美味かった。

飯を食べると、ぐっと腹に力がついてくる、足取りもしっかりする、力も出てくる、全く飯というものは有り難いものだと思う。

我々、一線部隊の戦闘では敵弾下に、ひどい緊張で走り回っているのに一度ならず、二度、三度の欠食は常であり、言葉に出来ない苦痛である。

この苦しさは内地の者には理解出来ないことだろう。

乞食は食が無ければ、じっとしていれば良いが、戦場では二~三食を食べなくても、重い荷物を背負って行軍したり、敵弾下の中を走り回らなければならず、この苦痛は乞食の苦痛どころの話ではないのである。

夕闇が辺りを閉ざし、敵の城壁が霞む頃、歩兵を先頭に、本部隊、次いで山砲の馬部隊が、敵の城を一夜で葬るべく麦畑の中を進んで行く。

我等が攻撃に向かっていると解ってか、解らざりしか知らないが麦畑に「ピシュ、ピシュ、ピシュ」と砲弾が飛んで来る。

我等が配属されている山口連隊は、夜襲で有名な部隊とのこと。

尖兵は時折、敵の歩硝線にぶつかるとの事で、部隊は闇の中で止まったので、我々は防毒面を顔の下の部分に付け、鉄兜は銃声のする方に向け、馬の手綱を持ち麦畑に伏せる。

青い麦や、土の有るか、無しかの香りが宵の風と共に頬を、そっと撫でる。

下はむぎの褥で良い気持ちになり、身辺に落ちる弾の音も次第に遠くに聞こえ、眠りに落ちる。

麦を踏む音に目を覚ませば部隊は敵に迫るため、音も無く前進を始めている。

この闇の中、唯一人残されては大変と慌てて後を追う。

麦畑から土手を下り、川を渡り、また土手を上り広い麦畑を行く、支那兵の叫ぶ声が聞こえ。

歩兵が敵歩硝から誰何を受けてるらしい、凄い勢いで敵弾が飛んで来る。

敵の歩硝線を突破するため、我等の重、軽機関銃の音も「ダ、ダ、ダ」と小気味よく暗夜に響き渡る、撃ち合いの間に支那兵の叫ぶ声が聞こえる。

我等、山砲としてはどうしょうも無く、地に伏せて鉄兜を敵の銃声のする方向に向けている、中には銃剣を出して穴を掘り出した者もいる。

暗闇の中、止まりつ、進みつして来たので、だいぶ来たようであるが、どれくらい進んだのか見当がつかない。

どの馬か「ヒヒーン」と一声高く嘶いたと思ったら麦畑に、バッタリ倒れてしまった。

自分は眠たくて「ふらり」としたと思ったら「うわー」と言う声に目を覚ますと、二百メートルぐらい先の左側部落の敵に歩兵が突撃している。

部落は忽ち火の手が上がり、未だ明け放たれていない夜明に「パチ、パチ、パチ」と音をたてて炎が上がっている。

やがて、その部落は占領となる、我々は今まで伏せていた土手の反対側、部落の方の土手に移動する。

移動前の場所は何処からか盛んに、敵銃弾が飛んで来ていたからであ

る。

我等は夜襲で敵の陣地を突っ切って来たので、今は四面が敵だ。

部落側の土手に移動してみれば幅五十メートルも有ろうと思える川には、美しく澄んだ水が清らかに、音もなく流れている。

しかし、此処も何処からか敵銃弾が唸って飛んで来る。

銃弾をよけるため、馬と一緒に土手に寄っていると「砲列を敷け」との命令で、銃弾が飛び来る麦畑に上がり陣地を掘る。

辺りが明ければ敵から狙い撃ちされるので、飯も食わぬ疲れきった体にエンピを握り、自分も小さな穴を掘り砲隊鏡を据えて、明けゆく麦畑の彼方を見れば六~七百メートル向かいの部落の前端にある大小の土饅頭の墓地から射っていて、ひっきりなしに銃弾は唸って頭上を盛んに飛ぶ。

塹壕の中から頭を上げられたものではない、チェツコの硝煙が発するのが見えたと思うと「ピュー、ピュー、ピュー」と銃弾が通る。

中隊長に状況を報告する、中隊長も塹壕の中から確認する為、小さな眼鏡で見て号令は下される。

「流弾着発真菅、方向二百三十五、高低百三、六百五十」一発、各個で撃って修正され、次々と号令は下されてゆく。

二門の砲は小さいけれど敵に山砲ありと恐れさしめている。

麦畑も漸く明けると轟然と火蓋は切られ、我が軍の全ての砲口は開く、重、軽機関銃、小銃その音は天地も裂けそうである。

撃ち出された砲弾が「シュル、シュル、シュル」と頭上を通ってゆく、敵か、味方の砲弾か知れたものではないと思ってると「ドドドン、ドドドン、ドドドン」と敵陣に炸裂してゆく、敵が慌てて動いているのが見える。

しかしながら、敵もさるもので硝煙が収まるとみるや、盛んに銃弾を浴びせてくる。

我々の砲弾は次々に敵陣に落下する、見事なもので敵陣の墓地が変形してゆく。

しかし、敵は盛んに位置を変えては射ってくる、敵ながら天晴れなものである。

幾百、幾千の彼我の銃火機は狂ったように吠えたてる、頭上は「ヒュー、ヒュー、ヒュー」と続けざまに敵弾が通って行く音、音、音、天地も裂けんばかりである。

「右後方に敵襲」と盛んに叫んでいる者がいる、耳元で「ヒュー、ヒュー、ヒュー」と耳をつんざく音に驚かされる。

敵が右背後に移動したのか、こちらを狙って射っているため土手に「プス、プス、プス」と着弾しているのだ。

敵の迫撃砲弾が不気味に落ち始める。

自分は塹壕の中で宮田曹長を返り見て「物凄いもんですね、この音のみでもよい、内地の人に聞かせたい、我々が死の一歩手前の激戦の中で今、戦っている様子は解るまいが、せめてこの音だけでも聞かせたい」と言った。

曹長も笑って「そうだねトーキで録音したいね、そして内地の人にこの音を聞かせたら随分驚くだろうね、凄いもんだね」と弾丸が飛び交って今にも裂けそうな空を眺めていった。

皆も「本当だ」と頷く。

負傷者は次々と川の土手の下に下ろされてゆく、激戦とはかくのごときを言うのであろうか。

自分も次々に斃れてゆく戦友を眺め、銃弾が頭上を掠める音を聞いて、今まで自分は南京戦での戦死の誤報で御経まであげてあるので、この戦いで戦死はしないであろうといった思いは吹き飛ばされる。

愈々、死は目前に迫り今にも死ぬかも知れぬと思う。

後方に落ちていた迫撃砲弾が段々と身近に落下し始めた、頭上に落ちれば終わりだ、その時はそれまでの運命だと思われる。

ずうっと自分は血眼で敵迫撃砲陣地を捜していたが、この迫撃砲は形は非常に小さく、そのうえ弾道が高いため、何処の物陰でも設置出来、彈速も遅いので着弾した頃には、迫撃砲の発射の際の硝煙も消えているので観測手として、この探索くらい困難なものは無い。

漸く、彼方の森に敵迫撃砲陣地らしきあり、中隊長に砲撃すべきを具申する、中隊長も眼鏡で見て、其らしいとの事で直ちに砲撃する。

砲弾は森の木に当たり、爆発したので断片は森の中に広く飛び散り、木の枝は中天高く舞い上がり、大きな幹は「どうと」倒れる。

二発、三発と連続砲撃したので森の中に硝煙が立ち込め見えなくなる。

三人、五人と敵兵が逃げ出す姿を認める。

それから迫撃砲弾が来なくなったので、我等を恐怖させていた敵の迫撃砲陣地と思われた。

この戦争が終わり、若しも我等が生き永らえて、平和な国へ帰れたら、食も無く、眠れる床も無く、寸前には死が待っている此の状況の気持ちで働いたら、どんな事でも出来そうでナポレオンが「不可能は愚人の辞書にこそ有り」と喝破したのも、彼が幾度も戦場の銃弾の中を疾駆し生死の境を往来して悟ったものであろう。

今までは、彼が自己の天才を意識して大言壮語したとばかり思っていた。

自分の塹壕の隣りには、過ぎし湖州戦で分捕ったチェツコ銃を据えて、手島上等兵が警戒に当たっている。

「敵は姿を隠していて、銃声のみで姿が肉眼では見えないので、敵の位置を教えてくれ」と言うので、自分の砲隊鏡を覗かせると「畜生、居やがる」と憤慨する。

大砲は砲弾が残り少ないので、一陣地で撃ってしまっては、後が困るので「撃ち方、待て」で休んでいる。

手島上等兵は敵彈下の戦場で余芸をはじめる。

余芸は射撃大会で「衛藤、観測してくれ」と言って、チェツコ銃を肩に当て引き金を引く、敵弾唸る中、心地よく「ダ、ダ、ダ」と耳元でひびく。

敵の鉄兜が見える間近に「パッ、パッ、パッ」と砂煙が上がると、敵の鉄兜は塹壕の中に消える、

自分は「着弾、少し左」と言えば、また「ダ、ダ、ダ」と撃ちだす。

敵が再び塹壕から覗きかけた所へ、転々と砂煙をうちあげる。

今度は自分の番だ、自分はチェツコを射ったことが無いので、小銃を借りて来て、下手ゆえに眼鏡で見てた所に狙いを定め、一つの奇跡を願って敵に命中せよと引き金を引く。

反動で肩を小突かれたと思ったら、見ていた手島上等兵が「見事、実におしいところであった」と言う、二発目を装填し「敵が頭をだした」と言うのを待って発射、三発、四発、5発射ったところ、誰か「無駄弾を射つなよ」と言う者がいたが、他の者も来て射つ。

皆、死の直前に射的を射つような気持ちで笑いあう。

自分は此の暇をみて眼鏡を高場観測手に頼み、昨日来からの空腹にたまりかね、何とかして少しでも食べ物を口にしなくてはと、文句にあるように「腹がへつては戦は出来ぬ」で隊員から五~六個の飯盒を出させ、塹壕より飛び出し川に下りて見れば、多くの傷ついた勇士が白い包帯を鮮血に染め、青ざめた顔で百人近く横になって並んでいる。

向かいの砂地には、惜しくも敵彈に斃れた数十名の勇士の亡骸を砂に埋めている。

君国のために雄々しく戦って斃れ、川畔に埋められてゆく勇士に粛然と黙祷を捧げた、涙がはらはらと頬を流れ落ちてゆく、誰も黙って黙祷をしている。

我等も遠からず、このように異国の土と化すであろう。

懐かしい母の顔が思い浮かべられる、

母には此の激しい戦の様子を語る時は、永久に来ないだろうと思う。

飯炊きもここでは命懸けである、銃弾が川面に落ちる中、米を研ぐことも相成らず、鞍嚢の中に入れてある米に、そのまま水を入れて五~六個の飯盒を並べて竹に通し、辺りに散乱している燃えそうな物に、防毒面の中にしまっていたマッチを取り出して火をつける。

近くでも二個、三個と飯盒で飯を炊いている。

しかし、薪が無くて困り果てる。

岸の向こう側に行き、芽を吹いたばかりの柳の枝を一生懸命に折って、少したまったので抱えて一目散に走って飯盒の所へ帰る。

生木のままでは燃えにくいので、枝を薄く削って燃やすが、生木の薪で煙りにむせつつ、銃弾の飛び来る中で涙を拭き、拭き炊く。

飯盒飯は出来上がって、小隊全員で分けて食べる。

我等の砲撃方向より、左側方の歩兵部隊が部落突入し占領した。

今まで、麦畑の中に包囲されていた我等の部隊は、漸く拠点を得たわけで、

全く、皆ほっとする思いがした。

中隊は弾薬が残り少なくなったので、中隊長は段列二個分隊に弾薬の補充の派遣を命じる。

敵の包囲下にあるので敵と遭遇した場合の対応を順々と説いているが、鉄兜の下の顔は緊張して悲壮感が漂っている。

決死の補充部隊は土手に沿って出発する。

百メートルぐらい行った所で敵の銃撃を受けていて、川の中を走って行く姿が見えた。

果たして幾人が帰って来れるのであろか。

補充隊は敵前突破、出来たであろうかと心配していたら足元に敵機関銃弾の雨で慌てて塹壕の中に飛び込む。

中隊は前進しているのに、まだ塹壕に残っている三名に気合いをかけて飛び出させ、自分も走って中隊に追いついたがバッタリと倒れて、しばらく起き上がることが出来なかった。

が、漸く起き上がり観測器具の駄載を手伝って持ち上げたとたん、小銃弾が器具箱を撃ち抜いた、ビックリして早々に駄載して出発する。

「村上軍曹がやられた」と誰か言って、軍曹が倒れたのを見ると、鉄兜がへこんでいるだけで、本人は「命拾いした」と笑っている。

先刻、歩兵が突入占領した部落に入ると、二百メートル前方には麦畑の中に延々と塹壕が掘ってあり、そこから敵銃弾が物凄く飛んで来る。

その敵陣に向かって、我が砲が第一弾を発射したと思ったら頭上で破裂して、一名負傷したので調べてみれば、

林の中で、木の下に砲車を据えたので、弾道上に木の枝が有り、枝に接触して瞬発彈が爆発したのである。

発砲前に注意を怠ったことが原因だった、戦場では沈着な行動が必要である。

敵の猛烈な機関銃弾が前面の塹壕より来る、来る。

砲撃を続けていると、右端の友軍歩兵が銃剣を閃かして突撃する姿が喚声と共に見え、相互の手榴弾の投げ合いとなって畑の中は、爆発による白、藍色の煙で前が見えなくなる。

敵ながら勇敢な戦いである。

後で、歩兵の話では敵将校は陣地が破れたとみるや、己の頭を拳銃で撃ち抜いて自害し、兵隊は手榴弾を抱いて自爆し、鮮血に染まり斃れたとの話で、敵ながら天晴れなるかなと皆で感心した。

斯くして、欣州城攻撃は四日間、昼も、夜も激戦につぐ、激戦で一個旅団の人員は戦死者、負傷者で殆んど半分の状態になった。

特に歩兵の中隊は二百名の定数が、僅か十五名とか二十名で、歩兵の中隊長の将校は、軍刀を振りかざして、真っ先に突撃するので殆んどが戦死して、下士官が中隊を指揮している。

歩兵は敵銃弾が雨霰と来る中を各個、伏しては起き、起きては伏して走り、敵前間近で中隊長が軍刀を閃かし、突撃の合図で突撃するが、途中で多くが斃れて、残り僅かな兵力で突撃する姿を、砲兵陣地から眼鏡で見て、懸命に援護砲撃をするが、必ず敵陣地が取れるものではない。

殆んど敵陣で斃れるのも手に取るように見えて、唯、唯無念の涙を流すけれども、如何とも出来ない。

歩兵の一個小隊が家の陰に集結して、今から突撃しょうとしている所を、近所の家の後ろから敵機関銃で射たれて、見てる間に全員が斃れて死体となったのも見た。

我々も、老いてなす事も無く死んでゆくより。若くても国のために死んでゆくのも、良いのではないかと思った。

歩兵の陣地より敵の機関銃、迫撃砲の攻撃が激しいので、制圧して貰いたいと、中隊に要求されたが砲列の前面に竹林があり、敵情が見えぬので「竹林の左側に出て観測せよ」と命じられた。

約二百メートル左前方の墓地に走って行き、眼鏡を据えて観測し、伝声で中隊の砲撃を指示していたら、歩兵はまだ展開してないので、後方より歩兵准尉と軍曹の二人が、歩伏で自分の所に来て、准尉は自分の背に乗って「敵情はどうか」とい言ったので説明していたら、迫撃砲弾の唸りが聞えてきた。

今まで幾度も至近弾を受けていたのて、伏せていれば命は助かると思っていたら、身が裂けるような、物凄い唸りが聞こえ一瞬、身体は吹き飛んで死んだと思っていた。

耳元で「やられた」と言う声が聞こえたので、声が聞こえれば生きているのかと、気を取り直して目を開ければ、周囲は真っ暗で上から土の塊が落ちて来ている。背中に乘っかっている准尉からすり抜けて爆破した硝煙の中から飛び出して中隊の陣地に帰った。

准尉の鮮血が肩、背一面に付いていた。

准尉は軍曹が抱えて下がって来た。

再び二百メートル前方の観測地点に戻って観測し、砲撃して敵を撃退させる。

もし、准尉が自分の背中に乗っかってなければ当然、自分がやられていたので、人の運命は神のみぞ知ると強く思った。

この日は、砲兵陣地を六回も移動した。

四月十九日 払暁に攻撃し欣州城に日章旗が翻る。

我々は山砲第二中隊を救援に行くことになっていたが、朱鎮で十七日間、敵に包囲され籠城し苦戦したが、敵の後退により第二中隊は大隊に復帰してきた。

砲弾四百発を要して破壊した城壁の箇所を見た。

城には敵影は無く、激戦四日間、五日めの朝に旅団半数の犠牲を以て欣州城を占領したのだった。

四月二十三日 午前六時出発、城門では板垣師団長が土手の上で、軍刀を左手に握り出発部隊を見送っていた。

進撃が予定通り進まないとの矢の催促で喧しい師団長らしく厳とした姿で、生死の知れぬ戦場に出て行く兵士に対して、皇国の運命を負う武将としての粛然とした姿であった。

一望十里の麦畑の平野で敵を追撃して夜も殆んど寝ない行軍は、夜行軍で疲れ眠って歩いて、前を行軍している馬の尻に顔を打ち付け、驚いて目を覚ますが、馬も疲れているのか蹴ることもない。

四月二十四~二十八日と馬頭鎮など各所に敵を追撃、占領してきたが戦死、負傷者も多く出した。

四月二十九日 馬家窯を占領して、前面の北労溝を攻撃することになり、部落先端に中隊の砲列を敷く。

砲列の横を通過した歩兵がまタバコ一箱を砲手に投げて、広島弁で「山砲さん頼みます」と言って通りすぎた、他の一名は米を投げてくれた。

これは、今からの攻撃は最早、命は無いとの覚悟である。

タバコは戦場では手に入らないので最も欲しい品であり、米も今宵、必要な品であるので死を覚悟の上である、粛然と熱い気持ちで見送った。

砲列の前面に歩兵二個中隊、約五十名。

中隊長は下士官で、連日の激戦で戦死、負傷者が多数出ていて僅かの兵数になっているのである。

号令一下、歩兵は一斉に展開して前進する。

尺余りの丈の麦畑の中を敵弾飛来する中を各個、伏しては起き、起きては伏して前進する、成功を祈り一斉に援護砲撃をする。

前進する歩兵が敵弾に負傷して苦しむ姿が、手に取るように眼鏡で見える、敵が立ち上がって狙い射つ姿も見える。

敵の砲撃も激しさを増し、我が砲弾も敵陣に炸裂する中を、歩兵は勇敢に各個前進して行く。

我が砲の集中砲撃を合図に、敵前約百メートルと見られる地点より一斉に突撃を敢行した。

敵陣の前面に木の枝が山と積まれていて、歩兵は木の枝に阻まれて見る、見る斃れ、占領出来ず敵前で全滅した。

敵が乗り出してきて、負傷者を銃撃している。

断腸の思いで無念の涙が込み上げて頬を伝わり落ちる。

敵は勢いを増してきて、敵の砲弾は我が陣地で炸裂する。

今、我等には弾薬が少なく、攻撃の力も無いし、退路も無い。

補給部隊は包囲襲撃されて食糧、弾薬、衣服は奪われて来ないとのこと。

食糧は無く、弾薬も少なく、衣服は冬服のままである。

援護部隊は十数日を要するとの事だが、我々は一日分の食糧しか持ってないので、此れを以て忍ぶ以外に方法は無いとの事である。

我が観測小隊は十七名であるので、一人一食分を大きな鍋一杯に水を入れ、米粒が一センチになるくらいまで煮て、皆で分けて飲んだ。

水っ腹で一時は食べた気がするが、瞬く間に空腹になる。

敵砲弾は朝から来はじめたら、百発ぐらい連続して落ちて来るので、中隊長は皆に塹壕堀を命じる。

エンピで土を持ち上げる力が無いので寝ていたら、中隊長に見つけられ「力の限り、命の限り掘るのだ」ときつく叱られたら、力が出て来て背の高さの塹壕が出来たので、部落の中の立ち木を切ってきて、天井に敷いてできあがった。

人間も気合いを入れれば力が出るものだと、我ながら感心した。

砲弾も僅かとなり、敵襲撃の時だけ発砲するので、一日中、塹壕の中で過ごすばかり、馬は狭い土壁の中に入れて、飼料は畑の麦を刈ってくるので馬は飢えなかった。

二~三日、食べずに過ぎると、人の顔は目は落ち窪み、頬の肉は落ちて、目だけ輝いて別人に見えた。

塹壕の上に南京豆の袋があったので、つい一粒口に入れたら見つかって、物凄く恐ろしい剣幕で怒鳴られたので謝った。

分隊の一人が、一袋の南京豆を持っていて、その一袋を分隊全員で試食会をするところであったとの事。

あまりの空腹で、つい手を出してしまい申し訳なかった。

皆、空腹なので小隊で相談の結果、野砲の陣地は百メートル右方向に離れているが、水牛一頭が我々の居る場所に繋いであったので、あれを食糧にしてはと密談が出来て銃殺をした。

銃を額に当てられた牛は涙を流していた、可哀想立ったけど、背に腹は代えられぬ。

肉を宿舎の小屋に吊るしていたら、案の定、野砲の小隊長が「君達の牛は何処から取って来たか」と詰問してきた。

「申し訳ありません、主なき牛と思いまして」との申し訳に「では半分は与えるが、半分は持って帰る」と和解した。

その夜、牛の肉を煮たけれど味付けが無いので、空腹であっても咽を通らなかったが、無理に少しだけ食べた。

千メートル右の部落は歩兵が守備していたが、この度の戦闘で戦死、負傷者で僅かな兵数なり、小人数らしいので、何か食糧があるのではないかとの話て、初年兵三名と探索に行くことになる。

朝、暗い内に麦畑の中を走っては伏し、伏しては走って部落に着き、部落の仲を探し回ったら粟一斗を見つけたので籠にいれ、長さ二十メートルの縄を作り、麦畑の中を這って、引っ張って帰った。

籠は麦の上に少し頭を出していたので、籠は敵の機関銃弾を数発受けたが、我々全員は無事帰り着いた。

小隊全員、大喜びで粟の粥で命を継ぐことが出来た。

敵彈は午前一回、午後一回集中砲撃してくる、我々は塹壕の中に居ただけだったけど、それでも死、傷者は三十数名あった、馬も何頭か斃れた。

昼間は天気が良く、為す事も無いので、紙で将棋板を作り対戦していたら、大隊長も見物に来られて声援もあり大笑いだった。

その日、塹壕の前に歩兵が一人這って来た。

一昨日、第一線で歩兵が突撃したが不成功で、その際に負傷し敵の陣地から這って、漸く日本軍の陣地に辿り着いたのだろう。

見れば胸に貫通瘡を受け、口から泡を吹きつつ「水、水」と言うので、

水筒の水を与えたら一口「グット」飲み、ガクリと息絶えた。

何の言葉も無く、涙で埋葬した。

月が煌々と輝く星空の下、何処からか尺八の音が聞こえて感無量だった。

何処か水溜まりでもあるのか蛙の声がしきりに聞こえてくる。

五月七日 待ちに、待った歩兵の援軍が来る、若い初年兵が多かった。

長く戦場にいた我々からは今日か、明日かも知れぬ命をさらす戦場を、この若者達はどう思っているのか、これからの若者のことを思うと、知らない内に目頭が熱くなった。

この日、我が空軍の敵陣地爆撃があり、敵から砲撃されるばかりだったので、やれ、やれと気が楽になり溜飲が下がる。

五月八日 今日は粟飯を食べる、旨い。

朝、野砲が少し敵陣を砲撃したら、物凄い敵砲弾をあびせられた。

弾薬がきたので野砲は受領援護のため出発。

今日は、羊羮が半分ぐらい渡る。

五月十日 正午頃、乾麺包を煮て食っていたら、陣地偵察のため出発を命じられる。

弾薬が到着したので今夜、砲兵陣地を進める為に小隊長と出発。

途中、敵砲弾の集中攻撃を受け、身辺の前後左右に砲弾、数十発を受けたが、馬上にて懸命に走り抜けた。

その後、陣地を偵察して帰る。

五月十一日 北労溝攻撃のため、偵察した陣地に明け方到着。

一日中、砲撃するが落ちず、負傷者が続々と帰って来る。

初年兵が多く、桜花として散って行く、悲惨。

戦場経験の無い初年兵の第一線投入は雨霰と来る敵銃弾の対処が出来ずに斃れてゆくと思う。

ある程度、経験をつんだ兵隊じゃあないと無理だと思った。

五月十三日 今日も塹壕から砲撃。

負傷者の話では「今日は死体の収集も出来ぬ状況」とのこと、重砲が来る。

五月十四日 昼間に偵察した陣地に歩兵も山砲も夜になり到着。

山砲は塹壕を掘り、自分は観測するため土饅頭の墓地を掘ったら二尺ぐらいの深さに棺桶が出てきた、上に乗っても大丈夫だったので、そこから観測することにする。

五月十五日 夜明けとともに総攻撃をかけ敵、味方の物凄い砲撃戦となり、砲兵陣地の近辺にも砲弾が落ちて来て戦死、負傷者も多数出た。

夜は棺桶の上に寝、そのまま露営で明かし、払暁を期して歩兵が突撃して占領した。

墓を去るとき、墓の死者に感謝して去る。

五月十六日 北労溝に陣地を進める途中の畑には敵、味方の兵が斃れていた。

若い二十歳の初年兵か腹部貫通で倒れていたので起こしたら、まだ意識はあった。

丁度、山砲の大隊長が通りあわせ「しっかりしろ」と励ましたが、抱いて水を与えたら「お母さん」と、ぐったりなり息を引き取った。

「膓が出ているので、助かる見込みは無い」とのことで、歩兵に亡骸を引き渡した。

誰も知らない異国の地で、二十歳の若さで命を落とす宿命だったのか。

戦地にいても誰もが一番、母が恋しいのだろうと思った。

五月十六日 一日ゆっくり過ごす。アカシアの花が香っていて、戦場での血生臭い世界とは別天地かと思った。

五月十七日 中隊長殿と中隊本部に行く、初年兵十四名受領、自分は本部に残る。

十時頃、再び中隊長が来る。

夏服を漸く貰う、重い汚れた冬服を脱ぎ、身が軽くなる。

そのまま出発して畑の中に砲列を敷く。

五月十八日 夜中行軍し三時頃露営、野戦病院の負傷者も同宿した。

五月十九日 七時出発、歩く、歩く。

夕方に朝食まで炊き行軍、午前四時

ある部落な宿営し、自分は衛兵歩硝に立ち不眠不休である。


[ここらあたりから、日々の戦闘  記録(戦死者、負傷者)が主に

 なっていて戦場での描写の記述が

 少ないので、途中を省いて    十月一日から八日迄の記述で終  わりたいと思います]


十月一日 早朝出発、前方千メートルの地点で遮蔽している部隊に遭遇するが敵か、味方か明確な判断が出来なくて山砲大隊長、歩兵大隊長とが敵か、味方か議論していたので、自分が「敵に間違いなし、撃つべし」と言えば、歩兵大隊長は「否、我が軍の第三大隊が迂回したので日本軍」と言う。

山砲の大隊長が「誰か敵か、味方か断言する者はいないか」との発言に、自分は「敵軍と断言します」と主張したら、砲撃することになり敵の逃げる姿が見えた。

山砲は迂回した歩兵第三大隊に配属になったので、大隊副官と観測の三名で配属大隊との連絡を命じられ出発した。

歩兵は左迂回してるとのことで、左の山林の方向に馬を進めて行くと、山の向こうで大砲の発射音がするので多分友軍の歩兵砲の砲撃音だろうと、その音のする方向に馬を走らせて稜線に近づいたら後方から、機関銃弾が物凄い音で落ちて耳をつんざいたので、自分の馬は飛び上がって前方に駆け出した。

他の馬は反転したのに、自分の馬は前方に駆けて急反転したので、危うく落馬の状態になり身体が鞍から外れた。

馬のたてがみを掴んで必死に立て直そうとしたが、思うにまかせず、ああ遂に此処で戦死かと頭に閃いたが

渾身の力を振り絞って、遂には立て直した。

田に水が溜まっている中の細道を懸命に駆けた。

両側の百メートルくらいの高さの丘の上から、敵の機関銃弾が並んで水中に水柱を上げて落ちてくる。

馬の背に一発の銃弾を受けたが、敵の包囲の中をかろうじて抜け出して助かった。

十月三日 夜を徹しての行軍をし、後方遮断の任務で明け方、小山の上に砲列を敷く。

歩兵から敵が城壁の望楼より射撃してて前進出来ぬので、砲撃してくれとの要望で砲撃するけど、大砲は小山の下の平坦な所で、観測が丘の上からの遠観測なのでなかなか命中しない。

十発目に命中し望楼を撃ち抜いたので皆から拍手を受ける。

約三千名の敵兵が後方に向かって総退却である

一斉砲撃すれば敵は反撃も無く散り、散りに退却した。

渋店に宿営する。

十月四日 渋店を出発、敵の追撃戦で夜に至り、夜の一時に露営となる。

十月五日 早朝出発、朱堂店を通り山岳地帯に入る。

山を越えた所で眼下に道路が見えて、

敵の砲兵の大部分が休止している。

山上より砲撃したら反撃も無く、大砲はそのまま放置して逃げた。

下りて見たら重砲、野砲、約百門の大砲が放置されていて、そこには日本兵の軍曹が銃剣で腹を突かれて死んでいた。

敵の歩兵が退却した後に、砲兵が続いて退却する途中だったので放棄したのだろう、大砲百門を捕獲したのである。

無名村に宿営。

十月六日 早朝出発、丘陵地帯となり鉄道線路が近いとのことである。

行軍中、日本軍の飛行機が通信筒を投下したので見ると、敵の大軍が混乱し渡河中とのこと。

丘に登って見たら、四千名余りの敵兵が眼前の百メートル幅の川を皆、裸になって着物は頭の上に載せて渡っていて、半分は渡り終わって田圃の中で服を着ている。

取り敢えず行軍中の砲一門、機関銃一丁を呼び上げて「撃て、射て」と撃ったので敵は前後左右への大慌てで、馬は走り回り、敵兵は八方に向かって散り、散りに逃げて行く、全く漫画の如き戦いだった。

京漢線柳村駅を遮断に成功した。

十月八日 早朝出発、本日の行軍は小部隊で山砲が最後尾で谷間を行軍中に、山の頂上から盛んに機関銃射撃を受ける。

山の中腹に敵銃眼陣地を発見したので一門で砲撃し、全部隊が通過してる間に砲弾は敵銃眼陣地に見事命中する。

我が砲兵分隊が最後尾となり、自分はその分隊の最後尾を行軍する。

夕暮れとなり狭い坂道を下って行くうちに行軍が止まったので休止かと思い、馬上で眠ってしまう。

ふと目を覚ましてみたら、分隊長が盛んに最近補充で来た初年兵を叱り飛ばしているので「何事ですか」と尋ねれば「分かれ道にきたが、前の歩行者を見失しなった」とのこと。

皆、疲れていて小一時間眠ってしまい、漸く気づいて皆でさわいでいる。

補充された初年兵は夜の行軍要領をまだ心得てなく、夜間行軍では前の部隊と途切れたら、分隊長に速やかに連絡して対応しなければならなかったが、連絡をしてなかった。

小一時間経っているので、前の部隊と約一里は離れていると考えられる。

少人数の部隊なので敵に発見されれば多分全滅だろう、自分は如何にすべきか考えた。

それから自分は分隊長に「自分が今から指揮しますので従って下さい。自分が馬で先頭を駆けますので、騎兵銃を持っている初年兵は駆け足で従って来て貰いたい。自分の勘で誘導しますので、自分の呼び声に従って駆け足で来て貰いたい。敵には何時包囲されるか解りません。その時は近くのクリークか、池に大砲の各駄載している部分品は沈め、後で判るよう標しを付けて、人馬共に逃げて、明けてから奪回に来ることにします」と申し渡して馬を走らせ、道を探しては返して全員を呼び、また駆けて行き、部落の入口では敵がいるかも知れないので、銃弾一発撃ち込んで様子を見て、反応が無ければ部落を通過して行った。

皆に声をかける時、敵に気付かれれば敵の機関銃弾が闇の中の声に向かって飛んでくるので何時、敵と出会うかも知れず気付かれぬよう必死の思いで前進する。

分隊には腰の萎えた馬がいて、皆で引っ張る、叩くしして駆けていた。

一時間余り駆けに駆け、声はかれて出なくなっている。

光が見え、近寄って見たら中隊が宿営していた。

「助かったぞ」と分隊に告げたら皆「一里の駈け足は、命懸けでなければ出来ないな」と喜んでいる。

重い装具等を背負っての駆け足なので、さもあらんと思えた。

腰萎えの馬は到着して五分後に、息を引き取った。

馬は「倒れて後止む」の言葉どうりだった。

馬は死に至るまで働き続けるのだと思い、馬の冥福を祈った。

分隊長が分隊が到着後に「お前が付いているので、大丈夫と思っていた」とのことで、余り信頼されても困るなと思った。


人類の永遠の命題である戦争の無い世界を望む人達を脇目に戦争を起こす人達がいる。

目的は色々有るのであろうが、戦争が起こってしまうと戦場に於いてはお互い恨みも、憎しみもない人間同士が国家の為との美名に隠れて殺しあいが繰り返される。

戦場に於いては法の秩序や倫理に支配される世界ではない。

強い者が支配する世界となる、それ故軍規の無い軍隊に占領されると住民は蹂躙され悲惨の限りを尽くすことになる。。

軍規のある軍隊でも戦場の戦闘に於いては悲惨の限りを尽くすことになる。

個人としては殺しあいはしたくなくても、敵から攻められれば相手を殺さなくては自分が殺されるので相手を殺さざるを得ない。

戦争の厄介なところは、平和を望んでいても敵から侵略されれば国土、国民を守る為に侵略者を追放しなければならなくなる。

戦争に負けて属国になれば自由は無くなり搾取されるだけとなる。

現状の問題なのは国際間の紛争はこれからも有りうる。

紛争解決の為の国際連合は常任理事国が拒否権を行使すれば会議は続行されず問題放置のままとなり増す増す混迷の状況となる。

常任理事国でならず者国家のロシアと中国が自国の都合だけで拒否権を行使して問題は解決するどころか混迷するばかりである。

現実にウクライナ戦争が起こっている、クリミヤ侵略の時、対岸の火事と思って眺めていたらウクライナ戦争となってしまった。

ならず者国家の火の粉は何時何処に飛び火してくるか解らない。

このまま行けば強国が弱い国々を支配する植民地時代に逆戻りしそうで心配である。

紛争の段階で国際連合が戦争にならないようにしないと、その為には常任理事国の拒否権に制約をかける方法を、戦争の悲惨さを嫌というほど体験している日本が国際連合に提案して貰いたい。

世界中の国々が力を合わせてならず者国家に立ち向かわなければ植民地時代に逆戻りすることになるのを心配して「戦場の日々 1」と「戦場の日々 2」を書きました。

繰り返しますが戦争はお互いの国民が悲惨の限りを尽くさなければならなくなるだけです、戦争の無い世界に向かって皆なで進みましょう。

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