1.
年寄りくさいし、地味です。
よろしくお願いします。
ここ数日、日を経るごとに寒さが増している。
今日、母の所に行くのに何を着て行こうかと朝からずっと迷っていて、「じゃあ行ってくるよ」と言う隆俊の声でふと気がつくと、私はキッチンに立っていて、あわてて玄関に走って行った。
隆俊はびっくりして私を見つめた。
「今日はいつもより少し早く帰る。夕飯食べるよ」と言いながら隆俊がさもおかしそうに笑うので、「何?」と聞くと、私のお腹のあたりを指して「ついてる」と言い、出て行った。
何がついているのか? 自分のエプロンを見ると、納豆のパックの中で納豆を覆っている半透明のビニールが付いていた。
朝食に食べたあと片付けをしていて? はて、どうやったらこんなふうにお腹にぶる下がるものだろうかとそれを見つめていると。
「やこさん、あたしもお出かけ」
と八十歳になった義母が私の肩をぽんと叩き、「あなたもお出かけでしょ?」といたずらっ子のように笑った。
私の母は来年八十歳になる。一人暮らしになって身の回りのことができなくなり、今はホームに入っている。
母も義母のように、元気に一人で出かけることができたらどんなにいいかしら…、としばらく義母の閉めたドアを見つめていたが、「いけない、いけない」と自分に言って、私も出かける用意を始めた。
もう、セーターを着てもいいだろうか。
外に目をやると、快晴で、少し暑いかもしれないかなと思ったり、朝起きたての空気が冷たく重かったことを思うと、セーターでいいような気もして、引き出しの中を探った。
ふわふわと指に当たるモヘアの手触りが私の気持ちを引き付けた。
モヘアのセーターの、ふわふわの毛玉の中に指をすべらせて網目のつながりを探る時、その中につやつやと指になじむ肌触りがあって、それに私は惹かれていたのだけれど、この芥子色のモヘアは特別のものなのだな、と気が付いた。
「やこさん、これちょっと着てごらん」と母がその芥子色のモヘアを差し出した日のことが忘れられない。そのモヘアは今私のものとなって、こうやって引き出しの中に眠っているのだ。
あの時まだ小学生だった私には大きすぎる大人のセーターだった。私が母の手の中のセーターをじっと見ていると、「ほらほら」 と、私が着ていたシャツの上から母がセーターを着せた。
セーターからもやもやと湯気のように出ている細い繊維は、こしょこしょと私をくすぐり、「くすぐったい」と私は声を上げた。でも、それは時にはチクチクと痛く感じることもあり、「かゆくなる」と私は言った。
母はその様子をおもしろがって見ていて、また「ほらほら」と言って、私を姿見の前に立たせた。
セーターは膝こぞうの上まであって、手はすっぽりかくれていた。
「ふふふ、まだ小さいのね、やこさんは」
と母が言った。
私はぬいぐるみの熊か何か、不思議な動物になったような気がして、ぴょんぴょんと鏡の前で飛び跳ねた。
母は何か少し悲しそうな顔をして笑って、
「このセーターがぴったりになったら、着てちょうだいね」
と言った。
結婚して実家を離れる時に、そのセーターももらって来たのだけれど、でも手を通したことはなく、それからずっとただタンスの中に眠っていた。そういうあれこれを思い出したということでは、今日はこれを着て行くのにぴったりの日なのではなかろうか。
私はセーターを引っ張り出すと、それを着て出かけることに決めた。
母が入所しているホームがある駅で降りると、母へのおみやげにケーキを買った。
母にとっては毎日が新しい日で、その前のつながりはいつも失われてしまうのだけれど、でも、とにかくケーキを目にした時に、いつも輝くように笑みがこぼれるので、私は必ず母が一番好きだったナポレオンパイを買って行く。
自分のものと二つ。
自分の物はいつも違うものを選ぶ。
おかしなことに母は、「あたしはこれね、これが好きなの」とナポレオンパイを選ぶこともあるし、「これがいいわ」と違うケーキを選ぶこともあった。今日はどちらを選ぶだろうか。
きれいに並んでいるケーキの中から今日はナポレオンパイとチョコレートケーキのオペラを包んでくれるようにたのんだ。
ケーキが二つだけ入った小さい箱を下げて歩くと、ケーキがぶつからないように、なんとなく箱を意識して歩くようになる。「あたしは今、ケーキを持って、母に会いに行くんです!」と声に出しては言わないし、道行く人は誰一人私の行き先になんか興味を持っていないだろうに、なんだかすごく主張して歩いているような、おおげさな自信がうれしくなる。