表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/11

日常とオススメの薬

 その後、何か特別なことが起きるということはなく、ウサギの行方もわからないまま、子供をつれた母親に理不尽ににらまれたという記憶と共に、私は一見普通の日常を送ることになった。もちろん、いまはまだ何も起きていないというだけで、これから何も起きないという保証はどこにもない。むしろ何かが起きそうな予感はしていて、ふとしたときに微かに聞こえた物音が、あの巨大ウサギの身じろぎするもののような気がして、私は周囲を見回してしまうのだった。しかし、ウサギが物陰に潜んでいるのを見つけることはなかった。それは何度繰り返しても同じで、だから周囲を見回すことも、だんだんとなくなっていった。

 学校でも私の周囲にはたいした変化は起きず、変わったことといえば、授業のあいまになるたびに、メガネがヌーディストについて熱く語るようになったということくらいだった。その話をのらりくらりとかわしながら、私が鼻と唇の間にシャープペンシルを挟む遊びに熱中していると、ふと思いついたようにメガネが「あれ? そういえば最近学校にお菓子持ってきてないよね。どうかしたの?」と首をかしげた。私のことをいつもポケットにチョコバーを入れているアメリカンファットスタイルな少年の一種だと見なしているその発言には、いくらか反論をしておきたかったのだけれど、学校のカバンにお菓子を入れておく習慣があったのは事実で、そしてそれを最近怠っているのもまた事実で、そんなことを考えているうちに「ダイエット? 実は私もなんだ。太ったわけじゃないんだけど、やっぱりいちおうこういうことってみんなやってるし、やっておいたほうがいいかなって思って、別に太ったわけじゃないんだけどいちおうね」とメガネがニヤリと笑った。言葉とは裏腹に、「わかる、わかるよ」という顔をしていた。そして、「ジャジャーン」という効果音とともに薬のビンを取り出すと、「これ使ってるの。効くらしいよ。私は太ってないんだけどね」と私に差し出し、よく見るとそれはCIAが熱心にチェックしていたサプリメントなのだった。メガネはジャラジャラとビンを揺らし、錠剤を取り出すと、「はい、元気になるんだって。痩せるし一石二鳥だよ」と私の手のひらに置いた。元気になってしかも痩せる錠剤というのは、もはやヤバイ薬にしか思えず、私の頭の中で「友達にすごく良く効くらしいよって勧められて。初めは軽い気持ちだったんです。こんなことになるなんて思ってなかったんです」というA子さんのコメントが流れ、しかし私は勧められるままに錠剤を飲み込んでしまい、食べ物とは少し違う人工物が自分ののどを通っていくその感触を味わうことになった。「どうどう? 効いてきた?」というメガネの言葉に「わかんない」と首を振ると、地味メガネは「大丈夫、そのうち効いてくるよ」というやはりヤバイ薬を思わせる発言をするのだった。そして、メガネは一瞬真面目な顔になって、「なんか最近、元気ないよね」と言った。

 ヤバイことに以前ほどの興味が持てなくなった私は、お菓子への欲求も最近では薄れていて、その何もなくなった部分に代わりの何かがあてはまる訳でもなく、ぼんやりとすることが多くなっていた。メガネはそのことを心配しているのかもしれない。安心させようと口を開くと、出てくるのは「   」という完全な空白で、何も言葉が思い浮かばなくて、私は首を振った。

 そんな風に何も起きない日々が続いて、私は次第にそれに慣れていき、巨大ウサギの存在は日常に埋没し、ただときおり、何かを失ったような空虚な感覚が、私に訪れていた。

 ある日授業が終わり、校庭を横切っていると、私の足元にゴムボールが転がってきた。灰色のそれはソフトテニス部のもので、見ると遠くの方で女子生徒がラケットを大きく振ってアピールしている。ついでにスコートもヒラヒラと振っていた。ビーチバレーやテニスなど、あきらかにスポーツに不要なレベルで性的なユニフォームを身に付けるスポーツに参加する者は、スポーツ以外の性的な目的でそのスポーツに参加しているのだという偏見を持つ私は舌打ちをし、なぜならこのあいだまでリスカまがいのことをやっていた私のような女の子は彼らとは馴染めず、その性的なコミュニティでの学生生活を密かに羨ましく思っているからなのだった。「お前らは毎日が楽しいんだろうな! いいよな!」と思いながらゴムボールを投げれば、私と性的なソフトテニス部との中間地点にポトリと落ちて、そこは拾いに行くのには少し遠い距離で、地味に嫌がらせをしたようにも見える場所だった。ちゃんと精一杯投げたのだから、私がわざわざ取りにいくというのもおかしな話だ。このまま帰っても責められるいわれはないと思いながら背を向けた。スコートがゴムボールへ向かって歩いていくのがチラリと見える。後であのスコートたちは「なにあの子感じ悪い」「ちゃんと投げられないなら始めから投げなきゃいいのにね」「迷惑だよねー」「そもそもあんな子いたっけ?」などと話すのだろうなと考えると胸がムカムカした。

 そうしたことに気を取られていたせいか、いつの間にか私の足は以前のお馴染みの帰宅ルート、つまり廃墟のような公園へ向かう道を歩いていて、途中でそれに気づいてどうしようかと迷ったが、あえて避けなければならないような具体的な理由もないと思い、私は久しぶりにその公園へと足を踏み入れたのだった。しばらく訪れることはなかったが、公園は相変わらずの廃墟感を漂わせていて、その懐かしくもあやしい雰囲気は妙に心地よく、「これはなかなか悪くない」と私は心の中でつぶやいた。トイレも清掃された様子はないし、樹木も伸び放題だった。ゴミも落ちている。この公園はこうでなければならない。そうして歩いていると、茂みの下に隠れるように、灰色で球状の物体が落ちているのを見つけて、「おいおいマジかこれ。ゴムボールが落ちているじゃないの」と私は思った。性的なソフトテニス部はこんなところにまで遠征しているらしい。「こんな場所でいったいなにやってたんだろうね。死んじゃったらいいのにね」と思いながら、私は手を伸ばす。すると灰色の物体はサッと私の手から逃れるように茂みの奥へと動いた。完全に不意打ちだった。訳がわからず、頭の中に疑問符を並べて私はしゃがみこみ、茂みの中をのぞいた。そして目が合った。あの巨大ウサギと。

「ほあー!」と叫びながら尻餅をついて、私は四つん這いの仰向けバージョンのような奇怪な動きで後ずさりし、「なぜお前がいるなぜお前がいる」とつぶやき、そうするうちに「そうかさっきの灰色の物体はこのウサギのシッポだったのか。ウサギのシッポをゴムボールと見間違えていたのか」ということに気づいたが、それがわかったところでどうなるわけでもなかった。

 ガツンと頭に衝撃を受け、どうやら私は、公園に特有の上に吹き出すタイプの水道の土台部分に頭をぶつけたようだった。周囲の地面が水溜まりのようになっていて、お尻が濡れてしまっている。この水道に邪魔をされて、私はこれ以上後ろに下がることができない。そして巨大ウサギは、ノソノソと私を追いかけてきていた。

 突然グオンというものすごい音がして、見るとスポーツカーが公園の入り口側の道路を通りすぎるところだった。ひらべったくて、オモチャっぽい車だ。私はあんなものは、「カッコいい!」とも「あら素敵!」とも思わないのだが、男のひとはああいう車にどうしようもなく惹かれるものらしい。価値観はひとそれぞれだ。それはいいのだけれど、いくらなんでもあのエンジン音はうるさすぎる。ウサギも気を取られて、車が通りすぎるのを見送っていた。音が遠ざかり、完全に聞こえなくなると、ウサギはくるりと地面に座り込んだままの私に顔を向けた。そして、またゆっくりと近づいてくるのだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ