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白い鍵盤に手を添える。
中指に、肩からのすべての重みをかけると、鍵盤はゆっくりと沈んだ。
ぽーん、と。
何の感情もない音が響く。
指の関節が、かすかに痛む。
カミコは込み上げてきたものを耐えるために目を閉じる。
やがて音は宙に溶け、かすかな震えだけがしばらく漂う。
指の痛みも音に倣うように、違和感だけを残した。
「弾かないの?」
唐突に、透明で硬質な声が問いかけた。
――〈歌姫〉だった。
この街の若き権力者の一人が、誰も来ないはずだった昼の酒場の階段を下りてくる。
夜と違って、艶やかな衣装は纏っていない。化粧もしていない。色気など微塵もない。けれど凛とした空気だけは今も同じだった。
「一応治ったと聞いたけれど?」
「どうして、きみが」
カミコは尋ねたが、〈歌姫〉は直接的な返答はしなかった。
「私が頼んでいた曲は出来たかしら?」
カミコはゆるゆると首を横に振った。
「・・・ごめん」
「あせって適当なものを納品されるよりいいわ。――それで、弾かないの?」
「・・・・・・」
「聞き方を変えましょうか。――弾きたくないの?」
「――弾きたいね」
吐息のような声で言ったそれが、カミコの紛れもない本音だった。
「弾いてくれる?」
「当分練習してないんだ。君の伴奏をするなんて、恐れ多い」
「弾いて。私が、あなたのピアノで歌いたいのよ。金をもらう興行じゃないのよ、気にしなくたっていいの」
「・・・・・・でも、」
「平均律の前奏曲第一番、ハ長調」
〈歌姫〉は簡潔に曲名を告げる。その口調は、完全に命令だった。
カミコは目を伏せ、しばらく床を見つめていた。〈歌姫〉は促すことなく、ただ静かに待っていた。
やがてカミコはピアノの前に座る。
細く息を吐き、大きく息を吸い込む。微かに震える両手を鍵盤の上に置き、ピアノに問いかけるように、一音。
合わせて〈歌姫〉が歌い出す。
雲間から降る光に似た、透明感ある繊細な声。それが、がらんとしたホール全体に、幾重にも反響する。
指が、うまく動かない。震え、乱れ、転び、間違った鍵盤を抑える。
この街で最も美しい声に沿うには、あまりにも貧相だった。
曲も半ばになったころ、カミコの指はそれ以上動かなくなった。己の出す音に、心が耐えられなかった。
〈歌姫〉は一瞬視線を寄越したが、結局最後まで一人で歌い切った。
カミコは椅子に座っていることすらできず、ピアノの足元でうずくまって泣いた。
「いっそ両腕とも落としてくれれば、あきらめもついたのに」
苦しい呼吸の間に言えば、歌姫は静かに「そう」とうなずいた。
「私、声を失ったら死ぬわ」
「・・・・・・」
「私の前の〈歌姫〉はね、あれでいて、努力の人だったわ。声が涸れるほどに練習して、それでも年を取って狙った音を正確に出せなくなっていって、日々恐怖に震えていたのよ。明日はあの歌が歌えなくなるかもしれないって」
カミコも前の〈歌姫〉のことは知っている。
ジ地区を強烈に支配した女だった。カミコは彼女の全盛期をよく知らない。知っているのは晩年の、地位に固執する醜い姿だ。彼女は他の芸者たちに嫉妬し、若手が少しでも目立とうものなら徹底的に潰した。すさまじい執念だった。
「ジ地区じゃ、あの人は確かに嫌われてたわ。今の影主があの女を殺してくれてよかったと思ってる。でもね、私は、あの人がどれだけ努力をしていたか知っている。だから、嫌いだけれど、憎んではいないの。ある種尊敬すらしているわ」
〈歌姫〉がうずくまるカミコの脇を通り過ぎた。その声音にも、足の運びにも、カミコに対する感情は一切見えない。
「あの人は死ぬ瞬間まで〈歌姫〉だった。そしてきっと、〈歌姫〉のまま殺されて幸せだった。――私、あの人みたいにしてまで〈歌姫〉の地位を守っていこうとは思えない。衰えた時、それを認めて、誰かにこの地位を譲るの。死ぬほどに屈辱的でしょうけど、死ぬのは怖いから、きっと汚くみじめに生きていくのよ。でも、ねえ、思わない?一音二音声を出せなくなったって確実に歌は歌えるけれど、死んだら、歌えるかどうかわからないのよ。歌えないなんて、――・・・私は、〈歌姫〉でありたいんじゃないの。ただ歌いたいだけ。それがたとえ称賛される歌声じゃなくたって、歌って、生きていけるならそれでいいの」
ピアノが歌った。
同時に〈歌姫〉も歌っている。
平均律、前奏曲第一番、ハ長調。
一音ずつ淡々と刻まれていく。曲はシンプルで、平坦で、――覗き込めば、己の姿が映る水鏡と似ている。それでいて、一歩踏み込めば深みに足をとられ、身動きが取れなくなる。
そんな祈りの歌は、降る不安を祓う。
強張っていた体から、やがて力が抜けていく。カミコはしばらくの間、宙を流れていく旋律を眺めていた。その様は、震える弦とよく似ていた。いつしか余韻だけになり、カミコの流した涙を一滴だけぬぐった。
「私、あなたの演奏は嫌いなの」
〈歌姫〉が立ち上がる気配があった。
「魔法だなんて騒がれているけれど、実際はひどいものよね。この街がいかに不安で覆われているか、いかに不条理に包まれているか、事実をただ突き付けてくるだけだもの。指摘されるまでもなく、みんな知っているはずなのにね。それなのにあなたの演奏をありがたがる。――でも、私は認めないわ。あれは私たちが目指す芸じゃない。私たち芸者の芸は、本来闇を祓うのよ。それをまともにやらずに、〈音楽〉だなんて笑わせる」
ああ、とカミコは特に考えもせずに相槌をうった。
衣擦れと足音を反響させながら、歌姫が去っていく。
「――ねえ、でも、あなたの作る曲は、確かに闇を祓うわ」
ぽつり、とつぶやきが落ちる。
それはしばらく宙を漂い、ドアが閉まる音によってかき消された。
参考曲
*平均律クラヴィーア曲集第一巻より「前奏曲第一番、ハ長調」
バッハ作曲。
ここではグノーがこれを引用した「アヴェ・マリア」が歌われている。
小説内の曲解釈は飽くまで個人的なものかつ物語上の演出あり、曲そのものを批判・否定するものではありません。
ざっくり音楽用語解説
平均律・・・一オクターヴを等しく分けた音律。一般的には12等分した十二平均律が使われている。
クラヴィーア・・・チェンバロなどの鍵盤のある弦楽器の総称。オルガンが含まれる場合も。