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巨大ウサギとお菓子

 その頃の私は、タトゥーとかスプリットタンとかスナッフビデオとか、そういう日常から離れた、普通じゃないヤバイものに憧れる、でも憧れるだけで実際に何かをするわけではない、ごく普通の中学生の女の子だった。というのはつまり、周りのひとたちからすると、ある意味ヤバイ子だった。イタイとも言う。

 リスカをしようとカッターナイフを手首に当てて、イヒヒと満足げに笑いながら、「でも血が流れたらどうしよう怖いし痛そうだよう」と思い、どうしてもその刃を動かして皮膚を切り裂くことはできなくて、結局フタを締めたボールペンの先で手首を一生懸命擦って、赤い痕を残したうえでそれがはみ出るくらいのちいさな絆創膏を貼り、「どうしたの?」と心配する学校の友達に腫れあがった手首を見せびらかしては、「いや、たいしたことじゃないんだけど、ちょっとね……。本当、たいしたことじゃないから。これくらい。いつものことだし」と答えにならないようなことをほのめかすタイプの子だった。

 その私が当時一番興味を持っていたのは動物の殺害で、これこそが身の回りで簡単にできる、考えられる限り一番ヤバイことで、しかも犯罪にはならないというものだった。そう思っていた。私は無知だから、動物愛護法などというものは知らない。

 そんな私にはポケットに入れて毎日持ち歩いているものがひとつあって、それは黄色い色をしたカッターナイフだった。刃を出すときにキチキチキチと音がするタイプのもので、「この音が気持ちいいんだよね」と言いながら刃を出してみせるデモンストレーションのためには必須の道具だ。

 それを見せられた友人が「うわあ……」という顔をするのを、自分のイタイ行動に向けられたものとは考えずに、「私って今、最高にヤバイやつになってる。ぶっ飛んでる」と謎の好意的解釈によって現実をねじ曲げ、何度もしつこくデモンストレーションを繰り返していたのが当時の私で、だから、そのカッターナイフをポケットに入れて毎日持ち歩く必要があったというわけだ。

 そしてこの日、私は、自分のヤバさと向かい合う、つまり自分は全然ヤバくない普通の女の子だということを自覚するチャンスを手に入れていた。そんな場所にいた。

 そこは公園だった。学校からの帰り道にある、掃除された形跡のないトイレが設置された、明らかにヤバイ雰囲気の廃墟のような公園。そのヤバさは当然のごとく私を魅了し、エサを見つけたアリのように、何度も何度も飽きることなく足を運んでいたのだった。そして、私はその日もそこにいた。いまになってみると、よくあんなところに行って犯罪に巻き込まれなかったものだと思う。不審な人物もちょくちょく見かけていたのだ。うめき声をあげるホームレスだとか、空を見たまま動かないお爺さんだとか。不審な人物は、たいていが歳上の男のひとだった。やけに親切そうな笑顔を作る、茶髪のサラリーマンにチラリチラリと視線を送られたりしたこともある。だが熱い視線を送られただけだ。念のために、明るいうちにしか公園に近寄らなかったのが良かったのかもしれない。少なくとも犯罪の被害にあうことはなかった。

 その公園に、ソイツはいた。灰色の大きなウサギだ。毛並みがキレイで、もしかしたらどこかで飼われているペットかもしれない。というか、野生のウサギが公園で見つかるはずがない。ソイツを見た瞬間、私の脳裏には臓物を撒き散らすウサギの姿が浮かび、それは自分で想像しておいて、しかめ面になってしまうくらいのリアルで無惨な姿だった。かねてからの懸案であった動物の殺害を実行するにはちょうどいい生き物であるところの、そのウサギという獲物を見つけてしまった私の頭のなかで「いまこそ妄想を実現するときがきた」という言葉が閃き、その明朝体の文字に突き動かされるようにしてイヒヒと笑いながらポケットからカッターナイフを取りだし、そして、つぶらな目を光らせ、いつまでも口をモゴモゴさせているソイツにつきつけ、「あれ、このウサギすごくかわいい。抱き締めてモフモフしてみたい」という自分の心の中の欲求としばらくのあいだ戦うことになった。これは大変な葛藤だった。だが、結局ウサギを抱き上げることはなかった。ヤバイやつは、ウサギをモフモフしたりなんかしない。

「私に会ったのが、アンタの運のつきだね。今日がアンタの命日だ」と私は冷酷に最後の時がきたことを告げたのだけれど、相変わらずウサギは口をモゴモゴさせるばかりでその姿は最高にかわいいと言わざるを得ないもので、「これはマズイ。この子は殺せない」と思った私はなんとか自分の考えをまとめて、私は間違いなく最高にヤバイやつで、動物を殺すことなんてなんとも思ってないけれど、食事中のウサギを殺してしまうと食べていたものが溶けかけの状態で撒き散らされてしまうので、それはきちゃないから、今日は見逃すことにした、という自分の中では納得のいく説明を見つけることに成功した。自分がヤバくないやつだという結論には至らなかった。

「命拾いしたね」と言ったときも、ウサギは一心に口をモゴモゴさせているだけで、何もわかっていない様子だったのだけれど、私が背を向け歩き出すと、いままで話しかけていたのがマズかったのか、私の後をノソノソと、およそウサギとは思えないおじさんのような動きでついてきてしまった。そもそもソイツはウサギにしては大きすぎた。そしておいていくにはかわいすぎた。

 家に帰った私が、「お母さん、どうしよう。拾ってきちゃった」と声をかけると、母親は条件反射のように、「うちでは飼えないから、もとのところに返してきなさい!」と答え、それはつまり、このようなことが何度も繰り返されているという証拠であり、何を隠そう私は小動物が大好きなのだった。自覚はなかったが、ウサギを本当に殺してしまうなんてできるはずもないことだった。「ハァ、今度は何を拾ってきたのよお?」と呆れ顔の母親が、「ウ、ウサギィ?」と目を白黒させるのは面白かったが、頼りになるはずの母親が、「ウサギ……? 野生? ええ……?」と混乱しっぱなしだったので、私はやることがなくなり、途方にくれて、「この子、ウサギかなあ? ウサギってこんなに大きいかなあ? ウサギかなあ? ネコかなあ?」と特にその答えが出たところで何の解決にもならない疑問を繰り返していた。私も混乱していたのだ。ちなみに灰色の巨大ウサギは、私たち親子が混乱しているあいだもずっと口をモゴモゴさせていた。

 しばらくして、このウサギは誰かのペットが逃げ出したものに違いない、という結論に達した母親は、近所の子供たちからはCIAに匹敵するのではないかと恐れられている独自のネットワークを駆使し、瞬く間にウサギの本来の飼い主を見つけ出していた。電話で連絡をすると、隣町に住んでいるその飼い主はかなり心配していたらしく、すぐに引き取りにこちらへ向かうとのことだった。

 ウサギの飼い主ということはかわいい女の子で、なんか不思議の国のアリスっぽい衣装を着てそう、きっとその服装は青色のワンピースで袖口や襟元にフリフリのフリルがあしらわれているんだという私の斜め上の発想を微妙にくつがえし、玄関に現れたのは上品に笑う私の母親よりも歳上のおばさまだった。上品に髪をまとめていて、上品なコートを着て、わりと普通のキャリーバッグを抱えていた。これで持って帰るつもりらしい。

「うふふ、本当に心配したのよ。困った子ねえ」とウサギに声をかける姿からは、紛れもなく上流階級の人間の空気が漂い、その空気に圧倒されたわが家のCIAはカチコチに固まっていたが、その娘であるところの私も、負けず劣らずカチコチに固まっていた。上流のおばさまが私を見つめてふわりと微笑み、「あなたが見つけてくださったのね。ありがとうねえ」と言っても固まったままだったが、「これ、つまらないものだけれど」と明らかに高級そうなキラキラと光るラッピングをされたお菓子の入った箱を差し出された瞬間私は正気を取り戻し、もらったものは返さないとばかりにだき抱えた。おばさまは一瞬唖然としたが、「うちの子暴れなかった? 怪我とかない?」と私のからだの心配までしてくれて、「さすがにこんなニブそうな巨大ウサギに怪我をさせられるワケがない」という返事の代わりに黙ってうなずいた私にニッコリと笑いかけ、それからウサギをキャリーバッグに入れようとした。

 ウサギは抵抗するわけでもなく、ただジッとして口をモゴモゴさせているだけだったのだけれど、上品なおばさまの腕力では巨大なウサギを動かすことはできず、ガニ股で少しかがんで思いっきり力を込めるという、およそ上流階級からはほど遠い格好をしたにも関わらず、ウサギをキャリーバッグに入れることは叶わなかった。その苦戦する様子を眺めながら、私は頭の中で高級そうなお菓子とウサギを家まで連れてきたことを天秤にかけ、さらに自分がこのウサギを殺そうとしていたことを踏まえて、明らかに貰いすぎだという結論に達し、慌てておばさまの手伝いを始めた。このときCIAはまだ固まったままだった。

 ふたりがかりでからだを押すと、ウサギはやはり抵抗をせず、しかし協力的な態度もとらずに口をモゴモゴさせたまま、ズルズルとキャリーバッグに押し込まれていった。何かを考えている様子はなかった。「ありがとうねえ」と微笑むおばさまの左手の人指しゆびが普通のひとよりも短くて第一関節までしかないことに私は気づいていたのだけれど、それをわざわざ指摘するような、そういう種類のヤバイやつを目指しているわけではなかったので、「いえ。見つかって良かったですね」とよそ行きの中流階級スマイルをお返しした。

 何度もお礼を言われて、何度もスマイルを返し、そういう見かけ上の礼儀正しい振るまいに慣れていないせいもあって、おばさまを玄関から見送ったころには私の精神はかなり疲弊していた。そして、その状態でリビングに戻ったときに、私はあってはならない衝撃的な光景を目にしてしまった。CIAが勝手にお菓子の箱を開け、あろうことか、すでにひとつ食べていたのだった。「これ、美味しいわよ」と悪びれもせず、口の中をモシャモシャさせながら言うCIAに対し、私は「うおおおー!」という絶叫で答え、「私が貰ったんだからあああ! 勝手に食べないでえええ!」とそのままの勢いで詰め寄りテーブルをバンバン叩けば、「あんた馬鹿じゃないの。こんなにいっぱいあるんだから、ひとつくらい食べたっていいじゃないの。全部ひとりで食べるつもりじゃないんでしょ」とCIAは平然とした態度でお菓子を食べ続け、激昂した私は「ひとりで食べるつもりだよおおお!」と叫びながら号泣した。

 母親は完全に引いていたし、自分でも号泣するのはどうかしていると思ったが、とにかく私はお菓子をたくさん食べたかったのだ。そういう意味では、私はかなりヤバイ女の子だった。

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