03話 漆黒の記念碑~ファントムユニコーン~
白い陽光が緑を鮮やかに浮き上がらせ、生き物たちがその生命を燃やすかのごとく謳歌する夏――
事務所で一人、ジェルドは役目を終えた後の抜け殻のような姿で呆けていた。そんな彼の手の中にあるのは一枚の指示書。
『シロルディア王国にて新種の薬物が出回っている可能性あり。可及的速やかに内情を探り報告書を提出せよ』
これだけならばジェルドがこのように呆けることはなかった。たとえ今現在、部下が残らず出払っていて自分しか動けるものがいなかったとしても、それならばそれで自ら動けばいいだけの話なのだから。
ではなぜジェルドが抜け殻と化していたのかといえば、それは今回の潜入先にあった。
※ ※ ※ ※
「おかえりなさいませ、ご主人様ぁ」
語尾にハートが付きそうな甘ったるいキャンディボイスが飛び交う店内。ここは今回の潜入先、シロルディア王国で今一番人気の店――
メイド喫茶 スイートキャロット
選りすぐりの美少女たちが目のやり場に困るほど丈の短いメイド服に身を包み、シロルディア特産の野菜を使った自慢の料理を提供するという、不健全なようで健全な店だった。
なぜこんな店ができたのかといえば、それはこの国の第一王子ディーンが進める国おこしのプロジェクトの一つだったからだ。シロルディアが誇る高品質な農産物、それらをいかに輸出国にアピールできるか。普通の方法では今までと何ら変わらない。ならばもっと人目をひきつけるような、何か別の魅力を付加させようということになり……そうしてできたのがこの店だった。
斯くしてメイド喫茶スイートキャロットは、当事者であるディーン王子が知らぬ間に国一番の人気店となっていた。
そんな美少女たちの園に一人、異質も異質、まるで伝説の楽園に座す四つの翼を持つ天使のような者がいた。
「おかえりなさいませぇ、ご主人様ぁ」
金の髪を高い位置で二つに結い、フリルがふんだんにあしらわれたかわいらしいメイド服とエプロン、そして太ももまでの黒い靴下を身に着けた――
「ば、化け物ぉぉぉぉぉぉ!!!」
ジェニーことジェルドがいた。
反射的に逃げようとした男の襟を丸太のような腕でがっしりと捕らえるとにっこりと笑う。
「いやですわぁ、ご主人様ったら! 一名様ご案なーい、ですわぁ」
存外ノリノリでメイドライフを満喫するジェルド。もはや照れたら負けだといわんばかりに、悲しいほどに開き直っていた。
こんなナリのジェルドがなぜこの店に採用されたのかといえば、それはメイドというよりも用心棒として色合いが強かった。男の用心棒でもよかったのだが、なにせ店の従業員の大半がうら若き乙女。女性の方が色恋などのトラブルがないので、「灰色熊のような逞しい女性」という無茶な求人を店側が出していたのだ。
そして見事そのお眼鏡にかなったのがジェルドだった。
「私のファム・ファ――」
ドアベルが軽やかな音を奏でた瞬間突風が巻き起こり、次いで「あふん」という気持ち悪い声と砂袋を殴ったような重い音が店内に響いた。その一瞬聞こえた妙な声に、店内の視線が一斉にジェルドへと集まる。
「ジェニーちゃん、今、お客様が来たような気がしたんだけど……」
「いや、気のせいだ……ですぅ」
不思議そうに首をかしげる同僚に気のせいだと言い切り、ジェルドは引きつり気味の笑顔を貼り付けながらドアの外を睨みつけた。手ごたえのなさからわかっていたことだが、すでにそこにヤツの姿はなく……
「あの変態、毎度毎度どっからかわき出てきやがって」
これから起こるであろう災厄にため息しか出ないジェルドであった。
※ ※ ※ ※
潜入してから三日目、ようやく手掛かりが現れた。
まるで酒にでも酔っているような、とろんとした目の若者が店にやってきたのだ。
「いつもの」
案内された席でメニューも開かずたった一言。けれど店側もわかっているのか、何も言わずにメニューを下げる。
「あの、『いつもの』ってなんですか?」
注文を受けた先輩メイドをつかまえると、ジェルドは仕事を覚えようとしている新人を装って質問した。
「そっか、ジェニーちゃんは初めて見るのか。あの人ね、常連さんだよ。他にも何人かいるんだ。お店ができた最初の頃からずっと通ってくれてる人たち」
「そうだったんですか。……あの、でもあの人、ちょっと変じゃないですか?」
ジェルドはいかにも不安という声色で先輩メイドに問いかける。すると先輩メイドも思うところがあるのか苦笑いを返してきた。
「そう、だよねぇ。……でもね、あの人たちも最初はあんなんじゃなかったんだよ」
「最初からじゃないとすると、いったい何がきっかけだったんでしょうか?」
「うーん……仕入れ先の業者が増えたころからかなぁ? あ、でもこれはあくまで私の想像だから! ごめんね、変なこと言っちゃって。ほら、仕事戻ろ」
厨房からのピリピリした視線を感じたのか、先輩メイドは慌てて話を切り上げると仕事に戻ってしまった。
仕入れ業者、ねぇ……。ま、とりあえずその辺から洗い出してみるか。
ジェルドは通常業務をこなすかたわら、その常連さんとやらを観察する。いつもの――無農薬サラダ――を頼んだ彼は酩酊したようにふらふらと体を揺らし、時折宙を見つめては気持ちの悪い笑みを浮かべていた。暴力や暴言、錯乱などは見られなかったが、どう見てもその様子は尋常ではない。
そして気になるのは時折鼻をかすめる微かな甘い香り。普通の人間なら気づかないような、本当にわずかな香り。それがその常連さんとやらからまれに漂ってくるのだ。
研究所から仕入れた材料にゃ特におかしなところはなかったはずなんだがな……だがあの常連さんとやらの様子は明らかに普通じゃねぇし。
結局その日は最初の一人以外常連さんとやらは現れず……。
すべての勤務を終え、一人更衣室へと戻るジェルド。この無駄にひらひらスカスカとした破廉恥な衣装から一刻も早く解放されたいという気持ちから、ついつい急ぎ足で廊下を進む。
「よく似合っているよ、ファム・ファタール」
暗がりから突如投げかけられたのは、ジェルドが最も会いたくないと思っていた相手の声だった。
「うるせぇ、変態クソ野郎。とっとと死ぬかお縄になって、二度と俺の前に出てくんな」
「はは、ジェニーは相変わらず手厳しいなぁ」
廊下の暗がりで嬉しそうに頬を赤らめ答える優男。それはジェルドに災厄をもたらす諸悪の根源――クラフト・マゾッホだった。
「よかったら私も手伝お――」
「断る! テメェの助けなんざ微塵もいらねぇ」
マゾッホの言葉を遮り即答するジェルド。そんな取り付く島もないジェルドの態度に、マゾッホはますます蕩けるような瞳を向ける。
「私のジェニーは相変わらずつれないねぇ。でもそうだな、せっかくだからヒントだけは置いていってあげよう」
「うるせぇ! 誰がテメェの情報なんか――」
額に青筋を浮かべて怒鳴るジェルドに、毒花が綻ぶような妖しい笑顔でマゾッホが告げる。
「ローズマリー」
瞬間、ジェルドの背を凄まじい悪寒が走り抜けた。
色を失い凍り付いたジェルドに、昏い愉悦を湛えた笑みを浮かべたマゾッホがさらに告げる。
「天狗湯」
瞬く間にジェルドの脳内をあの鮮やかな悪夢が蹂躙する。
天狗湯――それは人としてあり得ない変態を強制的に引き起こし、服用したものに変態という不名誉を与える禁断の秘薬。しかもローズマリー特性の天狗湯は、その強すぎる効能で薬剤耐性のない常人には死、もしくはそれに準ずる悲劇をもたらすといういわくつきのものだ。
愕然と立ち尽くすジェルドの姿にマゾッホは得も言われぬ笑みを浮かべ、恍惚にその身を震わせた。
「今度はどんな姿を見せてくれるのか……楽しみにしているよ、ファム・ファタール」
そんな勝手なことを言い残し、マゾッホはその身を闇へと溶かす。そして現れたときと同じように忽然と、まるで煙のように消えてしまった。
※ ※ ※ ※
シロルディア国営植物研究所
管理された施設内で天候などに左右されることなく、無農薬で高品質な野菜を水耕栽培によって生み出す植物工場――それが先輩メイドの言っていた途中から増えた業者だった。
「国営の研究所かよ……しかしまた、なんで途中参加なんだ?」
集めてきた情報をアジトで整理しながら一人つぶやくジェルド。
今回のプロジェクトは国を挙げてのものだ。ならば最初から噛んでくるのが普通だというのに、この研究所はなぜか途中参入だった。
最初から参入できない理由があったってことだよな? あの店ができた頃にゃまだ成果が出てなかった……そんなとこか? でもだったら、なんで突然その成果が出た?
情報とにらめっこしながら黙考していたジェルドだったが、突如頭を抱え、深く大きなため息をつくと机に突っ伏した。
「ローズマリー……」
工場が驚異的な成果を上げ始めた時期――それはあの忍者の里での騒動から半年ほど経った頃だった。
あの騒動の直後、行方知れずになったのはマゾッホだけではない。ジェルドに天狗湯などというとんでもない劇薬を盛った迷惑科学者ローズマリーもその行方をくらませていたのだ。
「あの野郎……今度はシロルディアかよ! あの後、薬が抜けるまで俺がどんな思いをしたと…………」
マゾッホだけでも精神的に死ぬほど疲れるというのに、それに加え出てきたローズマリーの名前。ジェルドはもうすでに生命と精神の危機を迎えていた。
「くっそ、でも行かねぇって選択肢は……あるわけねぇよな」
大きなため息をつくと、ジェルドは諦めたように立ち上がった。
※ ※ ※ ※
定期連絡のポルポルを飛ばした後、ジェルドは研究所へ潜入するためのルートを確保しようと根回しをしていた。けれど思ったよりガードが固く一筋縄ではいかない。
どうしたものかと頭を悩ませていた時、スイートキャロットにディーン王子一行が抜き打ち視察に来るという情報を掴んだ。メンバーはディーン王子に研究所の所長、そして……
やっぱりテメェか、ローズマリー!!
思わず心の中でツッコむジェルド。
今回の功労者として書類に記されていたのはあの忌まわしき名、ローズマリーであった。
せめて偽名とか使えってんだよ、この研究中毒が!
追われる身の上だというのに、まったく隠す気のないローズマリーに思わず毒づくジェルド。けれどそのおかげであっさりと見つけられたのだ。深呼吸をすると気を取り直し、再び書類に目を落とす。
視察に来るのは一週間後、か……
必要な情報をすべて頭に叩き込むと、ジェルドは持っていた書類に火をつけた。
長かった一週間もなんとか無事にやり過ごし、とうとう迎えた視察当日。
何も知らなかった店側や客たちは突然現れた王子御一行様に驚き、店内にはどよめきと緊張がはしった。そして王子一行からもどよめきがおこった。
「馬鹿な、なんだあれは……」
「そもそもあれは女なのか!?」
「いや、おそらくこの店で飼っているメスゴリラだろう。マスコットか何かじゃないのか?」
ジェルドを見てそれぞれかなり好き勝手なことを言い出す王子御一行様。思わず引きつりそうになる営業スマイルを必死に保ちつつ、ジェルドは最大限の猫なで声で彼らを店に迎えた。
「喋ったぞ!」
「ゴリラじゃなかったのか!?」
「いや、おそらく喋るゴリラなんだろう。世界は広いな……」
そんなどよめく一行の中、ジェルドを見てのんきに手をふるのはローズマリー。
「あらぁ、元気そうでなによりだわぁ」
従者たちが知り合いかと尋ねると、ローズマリーはくねくねとしたポーズで「ひ・み・つ」とウィンクを返す。それに従者たちは引きつった笑顔を浮かべると、触らぬ神に祟りなしとばかりにローズマリーからそっと視線を外した。
そこへ慌てて駆けつけてきた店長がジェルドに下がるようにと小声で指示する。ジェルドもそれがもっともだと思い、おとなしく店の奥に向かうために踵を返した。と、その時――
「私の連れの者たちがお嬢さんに大変失礼なことを……申し訳ございません」
従者たちを手で制し出てきたのは痩せぎすな男、この国の第一王子ディーンその人だった。まさかの王子からの謝罪にどよめいていた店内は一転、水を打ったようにしんとなった。
「い……いいえぇ、よく言われますのぉ。ですからどうか、お気になさらないでくださいですわぁ」
「ありがとうございます、優しいお嬢さん。ところで空席はありますか? もし可能であれば、私たちにも評判高いこちらの料理をふるまっていただけるととても嬉しいのですが」
陰気な見た目の痩せぎす王子は意外にも紳士だった。ジェニーをあくまでもレディとして扱い、しかも物腰も柔らかい。残念ながらその内面まではうかがい知ることはできないが、少なくともバカではないようだとジェルドは評した。
とはいえ、いくら王子の物腰が柔らかかろうと腰が低かろうと、そのお願いは一般市民にしてみれば命令だ。店長は慌てて席を確保すると王子一行を案内する。すると付き添いのうち何人かはその列から外れて厨房へと向かった。
そりゃ王子様に出す食べ物だもんな。監視がつかねぇわけねぇよな。
席に着いた王子一行、その中で一人退屈そうにあくびしているローズマリー。その緊張感のかけらもない姿にジェルドの拳に思わず力が入る。
殴りてぇ。今すぐ殴ってそのままアトラスに帰って、男に戻って浴びるほど酒飲んでアホみてぇに眠りてぇ。
女体化メイド生活もそろそろ二週間――ジェルドの精神もいい加減ささくれだってきていた。ここ一週間は特にマゾッホの気配にも注意を払わなければならなく、心身ともに本当に疲れ切っていた。
この不毛な日々を早く終わらせたい一心で今ジェルドは立っている。どんな小さなことでもいい、何か手掛かりやきっかけがないかと、王子の従者たちが入っていった厨房に耳をそばだてる。
「温野菜中心のメニューを出してください。出す前にはきちんと毒見しますので、出来上がったらまずこちらに持ってきてください。あ、それと、ナスは使わないでくださいね」
ナス使用禁止の指示に何か意味があるのかと思えば、ただ単にディーン王子の嫌いなものだったらしく、ジェルドは思わず心の中で愚痴をこぼす。
ナスくらい食えっつーの、あのモヤシ王子。もし俺の店に来ることがあったらぜってぇ食わせてやる! …………ないだろうがな!!
「それと、研究所から仕入れている野菜はどれですか? ああ、ではそれも出してください。ドレッシングは……」
細々と指示を飛ばす従者たち。彼らからはあまり有力な情報を得られそうにないと判断したジェルドは早々に標的を変えようとした。しかしその時、ジェルドの鼻先をかすめたのはあの甘い香り――
とっさに辺りを注意深くうかがったが、あの常連客のような姿は見当たらなかった。ジェルドは香りの出所を探るため、意識を集中し嗅覚を研ぎ澄ます。そしてわかったのは、件の香りは厨房と客席の方から流れてきているということだった。
さっきまでしてなかったよな。ってことは、この匂いは王子一行が発生源か。一番怪しいのは……
ジェルドはテーブルに肘をつき、一人明後日の方向を向いているローズマリーを見た。
どう考えてもアイツだろ! ぜってぇアイツだ!! アイツに決まってる!!!
今回の騒動、これはおそらく、いや、十中八九ローズマリーの実験が原因だとジェルドは確信していた。しかしその証拠がない。証拠がなければアトラスには帰れない。
クソッ! もういっそのことなんか騒動起きて、全部めちゃくちゃになんねぇかな……
などとジェルドが半ば投げやりに考えていたその時、突如嵐のような破砕音が一帯を支配した。大通りに面したガラス窓はその姿を無残なものへと変え、人々に豪雨の如く降り注ぐ。
そしてガラスの雨とともに店内になだれ込んできたのは、この辺りでは見ないような不思議な衣装を纏った黒づくめの覆面集団。
「ファム・ファタール! さあ、今日は何をして遊ぼうか!!」
黒装束に一人だけ白衣を羽織りガスマスクをつけた男――クラフト・マゾッホ――は騒然とする店内のことなどまるで気にする様子もなく、ただただ楽しそうに、まるでおもちゃで遊ぶ子供のように無邪気にはしゃいでいた。
「何者だ、貴様! 外にいた護衛たちを一体どうやって」
「うるさいなぁ。おもちゃならもっと頑丈で勘のいいのを用意しておけよ」
「な、馬鹿な! 戦いの音どころか気配すらなかったのに……いったいなにを」
逃げ惑う人々でごった返す店の中、ディーン王子を守るように取り囲んだ護衛の近衛騎士たちがマゾッホと対峙する。けれどマゾッホはそんな男たちには全く興味を示さず、殺気立つ彼らを無視してジェルドの方へと歩き出した。
「さあ、今日はどんな素敵な姿を見せてくれる? 勇ましく純白のドレスで戦う姿? それとも焔神のような勇猛果敢な荒ぶる姿?」
「とりあえずはテメェをぶん殴る姿だな!」
言うが早いか、ジェルドは渾身の右ストレートをマゾッホにお見舞いした。それを受け盛大に吹き飛ぶマゾッホ。けれどジェルドはそんなマゾッホを見て忌々しいとばかりに舌打ちする。
「おい……へったくそな演技してんじゃねぇよ。手ごたえなかったぞ、クソ変態ストーカー」
「あはは、さすがジェニー。私のことはちゃんとわかってくれるんだね」
「死ね。マジで死ね、この節操なしの変態ガスマスクが」
殴られた時に吹き飛んだガスマスクの下から現れたのは、頬を紅潮させ恋する乙女のように瞳を潤ませたマゾッホの美しい顔。一方ジェルドの方はそんなマゾッホに皮膚を粟立たせ、背筋を駆け抜ける悪寒に顔をしかめていた。
「ひどいなぁ。愛する人を少しでも助けようと思ってやってきたというのに」
マゾッホは羽織った白衣をひらひらとはためかせ笑う。
「やって来た……いや、殺ってきた、か。テメェ、いってぇ何やらかしてきやがった」
「いやぁ、我が一族秘伝の薬を無断で使用していた不届き者たちがいたんでね。ちょっと懲らしめてきただけだよ」
そう言ってローズマリーに視線を投げるマゾッホ。一見柔らかい笑顔だったが、その目はまったく笑っていなかった。そんなマゾッホの氷の視線や王子のお付きの者たちからの不審の視線を受けているにも関わらず、ローズマリーは相も変わらずくねくねとしなを作りながら「怒っちゃやだぁ」などとほざいている。
「確かにあたしの作った大天狗湯は一族秘伝の天狗湯がベースだけどぉ、あたしの努力やセルダの閃きもあってあれはもはや別物よぉ」
「そういう問題ではないのですよ、叔父上。いい加減あなたを野放しにしておくのも問題でしてね。もう十分遊んだでしょう?」
「えぇ~!? いやよぉ、あたしまだ帰らないから!」
「無駄ですよ。あなたの新しい遊び場は今頃灰になってます。もう何も残ってません」
繰り広げられるマゾッホとローズマリーの会話。その不穏な内容は、研究所が襲撃されたことをその場にいた者たちに暗に示していた。一斉に青ざめる研究員と従者たち、そしてうなだれるジェルド。
まさか本当に全部めちゃくちゃになるとは……。なんて不毛な任務だったんだ!
ローズマリーは護衛達の間をするりと抜け出すと呆然と立ち尽くすジェルドのもとに走り寄り、その後ろからマゾッホに向かって舌を出した。
「ぜぇ~ったい、いや! いやったら、いや!! モルモットちゃん、助けて~」
「誰がモルモッ――」
文句を言おうと背後のローズマリーを振り返った瞬間、ジェルドの首筋にちくりとした痛みがはしった。ジェルドが慌てて首に手をやった直後、ローズマリーは踊るように後ろへと跳ぶ。
「ローズマリー、テメェ……いったい何、を……!?」
「ふふ、ちょっとした実験よぉ。今回の総仕上げ、改良した『大天狗湯デラックス』の臨床実験!」
くねくねとしたポーズで口元に人差し指をあてウインクするローズマリー。その人をおちょくったようなふざけた態度にジェルドの中で張りつめていたものがプツンときれた。
次の瞬間、ジェルドを襲ったのは体中の血が逆流するような不快感、そして筋肉や骨がきしむ激痛。見る間に盛り上がっていく筋肉に耐え切れず、かわいらしいメイド服は悲鳴をあげながら見るも無残に裂けていく。露わになる異形の乙女の柔肌に、ディーン王子をはじめ周囲はただただ戦慄するばかり。
「ねえねえ、今どんな感じ? 痛い? 苦しい? それとも気持ちいい?」
興味津々といった様子で一人浮かれた質問をとばすのはローズマリー。けれどジェルドの方はそんな余裕など微塵もなく、体を作り変えられる激痛と不快感にひたすら耐えていた。
「叔父上、私のジェニーを壊さないでくださいよ」
マゾッホはローズマリーに呆れを多分に含んだ視線を投げ、軽くため息をもらす。そんなひたすら勝手な二人にジェルドの怒りはますます募り、まるでわきあがる怒りにあわせたかのように体も震えだした。
勝手なこと言ってんじゃねぇぞ、この変態一族が!!
ありえないほど盛り上がった筋肉のせいでメイド服はもはや腰巻、エプロンはかろうじて前を隠しているふんどし状態、そして逞しい脚にはぼろ布と化したニーハイソックスがまとわりついていた。しかも体の震えは先ほどよりさらに強まり今や残像が見えるほど。
そんなジェルドをマゾッホは楽しそうに、ローズマリーはさらに楽しそうに、王子一行は固唾をのみながら見つめていた。
「好き勝手言ってんじゃねぇぞ、このクソ変態野郎どもがぁぁぁぁぁぁ!!!」
ジェルドが吠えた。怒りに体を……いや、何故か腰だけを高速で揺らしながら。そしてその腰からそそり立つ人間にはあり得ないサイズのブツ、それを見て王子一行は戦慄した。
「メスゴリラじゃなかったのか!? あれじゃ、どう見てもおっ立ててるおっさんにしか見えないぞ!?」
「馬鹿な……なんなんだ、あの大きさは!」
「いや、注目すべきはそこじゃない! そこもかなりおかしいのは事実なんだが……なあ、俺にはあれ、二本に見えるんだよ」
「ざ、残像……だろ? なあ、残像だと言ってくれよ! しかもたった今、なんかもう一本増えた気がするんだよ!!」
目の前で起きているおぞましい現実をディーン王子の従者や護衛の騎士たちは受け止めきれず、ただ見ていることしかできなかった。それでも王子を守るための陣形を崩さなかったのは近衛騎士の意地か。だが残念ながら、その守られるべき王子はすでに白目をむいて側近の男に抱えられていた。
その後もジェルドの変態は留まるところを知らず、屈強な近衛騎士たちをさらなる混乱のるつぼへと叩き落とす。
「漆黒の記念碑……いや、一角獣?」
近衛騎士の一人がつぶやいたのを皮切りに、騎士たちから次々とうめき声がもれる。繰り広げられる酷すぎる視覚の暴力に目を背ける者、逸らすこともできず呆然と見上げる者……
「ロォォォォズマリィィィィィィ!!」
ジェルドが吠えた、変わり果てた姿で。
額にいくつもの青筋と、股間から上ってきた相棒を立てながら。
「やっだぁ、すっごーい! 黒くてご立派なのが三本も! ……うち一本は額に移動、と」
一方ローズマリーはそんなジェルドの怒りなどまったく気にも留めず、歓声をあげながら持っていたノートに次々とメモを書き込んでいく。
その時、それまで二人のやり取りを他人事のように眺めていたマゾッホが一歩前に出てきた。
「今回もまた一段と素敵だよ、ジェニー。ああ、きみはやっぱり最高だ!」
股間からは二本、額からは一本の人外級の漆黒の相棒をそそり立たせ、申し訳程度の布切れを纏い高速で腰をふる筋骨隆々強面のおっさん――
それに向かって最高だと言い切り頬を染めるマゾッホ。その信じがたい感性に騎士たちの間に激震がはしる。
「どっからどう見ても最低だろうが! 性根も性癖も脳みそも、どこもかしこも腐ってんのかテメェは!!」
咆哮搏撃――しかしジェルドの渾身の一撃はあと一歩マゾッホに届かず。しかも憎たらしいことにマゾッホは芝居がかった仕草で己の体を抱くと、蕩けるような眼差しをジェルドに向ける。
「はちきれんばかりの筋肉、燃え盛る氷の瞳、猛々しい象徴……ああ、どれをとってもため息が出るほどに美しい。私を狂わせる美の女神、まさにファム・ファタール!」
股間に豪奢なテントを張ったマゾッホは両腕を広げ、感極まったように叫ぶと天を仰ぐ。
「気持ち悪ぃこと言ってんじゃねぇよ、このド変態野郎が! その汚ねぇ股間のブツ引っ込めろってんだ!!」
「君だって立ててるじゃないか、三本も!」
「うるせぇ、好きでおっ立ててるわけじゃねぇ! 殺す、今すぐ殺す!!」
額の青筋がビキビキと盛り上がり……なぜかそれはそのままどんどんと盛り上がっていく。
「ば、馬鹿……な。二本め、だと!? これではまるで、二角獣じゃないか!!」
騎士たちから悲鳴にも似た叫びが上がる。
純潔を司る一角獣の対極、不純を司る二角獣――それがバイコーン。額に二本の相棒を生やした禍々しいジェルドの姿は、まさにその不純を司るという幻獣にふさわしいものだった。
けれど、ジェルドの変化はそんなものでは収まらない。腰の痙攣が収まると同時にその額に現れたモノは……
「三本め、だ……と? そんなもの、聞いたことない」
「三角獣……」
そこからはもう滅茶苦茶だった。
大天狗湯により戦闘力が大幅に増強されたジェルドは縦横無尽に駆け回り、次々と忍者たちを倒していく。壁を打ち抜き、天井を粉砕し、床を抉り、動くものはジェルドによって一つ残らず沈黙に沈んだ。
そしてすべてが終わり、駆け付けたシロルディアの騎士団はその惨状を見て言葉を失う。
忍者や近衛騎士たちの山の上、漆黒の三本角に意識を失った忍者をひっかけたまま仁王立ちするジェルド。
「…………さんかく、じゅう」
ジェルドの足下、人の山の中から聞こえてきたうめき声と「三角獣」という言葉に、騎士団の面々は一瞬にしてその言葉の意味を悟った。
※ ※ ※ ※
「くっそ、どうしてくれんだよ、これ! まったく使い物になんねーじゃねぇか!!」
ドドドン酒場の事務所のソファにうつぶせで横たわるジェルド。腰に何枚もの湿布を貼り付けうんうん唸っている。
「店長、いつまでも若くないんですからあまり無理しないでくださいよ」
若い店員にからかわれたジェルドは、眉間にしわを寄せると大きなため息をついた。
結局シロルディアの薬物騒動はうやむやのまま終わった。おおもとであるシロルディア国営植物研究所は謎の火災により焼失、肝心のローズマリーやマゾッホにも我を失って暴れている間に姿を消されてしまっていた。今回の件でジェルドが得られたものといえば、やるせない徒労感、不名誉な二つ名、高速腰フリによる腰痛――
そして、三角獣の都市伝説というとんでもないものをシロルディアに残したことだけだった。