7.
四月の最初の火曜日にセータを着ると、その日は晴天だったせいか、さすがに暑く感じて、もう、これから着て行けないだろうな、と思った。
その日着て行ったら、また冬になるまでしまっておこう。
こんな決め事をしたことがいけなかったのか。
そのセーターをしまった日をさかいに、母の意識は混濁し、そして、あっと言う間に帰らぬ人となってしまった。
とても不思議な感覚だった。
悲しいと言えば悲しい。でも涙が出たり悲嘆にくれたりすることもなく、なんだかぽっかりと、ぼんやりと時間が過ぎるようになってしまった。
あとはたんたんと、母の暮らした家に通い、母の物を整理する日が続いた。
そんな私の様子を見て、心配したのか、片付けを手伝いに来た娘の生良がふと私に言った。
「おかあさん、大丈夫? なんだかぼんやりしてるけど…」
「大丈夫よ」
と私はできるだけ明るい声を装い、片付けの手を休めることなく言った。
「ねえ、恭太が生まれた時、あたしが小学校二年。純太はまだ幼稚園で、おばあちゃんが家に来てくれてたでしょ」
と娘が言った。
「そうだったねえ。純太の時は、あなたまだ二歳だったから実家に行ったのかしらね」
「もしかして、おばあちゃん、あたしに性教育的なことをしようと思ったのかな…、って今になって思うんだけど…」
と、私の目をまっすぐに見ると「きらちゃんは、男の子と女の子とどっちが好き? っておばあちゃんが急にあたしに聞いたの」と言った。
「そうなの?」
「あたし、どっちが好きかとかそのころ考えたこともなかったし…。男子には頭くることが多かったから『女の子!』って言って、それで…おばあちゃんは? って聞いたの」
「ふうん」
と答えながら私の心臓はなんだかいつもより大きな音を立てていた。
「おばあちゃんはね。なんだか、すごくびっくりして、あたしのことじっと見つめてさ。どっちでもいいのよ。とにかく好きな人がいればいいの、と言ったわ。なんだか、すごく変な感じがした」
娘は遠くを見るように、続けて話した。
「あの日、あたし、おばあちゃんの眼鏡を踏んづけちゃったの。純太はもう寝てたんだね、たぶん。そのあと、あたしのベッドでおばあちゃんがあたしに何か読んでくれてたの。あたし知らないうちに寝ちゃって…。ふと目が覚めておトイレに行こうと思ったら、電気が点いてて、おばあちゃんはお洋服のまま、あたしの隣で横になってて…。おばあちゃんもきっとそのまま寝ちゃったのね。
あたしは少しボケっとしてて…、ベッドの脇に立ち上がった時におばあちゃんの眼鏡が落ちていることに気がつかなくて。ちょうど足を下ろしたらミシって。足の下で眼鏡がつぶれて…。その感触がいまだに足に残っている」
ここで娘が一息ついたので、私は娘に自分の心臓の鼓動が伝わるのではないか、とさらにドキドキした。
「あたしびっくりしちゃって、同時に泣きだしたの。『ごめんなさい、ごめんなさい』って。だって、フレームが曲がって、レンズが外れちゃって…。なんとなくおばあちゃんがそのまま目が見えなくなっちゃったらどうしようかって、すごいおおげさな気持ちだったのよ」
「で?」
「おばあちゃんも一緒に泣いちゃったの。だから、あたし、よけいにびっくりしちゃって、自分の涙は止まったのよ」
娘は静かに笑いながら、
「おばあちゃんがね『きらちゃんが悪いことは何もないのよ。悪いことは全部おばあちゃんのせいだから。だっておばあちゃんがいなかったら、あなたたちはいなかったのだからね』って言ったわ」
優しかった母のことが全部押し寄せてくるようで、私は息が詰まった。
「とにかく、素敵なおばあちゃんだったね。大好きだったよ」
こう娘が言ってくれたことで、私はふっと息を吐き出せた。
こんなに穏やかな毎日を、穏やかな気持ちで過ごせる今。これも母がいたから持てる時間なのだとしみじみとして、私は生良の方に手を伸ばした。
「やだ! おかあさん! 何?」
と生良が笑った。
「なんでもないよ」
と私も笑った。