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2.

 ホームでは私はいつもただのいい人になり切れる。

 ホームに働いている方は皆親切に接して下さり、毎日大変な思いをして老人の世話をしているのだろうに、気持ちよく母の部屋に案内して下さり、温和な穏やかな場所に安心して母がいられるのだと、すべて、私が見えるもの、触るもの、感じるもの一つ一つに嘘が紛れないように気を配っていらっしゃるように思える。

 母の部屋の扉を開けると、母は今日は編み物をしていた。

 手で何かを覚えているというのはとても不思議なことだ。

 何日も編み物をしていない、と聞いていたのに、またふと編み出していたりする。

 母は昔は近所の方に編み物を教えていたこともあったのだ。

 今は大きなものは作れないようで、手の中におさまる大きさの、モチーフを作っていることがある。

 それはコースターにもなるし、同じような大きさのものが集まれば、それをつなげて大きなものにしあげてみようと、私はひそかに思っていて、母がまた編み物をしている時はうれしくなるのだ。

 扉が開いたのに、母は私が入って来たことにちっとも気づかないようだった。

「こんにちは」

 と私が声をかけると、母は編み物の手を止めて、目を大きく見開いた。

「まあ、あたしのセーターにそっくり!」

 というので、私は思わず笑ってしまって、

「だってこれ、お母さんのものだったのよ!」

 と言った。すると母は、

「あら、やこさん、きょうは早いのね、どうしたの?」

 とびっくりしていた。

 早くなんかない。いつも母を訪ねるのは水曜日と決めていて、だいたい時間はおやつ時と決めているのだから。

 私はとにかく笑って、母とケーキを食べるように用意を始めた。

 母はケーキを食べる時にも日本茶の濃いものを飲むのが好きだったので、コンビニで温かいお茶も買い求めてあった。

 母のマグと私用に用意してあるマグにそのお茶を注ぎ、紙皿にケーキを並べると、母はうとうと眠っているようにまどろんでいて、

「やこさん、好きなのをお食べなさい」

 と言った。

「いいのよ、お母さん、先に好きなものを選んで」

 と言うと、

「そうなの? じゃあ、あたしはナポレオンパイ」

 とケーキを手繰り寄せた。

 なんだかこのケーキ選びが占いのように思える。母がナポレオンパイを選ぶと、今度母に会うまで恙なく日々が過ぎるような気がする。でも、もし母がオペラを選べば、それはそれで恙なく過ぎるような気がする。その違いはわからないのに、それは母が選んだ次の日につながっているように思える。


 庭が見えるように母を椅子ごと動かして、母の隣に座って一緒にケーキを食べ始めると、いつもになく今いることが不思議に思えてくる。この人の身体の中に私は育っていたのか、とそんなまるで空想科学めいた話が現実だなんて、どうやって信じたらいいのだろう。私は小さい時の写真やら、両親の話を鵜呑みにしてそれを事実として知ってる今がとても不思議になる。

 母はもの珍しそうに私が着ているセーターに手を伸ばして、そのふわふわの中に指を滑り込ませた。

「こんなのを、あたしも作ってもらったの…」

 と母は言った。

「だれに」

「お姉さんに」

 それは誰なのだろうか? 母も私も一人っ子のはずだ。でも、近所の人やおばさんのことをお姉さんと呼ぶことがあったのかもしれない。

「ほんとうに、同じ手ざわり。こんな感じ」

 母の頭の中はセーターに刺激されてかき回されたようで、母の中のまだ掘り起こされていない部分から何かが見つかるような、そんな期待で私はわくわくした。

「お姉さんは、それはそれはあたしを、だいじに、ていねいにしてくださったのよ」

「そう」

「とても大切に、なでるようにしなさって、それで言ったのよ。みいちゃんは宝物よってね、それはほんとうだと、信じられたこと」

「そう」

 と言いながら、私の頭の中もかき回されてしまって、いったいこのお姉さんが誰に当たるのかと記憶を探るように母の顔を見た。

「帰らなくてごめんなさいね」

 と母は言った。

「いいのよ、帰らなくても、ここはお母さんのおうちなのよ」

「あら、そうなのかしら?」

「そうよ」

「でも、帰れなかったの」

「それじゃあ、なおさらのこと、帰らなくていいのよ」

「お姉さんが、帰らないでと言ってね、それで楽しくて愛おしくて、帰れなかったの」

「そう、それなら良かったわね」

「そうね、行って良かったわ」

 その日はそのやりとりを気にとめなかった。会話がかみ合っていなかったのだけれど、そんなことはいつものことだ。


 その日、ホームから帰る道すがら、母が家に帰らなかったことなど一度もなかったな、いつも母は家で私の帰りを待っていてくれたな、と思いながら、はっとした。

 そうだ、たった一日だけ、母が帰って来なかった日があったのだ!

 そんなこと忘れていたのだけれど…、その帰らなかった日の記憶は守られるように私の中にしまわれていたのだ…。

 それを数日もかかって私は思い出した。糸をたぐって、編み直すように。

 私はハンガーにかけて数日外の空気に当てた辛子色のセーターをしまいながら、その記憶の綾をもう一度編み直してみることにした。


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