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何のことはない、モズの診療所にはあちこちから音楽が聞こえて来た。
ここはジ地区、酒と色と芸が支配する場所。そして芸を売る者らが住まう〈鳥籠〉の一つが、診療所に近くにあった。
〈鳥籠〉に属する者たちは、もちろんのこと日々芸を磨いている。その練習の様子は、騒音と言っていい程度に診療所内に響いていた。
昼下がり、ヴァイオリンの音が潜む闇を追い落とすかのように鳴る。
底抜けに明るい、金管楽器を思わせる演奏だ。短調にもかかわらず。
「ありゃ真面目にやる気あんのか?」
開け放った窓辺で、白道が呆れている。
――この曲名は「恋は野の鳥」。もとはオペラの中で、恋多き女が魅力たっぷりに歌い上げるアリアだ。この演奏では能天気にしか聞こえない。カミコが半身を起こしたベッドの傍らに座る夢幻は意味が分からなかったようで首をかしげている。
「白道、お手本に歌ってあげなよ」
カミコが言うと、白道は顔を顰めた。
曲は明るい部分へと入ったが、やはり奏でるヴァイオリンには色気がなく、カミコは苦笑してしまう。
「こういうのは、歌姫様に似合いだろ」
「君にも似合っていると思うけど」
白道は男性にしては高い音域を得意とし、テノールからアルト、ファルセットに頼ればソプラノまで歌いこなす。もとの曲はメゾソプラノ、今ヴァイオリンが奏でている調はなぜか少し低くなっているので、白道にちょうどいい。
白道は少し姿勢を正すと、曲が最初のモチーフへと戻る部分から歌い始めた。
色気は少々足りないが、ミステリアスな雰囲気と力強さが、充分な魅力となっている。
ヴァイオリニストは驚いたようで、演奏は半端なところで終わった。白道もすぐに歌うのをやめる。
外からはヴァイオリニストを笑う声が聞こえて来た。
「おーい、まともな演奏してやっから、ちょっと歌ってくれよ!」
リクエストが来た。
白道は意外にも素直に、「いいぞ」と窓の外へ返す。
白道は外の芸者といくらか言葉を交わした。
やがて窓の外から流れ込んできたヴァイオリンのピッツィカートによる旋律に、カミコは思わず笑う。夢幻がカミコを伺ったが、唇に指をあてて聞くように促す。
これもまたオペラの中で歌われるアリアだった。叙唱部分を省いているが、オペラが断片的な曲としてしか存在しないこの街ではよくあることだ。
本来なら透き通るような高音で紡がれるメロディーだが、白道は一オクターヴ下、テノールからアルトの音域で歌っている。
それでも、無駄な音のない魅力的な声を持つ白道が歌えば満足が得られる曲となった。
伸びやかな声が、柔らかく明るい旋律を歌う。音は二本のヴァイオリンにクラリネットが加わっていた。即興で、それぞれの役回りを決めているようだ。演奏技術からも、演者たちのレベルの高さが伺える。
暖かい日の空気のような余韻を残して曲が終わりを迎えた。
窓の外からは拍手や歓声が上がる。
「なんで一オクターヴ上で歌わなかったの?」
「はあ?なんでそんな出しにくい音域で歌うんだよ」
「もとの曲はそうだからさ。白道なら歌えただろう?それに、みんなそれを期待してたと思うんだけど」
「ソプラノは女に頼め」
「これ、ソプラノじゃないよ。カストラート」
白道が眉間にしわを寄せた。
「カストラートって?」
夢幻が首をかしげたので、カミコは説明した。
カストラートは、少年期に去勢し変声期を迎えなかった男性歌手を指す。
彼らは男性にはない高音域をものにしながら、女性歌手や変声期前の少年が持ちえない声量で、安定感ある力強い歌声であったと伝説が残る。
わざわざ去勢されたわけではないが、何かが原因で変声しなかった男の歌い手がこの街にも存在するし、変声しても高音域を得意とするカウンターテナーやソプラニスタもいる。
彼らの紡ぎ出す高音域は、女声とはまた違った味わいがある。カウンターテナーばかり好む客もいるくらいだ。
そんな高音域に限ったことではないが、白道の声は美しい。〈籠の鳥〉として生きていれば、もしかすると歌姫とその地位を争ったかもしれない。
伴奏を務めた外の演者らは耳ざとく白道の魅力に気づいている。
今も窓の外から聞こえてくるリクエストは、カストラートや女性歌手のためのソプラノ、アルトの曲ばかりである。
「もう終わりだ、勝手に練習してろ!」
白道が怒鳴ると、笑い声の後に雑多な音が響きはじめ、混じり合う。
「白道は、女の人みたいな声の方が綺麗なの?」
夢幻が問いかけると、白道は小鼻にしわを寄せた。答える気のない白道に代わってカミコが「いいや」と言う。
「高音域も綺麗、って言う方が正しいね。白道はテノールも綺麗だよ。ただ、男で白道ほど綺麗にアルトの音域を歌える歌い手は少ないから、カストラートの曲を望む気持ちはよくわかるな」
彼は二つの音域を無理なく歌う。ファルセットを入れて三オクターヴあまり。音を出すだけなら四オクターヴに迫るかもしれない。
歌姫が四オクターヴを誇るので、潜在能力だけで言えば、白道はトップクラスの歌い手たちと肩を並べるわけだ。
「カストラートは、なにかすごいの?」
「すごい、かどうかは置いといて、カストラート用の曲はやっぱり男性が歌った方が映えるものが多いんだ。歌詞の内容も影響してるのかな。男性じゃないと表現できないものがある。でも歌える人が少ない。だからみんな、白道のアルトの音域をありがたがるんだ」
「ふうん」
夢幻は素直にうなずくが、理解している様子はない。
白道は変声期を経ているが、まだ体は完成していない。この先、さらなる声量と安定感を得るだろう。
その成長まで含めて、魅力的なのだ。
「ねえ、白道」
「ああ?」
「何か歌ってよ。別に、カストラートじゃなくたっていい、歌いやすいテノールでいいんだよ」
「・・・・・・」
白道は、きっと芸者としてもやっていける。それは才能だけの話ではなく、芸が好きかどうかという意味でもある。
彼は少し不機嫌そうにしていたが、やがて背筋を伸ばした。
あまり肩肘張らず、柔らかい声でメロディーを紡いでいく。少し愁いを帯び、語り掛けるような歌い方だ。
歌詞はなく、Ahだけ。
ヴォカリーズ、母音唱法などと呼ばれる、名の通り母音のみで成す歌唱方法である。一般的には発声練習に用いられるが、白道が歌うのは作曲家によってヴォカリーズで歌うことを指定された歌曲だ。
その名も、ヴォカリーズ、嬰ハ短調。
この街でも好まれ、ピアノ伴奏を伴う歌、ピアノ伴奏を伴うヴァイオリン、ピアノ独奏など、様々な形で上演されている。
オリジナルはE5から始まるが、G4から始めている。もっとも、白道は歌いやすい場所から入っているだけで、調など意識していない。
鼻歌よりも多少力を入れた程度なので、外の芸者らの耳にも届かないようだ。追随して伴奏に参加する者もいなかった。
それでも、他を雑音として意識の外に押しやれるほどに、カミコを惹きつけた。
時間にすれば二分半ほどか。カミコの内側に名残惜しさを残して白道は歌い終えた。
夢幻が、詰めていた息をふっと吐いた。しかしまだ肩から力が抜けておらず、目を見開いて白道を凝視している。
「すごい。白道、きれい」
なんとも月並みな言葉だが、彼女が感じ、表せる精一杯がこれだろう。
もっとも、カミコだって複雑なことは言えない。その美しさ、その魅力を言葉にしてしまうのはあまりにも無粋だ。それを称賛するものは、沈黙がもっともふさわしいのかもしれない。
「ああ、いいな」
カミコは余韻をかみしめる。
「やっぱりおまえは、〈籠の鳥〉だったらよかったのに」
「そんなありがたがるようなもんじゃねぇだろ」
「なんて言えばおまえが舞台に立ってくれるか、僕は何度となく考えたんだよ」
「くっだらねぇ」
白道はそう言い捨てて、窓の外へと視線を移した。
外では美しい音が入り混じり、雑多な「何か」になっている。カミコは完成した音楽も好きだが、こういう空気も好きだった。神経質な白道も、ここまで入り乱れれば気にならないらしく、聞くともなしに聞いている。
何を子守歌にしたのか、夢幻がうつらうつらしはじめた。カミコがやさしく頭を撫でていると、やがてベッドの端に頭を預けて眠ってしまった。
外から聞こえる練習の音が、少し落ち着き始めたころ、白道が視線を窓の外にやったまま、口を開いた。
「・・・・・・手、どうなんだ」
問いを受けて、カミコは改めて自分の手を持ち上げて見た。
包帯の塊だ。
目覚めた当初よりましだが、とてもピアニストの手とは言えないありさまだった。
「さあ」
「それでも、弾きたいのか」
「そうだね。こうやって見張りを付けられてなきゃ、こんなものむしり取って、弾きに行っただろうね」
「なんで」
「白道。前にもこんな問答しなかったか?」
「・・・したな」
以前、白道はカミコに尋ねたのだ。手がダメになるとわかっていてなぜ弾こうとするのかと。
簡単な話だった。弾くことが、カミコにとっての薬なのだ。
頭痛に悩まされる白道が、不味い薬を手放さないのと変わらない。
弾いている間に得られる安寧を、ただただ欲している。
「白道」
「なんだよ」
「歌ってよ。今は、お前の歌しか、縋れるものがない」
「夜が来たら、酒場に行けばいいだろ」
「ああ、でも、夜まで待てないな。夕闇に耐えられない」
ねぇ、とほほ笑み、首をかしげてカミコは催促する。
白道はしばらく黙っていたが、やがてカミコに問うた。
「何がいい」
「そうだね、なんでもいいかな」
カミコの回答に、白道は困ったように眉を下げた。
すっと、白道の背筋が伸びて、静かな呼吸音の後に歌が始まる。
歌詞はない、声のみで綴られる曲。ヴォカリーズ。しかし先ほどの曲とは違う。この街の芸者ならば誰もが演じることができる無名の曲だ。時に外から来る人間が「神の楽舞」と称することもある。踊り手ならば踊り、歌い手ならば歌い、奏者ならば楽器を奏でる。
張り詰めた糸のようであり、鈴の音のようであり、波紋のようでもあり、雲間から降る細い光のようであり、囁く闇のようでもある。
窓から差し込む淡い光は、夕暮れの赤だった。灰色の雲の向こうには、きっと鮮やかな夕日の色があるのだろうが、ここでは暗くて冴えない色である。白道の白い髪はくすんだ赤になっている。
カミコは疲労感を覚えて体を横たえた。耳元からは、夢幻の寝息が聞こえる。
夕闇に、似合いの曲だった。
その旋律は、夜への不安に押しつぶされそうになる、街の人間の鼓動のようでもある。
カミコは目を閉じた。ゆっくりと、涙が頬を滑り落ちていく。
感覚のない指先が痛んだような気がした。
参考曲
*オペラ「カルメン」より[恋は野の鳥]
ビゼー作曲。主人公カルメンによるアリア。「ハバネラ」の名で広く知られる。
*オペラ「セルセ」の第一幕より[オンブラ・マイ・フ]
ヘンデル作曲。ペルシャ王セルセによるアリア。ヘ長調。カストラート。
「なんてすばらしい木陰だ」と歌っている。
*[ヴォカリーズ]
ラフマニノフ作曲。Ahだけで歌う、歌詞がない歌曲。
小説内の曲解釈は飽くまで個人的なものかつ物語上の演出あり、曲そのものを批判・否定するものではありません。
ざっくり音楽用語解説
ピッツィカート・・・ヴァイオリン等の弦を弓で弾いて音を出す楽器において、弦を指ではじいて音をだす演奏法のこと。
カストラート・・・少年期に去勢することでわざと変声期を迎えさせなかった、男性歌手。
ヴォカリーズ・・・母音唱法。母音のみで歌う歌唱法のこと。