02話 赫赫の焔神(カラミティ・インフェルノ)
あの雪原での悪夢から三週間――
ジェルドの日常は、ようやく平和を取り戻しつつあった。あったのだが…………
「マスター、なんかまた荷物届いてますよ」
事務所で書類仕事を片付けていたジェルドのもとに、綺麗にラッピングされた大きなプレゼントの箱が運ばれてきた。
「おいおい、またかよ……」
ジェルドは事務所の片隅に山積みになっているプレゼントの山を一瞥し、ついで店員の持ってきた大きな箱を見て辟易する。
この三日間、差出人不明の贈り物が次々とドドドン酒場に送られてきていた。まったく身に覚えのないそれは、突っ返そうにも誰が持ってきているかもわからないのだ。配達人さえ不明ときている。それらは気が付くといつも、営業時間中の店の中に置かれていた。
危険物かもしれないので都度中身を確認するが、入っているのは女物のドレスやアクセサリー、そして意味不明のカードだった。
「ったくよぉ、どこの暇人だ? 勘違いだか嫌がらせだか知らねぇが、毎度毎度よくもまぁこんなに金使いやがるもんだな」
箱に入っていたドレスをつまみ上げると、そこから一枚のメッセージカードがひらりと舞い落ちた。それを視認した瞬間、ジェルドの眉間に深いしわが刻まれる。
『愛しの君へ
いつか必ずあなたを迎えに行きます。
どうか私を信じ、待っていてください。
世界中の誰より、あなたを愛しています。
哀れなあなたの虜より』
メッセージカードには誰宛なのかわからない、熱烈な愛の言葉が書き込まれていた。思わず粟立ってしまった腕をさすり、ジェルドは心底嫌そうな顔をする。
なーんか気持ちわりぃんだよな、これ。何がっつーのはわからねぇけど、とにかく俺の勘がヤバいっていってんだよ。しっかしなぁ、ほんと誰なんだ、これ?
ジェルドはドレスとカードを箱に押し込むと、そのままプレゼントの山の中にぞんざいに突っ込んだ。
※ ※ ※ ※
「ジェルド、なんか最近お前んとこに変なもんが届くんだって?」
騎士団の制服を着たビルボートがカウンターに肘をあずけ、にやにやと意味ありげな笑みを浮かべながらジェルドに問う。
「あー、あれなぁ。なんか知んねぇけどよぉ、この三日間、差出人不明意味不明の変なもんが届くんだよ。しかもよ、この俺の懐に、俺が気づかねぇうちに突っ込んでくんだぜ」
憤懣やるかたないといったジェルドを見て、ビルボートはついに吹き出した。
「おいおい、いってぇ何だってんだよ。さてはお前、何か知ってやがんな!?」
「はは、悪い悪い。じゃああれだ、一つヒントをやるよ。…………クラフト・マゾッホな、あいつ、三日前に脱獄したぞ」
ビルボートのヒントに、ジェルドは思わず右手で顔を覆うと天を仰いだ。
クラフト・マゾッホ。
元アトラス貴族、現犯罪者。三週間前、ジェルドの潜入捜査によって騎士団に捕縛され、現在は奴隷売買の罪で収監されていた。されていたはずだった。
そんなクラフトだが、彼はジェルドには到底理解しがたい女の趣味をしており、なんとジェルドの女体化した姿のジェニーに惚れてしまったのだ。
やたら鼻息荒くべたべたとくっついてきたクラフトを思い出し、ジェルドの背筋を悪寒が走りぬける。
「おい、ふざけんなよ! お前らきっちり自分の仕事しろよ!! 笑ってる場合か!」
「すまん、そこは本当にすまん。でな、そのことでお前に指令がおりた」
「はぁ!?」
「クラフトの狙いはおそらくお前さんだ、ジェルド。そこでだ、お前がおとり兼調査しろ、とさ」
ビルボートからもたらされたトンデモ指令に唖然としたあと、ジェルドはがっくりと力なく肩を落とした。
なにが悲しくて現ストーカー被害者の俺が、犯罪者に逃げられるような間抜けなヤツらの尻ぬぐいなんぞせにゃならんのか…………って、そりゃしがない中間管理職だからだろうな。クソッ!
「ビルボート……あの変態の潜伏先はわれてんのか?」
ひとしきり心の中で愚痴った後、ジェルドはすぐさま頭を仕事モードに切り替えた。
「おそらくだが……極東の国の末裔が隠れ住んでいるという村だ。ただ厄介なことにこの村、どうにも正確な位置がわからない。だからこそお前さんにお鉢が回ってきたんだろうがな」
「極東の国の末裔の村ねぇ……」
そういえば、とジェルドは三週間前のことを思い出す。クラフトの部下だったあの白装束たち。あれは極東の国の諜報員――ニンジャ――だったな、と。
「なぁ、あのクラフトとかいう坊ちゃん、極東の国と何か繋がりがあんのか?」
「ああ、あのニンジャたちか。クラフトの血縁関係に極東の者はいなかった。おそらくは金で雇ってたんじゃないか? どうもその辺のことを調べている時に逃げられたらしい」
ジェルドはビルボートの話にいまいち得心がいかず、腕を組みながら眉間にしわを寄せる。しかしここで考えていても埒があくわけもなく、ため息をつくと「任務了解だ」とうなだれながらビルボートに了解の意思を伝えた。
※ ※ ※ ※
その日の夜、ジェルドが事務所で一人仕事を片付けていた時――
廊下の方からぎしりと床板がきしむ音が聞こえた。どうやら招かれざる客が来たようだとジェルドが顔を上げたその時、二度と見たくなかった顔が現れた。
「迎えに参りました。私のファム・ファタール」
「俺は男だって言っただろ。とっとと諦めてムショに戻りやがれ」
そこには両手を広げ、とろけるような微笑みを浮かべたクラフト・マゾッホが立っていた。
取り付く島もないジェルドに、「ジェニーは恥ずかしがり屋さんなんですね」などと言ってジェルドの肌を粟立たせる。
「それ以上近寄ってみろ。そのお綺麗な顔に傷がつくぞ」
いつの間に取り出していたのか、ジェルドは愛用のナイフをちらつかせクラフトに警告した。そんなピリピリとしたジェルドに、けれどクラフトは無防備に近づく。
「警告はしたからな。恨み言は――」
「このお店、面白い作りになってますよね。その扉の奥の地下倉庫、とか」
微笑みながら事務所奥の扉を指さすクラフトに、臨戦態勢だったジェルドの動きがぴたりと止まった。はったりだろうか、ジェルドはクラフトの様子をうかがいつつ周囲を探る。クラフト以外に三人、といったところだろうか。姿は見えないが、おそらくいつでも飛び出せる場所に潜んでいる。
ジェルドはナイフをおさめると、不機嫌丸出しの顔でクラフトに向き合った。
「で? お前の目的はなんなんだ? アトラス城をその人数で落としに行く……なんてワケねぇよな」
「アトラスになど興味ありません。今、私が興味あるのは……あなただけです」
うっそりと微笑んだクラフトに、ジェルドの全身の肌が一気に粟立つ。
「でもそうですね……例えば、今ここであなたが私を拒否したとしましょうか。その場合、もしかしたら……もしかしたらですけど、お城で不幸なことが起きるかもしれませんね」
「馬鹿言ってんじゃねぇよ。お前、城の警備なめてんのか?」
けれど、言葉とは裏腹に、ジェルドは背中を冷たいものが流れ落ちるのを感じていた。
目の前のこの優男は、警備の厳しいはずの監獄から出てきているのだ。しかもこの酒場と城が秘密の通路で通じているのも調べ上げているらしい。どうやらこの男の部下たちは、ジェルドの予想を上回る優秀さだったようだ。
「オーケー、わかった。お前の言い分、聞こうじゃねぇか」
「わかってくれて嬉しいよ、ジェニー。私の目的は最初から言っている通り、あなたです。あなたさえおとなしくついてきてくだされば、他には手を出しません」
おとり兼調査。
ジェルドは仕事と己の貞操を天秤にかけると、迷うことなく仕事を取った。
「わかったよ、ついてきゃいいんだろ。いいぜ、行ってやろうじゃねぇか」
せっかく自分から姿を現してくれたんだ。あれだ、虎穴に入らずんば虎子を得ずってやつだ。万が一こいつにヤられたとして、今更だしな。汚い仕事なんざ、いくらでもやってきたんだ。
ジェルドは覚悟を決めると、仲間にだけわかる伝言をさりげなく残し、クラフトについて店を後にした。
※ ※ ※ ※
手足を拘束のうえ目隠しされ、さらにご丁寧なことに睡眠薬まで盛られ連れてこられたのは、山の中にある小さな村だった。とはいえ、薬剤耐性のあるジェルド。完全に眠りに落ちていたわけではなかったので、道すがらできうる限りの情報は集めていた。おかげで大体の村の場所は特定できた。
村についてすぐに、ジェルドはいわゆる座敷牢に入れられた。その時に目隠しと拘束を解かれ、丁寧に布団に寝かされ現在に至る。
こっそりと観察していた村の建物は、アトラスの建築とは全く違い、木材や紙を主とするものだった。村人たちの着ているものも直線的な独特なデザインのもので、足元まである上着を腰ひもでとめるといったもの。
これがビルボードの言ってた、極東の国の末裔の村か……
寝たふりを続けたまま、ジェルドは引き続きあたりの様子をうかがう。この村に入ってからは、まだあの忍者たちの姿を見ていない。忍ぶ者と書くくらいだ。おそらく表立って出てくるのは、緊急時か戦闘時くらいなのだろう。そんなことを考えていると、部屋に誰か入ってきた。
「やあ、ジェニー。もう起きているんだろう? それとも……目覚めのキスが必要かな?」
クラフトの気色悪いセリフに、ジェルドは不機嫌全開で起き上がる。
「いらねーよ、そんな気色わりぃもん。その辺の地面とでもしてろよ」
「あはは、ジェニーは相変わらず照れ屋さんだね」
「あと、俺はジェニーじゃねえ! いつまでも気持ちわりぃ呼び方してんじゃねーよ。それに本当は知ってんだろ、俺の名前」
忌々しげに睨みつけるジェルドに対し、格子の向こうのクラフトは相変わらずの笑みをたたえていた。
「いいんですよ、ジェニーで。だって、あなたは近いうちにジェニーになるんですから」
クラフトの言葉の意味することを瞬時に悟ったジェルドの背を、嫌な汗が流れ落ちる。
おそらく、おそらくだがクラフトは、性転換の魔法薬――それも永続的な効果をもたらすもの――を手に入れたのだろう。そんなもの一般に出回っているわけもなく、十中八九、禁薬の類だ。
ジェルドの中の男としての本能が、激しく警鐘を鳴らす。
「テメェ……奴隷だけじゃなく、禁薬にまで手を出してやがったのか」
凶悪な顔で睨みつけるジェルドの視線などなんのその、クラフトはおどけたように肩をすくめた。
「禁薬だなんて失礼な。代々この村に伝わる、ありがたーい仙薬だよ。これがあればね、仕入れた商品がハズレだった場合でも、高く売れるようになるんだ」
まるで蝶の羽をむしり取って遊ぶ子供のような、そんな無邪気な残酷さをにじませ笑うクラフト。その外道の姿に、ジェルドの胸は激しいむかつきに襲われる。
「ふふ、楽しみだね、ジェニー。早く本当の君に会いたいよ」
「地獄に落ちろ、この変態腐れ外道が」
※ ※ ※ ※
クラフトが去った後、ジェルドは布団に潜り込み不貞寝していた……ように見せかけ、ここから脱出するための準備をしていた。ここに連れてこられるまでに持っていた武器や道具をすべて没収されてしまっていたため、今のジェルドはほぼ丸腰。このままでは、さすがのジェルドとて何もできない。
すっかり日が落ち、暗くなった座敷牢。もぐりこんだ布団の中、ジェルドは脇腹の古傷に手を添えると、もう一方の手の小指を立てた。その爪は磨かれ刃物のようになっており、それで古傷を一息に切り開く。
一見、本物の皮膚のようなそれは、実は皮膚に近い素材で作られた薄いテープだ。テープの下には古傷を利用して作った袋状になった皮膚が隠されていて、中から親指ほどの小さなカプセル状の筒が出てきた。
よしよし、仕込んどいて正解だったぜ。こんなクソな場所、とっととおさらばしてやる。
小さなカプセルの中には細々とした道具が入っており、ジェルドはその中から小さな吹き矢を取り出した。牢の前の見張りがよそ見をしたその刹那、ジェルドは気配を消すと、一気に距離を詰めた。そして見張りが気づく隙を与えず、一瞬で即効性の麻痺魔法薬の塗られた針を飛ばす。
「わりぃな。ま、明日の朝までにはとけるからよ」
倒れて動けない見張りを見てニヤリと笑うと、ジェルドはすぐさま牢の扉にかけられた南京錠の開錠に取り掛かった。ほどなくして陥落した南京錠をごとりと床に落とすと、ジェルドは扉の外に出て大きく伸びをする。
さーて。やっこさんら、見逃してくれるとありがたいんだがなぁ。
手持ちの武器は、小さな吹き矢と魔法薬の塗られた針が9本、そして小さなナイフが一つ。あとはピッキングの道具のみ。はっきり言って、丸腰とそう大差なかった。
周囲の気配を探り、脱出経路を頭の中で組み立てる。幸いなことにこの屋敷は平屋で、屋敷の外に出れさえすれば何とかなりそうだ。それを心の支えに、ジェルドは暗い廊下に踏み出した。
※ ※ ※ ※
クソッ……しくじった!
わき腹を押さえ、荒い息を吐きながら鬱蒼とした林の中を駆けるジェルド。冷たい月明かりに、ぬるりとした赤が浮かびあがる。
白かったジェルドの上着はいまやすっかりと赤黒くなっており、その代わりとでもいうかのように、顔は血の気をなくし白くなっていた。
牢を出たところまでは順調だった。しかしやはり現実はそう甘くなく、やっとの思いでジェルドが庭に出たその時、忍者どもに見つかってしまったのだ。
ほぼ丸腰だったジェルドは吹き矢で何とか応戦したが、そんなものは焼け石に水。針はあっという間に底をつき、残りは親指ほどの小さなナイフのみ。とても戦闘に使えるものではなかった。
それでも相手の刀を奪い取り、応戦しながらなんとかここまで逃げてきた。一時的には撒けたようだが、おそらくそれも時間の問題。ジェルドはクラクラする頭で次の手を考える。
けれど、そんな貧血状態でいい案が浮かぶはずもなく。次第にジェルドの視界は暗く狭くなってきた。
やっべぇ……血が足りねぇ。
落ちそうになる瞼を必死に押しとどめ、両足を無理やり動かす。しかしそんなジェルドをあざ笑うかのように、視界はどんどん暗く狭くなってゆく。
唐突に、ジェルドの目の前の風景がぐるりとまわった。そして次の瞬間、黒い木々の間からのぞく月が目に入る。 そこでやっと、ジェルドは自分が何かにつまづいて転んだのだと自覚した。
こりゃ、本格的にやべぇ……。俺、こんなとこで死ぬのか?
そんな思考を最後に、ジェルドの意識は深い闇の中に落ちていった。
※ ※ ※ ※
ここ、どこだ?
鼻をつく消毒液のにおい。そして数多の薬草の混ざり合った、お世辞にもいいとは言えない独特なにおい……
そんなにおいの充満した白い部屋で、ジェルドは目を覚ました。
クラフトの屋敷……じゃあねぇよな。あの屋敷ではこんな強烈な匂い、感じなかった。
調香師も犬も、裸足で逃げだすほどの鋭い嗅覚を持つジェルド。ちなみにその鋭敏すぎる嗅覚は、セルダの実験に付き合った果てに手に入れたものだ。
そのジェルドが、こんな強烈な匂いに気づかないはずがない。だからここは、あの屋敷ではないまったく別の場所。ジェルドは、そう確信した。
「調子はどーお?」
訝しんでいたジェルドに、唐突にかけられた知らない男の声。それに反射的に飛び起きようとしたジェルドだったが、脇腹にはしった激痛に思わず身を固くする。
「あらあら、まだ動いちゃだめよぉ。その傷、かなーり深かったのよぉ」
「わりぃな、助けてもらったみてぇで……あんた、医者なのか?」
女言葉で話す、ジェルドと同年代のひょろりとした男。ジェルドはその男に、妙な既視感を覚えた。
「医者っていうかぁ、元研究者? あたし、これでも昔はぁ、アトラス城の魔法薬研究室で働いてたのよ~」
見知らぬ男から飛び出してきたやけに聞き覚えのある単語に、ジェルドの眉がはねる。
「あの魔窟で働いてたのか! ん? 待てよ……で、その年代でその喋り方…………なぁ、アンタもしかして……」
ある人物を思い浮かべたジェルドは、つい眉間に深いしわを刻んで男を見た。
「んふふ、セルダでしょ~! もちろん知ってるわよぉ。だってぇ、私たち大の仲良しだったもの~」
やっぱりか!!
思わず心の中でつっこみ、先ほど覚えた既視感に大いに納得するジェルド。
「なあ、なんでその元研究者のアンタが、こんな村にいるんだ?」
「あら、失礼ね。こんな村って、ここ、あたしの生まれ故郷なんですけど。ま、育ちは王都だけどね。それと、あたしはアンタって名前じゃないわよ。ローズマリーって呼んで」
「じゃあよ、ローズマリー。なんでこの村の住人であるアンタが、俺みたいな身元不明の怪しい男を助けたりなんかしたんだ?」
ジェルドの問いに、ローズマリーがにんまりと怪しく微笑んだ。その笑みに激しく嫌な予感を覚え、ジェルドは思わず口元をひきつらせる。
「身元不明でぇ、すっごく丈夫そうでぇ、しかもこーんなおあつらえ向きの大怪我をしていたんだもの。これってぇ、運命だと思わない?」
ローズマリーの笑顔に、ジェルドの背中を冷たい汗が流れ落ちる。しかも悪寒までプラスされ、さらにおまけにさっきから鼓動がやたら早くなっていた。
ヤベェ、さっきからなんか体がすっげぇ熱ぃ! しかも……知ってるぞ、この感じ。この、人を実験台としか見ていない傍迷惑な感じ…………
今、ジェルドの脳裏には、セルダとの数々の思い出が走馬灯のように流れていた。
ジェルドはレイのように、自ら進んで実験を手伝っていたわけではない。任務のために仕方なく、それでも役に立ちそうだと思うからこそ付き合ってきた。そんなジェルドに、セルダはこの目の前のローズマリーと同じような笑顔を浮かべて、いくつものろくでもない実験を施してきたのだ。
「何を盛りやがった!?」
痛み以外にムズムズと、なんとも奇妙な感覚を訴え始めた脇腹を押さえながら、ジェルドはローズマリーを睨みつけた。けれどそんなジェルドに、ローズマリーはさも心外だというような表情で口を尖らせる。
「ちょっとぉ、そんなにおっきな声で怒鳴らないでちょうだいよ。そもそもあたしの大天狗湯がなかったら、あなた、今頃ここでこんな風にお喋りなんてできてなかったんだからね」
「おお……てんぐ、とう?」
いぶかしげに眉を寄せオウム返しするジェルドに、ローズマリーは得意げに胸をそらすと、嬉々として大天狗湯の効能を説明し始めた。
「んふふ~、よくぞ聞いてくれたわ! まず天狗湯っていうのはね、昔っからこの村に伝わってきた煎薬の名前よ。なんか天狗に教えてもらったから天狗湯って言うんですって。でね、この天狗湯に私とセルダがちょぉーと改良を加えたのが、さっきあなたに与えた大天狗湯よ!」
セルダ、だと? しかも、明らかにあいつと同類のこいつが、あの研究バカと改良を加えた薬……だと!?
セルダの名前に、ジェルドの顔から一気に血の気が引く。
わき腹の傷のムズムズはさらに強くなってきており、鼓動は相変わらずドクドクと早鐘のように忙しい。体の芯から湧き上がってくるような熱に、ジェルドの額にはいつの間にか大粒の汗が浮かんでいた。
「ねぇ、今、どんな感じ? 元の天狗湯はね、傷の治りを助けるっていう、あくまで補助効果だったんだけど。大天狗湯はね、それをさらに強化して、治癒効果もつけてみたの! ただね、被験者の体力がないと、効果を発揮できないのが難点なのよぉ。でもでも、あなたみたいな体力お化けみたいのになら、効果ありそうよね~。ねぇねぇ、どーお?」
寝台の上で、どうしようもない疼きに体を丸めて耐えるジェルドを眺め、ローズマリーは新しいおもちゃを与えられた子供のようにはしゃいでいた。
「……っるせぇ、ちっと黙ってろ!! クソッ、やたら痒ぃし熱ぃし、なんつーもん投与してくれてんだ」
「あら~、命の恩人に対してひっどいわぁ。それにあなた、大天狗湯がなかったら、今頃死んでたわよぉ。ふんふん、副作用として掻痒感と発熱を伴う、と」
悶えるジェルドを笑いながら観察し、鼻歌を歌いながらカルテになにやら書き込んでいくローズマリー。けれどジェルドは、もうそれどころではない。傷口が痒くて痒くて、痒くてたまらないのだ。
「だぁーーー!! もう無理だ!」
そう叫ぶと、ジェルドは巻かれていた包帯を乱暴にほどき始めた。ローズマリーはそれを止めるでもなく、ただ興味津々といった様子で観察している。
そしてジェルドがすべての包帯とガーゼを取り去った時、その目に信じられない光景が飛び込んできた。
「……ウソ、だろ?」
あれほど深かった――おそらくは内臓まで達していたはずの――傷が、きれいさっぱり、痕さえ残らず消えていた。
「やーん、大・成・功~! さすがあたしとセルダの友愛の結晶だわぁ」
愕然とするジェルドのわき腹を無遠慮にベタベタと触って、大天狗湯の効果を確かめるローズマリー。驚きのせいか快癒したせいか、あれほどジェルドを苦しめていた痒みは、いまやその鳴りをすっかりと潜めていた。
と、その時。ジェルドの鼻が、いくつもの鉄と血の匂いをとらえた。
「ローズマリー、アンタのおかげで助かったよ。世話になった。あとすまねぇが、ここら辺の道具、ちっとばっかし借りてくぜ。つーわけで、じゃあな」
寝台から飛び起きると、近くに置いてあったメスを箱ごとごっそりと奪い、ジェルドは勢いよく扉の外へと走り出した。
「ちょっと、あたしも行くに決まってんでしょ! 経過観察させなさいよぉ~!!」
カルテを抱え、慌ててジェルドの後を追うローズマリー。こうして二人のおっさんは、真っ暗な夜明け前の空の下に飛び出していった。
※ ※ ※ ※
玄関の扉を開けた瞬間、ローズマリーの目に飛び込んできたのは――馬鹿笑いしながら素手とメスで、忍者たちを一方的にボコボコにしているジェルドの異様な姿だった。
「快癒後は高揚感を伴う……と」
しかし、高揚感だけであれほどの深手を負わせた忍者たち相手に、ここまで一方的に戦えるものなのだろうか? ローズマリーは首を傾げると、注意深くジェルドを観察する。
よくよく見ると、ローズマリーが拾った時よりも、ジェルドの体が一回り大きくなっている。動きも人間というより、もはや獣のそれだ。ローズマリーは、それらもカルテに書き込んでゆく。
「著しい戦闘能力の上昇、と。う~ん、この効果はいつまで続くのかしら? それにしても面白い……ほんっと面白いわ! やだ、あとはどんな副作用が出るのかしら」
声を弾ませ、たまに襲い来る忍者を、こちらもメスで急所を確実につき撃退するローズマリー。人外級の二人のおっさんに、忍者たちの間に戸惑いと動揺が生まれ始める。
そんな忍者たちの心と裏腹に、空は宵闇から群青、そして東雲へと確実にその明るさをましていた。
「ジェニー!」
突如、忍者たちの中から恍惚とした表情のクラフトが飛び出してきた。
「クラフト様、危険です! どうかお下がりください」
忍者の一人がかばうようにクラフトの前に立ちはだかり進言をしたその瞬間、二人の頬をジェルドの投げたメスがかすめていった。忍者の頭から赤い頭巾がはらりと落ち、クラフトの白い頬からは仄暗い赤が滴り落ちる。
「黙れ、このクソ変態小童が! 俺はジェニーじゃねぇって何度言やわかんるんだ!! てめぇの頭ん中は海綿体でもつまってんのか、ああ!?」
大天狗湯の副作用ですっかり出来上がってしまっているジェルドが、口汚くクラフトを罵る。するとクラフトは、そんなジェルドに瞳を潤ませ、あろうことか熱いため息をもらした。
「ああ、やっぱりジェニーは最高だ! その、汚物を見るような蔑みの視線。絞められたら思わずイっちゃいそうな逞しい手足。そして極め付きは、その容赦ない殺意!! やっぱりきみは、私のファム・ファタールだ」
「死ね! マジでいっぺん死んでこい、この救いようのないド屑の変態が!!」
自分たちの仕える主のあんまりな姿に、忍者たちはもれなく目頭を押さえ肩を震わせていた。
「さあ、みんな! 私のファム・ファタールを生け捕りにして。死ななければ何とかなるから、とにかく生かしたまま捕まえて」
クラフトの命令に、忍者たちは再び一斉に戦闘モードへと突入した。東雲色に染まる空を背に、逆光で黒く浮かび上がるジェルドに対峙し、襲い掛かるタイミングをじりじりとうかがう。そんな緊迫した朝焼けの空の下、三度の変化がジェルドを襲った。
対峙していた忍者たち全員が、思わず己の目を疑った。目の前で起きているそれに、忍者たちの瞳が絶望と驚愕、そして恐怖で塗り替えられてゆく。
「そんな……そんな、馬鹿な! だってあんなもの、あれでは人間の域を超えて…………」
「あれではまるで……そんな――」
山の端から顔を出した、生まれたばかりの太陽の光を受け、黒々と浮かび上がるジェルドの姿。忍者たちを絶望と恐怖のどん底に叩き落した、その姿は――――
逆光の中、ジェルドの股間から黒々とそびえたつ異形。
丈夫なはずのカーゴパンツの布を軽々と突き破り、人間にはあり得ない長さと大きさに変化した、ジェルドの大切な相棒。その変わり果てた姿。
「な…………なんじゃこりゃぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
ジェルドは腹の底から、これでもかというくらいの魂の叫びをあげた。その顔は逆光で黒いままだが、おそらく顔面蒼白で絶望に染まっているのだろう。忍者たちも恐れおののきながら、ほんの少しだけ男として、いや人間として同情のまなざしを送った。
「ほら、何してるんだよ。さっさと捕まえてきて」
クラフトの命令に、忍者たちは一斉に我に返る。そして唐突な己の変態にジェルドが目を奪われている今がチャンスとばかりに、一斉にジェルドへと飛びかかった。
「……けんな」
ジェルドはぼそりとつぶやくと、飛びかかってきた忍者の一人を軽く裏拳ではねのけ、ついで正面の忍者にアイアンクローをかけ、そのまま斜め後ろの忍者めがけて投げとばした。
そして右の忍者に対応するため、ジェルドが方向転換したその瞬間――ジェルドの変わり果てた相棒が、向かってきた忍者のみぞおちに突き刺さった。
それを見たローズマリーは歓声をあげる。
「すっごーい! 股間が長くて太くて硬い……って、もうやだぁ! えーと、あそこが人外級に変化して勃ちっぱなしで武器化する……っと」
きゃあきゃあ言いながらカルテに副作用を書き込んでいくローズマリーに、ジェルドが叫ぶ。
「てっめぇ、こりゃいったいどういうこった!! 俺の相棒、如意棒になっちまってんじゃねぇか! こんなん女につっこんだら、相手死ぬわ!! つーかまず、日常生活が送れねぇ! オイ、どうしてくれんだよ、コレ!!!」
「ごめんなさいね~。でも大丈夫よぉ、一時的なものだから。…………たぶん」
「たぶんとか言ってんじゃねぇぇぇぇ!!」
激高したジェルドは、わき上がる怒りを襲いかかってくる忍者たちに次々とぶつけていった。その戦いぶりは、まさに鬼神の如く。反対に忍者たちの戦意は、塩をかけられたナメクジのように萎んでいった。
今のジェルドは大天狗湯の副作用で、身体そのものに加え、戦闘能力も大幅に強化されていた。しかもそこへ件の荒ぶる如意棒が加わって、動きの予測が難しくなっている上、怒りで手が付けられない状態。もはや忍者たちには、手が負えなくなっていた。
「なんなんだ、あの男は……」
「天狗……鬼神? いや、焔神だ。赫赫の焔神」
朝日を受け、燃え上がるような後光のさすジェルドの股間の大天狗を指し、忍者たちは崩れ落ちるようにその場へ膝をついた。中にはひれ伏し、拝みだす者たちさえ出始める始末。そんな彼らを見て、ジェルドは激しくやるせない気持ちに襲われていた。
「ジェルド隊長、御無事ですか!?」
ちょうどそこへ、ジェルドの部下が騎士団の精鋭を引き連れてやってきた。優秀な部下はジェルドの残した伝言を正しく読み解き、かつジェルドの残したかすかな痕跡を辿って追ってきてくれたようだ。
ただ、すでにクラフトの姿はもうここにはなく、逃げられた後だったが。
「おう。完全に無事たぁ言えねぇけどな。ま、ひとまずは無事だよ」
そう言って苦々しく笑ったジェルドの姿を見て、部下、および騎士団の面々が一斉に凍り付いた。
逆光で黒々と浮き上がる、ジェルドのシルエット。その一部分が、人間ではありえないことになっているのを見て、全員の顔が盛大に引きつる。
と、そこへ、早朝の爽やかな一陣の風が吹きぬけた。風は木の葉やほこりを舞い上げ、そしてジェルドの如意棒にそっと、先ほどの赤い頭巾のなれの果てを添えていった。
それを見た忍者たちは一斉にひれ伏し、「赫赫の焔神さま」とジェルドの股間へ祈りを捧げた。そして部下と騎士団の一同は思った――
ああ、新しいコードネーム加わったな。
と。
この日この時より、ジェルドのコードネームに純白の悪夢に加え、赫赫の焔神が加わったのは言うまでもない。