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野良犬のようなうめき声でカミコは目を覚ました。その声が自分の喉から出ていると知るのはもう数秒後のことである。
吐き気に似たものが襲ってくるが、実際に吐くには至らない。気分の悪さが胸からのどのあたりに溜まっていて、それを逃がそうと体が叫んでいる。
「うるせぇよ、天使。ちったぁ歯ぁ食いしばれ」
投げつけられた言葉の意味も、当分の間理解できなかた。
「在庫がありゃあお空も飛べるお薬入れてやんのに・・・ろくでもねぇ職だよね、まったく」
ふいに口に液体が流し込まれ、カミコはむせた。覚えのある、不快な味だ。
そんなことを何度も繰り返した。
狂いそうなほど頭に強く響く、闇のささやき。
胸をかきむしりたくなる不快感。
ぞんざいなモズの態度。
舌がしびれるほど不味い水薬。
嫌と言うほど、夢と現を繰り返す。
そんな何度目かの現へと虚ろな目を開けたカミコが最初に認識したのは、視覚からの情報ではなく、聴覚からのそれだった。
歌だった。
かつて、歌と踊りは神への捧げものだった。
そうであったころの名残が、この街に巣食う闇を、確かに祓う。
カミコは体が欲するままに曲に浸り、意識を虚空へ漂わせる。
いつしか曲が終わりを迎え、カミコは息苦しさを覚えて、もがきながら跳ね起きた。
ぎしりとベッドが悲鳴を上げる。
室内に、音はそれだけだった。
強いて他に挙げればカミコ自身の呼吸音と鼓動の音は響いていたが、そのどちらもがカミコにとってどうでもよい音だった。
空気を掴んだと思った手は、実のところ何も掴めていなかった。手は握れもしないほど、包帯で厳重に包装されていた。
しばらくの間茫然としていたが、そのうち重力に負けて、ベッドに体を沈ませた。ベッドは文句でも言うかのようにぎりぎりと鳴った。
消えていたと思っていた闇が忍び寄って来て耳の中で囁く。――外は今日も灰色の空だ。翳りの街はその名にふさわしく影の中にいる。何一つ、変わらない。
「・・・わすれられたうたをさがして、さまようひとは、ゆめよりいずる、やみにおびえて、とぎれぎれのおとと、ことばで、かぜがかたる、はじまりのうしなわれた、ふるいでんせつ」
枯れた喉が、拙い旋律を紡ぐ。
「くちずさむものの、たえた、ものがたり、ひがしよりきたりて、よるをよぶ」
終いにはほとんど音にならず、吐息だけだった。
それでも歌は、確かに微かに闇を祓った。
歌い終えたカミコは手を持ち上げてみた。手というよりも、包帯の塊だった。痺れているのか指先の感覚が一切ない。腕全体も重くだるい。
「音楽の天使にしちゃ、くだらん歌を歌う」
モズの声が聞こえて来たので、カミコは手を下ろして首を巡らせ、モズの姿を探した。
冴えない金髪の男は、冴えない表情で冴えない白衣を引っ掛け、とにかく冴えない様子で、少し離れた場所にある椅子に座って本を読んでいた。
「その歌がどこのもんか知ってんのかい、天使」
「・・・さあ」
「〈楽園〉の歌さ。〈楽園〉のどっかの阿呆がね、見下ろした街の退廃を愁いて詠ったんさ。知りもしねぇのに、何を言ってんのかねぇ?――ああでも、おまえさんは天使だもんな。最初っから地を這う私らみたいなヒトの気持ちはわかんねぇか。わかんねぇよな。わかるっつったら、その両手つぶしてやるよ。指一本一本丁寧に、爪剥がして骨砕いてね」
モズは喋りながらも目は文字を追っているようで、ページがめくられる。
「・・・モズ」
「なんだい、天使」
「僕は、この歌を、ここへ来た時から覚えていたんだ」
「そりゃあ珍しい」
落ちた天使は皆、すべての記憶を失っている。それと引き換えに得たとされるのが、〈天使の奇跡〉と呼ばれる力だ。
悠江はかつて傷を癒す〈奇跡〉を使った。
白道は念動と、精神感応の〈奇跡〉使うことができる。
なぜかカミコと夢幻にはその力がない。
「――この歌を覚えていたから、僕は、芸者になろうと思った。覚えていたから、僕は、カミコになった」
「そうかい」
「これが、僕にとっての〈奇跡〉だった」
「ああ、そうなんだろうさ」
モズの相槌はぞんざいだった。
カミコは首を巡らせてもう一度自分の手を見た。やはり指先の感覚はなかった。すでにモズによって潰されているのかもしれない、とも思ったが、心は動かなかった。
「・・・傍で、歌ってくれてたのは、誰?」
「さあな」
室内は闇のざわめきと、モズが本のふちを撫でる音だけになった。
カミコは目を閉じて、いつの間にか目に溜まった涙をこめかみへと追いやった。
「なにか、聞きたいな」
「なにを」
「うた」
「・・・・・・私、音痴だよぉ?」
「うん、しってる」
「ひっでぇ天使だな。・・・あとで、だれか呼んでやんよ。それまでお隣さんが歌ってんのを聞いてろ」
「ああ・・・ひどいね」
「ほめ言葉だ、あんがとさん」
ざわり、ざわりと、闇が五感を撫でていく。