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3.

 私はいつも母と並んで歩くとき、なにか誇らしい物を感じていた。母はいつもゆっくりしていて、細身の身体のわりにはしっかりとした足取りで、何にも動かされないような感じだった。

 小学校高学年になって、母が授業参観に来てくれる時には、いつも私は静かにときめいていた。

 その頃一番仲の良かった真亜子が「あたし、授業参観って嫌い」ときっぱり言うのに、私は返事ができなかった。

「なんかだかさ、親が来ているからって、気取って授業していて、いつもの授業とは違う特別の感じなのに、そんなもの見て何になるのかしら」

 と真亜子は言った。彼女はいつでも、自分の気持ちを自分の言葉で的確に言う事ができるのだった。そう言われてみたことで、私は授業参観の日を待ち焦がれている自分に気がついた。だけれど、真亜子にわざわざ、好きと宣言するほどには好きなわけではなかった。ただ、彼女のように嫌っているわけではないと思っただけだ。そして、そのこと自体をなんだか恥ずかしいことのように感じ、授業参観のことを私も嫌わなければいけないような気分になっていた。


 母は時間から外れてしまったような人で、周りの風景にはちっとも同化しない。浮き立っていて、それでいて阻害されない。母はだれとも協調せず、教室の中で私にだけ焦点を合わせている。それが背中でわかった。それだけで私は満足できた。

 真亜子がぽつりと言った。

「やこのお母さんって浮き世離れしているよね」

 今思うと、それは小学生の言葉にしてはなんだか大人じみている。そしてそれは私にとってはうれしい言葉だった。

「うちのお母さんは肝っ玉母さんなんだよ」

 真亜子が後ろを振り返ると、どっしりと立っている真亜子のお母さんが、くるくると目を動かして、真亜子に手を振った。昔昔放送していた、そんなタイトルのテレビドラマに出てくるお母さん? でも、そのお母さんとはまた違う感じがした。真亜子のお母さんは明るく陽気で、家に遊びに行った時もいつも気持ちよく私を迎え入れてくれた。

 その授業参観の帰りに、真亜子が聞いた。

「ね、やこのお母さんは、何?」

 と。

 私は頭を巡らせたけれど、何? というのがわからなかった。

「ね、たとえると、なに母さん?」

「なに母さん?」

「ほら、うちは肝っ玉」

「どうして?」

「なんだか、何があってもニコニコしていて、何にも負けない感じ」

「じゃあ、うちのお母さんはきっと、浮き世離れ母さんなんだね? さっき、真亜子が言ったでしょ」

「お料理とか、洗濯とか、家事みたいなことをまったくしないで、いつもきれいな着物着て、ほほほ、とか笑っているの?」

「まさか」

「そんなふうに見えるのにね」

 母はたしかに、形を大事にする人だった。だれよりもすごく早く起きて、まず自分の身なりをきちんと整える人だった。着物なんか着ている人はいないっていうのに、朝から着物を着ていることがあった。その授業参観の日も、若草色の着物を着ていた。

そして、その授業参観の日に、一晩だけ家に帰って来なかったことがあったのだ。


 学校から家に帰ると、暗くて、人の気配がなかった。私は一人っ子で、母はいつも家にいて、買い物以外にあまり出かけることもなかったのだが、もし何かの用事で出かけて遅くなるようなことがあれば、必ず何か言い残すか、書き残していただろう。だけれど、帰って来なかった日はそれまで一日もなかったのだ。

 キッチンはいつものようにきれいに片付いていた。私は料理が好きで、時々母の手伝いをすることがあったし、一回か二回は私が決めたレシピの料理を私が主導して作った日があった。でも、それは何かを作ろうと決めて、母と相談して、母と買い物に行って、そして母がなんとなく見守っている所でできたことだった。

 だんだん日が暮れて来ても、何も連絡がない。

 その当時は連絡方法といえば固定電話しかなかったから、何かあれば電話がかかってくるだろうと思った。私は電話の場所ばかり気にしていて、テレビを見ていても、ときどき電話の所まで行ってみて、じっと耳を澄ませた。私がその電話の前を離れている間に、私の耳には届かない波長の音でベルが鳴ったら聞き逃すかもしれない。そんなことあるわけはないのに、電話のそばを離れるのが不安だった。でも電話は鳴らなかった。

 その日の夕飯がどうなるのか、私は心配だった。

 私はまた電話を気にしながらテレビを見ていた。だんだん暗くなってくることを心細く思った。

「ただいま」

 と声がして、父が帰って来た。いつもより早い。手に袋を下げている。

「さあ、今日はお弁当を買って来たから、食べよう。テーブルの上を片付けてくれるかな」

 と父が優しく言った。

「はあい」

 お腹が空いていた私はうれしくなって、父の言うとおりにすぐに片づけを始めた。

 父は部屋着に着替えて来ると、テーブルの上にお弁当を三つ並べた。

「三つ?」

 と私はお弁当を見つめた。

「そうだよ。一つはもちろん、お母さんの分だよ」と父が言った。

「お母さん、どこに行ったの? いつ帰って来るの?」

 と私は聞いた。父は寂しそうに笑いながら、

「たぶん今日は帰って来ない」

「明日は帰って来るの?」

「どうだろう…」

 私は母のために用意されている一つのお弁当を見つめて、

「もし、帰って来なかったら、このお弁当はどうなるの?」

 と聞くと、父はハハハと大きな声で笑った。

「どうにでもなるよ。取っておけば明日食べることができるし、やこが食べたいなら今日二つ食べたっていいんだよ」

 私の実家ではテレビを見ながら食事をするという習慣がなかった。

 父はクラッシック音楽が好きで、なんだか私の気分が重くなるような音楽が流れていたような気がする。

「お母さん、ずっと帰って来ないの?」

 と不安になった私は父に聞いた。

「どうだろう」

 と父は言い、

「今日、授業参観には来てくれたのに…」

 と私が言うと、

「知ってる」

 と父が言った。


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