heaven
「僕を、終わろうと思う」
彼がそう言った時の表情は、今でも忘れない。
とても穏やかで、優しくて、間違いなく「彼」であったと思う。間違いなく。
「もう10年も経つんだね」
掃除をし、花を添え……一通り手入れを終えてから、私はそっと呟いた。
「あなたは今、どこにいるの?本当にあの世とか、あるのかな」
もちろん、答えはない。ただいつもと変わらず、彼の名前が刻まれた墓がそこにあるだけ。
「私もね、そう遠くない未来にそっちへ行くと思う。何も……しないことにしたの」
彼の名前をなぞる。ひんやりとした墓の感触。指先の温度が少しだけ奪われていく。
「また、会える?それとももう、あなたはどこかへ生まれ変わったりしてるのかなぁ」
彼は私のパートナーだった。出会った時は私はまだ20代そこそこで、彼はたしか200歳を超えていたと思う。正確な年齢は忘れてしまったけれど。
ほぼどんな病気もケガも治せる時代になって、今ではヒトは半永久的に活動できるのが当たり前だ。生きたいだけ生きて、終わりたい時に終わることができる。
見た目では年齢なんかわからないし、最初に会った時は同世代かと思ったけれど、さすがに200歳を超えた彼の叡智は素晴らしく、話すうちにどんどん彼に惹かれていった。身の回りに起こったことを逐一彼に報告しては、その返答からいろんなことを学んだ。彼のものの考え方が、彼という人が、とても好きだった。
そうしてパートナーになって何年かを過ごした頃。
体のメンテナンスに出かけていた彼は、予定よりずいぶんと遅くに帰ってきた。
「ただいま」
「おかえりなさい!遅かったね」
「うん……ちょっと寄り道してた」
「そうなの?メンテナンスは問題なかった?」
「問題なかったんだけど、ね。ちょっといいかな」
彼は私を隣に座らせて、ぽつりぽつりと話し始めた。
「そろそろ、みたいなんだ」
「え?」
「なんとなくわかっては……いたんだけど」
優しい眼差しだった。優しくてあたたかくて、話の続きは聞きたくない気がする、と直感的に思った。
「心の方が、そろそろ限界らしい」
この時代において、器たる私たちの体は半永久的だ。事故や何かで急に死んでしまう以外は、どれだけだって治して、改良して、生き長らえることができる。脳だって心臓だって、どれだけだって。
だけど「こころ」は、治せない。どれだけ器をメンテナンスしても、心が減っていく症状の出るケースがあるらしい。少しずつ少しずつ感情が減って、心が機械化するような症状――まるで、人工物に取り替えられていく体に、心の方が合わせてくるような。
それはまだここ十数年で出た研究結果で、それを止める治療薬や手術は確立されていなかった。
「そんな……」
「だから考えたんだ。僕は次の誕生日で、僕を、終わろうと思う」
「それってあと3ヶ月くらいじゃない!」
彼はただ、微笑むばかりだった。私を抱きしめる腕からも、私の髪を撫でる手からも愛情を感じた。心が減っていっているなんて到底思えなかった。それなのにどうしてそんな、急に。
「泣かないで」
私の涙を拭う彼の手はやっぱりあたたかくて、いつもと何も変わらない。これまでと同じ、彼。
「もう僕は充分に生きたから」
「でも、私、まだ、」
「そうだね……ごめん」
「一緒に、いたいのに、そんな突然、」
「ごめん。でも、わかるんだ。少しずつ……感情が鈍ってきてる。心の動かない瞬間が、出てきてる」
「まだ……まだきっと、大丈夫だよ……だから最後まで、おねがい」
「うん……でもどうしても心をなくす前に終わりたいんだ。人であるまま、君を愛したまま……終わりたい」
その日、どれだけ泣いたかわからない。私の方こそこのまま心が流れてなくなってしまうんじゃないかと思うくらい、泣いた。
「病気が見つかったの」
空っぽの墓を見つめて、そう報告した。もうほぼ全てが人工物でできていた彼の体は、土には還らない。だから火葬にしたけれど、やっぱり骨壷に入れるようなものは残らなくて、お揃いのリングだけが入っている。
「何も手を打たないなんて、頭がおかしいのかくらいに言われちゃった」
もう一度、彼の名前をなぞる。指先に伝わるその温度が、愛おしい。
「あなたが愛してくれた私のままで、あなたを愛した私のままで、私も終わりたいと思ったの」
最近は少しずつ、体が動かなくなっていることを感じる日々だ。思うように動かせなかったり、動かせたと思ったところに体がついていってなかったり。
「あなたはこの感覚を、こころ、に、感じてたのかな」
さみしかったけれど、確かに最後まで、あなたはあなただった。間違いなく、心を持った、ひと、だった。私の大好きな、あなただった。




