映画「セッション」 感想
「セッション」という映画を友人が褒めていたので見ました。一言で感想を言うと…矮小化された良作であると思う。つまり、僕の観点からすれば駄作であると思う。
「セッション」という映画を簡単に説明すると、ジャズドラマーを目指しているニーマンというサイコ気味な学生が、これまたサイコ的な鬼教官フレッチャーに叩き上げられ、ついには鬼教官の、なんだかわけのわからない思想と迎合し、ドラマーとしていっぱし(らしい)になるという話である。
まず、この「セッション」という映画に欠けているのは「音楽」であると思う。あるいは「ジャズ」と言ってもよいし、「芸術」と言い換えてもいい。ジャズミュージシャンの菊地成孔がこの映画にブチ切れていたらしいが、そのあたりのポイントに切れていたのではないかと思う。
具体的に言うと、ここに出てくる、鬼気としてドラムに向かうニーマンという若い学生も、鬼気として学生に怒鳴りつけ、音楽を教えてやるというストイックな態度を取っているフレッチャーも、一度として、「芸術としての音楽」あるいは「ジャズ」そのものに向かい合っていない。ニーマンはチャーリー・パーカーの事を「歴史に名を残した」と評価し、「僕は偉大になりたい」と言ってチャーミングなガールフレンドを振る。つまりは、音楽的豊かさ、音楽そのものの心地よいリズム、意味、価値に向かい合ったことはなく、音楽を通して名前を残すとか、鬼教官に認められたいとか、そんな事しか考えていない。
一方、鬼教官フレッチャーの方でも同じで、彼が学生に指摘して激怒するポイントは音程がずれているとか、テンポが違うとかで、それだったら機械に演奏させればいいだろうと思うのだが、終始そんな風である。フレッチャーが終盤で、「今回の演奏はスカウトも見ているぞ…」と言うシーンがあるのだが、考えているのは、そんな事である。つまりは、音楽そのものの良さ、豊かさではなく、単に機械的な技術を見てみたり、ただもう気持ち悪いストイックぶりを発揮したりで、「音楽」から離れた、世俗的な世界観の内部だけで捉えられた「芸術」「ジャズ」がある。まともにジャズをしている人からすれば、嫌なポイントだろう。
(「もっと速く叩け!」とフレッチャーが激怒する場面があるが、そんなに速く叩いてどうするのか。ここにもリズムの欠如と機械的な技術信奉が見られる)
そもそもが、「ジャズ」というものが、音楽学校の教室内部に収まるという前提で話が進んでおり、当たり前だが、このわけのわからない鬼教官に認められなかったからといって一流でないとは限らない。また、観客に認められないからといって一流でないとも限らない。芸術の苦しい所はそこにあるのだが、そういう所はこの映画とは関係がない。ただもう鬼教官のスパルタ教育は正しく、ドラム修行をするのは辛い事で、この辛さを克服して「一流」になるらしいが、この「一流」の定義は極めて通俗的である。
個人的な話では、「お前は偉そうに言っているがプロの評論家にはなれない」といった的はずれな批判、また、「小説を書いている」と言えば「ああ、芥川賞(直木賞)を目指しているんだ」という一般の人の反応、そうしたものの根底にある世俗的芸術観を肯定するようにこの映画は描かれている。大体、主人公が手から血が出てもドラムの練習をするとか、交通事故で頭から血を流しているのに、会場に行ってドラムを叩くという、通俗的な描き方が色々なものを象徴している。ドラムはいいから、まず病院に行ってくれ、と言いたくなる。
それから、ニーマンが可愛い彼女を、「俺、ドラムに専念したいんで!」ってな感じで振る場面があるが、これは、かつて小林秀雄がマルクス主義小説を批判していた箇所を思わせた。面白いと思うので、引用する。
「彼は社会に対する漠然たる正義感のために、ただそのために女を捨てる。」
「この男の頑固な良心的一概念、なるほど、この男のように必死に守れば概念も悲劇性も帯びるであろうが、概念はあくまで概念だ。この一概念のために人間性を捨てて乾涸びるとは悲しい事だ。」
「しかし私の言いたいのは、この女の演ずる悲劇は、男の演ずる悲劇に比べて遥かに豊かな、危うい現実を孕んでいるはずだし、この女の顔を掴む為には遥かに、透徹した眼力を要するという事だ。」
(小林秀雄「物質への情熱」)
以上の文章の「社会に対する漠然たる正義感」を「ジャズに対する偏執的な思い込み」と言い換えれば、大体同じである。ニーマンはジャズの為に女を捨てるが、ここで「芸術」であるのは、ジャズというものに奇妙な入れ込み方をした主人公の偏執性ではなく、振られた女の感情の方である。もっとも、女の方でもその後、彼氏を作っているので、そんなに悲しんではいなかったのかもしれない。いずれにせよ、鬼教官フレッチャーとその下僕ニーマンは、作品の最後では通じ合って、仲良くなるのだが、彼らの偏執性は、「ジャズ」とも「芸術」とも関わりがないと思う。
結局の所、この映画は芸術を通俗的に見て、芸術を社会秩序の内部にきっちり当てはめてくれるので、安心して見ていられるのだろう。こうした作品が評価されるという事は、「頑張って、血の滲むような練習をして、夢を叶える!」というこの世界が用意された価値観が相変わらず強いという事なのだろう。こうした価値観から、ニーマンやフレッチャーは生まれるかもしれないが、おそらくチャーリー・パーカーは生まれないだろう。
最も、ジャズには詳しくないので勘で喋っているのだが、ジャズも芸術であるなら、ジャズを目的とせず、手段として使用しているジャズミュージシャンには、あくまでも手段として高度なジャズだけが与えられるというの自明であると思う。登美丘高校のダンスが流行ったり、「セッション」が受けてみたりという事で、これからも通俗的、大衆的芸術観は続くであろう。が、チャーリー・パーカーはそこにはいないだろう。いるのは、ニーマンやフレッチャーである。そして彼らの偏執性は「夢を叶える」という一事で正当化される。思えば、社会的には成功し、金をたんまり持っているが、人としてはまるで尊敬できるものがないなんて人は今の世には散見される。そうした人はニーマンやフレッチャーによく似ている。彼らは、きっと血の滲むような努力をして夢を掴んだのだろう。そして、ただそれだけなのだろう。しかし、「それだけ」しかない社会ではそれが全てであるから、芸術は大学の中にも社会の中にもないという事になる。芸術は今や、孤立した芸術家の内部にしかないのかもしれない。