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窓辺で白道が歌っている。
時折彼が〈籠の鳥〉であれば――すなわち、歌い手の一人であればとカミコは思う。歌姫に対して程情熱的にはなれないが、彼のための曲を書きたい、と思うのだ。
現状、白道は歌わなくても食っていけるため、わざわざ煩わしい場に出ようとしない。そのことがカミコにとってもどかしい瞬間がある。
「白道」
声をかけると振り返る。
「ちょっと、付き合ってくれないか」
「なんだよ」
「今度納入する曲を、歌ってみて欲しいんだ」
「ああ・・・まあ、いいけど」
二人でピアノの部屋に移動する。
カミコはいつものようにピアノの前に座り、手書きの楽譜を白道に渡す。白道はピアノに肘をつき、楽譜を読み始めた。
楽譜にはメロディーラインしか記されていない。それほど楽譜に馴染みのない白道でも簡単に音を追える。
「これ、誰にやる曲?」
「歌姫様だよ」
「こんなんを?」
白道は楽譜から顔を上げて、信じられないと言わんばかりにカミコを見る。
カミコは苦笑した。
「メロディックで耳に残りやすくて誰にでも口ずさめる曲を、とのご依頼なんだ。狙って名曲作れるほど僕は天才じゃないのに、無茶を言うよね」
「へえ、音楽の天使にしちゃ珍しく、再考に再考を重ねてるわけか」
「別に珍しいわけじゃない」
「曲は天から降ってくるんじゃないのか?」
「それじゃ、モーツァルトだ。そんなわけないじゃないか。僕は僕でしかない」
たとえば空を見上げながら歩いていたら完成した曲もある。その散歩は数時間にも及んでいて、終わりごろにはすっかり暗くなって仕事に遅れた。
たとえば老いたピアノに触れた瞬間に数分に及ぶ曲が出来てしまったこともある。頭を音が駆け巡り、頭痛とめまいが同時に起こりそうなほどで、すべて演奏して形にするまで気が狂いそうだった。
たとえば頭の中に溜め込んでいた断片的なメロディーを組み合わせて曲にしたこともある。幾通りか、数えられないほどの組み合わせ候補から決める作業は睡眠を妨げ、結局三日間眠らなかった。
カミコに決まった作曲法はない。
白道が歌いだす。それほど力は込められておらず、感情も入らない。柔らかい声がただ音を追う。
同じモチーフを、少しずつ形を変えながら多用する曲である。これで耳に残りやすいと言う注文は満たせているだろう。隣り合う音符はほとんどが二度から三度差しかなく、リズムもいたって平易だ。
「・・・つまんねぇ曲」
白道は眉間にしわを寄せて言う。
「だめか」
「俺は好きじゃない」
「たとえば、こうするのは?」
鍵盤の上で、指を滑らせる。
少しリズムを付けて、音を足す。
「ふうん・・・」
白道の反応は芳しくない。
「だめか。一から練り直すよ」
「・・・まあ、俺が気に入らないってだけだけど」
白道が楽譜をひらりと宙に舞わせる。
「カミコが好きなもん沢山作って、そん中から歌姫様のご要望に合うもん出したらいいんじゃねぇの?」
「検討してみる」
「もういいか?なんか、頭痛くなってきた」
「うん、ありがと」
白道の感性は確かだ。白道が認めないものを、歌姫が認めるわけがない。
頭の中にあった楽譜を、解散させた。
鍵盤に手を添える。
譜面台には何も置かない。
小さく息を吐く。
頭の中で音が生まれるのを聞き、同じ音を鍵盤の上から探し当てる。
静かなドアの開閉の音が一瞬混じった。
胃の腑がひっくり返る。そんな表現を思い出しながら、カミコは先ほど食べた少ない食事をすべて吐き出していた。
締め付けるような胃の痛みと、焦げるような食道の熱、腐臭にも似た嫌な臭いと酸味が口いっぱいに広がり、それがまた嘔吐感を呼ぶ。
酔っ払いか、と自嘲する。酒など一滴も飲んでいないというのに。
「おい、天使。大丈夫か」
演奏前に消えたカミコを不審に思ったのか、ナナキがやって来た。
店の裏――生ごみが詰まったバケツ脇で息も絶え絶えになっているカミコを見たナナキの声は少々うろたえていた。
病は怖い。ここではろくに薬など手に入らない。うつされてはいけないからと、だれも看病しない。
「どうした、飯の中にまずいもんでもあったか」
「あんたの飯はいつもまずい」
腐り臭いバケツにもたれながらカミコが力のない声で返すと、ナナキは少し安心したようだった。
「そうか、そりゃ悪かった」
「水をくれないか」
「おう。それ飲んだらもう帰れ」
「ああ、ごめん。代わりの演者も、そっちで手配して」
「わかったわかった、心配するな。連絡なしにすっぽかされることだってあるんだ。おまえが気を使わんでも、こっちは慣れてる」
カミコは酸味のある唾を吐きだし、肩で呼吸する。
全身が重くだるい。
間もなくやって来たのはナナキではなく、ナナキの店で時に給仕として働く男だった。
「音楽の天使が病気かい」
「さあね」
ああこわい、と言う給仕は実に楽しそうだ。普段から不愉快な男だと思っていたが、どうやら人の不幸が楽しくて仕方のない人種らしい。なるほど、見ているだけで不愉快になるはずだ。
カミコは水の入ったグラスを受け取るが、その瞬間に指に痛みが走り、受け取り損ねた。グラスが地面に落ち、水とガラスが飛び散る。
「・・・悪い」
「いいよ。代わり持って来るし」
その後もらった水を飲み干し、繰り返す嘔吐感をやり過ごしながらしばらくその場で休んでいた。
不快だと思っていた生ごみや嘔吐物の臭いも、混じり合って今は何もわからない。夜の冷たい匂いだけが認識できる。
ざわざわと闇がにじり寄っては囁き去っていく。
この感覚は、ピアノを弾くことを覚えてから久しい。不快で苦しく狂おしく、少しだけ懐かしかった。
店の裏口が開いたのは随分経った頃だった。
「カミコ」
彼の名を呼びながら、白道が現れた。真っ白な髪が、かすかにだが闇を払う。
「大丈夫か」
「・・・さあ、どうかな」
「とりあえず、立てるか?」
「手を貸してくれ」
白道は顔を顰めながらも、手を差し出した。――潔癖な白道が、吐瀉物で汚れたカミコに触りたがらないのは理解できる。
「なんか、へんなもんでも食った?」
「さあ。ナナキの料理はまずかったけど」
「いつもだろ」
「そうだな」
「じゃ、なんでだよ」
「・・・少し、闇の問いかけが酷くて」
「・・・・・・」
「だから、なんてことないんだ」
白道の肩に体重を預ける。念動力の補助のおかげか、細さのわりにしっかりとカミコの身体を支えた。
「このままモズんところ連れてくからな」
「・・・・・・わかった」
あの医者の真似事を出来る男ならば、胸のあたりに溜まる不快感を取り除く方法を知っているかもしれない。
引きずられるように、カミコは夜の街を歩いた。
寝ていたモズを白道が叩き起こし、カミコは一通り診療された。
「まあ、特に病気っぽい症状は出てない」
というのがモズの結論だ。
「おまえさんの症状に合致する病気、薬の類は認識してない。お前さんが言う通り、お隣さんの問いかけが酷いせいだろ。まあ、寝ちまえよ」
「寝られる気がしない」
「明かりはつけておいてやるよ?」
「違う。ベッドがうるさい」
モズの診療用ベッドは古くて、身じろぐたびにぎしぎしと軋むのだ。
白道が「違いねぇ」と笑い、モズはやれやれと天を仰いだ。
「じゃあ帰るかい?」
「・・・・・・いや、ここでいい」
「一晩我慢しな。ちょうどいいだろ、ベッドが煩けりゃ、お隣さんの声もそう気にならんだろう」
「そうだね」
「あはは、ちっともそう思ってねぇのに素敵なお返事ありがとよ。――白くん、きみはもう帰んな」
「ああ、じゃあな」
白道はあっさりと帰って行った。
胃液で焼けた喉を、唾が撫でて胃へと落ちる。目を閉じればそこにあるのは闇で、憔悴したカミコをさらに苛む。
「大丈夫かい」
「大丈夫じゃない」
「・・・思うように、ピアノが弾けんのかい」
「・・・・・・」
「それで、闇の声を散らせないんだ?――へえ、なるほどねぇ。そういうことかい。そりゃあ確かに、一週間も弾かずにいらんないね」
苦痛をうまく逃がせず、カミコは呻いた。
「耐えな。私らはそれに耐えてる。歯ぁ食いしばって、肉に爪立てて、一日をこなすんさ。耐えらんないなら、死ぬしかねぇよ」
「・・・・・・」
「殺してくれと、死なせてくれとは言わんか。まあ、それだけでも立派さ。眠れる薬を出してやる。その間に、その手をどうにかしとく。一週間、ピアノに触らせんよ。夢ん中で、その迷いとケリつけて、耐える覚悟しときな」
返事をするより先に、カミコは顎を掴まれて液体を口の中に流し込まれた。むせてしまうが、モズは慣れた様子でカミコを押さえつけて液体を嚥下させる。
「おやすみ、音楽の天使。夢ん中で、いい音楽を」
カミコの意識は苦痛の中に沈んでいった。