4.
その日の記憶はそれまでだ。
授業参観はいつも日曜日にあって、月曜日は代休になる。
母はいつの間にかもう月曜日には家に帰っていて、そしてそれからまた普通に毎日が過ぎた。
そんなたわいもない、たった一日母が帰って来なかったという思い出が、ずっと大事に心の奥にたたまれていたということは、起伏のない日常の中では、それは少しつまずきのあった日ということなのだろうか。
静かに編み物をする母が時々声を荒げた記憶、
「あらいやだ。この糸、切れているところを結んでつなげてあるわ」
そんな継ぎ目にも似ている。その日の記憶がセーターと一緒にしまわれていたことで、私は切ない思いの中に埋もれてしまいそうになった。
それから数日たったある日、真亜子から久しぶりに電話があった。
真亜子とはずっとつきあいが続いていたというわけではない。同じ公立中学に進学したが、友達付き合いが違ってきて、中学を卒業してからほとんど付き合いもなくなり、年賀状のやりとりも社会人になるまでには途絶えてしまっていた。
それが、十年くらい前、まだ母が実家で一人暮らしていた頃に真亜子からはがきが届き、それにこたえる形で私が真亜子に連絡をした。
真亜子はやけに懐かしがっていて、会おう、会おうと言われて、すぐに会い、それからはまた年賀状のやりとりが復活していた。
「たぶん、やこのお家は引っ越しとは無関係だろうなと思って、それではがきを出してみたのよ。うちは、あれから二回引っ越しをして、結婚してからも、今住んでいる所は三回目に移った所」
十年前に会った時、真亜子はそう言った。
確かに…、私の実家は母がホームに入ってからは誰も住んでいないのだが、そのまま残っている。結婚を機に隆俊の実家で暮らすようになった。引っ越しをしたのは、結婚したその時、一回きりだ。一人の娘と二人の息子をもうけたが、もう皆外に出てしまっている。
今回の久しぶりの電話では、前年、真亜子のお母さまが他界なさったことと、その間のやりとりなどを真亜子が話し、そして、私は父が数年前に亡くなったこと、そのあと義父も葬り、義母は元気だが、母は一人暮らしが難しくなり今ホームにいること、私が毎週会いに行っていることなどを話した。
すると、
「ねえ、やこのお母さんに会いに行きたい」
と真亜子が言った。
私はすぐに返事ができなかった。でも、たぶん、ホームに先に連絡を入れておけば、特に問題もないだろうし、仮にその日突然人を連れて行ったとしても、説明さえすれば問題はないだろう。ただ、母は何も覚えていないだろうけれど…。
「それでもいいわ。とにかく、次の時に会いにいくわ」
と真亜子は言った。
電話を終えてからも、私はまだ頭を巡らせていた。真亜子はどの程度本気で行きたいと言っているのだろうか。
毎週水曜日に行くとは伝えたが、場所も時間も何も話していなかった。
真亜子は次の週の火曜日にまた電話をしてきた。
「ねえ、明日、お母さまの所に行くのでしょ? あたしも行っていいでしょ?」
ダメというつもりはなかったが、ダメとは言わせないという真亜子の意志を感じて、うれしかった。
駅で待ち合わせて、ケーキを買って行くことを言うと、そのケーキを真亜子が買ってくれるという。なんだか、催促してしまったようで、私が先に早めに駅に行って買っておいたら良かったのかしら、と少し悪いような気がした。
いつもは二つのケーキから一つを選ぶ母が、今日は三種類のケーキの中から何を選ぶのだろうか。私は洋ナシのタルトを選び、真亜子は木の実のパイを選び、そして、母へとナポレオンパイを買ってくれた。
母はまた編み物をしていた。
「こんにちは」
と声をかけると、私のことはわかったのだが、やはり真亜子のことはわからないようで、でもニコニコと笑って、
「こんにちは」
と答えた。
「お元気そうですね。編み物ができるなんて、すごいわ! うちの母は編み物なんかしたことがなかったですよ」
と真亜子が話しかけると、
「お姉さんが教えてくれたの」
と母が答えた。
モヘヤのセーターを着た日から急に登場したこの「お姉さん」とはいったい誰のことなのだろう?
「どこのお姉さん?」
と私が聞くと、「あなたの先生」と妙な答えが返ってきた。
真亜子と私は顔を合わせて、ふふふと笑った。
「お姉さんが、あなたの先生だったというのは、あの時にわかったの」
と母が言った。
「え? キタハラカズコ先生?」
と私が言うと、
「キタハラ?」
と母は繰り返し、真亜子と私はまた目を合わせた。
「そう、あたしたちの担任をされた次の年、キタハラ先生はお辞めになったわね」
と真亜子が言った。
「え? そうなの?」
私がびっくりして真亜子を見ると、
「そうよ」
と母が話に加わるので、また真亜子と目を合わせてふふふと笑った。
「あたしがいけないのよ」
と母が言った。
「あたしが思い出したの。とてもとても大切な人だったのに、ずっとわからなかった…。お姉さんは気がついていらしたのにね…」
(なんのこと?)と真亜子も私も少し眉をしかめて目を合わせた。
「でも、おかげで虹の橋を渡れた」
しばらく母の話のつながりを探っていたのだが、そんなものもともとありはしないものなのだ。
「そう、それは良かったわね」
と私は合いの手を入れた。
「とてもきれいな橋。近くで見るとね、透明なの」
と母はどこか違う世界に行ってしまったように、窓の外のそのもっと先を見るように目を凝らした。
「色はね、ついているのに、下が透けて見えるのよ…。とてもこわいの。でもね、渡ってみたかったし、それはそれはドキドキするけれどね、気持ちも透明になったような、ふわふわ浮いたような、どこにもないもの」
思いがけず長く母が話したので、また真亜子と二人で目を合わせてふふふと笑った。
「おかあさん、すごいですね。まるで詩人みたい。まだまだお元気でお身体に気をつけて下さいね」
と真亜子が言った。
それからケーキの用意をすると、母は今日もナポレオンパイを選んだ。
なにか、そういう、母が何か言うたびに真亜子と目を合わせて笑えることが心から楽しかった。
帰りに「また来るね」と言うと、母は「また会いましょう」と妙にかしこまって言った。