第1話 悪竜
晴れの日だった。
城下でふと現れた影を見た誰かが言った。
…竜だ。
竜だ。
飛んでいる。
城へ…城に知らせろ!
大きな悪竜は、城下を一瞥した後、意に介さず城に向かう。
世にも名高いナヴェン王国、その燦然とそびえたつ白亜の城への悪竜の襲撃だった。
急降下からの体当たりが城を揺るがし、尖塔が崩れる。危急の鐘が鳴るが、一体何をどうしろというのか。城下では混乱が続き、暴動が起きているようだ。常には見ない薄灰色の煙が立ち上っている。呼び集められた近衞騎士が何をどう足掻こうが、空を飛ぶ悪竜に対処のしようがない。終わりだ。城にいる誰もがそう思った。十数年に及んだ隣国との戦をどうにか平らげ、束の間の安息を約束されたはずのこの土地にも終わりが来たのだと。
ああ、かの時、我が国が戦勝の雄叫びを上げたとき、隣国の王は最期どのように立っていたか。それはまるでいまの我々のようではなかったか。突然の襲来に対して、無力と無策により為す術なく。せめて人の手により終わりを迎えるのであればどんなによかったか。言葉の通じぬ一匹の空飛ぶ獣によって我が国は滅ぶのか。なんとなれば、隣国の、亡国の王子が復讐の果てに我が城を滅ぼすのであればまだ理解は及ぼう。しかし、悪竜の体当たりには遺恨はない。純粋な破壊の衝動。それ自体の喜び。仕掛けられているのはゲームであり、盤上の駒たる我々を排するための効率を楽しんでいるのだ。
けれども、悪竜の右足にどこかからの力任せの槍がかすめた時、悪竜は鳴いた。咆吼は、王都の民すべての足をすくませ、耳をつんざいた。右足から滴り落ちたその血は辺りを生臭さに包み、酸のように大地を溶かした。穴だらけにされた城がさらに崩れ、地に伏せる幾人もの騎士に当たって砕けた。未だ立っている者たちは鼻を刺す悪臭に耐えようと顔を背けつつ、それでも、その轟音を肌で理解した。
悪竜は、怒りではなく、驚愕と苦痛から鳴いている。
やぶれかぶれの誰かが悪竜に傷をつけたのだ。
ひとしきり悶えた悪竜は身を翻す。退く影は日中にあって闇夜のごとく深く暗い。影は長細くなりながら、白亜の輝きを取り戻す城から見る間に遠ざかっていく。不意の襲撃と同様に逃走は音もなく済んだ。
「終わった、のか?」
誰からともなくあやふやな問いが上がる。
ああ、そうだろう、そうにちがいない、あのように逃げだしたのだから……
いや、油断するなと生き残りの誰かが応えるよりも前に、ともすれば自然と出てきた歓声が広がるよりも早く、遠ざかる巨大な影から、土産とばかりに城に向かって炎の息が放たれた。
陽の光よりもなおも明るい火が、ただひとりの騎士をひとすじに目指す。悪竜に血を流させたかの騎士。英雄となることを約束されたかの騎士。前人未踏の英雄。ゆっくりと、実にゆっくりとひとすじの火が。耐えがたいほどに純粋な白い炎、まばゆいばかりの城壁を思わせ、銀の糸となって伸び、しなやかな女の髪のように、鞭のようによじれ、そして騎士を包むだろう。
――騎士は、悪竜が背を向けた時から、ひたすらに負傷した同胞を助け起こしていた。そもそも得物が悪竜を傷つけるなど思ってもいなかったのだ。英雄たらんとする心などあるわけでもなく、悪竜の手にかからんとした同胞から悪竜の気をそらすために投げつけただけだった。
去った。ならばよし。仲間を助けるまでだ。
だから、ほかの生き残りのように固唾を飲んで悪竜の動きを見守ってなどいない。歓声を上げるまでもない。自分の仕事に黙々と取り組むのみだ。
助け起こした同胞から「おい」と言われて何かに気づく。気がつけば熱に泡立つ鎧から異変を確信して振り返り、絡みついてくる熱量から最期を悟った後は、助けたばかりの同胞を突き飛ばしてあらん限り走った。
なぜ自分が火に追われるのか、焼かれるのか。
問うまでもなく答えは理解してしまっている。
動かない足を無理に動かし、同胞のいない場所を探し、手は盾を探し、諦め、死にたくないと口から漏れ出るのを止められない。幾人もの手が盾をかざしては瞬時に焼かれて落ちる。火はゆっくりと、ひとすじに英雄を追い求める。
相思相愛であるかのように。
比翼連理であるかのように。
周りの誰もが真っ先に褒め称えるべきだった、英雄の足はもつれ、倒れ、後はただ、その時を待った。
かくして、傷ついた悪竜は巣に帰った。ちっぽけな勝利は、あまりにも苦く、ちょうど百人の騎士を犠牲とした。がれきだらけの王城にだれひとりとして英雄は居なかった。いなくなってしまった英雄だけが英雄だった。
むろん、王は、全て見ていた。騎士団の陰に隠れながら、不意の襲撃も、ただ幸運からなる一撃も、苦痛からの轟音も、音のない逃走も、予期せぬ復讐も。すべてを見届けた。
なればこそ、放心でもなく、嗚咽でもなく、王は淡々と事実を見定める。
見定めた事実は積み重ねることができるから。
――竜よ、人間を舐めるな。人間の業を舐めるな。
――誰かができたことは誰かが繰り返すことができる。
――いつか、お前を討てるだろう。
積み重ねることができるならば、塵であるかのような事実であっても、星のように遠い悪竜にも届くだろう。一万の騎士のうち、百名がこの世から消え失せた。だがしかし、いまだ九千九百の命が残っている。
そう、それならば、そうだからこそ、水滴が岩を穿つように、気の遠くなるまで打ち続ければ良いのだ。水滴を、すなわち人の生をドラゴンの鱗に刻みつけるのだ。
初投稿です。
よろしくお願いします。
だいぶ修正しました。