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閑話・マーブルペンの不気味な輝き

 非常に悪いとしか言いようのない定期テストの結果を引きずっていた私の心は、憂鬱という名の泥沼にブクブクと沈み、その粘性の高い泥に執拗に囚われ、いつまでもそこから抜け出せないでいた。しかし私は学校を休むことなく、仏頂面でありながらも、表面上は普段通りに登校していた。

 これは本当に不本意なことだった。本来なら1ヶ月ほどの休暇をとり、南の島で自然や動物と触れ合いながら傷ついた心を癒やしていなければならないはずだ。しかし、それは叶わなかった。南国リゾート休暇のことは、例えば七色の羽を持つやたらカラフルなオウムを追いかけたり、宝石のような綺麗な貝殻を拾って集めたり、こんがりと焼けた肌を水平線の見えるビーチの木かげで休め、海に沈んでいく夕日を眺めながら「今ごろみんな何やってるんだろうね……」などとつぶやきつつココナッツジュースを飲み干したりという具体的なプランとしてCIAに提出されたのだが、「馬鹿なこと言ってないで、はやく学校行きなさい」と即座に却下されたのだ。一蹴だった。さらに私が用意した海外旅行のパンフレットなどは見向きもされず、相手にもされなかった。ゴミ箱行きだ。その結果、私には学校に行く以外の選択肢がなくなり、消去法的登校をする羽目になってしまったというわけだ。

 こうして学校へ行き、教室へ入れば、そこでは性的なソフトテニス部たちが我が物顔で闊歩し、サファリパークを連想させる奇声をあげていた。誰それと誰それが付き合っているだとか、かっこいい男子を見かけただとか、あるいは特にそんな理由もなく発せられる叫び声だとかは、私の南国リゾート妄想を吹き飛ばし、教室を弱肉強食のサバンナへと変化させていた。そこでの私はライオンではなく、ワニやサイやゾウ、その他の強そうな猛獣でもなく、ペットショップで売っているようなハムスターなのだった。こんなところでハムスターが生きていけるはずもない。できるのはなるべく小さく丸まって、毛玉のようになることだけだった。

 このときの私は憎しみの塊だった。何も考えずに、動物のように楽しく生きている、性行為のことしか頭の中にない、全身性器のような性的なソフトテニス部たちが憎くてたまらなかった。やつらには何の悩みもないのだ。ただ本能のままに生きている。それでいて定期テストではそこそこの点数を取るから結果に一喜一憂することもないし、一喜一憂するまでもなく、そもそも解答欄を埋めていないのだから非常に悪い点数以外取ることのない残念な答案を返却されることもないのだ。

 世界は理不尽だった。その理不尽に、私は憤りを感じたし、憎しみの炎を燃え上がらせもした。これには性的なソフトテニス部たちが行っているはずのフリーダムな性行為に対する羨望と嫉妬が含まれていたことも付け加えておきたい。嫉妬は程よいエッセンスとなって、憎しみをさらに加速させた。

 とはいえ私が性的なソフトテニス部たちに対して何かをできるというわけでもない。だから私は、サバンナでオアシスを求めるように、「よみちゃん、よみちゃん」とつぶやき、唯一の友人であるところのメガネを捕まえるしかなかった。そして、その手にはアイドル雑誌が握られ、視線は虚空を捉え、表情は妄想により蕩けていることを確認し、「おいメガネ、お前もたいがいだな」という感想を持つに至った。

 この世界で何事かを考え、その思考が必然的にもたらす苦悩に心を引き裂かれているのは、おそらく私と若きウェルテルくらいだけなのだった。ウェルテルは自殺をしてしまったが、私はそんなことだけはするまいと思い、ではどうすればいいのかと考え、私を苦しめる定期テストという存在の、その根本的な原因である文部科学省の破壊プランへとたどり着き、しかしそれが実行されることはなく、そもそも現実的なプランを練り上げることすら叶わないのだった。もっと実現可能なアイデアを出すべきだった。

 ちょうどこの頃、学校ではマーブルペンが流行っていた。学校へ持ち込める私物といえば文房具くらいしかない状況が否応なくもたらすちょっと変わった文房具ブームというのは教室内で定期的に発生し、このときはマーブルペンのブームだったのだ。数十年前にも流行ったという、鮮やかなインクの混じり合った何色の文字が書けるのか予想もつかないペンは子供たちを熱狂させ、その中でも特に私を熱狂させていた。

 マーブルペンをひとたび紙の上にはしらせれば、魔法のように鮮やかな七色の線が浮かび上がり、その瞬間世界の色が変わり、ちょっと不思議な出来事、例えば素敵な笑顔を浮かべる私だけに優しいイケメンとの出会いだとか、可愛らしく喋る小動物に助けを求められるだとか、あるいは文部科学省の方角から爆発音が聞こえるだとか、そういう非日常の出来事が起きるはずなのだった。少なくともこの理不尽な世界に風穴を開けることは間違いなかった。マーブルペンにはそのような、少女の妄想をかき立てる何かがあった。

 しかし、私はマーブルペンを持っていなかった。このままではいけない。私はマーブルペンを手に入れなければならない。私こそはマーブルペンにふさわしい人間で、マーブルペンのほうも私に使われることを待ち望んでいるはずなのだ。「これは事実であり真理なのである」と私の中の誰かが囁き、私は当然同意し、並々ならぬ決意とともに、帰宅後直ちにCIAと対峙することになった。マーブルペンを買ってもらうためである。「マーブルペンがいま流行ってるんだぁ……」と言えば、CIAは「ハア?」と聞き返し、この時点でひとを説得することの苦手な私の心は折れかけていたが、決死の思いで「すごくかわいいんだぁ……」「みんな持ってるんだぁ……」と続ければ、何かを察したらしいCIAが「何? 何なのよ? 何か言いたいことがあるの? 言ってみなさい」と促し、思い切って「私も欲しい……」と私が言った瞬間、「ダメよ!」と却下されてしまった。

「あんたねえ、考えてご覧なさい。なんで定期テストで0点を取って、追試まで受けてそれでもたいして変わらない点数を取ってきた子が、海外旅行をねだったり、マーブルペンをねだったりするのよ! おかしいでしょ!」

 これには返す言葉がなかった。全くもって正論だったし、直接的な表現を避け、非常に悪い点数という形でウヤムヤにしてきた、私の取った0点という点数を突きつけられたこともあり、涙目になるしかなかった。「ぐぅ……」とつぶやき、なんとか説得する材料を探し、「でも、マーブルペンがあれば勉強するかもだし……」と言えば、間髪入れず「しないでしょ!」と返ってくる。またも「ぐぅ……」としか言えず、これがぐうの音も出ないということかと思い、しかし「ぐう」と言っているよな、ということはぐうの音が出ているよなと混乱し、グズグズと泣きながら自分の部屋へと戻った私はベッドでさらに泣いたのだった。

 マーブルペンが手に入らない。それは私は非日常の世界へ行くことができないということを意味しており、これからも教室という名のサバンナで、ハムスターとして怯えながら生きていかなければならないということを意味していた。どうにかして否定したかったが、その理不尽な、あまりにも理不尽な現実こそが私を取り巻く日常なのだった。

 こうして私はさらに憂鬱という名の泥沼に沈み、泥の中をかき分けながらもなんとか教室へとたどり着けば、そこではメガネは正気に戻っており、手にはマーブルペンが握られているのだった。「えっ、えっ、なんで?」と私が言えば、「んふふ、買ってもらったの」とメガネは満足げな表情を浮かべた。私がどれだけ望んでも手に入れることのできない聖杯であるところのマーブルペンを、いともたやすく、セツナとの逢瀬の妄想の合間に手に入れるメガネに嫉妬し、不公平な世の中を呪った私は、続けて「使ってみる?」とマーブルペンを差し出すメガネへの呪いだけはすぐに取り消し、「やはりこいつは根本的にいいやつなのだ」ということをあらためて思い知らされることになった。

 マーブルペンを紙の上にはしらせると、しかしそこに現れるのは、魔法のような美しい七色の線ではなく、いろいろな色が混ざったきちゃない線なのだった。考えてみればそうだ。いろいろなインクを混ぜれば、色も混ざるに決まっている。当然、非日常の出来事など起きやしない。マーブルペンの可愛らしい見た目に騙され、私は踊らされていたのだ。現実はこんなものだ。七色の線を描く魔法のペンなど存在しない。

 茫然としながらメガネにペンを返した私は、チクリとした痛みで我に返った。ウサギの残した刻印が痛んだのだ。そして、「もしかしたら」と思った。マーブルペンが魔法のペンではなかったように、私が嫉妬する性的なソフトテニス部のフリーダムな性生活など、本当は存在しないのかもしれない。私が勝手に思い込んで、自分と比べて、羨んでいただけなのかもしれない。都合のいい部分だけを取り出して、ほら不公平だ、ほら理不尽だ、と騒いでいただけなのかもしれない。世界は公平で、嫉妬の対象となるような、何の悩みもない、ただ楽しいだけの日常などはなく、みんなクソみたいな日常を過ごしているのかもしれなかった。

 それは福音などではなかった。泥沼から抜け出すことは永遠にできない、なぜならどこにも楽園などはないのだからという、残酷な宣告だった。そのようなことは認められない。認めたくない。私が憎むべき世界は存在し、きっといつかはたどり着ける。自分がそこへたどり着くその日まで、私は世界を呪い続ける。そう思っていた。なのに、そもそもそんなものはないなどとと言われたら、いったいどうすればいいのだ。憎しみをぶつける相手すらいない、絶望しか存在しない、自分が生きているのが、そんな世界だとは思いたくはなかった。

「くそっ」とつぶやき、顔を上げると、メガネが鼻歌を歌いながらマーブルペンをはしらせているところだった。何をしているのかを確認すると、メガネはマーブルペンを使ってセツナのチクビをデコっているのだった。インクが混ざり合い、きちゃない線しか引けないはずのマーブルペンを見事に操り、不思議な色のラインを生み出し、ハートマークやキラキラエフェクト、「私の!」というコメントでチクビを彩っていく。そうして、さまざまな色合いを見せる、およそ人類のものとは思えない有り様になったセツナのチクビが完成した。それをうっとりと眺め、メガネはメガネを光らせながら「うふふ」と笑っているのだった。

 恐るべき自家発電だった。「こいつは底知れないな」と私は戦慄し、マーブルペンも使い手次第なのだということを知らされた。そして、やはり私が憎むべき世界はどこかにあるのかもしれない、と思いなおした。憎しみの炎を絶やさなければ、いつかは本当に憎むべき相手を見つけ、そいつを討ち倒し、きっと私もその場所へ、楽園へとたどり着けるのだ。それはマーブルペンとメガネがもたらした、僅かな希望だった。それこそが福音だった。希望に想いを馳せ、私はメガネと同じように「うふふ」と笑った。

 サバンナのオアシスにこだまする不気味な笑い声の二重奏は、猛獣たちの不安をかきたて、それらをオアシスから遠ざけ、結果的にハムスターの日常を守りながら響き渡っていった。


 ちなみにCIAは後日マーブルペンを私のために買ってきてくれた。非日常の世界へと誘う魔法は持たないにしろ、その効果は凄まじく、私は15分間の自宅学習を行うことに成功したのだった。新記録である。

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