カッターナイフと特別なクッキー
さらにウサギが近づいてくる。ノソノソとおじさんのような動きで。私は水道の土台にぴったりとからだを寄せた。なるべくちいさくなるように、背中を押しつけるようにして。私はいま水道と同化している。そう思い込もうとした。私は公園に設置された、水がチョロチョロとこぼれる蛇口がぶっ壊れたボロい水道なのだ。実際そう思い込むことには成功したようだったが、それに成功したところで事態は何も変わらず、巨大ウサギから逃げ切ることはできそうになかった。ウサギはじっと見つめている。つぶらな瞳が私のことをとらえている。土の感触が手のひらに触れた。地面は濡れている。
私の背中もお尻も、地面についた両手も、水道からこぼれた水で濡れてしまっていた。水分を含んだ制服がペタリと肌に貼り付いている。「冷たい……いや、冷たくない? どうして?」と私は思った。むしろ温かい。特に太もものあたりが。それに気づいた瞬間、私は勢いよくオシッコを漏らしていた。「あ、あ!」と言いながら、足をモソモソと動かしても意味はなかった。下半身がとても温かい。力が入らない。恐怖と解放感とその他いろいろな感情がまぜこぜになる。止めようとしても止められない。その量はもはや恥ずかしがるようなレベルのものではなかった。大量のオシッコがぐっしょりと私の太ももを濡らしてしまっていた。最終的に諦め、放心して足を投げ出していると、ウサギがヒクヒクと鼻を動かした。下半身に鼻を近づけ、匂いを嗅いで、チラリと私を見つめる。そしてノソノソと去っていった。興味をなくしてしまったように。私はそれを見送った。この隙に急いで逃げ出すわけでもなく、ましてや追いかけるわけでもなく。もうそんな気力はなかった。地面にべたりと座ったまま、ウサギがいなくなるのを眺めていた。何もできない。みじめで涙があふれてきた。
こうして私はウサギから逃れることができた。見逃してもらったというほうが正しいだろうか。上半身を水道の水で濡らし、下半身は別のもので濡らし、顔はボロボロとこぼれる涙で濡らし、グチャグチャの状態で私は家路についた。心の中も酷い状態だった。何を考えればいいのかわからない。ただ涙があふれてくる。すれ違う人たちに見られている気がする。うつむいて、自分の足だけを見つめる。家に近づいてくるうちに気持ちの整理がついて、私の心は屈辱で埋めつくされていった。私はオシッコを漏らした。それだけではない。ウサギは興味をなくしたように、私をチラリと見つめた。そんな視線を向けられた。家畜ですらない、ただ生きているだけの動物に。それは屈辱以外のなにものでもなかった。
帰宅した私を迎えたCIAは、「えっえっ、どうしたのー!」と悲鳴をあげて、ぐしゃぐしゃの私を抱きしめて、それからしばらくして、「何されたの?」と静かに尋ねた。努めて冷静になろうとしている口調で。「あ、これは誤解されてる」と私は思った。レイプされたと思われている。私は濡れているだけではなくて、地面にべたりと座りこんでいたから泥まみれで、それは特に下半身がひどくて、そんな格好で泣いていたら、レイプされたものと誤解されても仕方がないかもしれない。「大丈夫?」と優しく聞かれて、CIAの心配している意味合いではまったく大丈夫なのだけれど、大丈夫か大丈夫じゃないかで言えば、大丈夫じゃない状態で、どう答えようかと迷い、しかしこのまま何も返事をしないでいると、どんどん騒ぎが大きくなっていってしまうと思い、私はとりあえず「何もされなかった」と言った。CIAの言っている意味では何もされていないし、実際ウサギには何もされなかった。だから間違いではない。CIAは私の頭を撫でて、「そう。……お風呂に入っておいで」と言った。
お風呂に入って、下着も代えると、少しは気分が良くなった。リビングでいまだに私の様子をうかがっているCIAにも声をかけておくことにした。心配させたままではいけない。「公園で転んだだけだから。心配しないで。大丈夫だよ」と私が言うと、「そう、わかった」とあきらかにわかっていない返事が帰ってきた。だがこれ以上説明のしようがない。私とウサギの関係を、どう説明すればいいのだろう。どうしてこんな目にあうのだろう。説明すらできない状況においやられて、ただ屈辱を味わわされた。巨大ウサギに。次第に屈辱が怒りに変わり、「あのウサギ、ぶっ殺してやる」とつぶやきながら、私は荒々しく自分の部屋の机の引き出しを開けた。あの黄色いカッターナイフを封印した引き出しだ。カッターナイフを握りしめて、しかしそこから私はそれ以上どうすることもできなかった。動けなかった。このときはっきりとわかった。実際に私にウサギを殺せるかといったら、殺せない。たとえ相手が化け物みたいな巨大ウサギでも、私には動物を殺せない。なぜなら私はヤバイひとにはなれないからだ。憧れすら嘘だった。憧れてるポーズをとって、そういうのがカッコいいと思っているだけだった。ギリギリと歯を噛み締めて、それでもカッターナイフの刃を出すことすらできない。その事実をアイツにつきつけられた。現実の動物を殺す。その選択肢を私は選べない。嘘にまみれた妄想の世界なら、ヘラヘラ笑って「ぶっ殺してやる」と言えるかもしれない。でも現実にそれを実行できるかといったら、できない。アイツに屈辱を味わわされて、どうにかしてぶっ殺してやりたいと心の底から思ったからこそ、本当は、それが実現不可能であることがわかった。だから、カッターナイフを引き出しの中に戻した。悔しいけれど、どうしようもなかった。
ウサギに会ってから、私は憧れたものを失ってしまった。もうヤバイことに熱中できない。お菓子を楽しみにすることもできない。いまの私はなにものでもない。
私はCIAではないし、メガネでもない。上流階級の人間でもないし、アリスでもない。金太郎飴でも、勇者でも、ヒツジでも、A子さんでも、性的なソフトテニス部員でもない。シャープペンシルを鼻と口のあいだに挟むこともうまくいかなかった。アヒル口でもないのだ。「くそっ!」とつぶやいた。みじめな気分だった。アイツが現れなければこんな思いをすることはなかった。毎日楽しく過ごしていられた。馬鹿みたいに騒いで、ヤバイことに憧れて、お菓子をバクバク食べて。「アイツのせいで!」何もかも失ってしまった。オシッコを漏らしてぐしゃぐしゃになった私は、もううら若き乙女ですらない。
だからといって私になにができるというわけでもなかった。私はもうなにものでもないのだから。私にウサギを殺すことなどできないのだから。
私はウサギに食べられてしまったのかもしれなかった。
なにか、大事なものを。
食べられた後にぽっかりと広がった穴に、何かがあったらしいということはわかるけれども、そこにあったものをもう一度手に入れることも、別のもので埋めてしまうこともできなかった。
穴は穴のままだった。
そうして何もなくなってしまっても、私は死んだわけではなかった。
いちおう、生きている。
どこか怪我をしたわけでもない。
モヤモヤとした、重たい気分が私の頭の中を埋め尽くしているだけだ。
だから、翌日もその翌日も学校へ行った。
休む理由がないから。
いままでと同じように学校へ通う。
見た目は何も変わっていなかったと思う。
変わってしまったのは心の中だけだ。
「やっぱりセツナ君カッコいいー!」
休み時間になるとよみちゃんがやってきてそんな話をする。
最近、よみちゃんはヌーディストのセツナの話ばかりしている。
本当に頭の中にそれ以外ないみたいだ。
「そうだね」と私は答える。
そう答えるしかない。
「セツナ君に会いたいー!」
「うん」
「セツナ君って、どういう子が好きなのかな? もしかしたら、私みたいな子が好きかもしれないよね」
私は少し考えて、
「そうかも」
と言った。
可能性を否定することはできない。
ゼロではないと思う。
広げた雑誌から、ふと、よみちゃんが顔をあげる。
「私ね」と真面目な表情で語る。
「初めてのセックスは、セツナ君とするんだ」
「うん」と私はうなずいた。
そうなるといいね、と思った。
そういうこともあるかもしれない。
よみちゃんはきゅっと唇をへの字に結んだ。
そして、メガネを外し、傍らに置いた。
「ねえ、どっちが私?」
と質問してくる。
何を聞いているのかはわかる。
傍らのメガネと自分、どちらが「私」なのか、ということなのだろう。
意味はよくわからなかった。
質問するまでもないことだ。
「よみちゃんはよみちゃんでしょ」
私は答えた。
よみちゃんを指さして。
「うん、そう」
とよみちゃんはメガネをかけた。
それから、机をバンと叩いた。
「でもそうじゃないでしょ! いつもなら、メガネが本体だって言うじゃない! メガネが私なんでしょ。いったいどうしちゃったの!」
よみちゃんは私の腕をつかんで揺さぶる。
その目つきは真剣で、あのとき、怖い話をしていたときとは別の種類の輝きを放っていた。
「ねえ、どうしたの? 最近おかしいよ?」
よみちゃんの言っていることはわかる。
だが、そうやって、よみちゃんのことをメガネ扱いする私は、果たして本当の私だったのだろうか。
きっとヤバイものに憧れるポーズをとっていた私のように、それも偽物なのだ。
友達をメガネ扱いしているように振る舞っていただけなのだ。
演じていただけ。
それに気づいてしまって、もう本当の私がなんなのかわからない。
穴しか見つからない。
だから、どう答えたらいいのかわからない。
「ねえねえ、私、お菓子持ってきたんだよ」
気をとり直すように、よみちゃんがカバンから小袋に入ったクッキーを取り出す。
机のうえに広げていく。
同じような小袋に入った数種類のクッキー。
以前の私なら、飛びついていたのだろう。
そういう風に演じていた。
「ほらあ、おいしそうでしょ」
よみちゃんが小袋を開けて、クッキーをつまむ。
「食べなよー」
とやや強引に私の口の中に入れる。
唇によみちゃんの人指しゆびが触れる。
クッキーを噛むと、中に入っていたジャムが、ドロリと口に広がった。
「おいしいでしょ」
よみちゃんがニッコリ笑う。
のどがやけつくように甘くて、私の好きな味だった。
「うん、おいしい」と答え、こんな風にクッキーをもらえる私はきっと特別な存在……なのだろうか。
「もっと食べていいよ」
とよみちゃんは残ったクッキーを私に押しつけた。
お菓子は好きだった。
そして、いまもおいしいと感じている。
すくなくともそれは本当の感情だ。
「よみちゃん」いや、メガネ、と私は思った。「ありがとう」それだけしか言えなかった。
「うん」メガネは言って、「元気だしてよね! 調子狂っちゃうよ」と笑った。笑った顔をした。
その日の放課後、私はあの廃墟のような公園へ向かった。私は追いつめられれば一か八かの行動にでる女の子だった。いまは追いつめられているわけではない。もうすでに追いつめられたあとだ。ウサギに食べられて、なにもなくなってしまっている。でもこのまま何もしないでいるわけにはいかない。
状況は絶望的だ。カッターナイフもない。丸腰で、カバンの中にメガネからもらったクッキーがあるだけ。それでも行かなければならない。きっと公園にいるはずの、アイツに会わなければならない。少しでも失ったものを取り返さなければならない。アイツのせいで、私は自分が何なのか見失ってしまった。このままメガネにあんな顔をさせたままでいるわけにはいかない。メガネの笑った顔。あんなにヒドイ笑顔は初めて見た。
ギリギリと奥歯を噛み締めて、私は公園へ足を踏み入れた。




