6.
母の部屋の扉を開けると、母はベッドでまどろんでいて、今日はドアを開ける音でふと目を開けたようで、大きく目を見開くと、
「あら、お姉さん」
と言った。
「そのセーター、わたしに下さると言ったのに…」
と母は悲しそうな顔をした。
「あなたのものだったよの」
と私は言った。お姉さんという人に成りすますことができるのなら、なってみたいと思った。
「それを編んでいらしていた時、あたしに下さるのかしらと、ドキドキしていたのよ」
「だから、あなたにあげたでしょ…」
母のつなぐ言葉に、私も乗って行きたいと、何かに挑戦するような気持ちが起こっていた。
母はまたまどろんで、眠りの世界に行ってしまいそうになっていた。
私は母の背に手を差し込んで、
「ね、ケーキを食べましょう」
と言った。
母の目の焦点が合って、
「いいわね」
と起き上がった。
今、母の目には私が映っているのだろうか、私の中にお姉さんが映っているのだろうか。ケーキの用意をしながら、私の中にはいたずらっ子のような気持ちが生まれていた。
ケーキを並べて、差し出すと、母は二つを見比べて、
「そう、これね。お姉さんもこれが好きだった」
と言った。
「虹の橋を渡った話をしてちょうだい」
と私は言った。
「やこさん、あなたも渡ったの?」
と母は不思議そうな顔をした。
「ええ。透明でこわかったの。でもきれいだったの。覚えているわ。渡ったでしょ? お母さんも渡ったのでしょ?」
母は珍しく額にしわを寄せて、困惑の表情を見せた。
「あら? あなた、だれなの?」
と私の顔を覗き、セータに指を伸ばし、
「おかしいわね、わたしのセーターはこれなのかしら?」
と言った。
「あの時はほんとうにこわかったわね。どこで落ちるかわからないのですもの」
と私は話をつなげようとしていた。
すると、母はぼうぜんと前を見つめて、その目からポロリと涙がこぼれた。
「あら、お母さん、だいじょうぶ?」
私は母をいじめてしまったような、自分の中の残酷な気持ちが露呈してしまったような居心地の悪さを覚えて、母の背中をさすった。
「ええ、ええだいじょうぶよ。やこさん。ごめんなさいね」
と母は言った。
「いいのよ。あの日、お父さんがお弁当を三つ買って来てくれたから、ちゃんとお食事はできたし、一日くらいお母さんが帰って来ないからと言って、死ぬわけでもないのだから」
「でもね、少しでも気持ちが揺らいだことを、あたしはね、忘れられないの」
いろいろ消えていく記憶の中で忘れられないこと。それはどういう区別がされて頭の中に保存されているのだろか。
「ごめんね、お母さん」
と私も言った。気まぐれに、母をだまそうとしたような、そこに悪気が生まれていたような罪深いような…、でもそんな気分は全部小雨のせいなのだと私は思い込もうとしていた。
それから、四月になるまで、私は必ず辛子色のモヘアを着て母の元に通うようになっていた。
母の中ではときどき、私を「おねえさん」と呼ぶことがあり、その区別はあいまいで、瞬間瞬間のできごとと、昔の記憶がふいにつながるような、一緒に迷路に入り込んでしまったようなそんなミステリアスな感じがおもしろくて、私はいつでも母の記憶の中の「おねえさん」になろうと構えていたようなところがあった。
虹の橋ということも気になり、隆俊に言うと、調べ好きの隆俊はインターネットで検索をして、
「『飼っていたペットを亡くした人々のあいだで語られている、比喩的な場所、または神話的な場所のことである。また、この場所をうたった散文詩(韻文)のことである。』と書いてあるよ」
と教えてくれた。
「なにか猫とか犬とか飼っていたんじゃない?」
と言われて考えたけれど、小学生の頃、コロという犬がいた時はあったけれど、その一度きりしか飼ったことがなかったし、そのあとは? 金魚を飼ったことがあるくらいだった。