第一章 龍の牙 四
月明かりの眩しい夜だった。蓮は埃まみれの畳に敷かれた布団では寝付くことができず、一人縁側で月をながめていた。満月よりも中途半端な形の月が好きな彼女は、半月から少し膨らみ始めている形の月を見ると、いつもぼうっと眺めてしまう。例え未熟な存在だとしても、美しいものは普遍的に美しいのだな、と自分を肯定する事が出来て、少しばかり安心する。
ゆったりと灰色の雲が流れ、月明かりをぼんやりと反射させていた。風の穏やかな夜を実感しながら、少し湿った夏の香りを吸い込む。
縁側にだらしなく足を放り体の力を抜こうとするが、なかなか上手くいかない。背後では蘭が布団で、武蔵は部屋の外で番をしながら寝息を立てている。銀は襖側の部屋の隅で、刀を抱えて座睡していた。
胸騒ぎがする。
龍の血を受け継いでいると、ご先祖様が龍であると、幼い頃から言い聞かせられてきた。妖怪は月の光を見ると血が騒ぐらしい。その名残なのか、夜一人で月を眺めていると落ち着かない。
香我美一族は国の戦力として数え切れないほどの戦いに巻き込まれてきた。
陰陽師も忍びも始末屋も巫女も、能力の高い者は大抵香我美の血をひいている。
妖力や法力の類を操ることが出来るのは、この国で香我美一族しかいない。人々は災いから我が身を遠ざけるため、香我美一族の能力を利用する。
「香我美の血も落魄れたもんだよな」
蓮がそっと呟いた。
「何故そう思うのですか」
背後から耳元で囁かれた。
「起きてたのか銀」
蓮は全く動じず、後ろを振り向くことなく言い当てた。銀は主人の釣れない対応に目を細めて喜び、蘭を起こさないようにそろそろと主人の右隣に腰を下ろした。二人ともお互いの顔は見ずに、丑三つ時の空を見上げる。
「蓮様が一向に寝付かぬ故、私も眠ることが出来ないのです。貴女様と違って私には人間と同等の睡眠時間が必要なのですから、勘弁してくれないと」
「じゃあ、寝りゃあいいだろ」
「目を離した隙に貴女様が死にでもしたら、屋敷に戻れなくなります」
蓮がふっと笑みをこぼした。
「死なねえよ、俺は」
「人間、いつかは死にます」
「俺は人間じゃない。化け物だ」
「今の貴女様は人間です」
銀は蓮の言葉を遮り、主人を諭す。蓮は月を見たままふんっと鼻を鳴らした。
「まあ・・・そうか」
「それに、私は化け物を妻にする気はありませぬ」
「・・・・・・」
「なにゆえ睨むのです?」
妻、という言葉に反応して銀を一瞥し、浅いため息を漏らす。
「まだ言ってんのか、それ。お前いい加減真顔で冗談ばっか言うのやめろ。騙される女がかわいそうだ」
「冗談なんて、生まれてこの方申し上げた覚えがございませぬ」
「嘘つけ」
銀は真顔で目を瞬かせて前髪をかき上げた。どうやらおどけているらしい。
この中性的な顔立ちの男は、圧倒的な美と知性を兼ね備えていた為か、歯の浮くような台詞を恥ずかしげもなく流暢に話せる為か、とにかく女にもてた。
一見、お淑やかで誠実。すらりとした肢体にも関わらず戦わせたら一族でも一、ニを争う戦闘力。そのギャップでいとも簡単に女を貶すことが出来る。
「信用されていませんね」
「俺は誰も信用しないのさ。まだ死にたくねえからな」
「出逢って一年、そろそろ心を開いてくれてもいい頃なのでは?仮にも未来の夫です」
「ふざけんのも大概にしろ」
「可愛げのない姫君ですねえ、全く」
他愛のない会話をしながら、蓮が髪結いをほどいて寝る準備を始めた。頭上高く一つに纒めているので普段は気にならないが、髪を下ろすと腰まで届く長さである。
肩から滑り落ちた艶やかな黒髪を片手で背に払い、髪飾りを左手首に巻きつけた。
勾玉が付いた赤い組紐。
その昔、大切な人からもらった髪飾りをお守り替わりとして常に身に着けている。
ふと思い出したかのように小声で呟いた。
「香我美は人間に利用されるしか、生きる道はねえのかな」
おそらく自分に向けられた問いではないのだろう、と銀は思ったが、主の独り言に付き合う。
「利用される為に生き、そして敬われる。悪くないと思いますが」
「お前は割り切れていいな。俺は別に敬って欲しいって願望ねえもん」
そういえば、と銀もふと思い出して話題を変えた。
「最近我が一族が襲撃されている事件について、今度は西の地で起こったそうです。アヤメ率いる西の隊が全滅したとか」
「またか。香我美狩りの何が楽しいんだろう」
蓮が聞き飽きた、と顔を歪める。
「せっかく始末屋として厄介事を解決してやってんのに」
「始末屋は我らを含めて七組。東に二つ、西一つ、南に二つ、北に二つ。西の始末屋がやられたとあれば、そちらに赴くこともありそうですね」
銀の言葉を聞いて、蓮は落胆したように後ろに倒れ込んだ。彼女の瞳に縁側の天井と、危うい夜空が半分ずつ映る。ついでに銀の上機嫌な表情も目の端に捉えた。
「お前はめんどくせえ状況ほど楽しそうにするよな」
華奢な体で思いきり伸びをした後、ふわああぁ、と猫のようにあくびをする。
「くそっ。長旅は嫌いだ。疲れが溜まる」
「癒して差しあげましょうか」
「黙れ」
寝そべりながら銀の顔を見上げた。主人と視線が絡んだ銀は、和やかに微笑み返す。
「明日の午後には片づけて、ここから出るぞ。俺はこの村、あんまり好きじゃねえ」
「御意に」