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妄想の終わり

 ウサギはやはりそこにいた。私のお気に入りだった、廃墟のような公園に。

 何の感情もこもってない瞳を私へ向けて、モゴモゴと口を動かし、食べるものを探して待ちかまえていた。「もうやめて」と私は言った。「もういいでしょう。十分でしょ」と。私のなかには、もうウサギに食べられるようなものは何もなかった。もちろん、失うものがないというのは強みでもある。だからこそ、私は今日、ここまで来られたのだ。ウサギがいるはずの、この廃墟のような公園へ。

 カバンの中からクッキーを取り出して、ウサギの前に放り投げた。「お願い。これを食べて、二度と私の前に現れないで」私にできることといえば、こうしてお願いすることくらいしかなかった。とはいえそれは、CIAが私に「ちょっと食器を洗っておいて」と頼むときのような気安いものではなく、断固とした決意のもとに私が絞り出した、これが聞き入れてもらえないのなら、死に物狂いで戦うしかない、そういう最後のお願いだった。いざとなれば、たとえ丸腰でも、勝てない戦いだとしても、殺せないとしても、私はやるつもりだった。それが私の最後の抵抗だ。ウサギは鼻をヒクヒクさせて、しばらく迷ってから、クッキーにかじりついた。ひとくち、ふたくち。それでクッキーはなくなってしまった。ウサギが私に視線を合わせる。つぶらな瞳が私を捉えている。まだ足りないというように鼻をヒクつかせながら。カバンの中にはまだクッキーが数枚残っていた。地面に投げるとそれに飛びついて、食べ終わっても周囲の匂いを嗅ぎ回っていた。

 そのウサギの様子を見て、私は少し安心した。私の話を聞いてくれるようではないが、いきなり飛びかかってくるような、そういう種類の化け物ではないのだ。このウサギは。交渉の余地があるかもしれない。クッキーをもう一枚取り出し、指先でそれをもてあそびながら、私はそんなことを考えていた。そこには油断があった。つまんだクッキーに、ウサギは飛びかかってきた。一瞬の出来事だった。なんの予告もなく、予想すらできず、心構えをする余裕もない。ウサギは突然私の指ごとかぶりついていて、次の瞬間には、クッキーはなくなっていた。人指しゆびに、ドロリとした赤いものが残っている。唖然として、私はぺたりと座りこんだ。するとウサギは再び襲いかかってきた。私の指の赤いものめがけて。抵抗する暇もない。ウサギがかじりついたあと、それはなくなっていた。私の指についていた、クッキーの中からこぼれ出た、ドロリとした赤いジャムは。

 自分の人指しゆびを見つめる。私の指は、まだそこにあった。かじられた傷痕もない。血も流れていない。人喰いウサギにかじられたにも関わらず、私の指は何事もなく、そこに存在していた。それが意味することを考えて、私の息は一瞬止まってしまった。すべてが裏返しになって、ぴったり繋がってしまった。もしもあのとき、生け垣越しに見た光景もそうだったのなら、ウサギはただ指ごとお菓子にかぶりついていただけだったのなら、おばさまの指から流れる血もお菓子についていたジャムだったのなら、すべてが見間違いから始まったのだったとしたら、ウサギはただのウサギだったのなら。「何それ……馬鹿みたい」と私はつぶやいた。いままで生きてきたなかで、こんなに心からの「馬鹿みたい」を言ったことはなかった。だがそれで、説明がついてしまうのだ。ウサギを巡る一連の状況の中で、たしかに現実に起きたことは、あのティーパーティーでおばさまの指をかじっていたということだけだった。それが見間違いだったとしたら、残りのすべては私の妄想だ。かじられたおばさまの死体は、本当にネズミにかじられたものだった。最初から、人間を食べるウサギなんて、いなかった。

 私は最後のクッキーを放り投げた。地面にポトリと落ちる。そのクッキーめがけて、ノソノソと突撃するウサギに手を伸ばし、お尻をペチンと叩いた。ウサギはビクッとからだを震わせて、クッキーをしっかりくわえて、ノソノソと茂みの中へ逃げていった。その様子が何よりも証明していた。アイツはただのウサギだった。食い意地の張った、デカイだけのウサギだ。

 残された私の心には、しかし安堵感などはなかった。諦めという言葉が一番近いだろうか。からだの力が失われ、立ち上がることができない。そんな気持ちで満たされていた。ウサギに食べられたのでないのなら、もう取り戻すことはできない。そもそも食べられたわけでもない。戦う相手がいるわけでもない。それは事実として、最初からそうだったのだ。私には、最初から何にもなかった。どこにでもいるちっぽけなただの女の子だった。失っていないものは、取り戻すことはできない。ぺたりと座りこんだまま、しばらくの間、本当に立ち上がることができなかった。そこにいるのは妄想にまみれて、すべてが嘘だったとつきつけられて、それをつきつけてきた化け物ですら嘘だったと思い知らされた、なにものでもないただの女の子だ。妄想をひとつずつ取り除いて、かろうじて見つかった残りカスだ。面白くもなんともない、ゴミみたいな生き物だ。それが本当の私だ。

 なにもなかったのだ。化け物みたいなウサギも、私自身も。

 カバンの中を探ると、クッキーが一枚残っていた。ひとくちかじると、ドロリとした甘ったるいジャムがあふれてきた。やけつくような甘さを感じながら、私はようやく立ち上がった。心のなかで「くそっ!」とつぶやきながら。


 そうして私は翌日もその翌日も学校へ向かい、見た目は普段通りの日常が続いていった。


 休み時間になると、いつものようにメガネが雑誌を抱えてやって来る。「セツナ君の顔を見ると、サイコーの気分になるよね!」そう言って、地味メガネは広げたページを私に見せる。「ならないよ」と私は首を振る。私の位置から見えるのは、セツナの浅黒い乳首だけだ。それは気持ち悪いだけで、最高の気分にしてくれるということはない。地味メガネはちょっと唇をとがせて、それからニッコリと笑う。「なんか、元気でてきたみたい?」「別に」と私は短く答える。

 何かを取り戻したわけではない。最初から、私には何もなかった。それは受け入れざるを得ない事実だった。それを考えるたびにどうしようもない無力感と漠然とした不安に襲われる。底なしの穴に放り込まれて、落ちるわけでもなく、出ることもできず、どこにも手が届かずに穴の中をフワフワと漂っているような気分になって、しかし私はそれをどうにかやり過ごす方法を見つけたのだった。「よみちゃん、よみちゃん」とつぶやけば、地味メガネはニッコリ笑って「なあに?」と聞き返してくれる。そうするとほんのすこしだけ、安心することができる。そうやって、私はつかのま、心の安定を取り戻す。「おいメガネ、お前が友達で良かったよ」それが私の本心だった。口に出したことはない。

 そんなことを思いながら、ふと地味メガネを見れば、サプリメントを大量に飲み込み、セツナの写真が載ったページを眺めてトリップしているところだった。目がとろんとして、意識が別の世界へ行っている。セツナの乳首を見つめて、かなりハードな妄想をしているようだった。緩んだ口元からもそれがわかる。

 いたずら心から、私はセツナの乳首を人指しゆびでピタッと押さえて隠してみた。するとメガネの目付きが変わった。「セツナ君のおおお、ちくびにいいい、さわらないでよおおおー!」といきなり激昂している様子だ。面白くなって、私はさらに力強く乳首を押さえる。雑誌に指がめり込むくらいに。「やめてよおおお! 何するのー!」と言いながら、指を引き剥がそうとするので、全力で抵抗する。「私のなののの! セツナ君のちくびいいい!」とメガネは絶叫し、その声は教室中に響きわたる。ただの地味メガネだと思われていた女子生徒の、突然の「ちくび」発言に教室内は騒然とし、それに気づいたメガネは顔を真っ赤にしてうつむく。そして、モゾモゾと隠れるようにしながら、私の指をへし折る勢いで捻りあげる。「あがが、痛い痛い」笑いと痛みで呼吸困難のようになり、私はメガネの肩をタップする。


 それは誰にでも訪れるものなのかもしれない。自分がなにものでもない、どこにでもいるちっぽけな人間だと思い知らされる瞬間は。私の場合にはそれが、あの巨大ウサギと共にやって来ただけなのだ。そんな風に考えても、割りきれるものではなかった。もう私は心の底から馬鹿みたいに騒いで、ヤバイものに憧れることができない。傷痕すらないウサギの噛んだ指さきの痛みが、刻印のように心のなかに刻まれて、私を楽しい妄想の世界から現実へと引きずりだすのだった。「よみちゃん」とつぶやき、それをやり過ごし、それでも私は馬鹿騒ぎを続ける。心の中で「くそっ!」と吐き捨て、ギリギリと奥歯を噛み締めながら。

 それは、そういうものなのだと素直に受け入れることができない、なにものでもないちっぽけな私のささやかな抵抗だった。


 あれから宮殿を見に行ったことがある。ひとの住まなくなった宮殿は、以前の面影はなく、しかし魔王城でもなかった。それは空き家だった。魔法が解けたようにみすぼらしくて、「嘘みたい!」と言いたくなるくらいに、ただの空き家だった。それは少し悲しくなるくらいの、残酷な現実だった。

 私はもうヤバイことに熱中できない。お菓子を楽しみにすることもできない。うら若き乙女でもない。私はなにものでもない。

 私はちっぽけなただの私でしかない。

 ウサギがただのウサギだったように。


 空き家となった宮殿に別れを告げて、家路につこうとする。

 すると、背後で物音がした。

 小動物が、茂みの中を動いているような音だ。

 私はそれを聞きながら、振り返ることは無かった。


 玄関のドアを開けると母親が迎えてくれる。

「おかえりー」

「ただいまあ」

 リビングのテーブルに、「それ」を見つけて私は声を上げる。

「お母さあああん。これ食べていいのおおお!」

「はいはい、いいわよ」

 母親の言葉を待たずに私は手のひらにつかめる限りの量を掴み取る。

 小袋に分けられたクッキーだ。

「アンタ、そんなに食べられないでしょ」

「大丈夫ー」

「大丈夫じゃないわよ。ご飯食べられなくなるわよ!」

「メエエエー!」

「なんでヒツジなのよ!」

「あはは! メエエエー!」

 笑いながら階段を駆け上がり、ベッドの上にクッキーを放り投げる。

 以前と変わらない、元通りの日常だ。最初から、何も変わっていないのだから。

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