上
マールシャードの丘は雨に煙っていた。
実りの秋の一歩前、この季節に降る雨は細く、しっとりとして冷たい。
頬杖をつくエセルの両目に映る雨に、憂鬱の影がにじんでは、消えていく。
「――こちらの首飾りは、大奥様のご成婚の折に造られたものでございます」
目だけちらりと声の方へ向ける。
背の低いテーブルをはさんだ向こう側――いつものように静かで、何にも乱されることのない男の姿がそこにはある。
「八つのダイヤモンドの中心に、エメラルドを嵌め込んでおります。
大奥様の瞳の色にいちばん似た宝石を、とのご指示で、同じエメラルドでも最も美しい色を探し求めるため、リンドン家の者たち総出であちこち飛び回りました」
まるで自分もその中の一人であったかのような口調で、男は言う。
そんなはずはないのに。
祖母の結婚式のときなんて、自分同様、彼もまだ生まれてすらいないのだから。
彼は、いつもこうだ。リンドン家に仕える身であることを誇りに思っている。
だからこそこんなとき、彼は饒舌になる。こんなときばかり、この冷たい男にも熱というものがあったのだということを思い出させるように、すらすらと話し続ける。見た目はいつもの、冷たい彼のまま。
気に入らない。
エセルは男の手元に目を向けて、しかし男の目を見ようとはしない。
白い手袋をはめた男は、紅いベルベットのケースに収まっている首飾りを取り出した。
使用人として必要な丁寧さと繊細さを必要以上に持ち合わせる男の手つきから、首飾りがじゃらんと零れ落ちる。ランプの灯りが少し足りず、薄暗さが覆う部屋の中で、その首飾りは場違いなほどにきらきらと光っていた。重そうだ。中央のエメラルドがこちらをぎろりと向いている。似ているのは色ばかりではない。気が強く、未だにリンドン家の中心に堂々と居座る祖母の、あの大きく見開かれた両目の大きさにもまたそっくりだ。
エセルは祖母に見られているかのような息苦しさを感じて、背けるように視線をまた窓の外へと戻した。
酷い雨だ。
「こちらの首飾りをぜひ、お嬢さまに身につけて頂きたいとの仰せでございます。そのためにわざわざ、大奥様手ずから、蔵よりお出しになりました。五十年ぶりだそうでございます」
言い方は丁寧ながら、それはつまり『身につけろ』という指示とイコールだ。
何も言わないエセルに、男は言葉を継ぐ。
「既にご存知のことと思いますが――」
そう前置きをするこの男の話し方もまた、エセルは気に入らない。
自分が立場や年齢にふさわしくない駄々を捏ねているだけなのだと、彼は暗に諌めようとしていることがわかるから。
「〈なにかひとつ古いもの〉は、『祖先』や『伝統』といったものを意味します。大奥様はリンドン家の地位と誇りを受け継ぎ、前マールシャード卿とお二人で永らく歩んで来られました。
その大奥様がご成婚の折に身につけられたこの首飾りは、〈なにかひとつ古いもの〉としてお嬢さまが身につけるにふさわしいお品物であると、僭越ながら、私も思います」
「虚しくないの?」
「何が、でしょうか」
唐突なエセルの一言にも、男は驚きもしないし、動揺もしない。
「こんな役目。
うちの黴の生えたような歴史を、聞く気もない娘にだらだら話して聞かせるなんて、あなたは虚しくないの?」
「リンドン家の立派な歴史をお話し申し上げる役目を仰せつかったことは、望外の喜びでございます。
それになにより、お嬢さまのご結婚に際しての〈サムシング・フォー〉の手配までお任せ頂いたのですから、使用人冥利に尽きます」
「……それ、本気で言っているの?」
男は黙ったまま、答えない。
そう、これも気に入らない。
こういうとき、彼はいつも黙りこくる。
さっきまでは昨日から降り続けるこの雨と同じくらい、絶え間なく話し続けていたというのに。
「それで構わないわ」
拒否権など最初から自分には与えられていなかっただろうが、エセルは自分を納得させるためにそう言った。
「おばあさまがいらっしゃらなければ成立しなかった婚約ですものね。
ギョロ目を下げていれば、おばあさまのご威光がはっきりとわかって、いいのでしょ」
彼がどれだけ誇りに思おうとも、リンドン家の来歴に黴が生えていることは事実なのだ。
自分はその黴を払うために、会ったこともない資産家の男に嫁ぐ。
すべては、祖母の計らいで。
「それで、構わないわ。おばあさまのギョロ目を首から下げて……
『嫁に行け』とあなたが言うのなら、それで」
「……畏れ入ります」
目を逸らしたままのエセルに、男は一言そう呟いて、首飾りをケースに戻した。
「こちらが、〈なにかひとつ新しいもの〉――花嫁のヴェール……本日はそれに使われているものと同じレースを準備致しました。
ドレス自体は奥様のお召しになったものですが、ヴェールは一からデザインし直し、すべて新調致しました。
マールシャードの腕の良い職人がすべての刺繍を手がけて――」
「止まないわね」
エセルの小さな呟きを聞き逃すことなく、男はそこで言葉を切った。
どんな小さな声でも、彼はエセルの言葉を聞き逃すことはない。
男は動きを止めて、自分をじっと見ている――そんなこと、窓の外を見たままでもわかる。
それ以上説明するのを諦めたのか、男は手にしていたレースの切れ端をテーブルへと置いた。
「お嫌でしょう、雨の日は」
今日初めての、普通の話題だった。
「いいえ。
知らなかった?
私、ずいぶん前から、雨は嫌いじゃなくなったの」
「昔はあんなに嫌っていらっしゃったのに」
「そりゃあね。
丘を駆け回るのが好きな子どもはみんな、雨が嫌いでしょ。
部屋におとなしく籠っていられるような子じゃなかったもの。
でも、それももう、昔の話よ」
「そうでしょうか。私にはそうは思えませんが」
「なぜ?」
「今日も晴れてさえいたら、私との約束など放り出して、どこかへお逃げになっていらっしゃったのではないかと思いまして」
「失礼ね。そんなことしないわ。私はもう子どもじゃないもの。
――三日後には、花嫁になるんですもの。そうでしょう?」
彼は肯定も否定もしないまま言った。
「どうして、雨の日が嫌でなくなったのですか?」
「わからないの?」
「……」
「あなたがわからないなら、きっと誰にもわからないでしょうね」
「……」
ほら、また黙る。
そうして自分は、言ってしまってから後悔する。
黙らせているのは、自分なのだ。
黙るだろうと予想ができているのに、言わずにはいられない。
こんなことばかり繰り返して、貴重な時間を無駄にしている。
もう、時間がないというのに。
「すっかり、冷めてしまいましたね」
テーブルの上の茶器を見遣って、男は言った。
「……」
「お湯を持って参ります。少々御前を失礼致します、お嬢さま」
男は部屋を出て行く。
扉を開けて閉める音は、彼に似て静かで、雨の音に飲み込まれて聞こえなかった。