篝と翠姫
「私だってもう道案内くらいできるのに」
本邸の居間で頬を膨らませていたのは、今日は鬼灯に厳重にお留守番を告げられた杏子ちゃんだった。
「ただの道案内ではなく、いわゆる接待ですからね」
氷菓がお茶を淹れながら告げる。
「それは分かってるけどー!あの女やっぱ嫌い!今回お兄ちゃんを指名したのだって露骨すぎだよ!お兄ちゃんにはお姉ちゃんがいるのにっ!」
「それが分からぬ縁の国の緑鬼ではないと思うのですが」
「緑鬼って、縁の国の鬼を束ねる一族?」
確かお父さんに習った。各国で鬼の一族を束ねる鬼は、時に角の色の鬼の名で呼ばれることがある。
「えぇ。この咲の国は黒鬼」
「私とお母さんの赤い角は赤鬼で、咲の国からちょっと離れた紅の国の鬼の長の一族の出身。お母さんはそこから嫁いできたんだって。お父さんとは許嫁同士だったって聞いてる」
「その頃から紅蓮さまは紅葉さまにべた惚れだったそうですよ?私の父がよく語っていました」
氷菓のお父さんって、冬宮家の当主さまだったっけ。
「そう言えば、そう言うところは鬼灯さまにも遺伝していますわね」
それってっ!
「むー、そこは気に入らない」
「あら、杏子ちゃんったらヤキモチ?」
「私だってお姉ちゃんにべた惚れなんだから!」
そう言って腕に抱き着いてくれる杏子ちゃんはもう本当の妹のようにかわいくて。ついついなでなでしていれば。
「あら、みかんがもうこんなに。ちょっととってまいりますね」
「うん、氷菓」
いつの間にかつまみまくっていたみかんが、すっかり減ってしまった。
「お兄ちゃん、いつ帰ってくるのかなぁ」
確か、日が暮れるまでには帰ると言っていた。冬が目前のこの季節は陽の入りも早い。
「もう少しだと思う」
「うん。今日はずっとあの女の相手してるって言うのが納得いかないけど」
「お仕事だからね」
「お姉ちゃんはいいの!?」
「えっと」
いいと言われれば、微妙なのだけど。
「私は、信じてるから」
その言葉が、私の口からすっと出てきたことに驚きつつも何だかほっとしたような気持ちになる。
「―――お姉ちゃん、やっぱり尊い」
「え?」
尊いって、どういう?
「それにしても一日がこんなに長いの久しぶりー」
と、杏子ちゃんが残っていたみかんの実を口に放り込む。
「本でも、読もうか?お父さんに借りた本をこっちにも持ってきたから」
「私も行く?」
「ううん、少しだけだから大丈夫」
そう言って私は、鬼灯との寝室に向かった。
***
鬼灯と暮らす別邸から持ってきた鞄の中には、お父さんから借りた本も数冊入れてある。これを持って、居間に戻ろう。
寝室の襖を閉じて居間に向かおうとした時、視線を感じハッとして廊下の奥を見やれば、―――誰かが歩いてくる?
「本当に、身の程をわきまえない娘ね」
鈴の音のなるような声なのに、その声は何か底知れないものを纏っているように思えた。
「あ、す、翠姫さま?」
そろそろ視察から帰ってくる時間だとは思っていたが、何故、こんなところに?ここは本邸で暮らす鬼たちが暮らす区画であり、翠姫さまが滞在する客間とは離れた位置にあるというのに。
「その汚らしい身の上で、私の名を呼ぶな。小娘」
ビクンっ。き、汚らしい身の上。ふと、春宮家で生かされていた頃のことが脳裏に浮かぶ。ううん、違う。私はお父さんとお母さんの娘だ。
「あ、あの。ご気分を害したのなら謝ります。行くところがあるので、失礼します」
ぺこりと頭を下げ、走り出そうとすれば、ぱしゅっと腕を掴まれる。
「この腕輪、鬼灯さまの霊力が宿っている!」
翠姫さまの手が掴んだ手首には鬼灯がくれた腕輪がはまっている。
「あんたみたいな人間の血が混じった小娘が、鬼灯さまからの腕輪をっ!よこしなさい!」
「や、やめてっ!」
慌てて手首の腕輪を押さえれば、翠姫さまの手で物凄い強さで引き剥がされる。鬼は力が強いと聞くけれど、ここまでなんて!
「よこせ!」
「きゃっ!」
腕輪が手首から捥がれ、翠姫さまの手に渡り、冷たい廊下の床に突き飛ばされる。
「いたっ。どうして、こんなことをっ」
「人間の血が混じった小娘が、黒鬼の直系である鬼灯さまの婚約者の座に収まるなどとっ!許せるはずがないでしょう!」
―――黒鬼。咲の国の鬼の一族を纏める長の鬼は、“黒鬼”と呼ばれる。
「黒鬼は、鬼の一族の中で最も始祖に近い血筋!その地に再び人間の血が混じるなどとっ!鬼の一族が認められるはずがない!」
“再び”って、まさかお父さんとお母さんのこと?
「どのような術で鬼灯さまを惑わしたかは知らないけれど。昔春宮家と言う黒鬼に滅ぼされた退魔師に飼われていたんですって?」
ビクン、と身体が震える。そんなことまで、知ってるの?
「その一族に鬼を惑わす術でも仕込まれたのかしら」
「そんなの、知らないっ」
私は、あそこで文字通り飼われていたと言ってもいいのだろうか。いや、ただ生かされていただけ。ただ何もできずに。
「今すぐにここから出て行きなさい?そして二度と鬼灯さまに近づくことは許さない。それなら見逃してあげる。素直に言うことを聞かないのなら、全ての鬼があなたの敵になる」
翠姫さま、―――いや、翠姫がじわり、じわりとこちらに近づいてくる。全ての鬼って!?この世界の国々には必ずと言っていいほど鬼の一族が暮らしている。つまり全ての鬼が敵となるとすれば、この世界のどこにも行き場がないと言っているようなもの。
「何のことを言っているのかわかりません!私はあなたが言っているようなことは何もしていません!」
「しらじらしい!早くここから出て行きなさい!」
「い、嫌です!」
「何ですって?」
「わ、私は、ここにいたいっ!鬼灯の隣にいたいです!」
そこが、私の帰る場所だから。
「このっ、生意気なっ!」
翠姫が腕を振り上げる。その指から伸びる爪がギラリと長く鋭く光る。あんなので切り裂かれたらっ!慌てて身を起こそうとするが。
た、立てない!
「覚悟なさい!」
「―――っ!!」
これから来る衝撃に、思わず目を瞑る。しかし衝撃も痛みも訪れることはなかった。
恐る恐る目を開ければ。
「―――貴様は何をしている」
聞きなれた声は、いつもよりも低くじとりと絡みつくような覇気を纏っている。
そして驚愕する翠姫の手首をがしりと掴む。
「ほ、鬼灯さまっ」
翠姫はその手首を掴む黒鬼の、鬼灯を驚愕したような瞳で見つめていた。
「篝さま、ご無事ですか」
「お姉ちゃん!」
そして傍らにそっと跪いて背中を支えてくれたのは氷菓。そして杏子ちゃんも。
「あの女、許せない!」
「あ、杏子ちゃんっ」
まぁまぁと諫めつつ、再び視線を鬼灯に戻せばーー。
「返してもらうぞ」
そう言って鬼灯は、翠姫が私から奪い取った腕輪を剥ぎ取る。
「ほ、鬼灯さまっ!それはっ!」
「これは俺が篝にあげたものだ。何故貴様が持っている」
「あ、あの女は鬼灯さまを惑わしてっ!」
「何だと?」
「あの没落した春宮家の手のものなのです!」
「バカバカしい。春宮のバカどもが篝に何をしたか知っていて言っているのか!」
「鬼灯さまは騙されているのです!」
「俺をその程度だと見くびっているのか」
「ひっ」
鬼灯が翠姫の手首をはらうように弾けば、翠姫がバランスを崩して尻もちをつく。
「それともお前が俺を謀ろうとしているのか」
「そ、そんな、ことはっ」
「そのような嘘で俺の篝に手を出したこと、許しはしない。相応の罰は覚悟しろ」
「な、何をっ!」
「砂月、連れて行け」
「了解」
いつの間にか現れた砂月さんが、翠姫を拘束する。
「は、放しなさいっ!私を誰だとっ!」
喚く翠姫を意に介さず、砂月さんが拘束して連れていく。
「篝、怪我は」
鬼灯がこちらを振り返ってしゃがみ込み、そっと頬に手を添えてくれる。
「う、ううん」
「そうか、良かった」
そして私の手首をとって、取り戻した腕輪を嵌めてくれる。
「恐い思いをさせたな」
そしてぽふんといつものように抱きしめられれば、ふつりと緊張の糸が途切れた気がした。
「ううん、鬼灯が来てくれたから」
今はその温もりの中に暫し身体を委ねた。




