中
お嬢さま、お嬢さま、お嬢さま――。
彼はエセルを名前で呼ばない。
そうなってからどれくらい経つのかわからない。
でももう、ずっと前からそうだ。
幼い頃、家庭教師やメイド長から呼び出されるたびに、エセルは男を誘ってこっそり屋敷を飛び出した。
マールシャードの丘を駆けずり回って、近くの民家に住む老夫婦のところで野いちごのジャムとスコーンをおやつにして、たくさんの歌を唄って、涼しい木陰で眠って、そうして一緒に怒られた。
怒られても怒られても、彼は一緒に屋敷を飛び出してくれた。
転んで泣きじゃくるエセルの隣に寄り添い、土で汚れた青いリボンの髪飾りを整えて、泣き止むまで傍に居てくれた。
屋敷に戻ればエセルの三倍も怒られることをわかりながら、彼はいつも一緒に居た。
――エセル、ぼくがそばにいる。だから、大丈夫だよ。
エセルの泣き顔は余すところなく彼のもので、彼の無邪気な笑顔はぜんぶ、エセルのものだった――その頃は、まだ『エセル』だったのに。
いつのまにか自分のことを『私』と呼ぶようになっていた彼はエセルを呼び出す側に回り、使用人たちを取りまとめるほどの働きを見せるようになった。
そうして、エセルは誰にとってもまごうことなく『お嬢さま』になった。
リンドン家の命運を背負って、〈サムシング・フォー〉なんてものを身につけて結婚式に臨まなければならないような、『お嬢さま』に。
一緒に駆けずり回っていたマールシャードの丘が細かい雨にぼんやりとにじんで、自分があまりに遠いところへ来てしまったことをはっきりとわからせる。
幼いエセルも、幼い彼も、遠くにじんで、引き返せないところまでやって来て――せめて一緒に遠いところへと来たのならばよかったのに、彼の姿はもう、ここにはない。
雨のカーテンを揺らして、扉を叩く音がする。
「失礼致します、お嬢さま」
エセルは返事もしなければ、振り返ることもしない。
男は持って来た茶器をテーブルに整えている。
彼が茶器を扱うときの音は、他の使用人とは全く違う。
まるで茶器同士が触れ合う音までも自在に操っているかのように、美しい。
まったくもって、できた使用人。
彼の抱く使用人としての誇りだの矜持だのには苛立ちを感じずにはいられないとしても、この美しい音にだけは屈してしまう。
「ねえ、聞いた?」
エセルはできるかぎり静かに言った。
「何を、でしょうか」
「この部屋、私が嫁いだ後、取り壊すんですってね」
屋敷のいちばん奥にあるこの部屋は、かつてはゲストルームの一つだったという。
リンドン家の栄枯盛衰を見届けて来たこの部屋も、いつからかゲストルームとしては使われなくなり、エセルが生まれた頃にはすでに物置のような様相を呈していた。
男はエセルの言葉を引き受けるようにして言う。
「一昨年の大水のときに、いちばん被害がひどかったのがこの部屋です。
騙し騙し使って参りましたが、詳しい者の見立てによれば、このままでは屋敷全体も悪くなってしまうそうですので、いっそ、新しくするそうでございます」
古くなったが捨てるには忍びない家具や、歴代当主が暇にあかせて造った下手な彫像や絵画、いざというときに使えそうな古びた真鍮のキャンドルスタンド、デザインが流行遅れになったために着なくなったドレス――
ありとあらゆるものが雑然として捨て置かれているこの部屋は、エセルの格好の遊び場で、逃げ場だった。
湿っぽい空気と、時が止まったような雰囲気がエセルを落ち着かせたし、なんといっても、ここにはリンドン家の者も使用人も、ほとんどやって来なかった。
「残念ね」
エセルは座っている椅子をそっと撫でながら言う。
柘榴色がはげ落ち、ところどころ破れているこの椅子に、エセルは今まで何度座っただろう。
「すべて捨ててしまうの?」
「はい、ほとんどのものは」
言いながら、男は自分が腰掛けている長椅子に目を遣っている。
手袋をした左手が、やわらかい表面をつつ、と撫でている。
ほんの少しだけ、感傷的に見えるのは、自分の目がそうだからなのか、彼の心がそうだからなのか、エセルにはわからなかった。
「この部屋を取り壊すのを提案したのは、あなただって聞いたわ」
「……」
「私が嫁ぐまでは壊さないようにするよう進言したのも、あなただって」
「……」
「本当なの?」
「……本当でございます、お嬢さま」
聞きたくなかった答えだ。
どうして聞きたくない言葉ばかりが、こんな酷い雨の中でもはっきりと聞こえるのだろう。
「どうしてだと思いますか」
それ以上は何も返って来ないと思っていた彼の口から零れた、思いもよらない問い。
エセルは驚きを隠せないで言う。
「何が?」
「どうして、私がこの部屋を取り壊そうと提案したのか。
どうしてだと、思いますか」
「……あなたの大事な大事なリンドン家の屋敷が悪くなるから、じゃないの?」
自分でそう言ったじゃないの、と続けようとしたエセルを制するように、男は言葉を重ねた。
「どうして、お嬢さまが嫁ぐまでこの部屋を残しておいてほしいと願い出たのか、わかりますか」
「それは……結婚式に必要なものを置いておくには、ちょうど良い広さだから?」
実際に、広すぎず狭すぎず、天井の高いこの部屋をある程度片付け、結婚式のための準備に使っていたのはこの男だ。
古びたもののひとかたまりの隣に、晴れの日を待ち侘びるドレスや嫁入り道具が眠っている。
だからこそこの部屋は、〈サムシング・フォー〉の由来とリンドン家の来歴をとうとうと語り聞かせる、という、彼曰くの『望外の喜び』を為すのにふさわしかった。
「違うの?」
訝しげながら答えてみせたエセルに、男は言った。
「貴女がわからないなら、他の誰にもわからないでしょうね」
エセルの言葉をそっくりそのまま奪い取って、男は茶器を差し出す。
紅茶の表面が波打って、テーブルにぶつかる茶器の音が、いやに大きく響く。
まるで彼らしくない。
彼の差し出す紅茶が荒れた海に似ることなど、滅多にないというのに。
波間にエセルの戸惑いと寂しさが、ゆらゆらと揺らめく。
お互いがお互いにしかわからないものを抱えているらしいのに、お互いがお互いに、それが何かわからない。