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「お前さんの場合、写譜由来の腱鞘炎もあるからねぇ。テーピングして、支えると楽になるけど、ピアノ弾く時までそれはどうしようもねぇわ。・・・うん、やっぱり休め。とりあえず一週間。大曲作ってて弾く暇ないとか言って。少々舞台に出んでも、ファンが食わしてくれるさぁ」
ジ地区の診療所。向かいに座るモズが、一人で長らく喋っていた。カミコは応える気力がなくて、聞き流している。
「一応テーピングする?ああ、でも帰りに見られちゃ大騒ぎになんだろね。それでも私はいいけどさ。後から家まで行ったげよっかぁ?」
「いや、べつに」
たとえ短期間でも、ピアノを弾かないという選択肢は恐ろしい。恐ろしすぎて、目を背けている。それが今の状況だ。
痛みを緩和させる治療法も、演奏のパフォーマンスが落ちるというから拒否している。
モズはこのジ地区から庇護を受ける存在だ。彼からすれば、カミコを治療できないでいる今の状況こそ恐ろしいだろう。それくらいは、カミコにもわかるが、だからと言ってモズの状況を鑑みて行動できるほどの余裕はない。
「あのさぁ、せめてなんか治療しよ?こうして筋をもとの位置に戻してもね、安静にしないと炎症は治んないの。お前さん、大勢ファンを抱える音楽の天使だろ?このままじゃ、数年持たねぇよ?演奏どころか、写譜の仕事も満足に出来ねぇよ?」
「・・・そうだね」
「おっし、わかった。今度影鳥呼んで押さえつけて患部に薬入れてやんよ」
「影鳥が協力するとも思えないけど」
「悠江と白くんでもいいや。白くんって、役に立ちそうだよね、念動とか」
「あー、あれは、役に立つだろうね」
白道は成長しきらない細い体だが、念動力の補助があるから馬鹿力だ。
悠江に怪我させようものなら影鳥に殴られそうなので、抵抗すらできない。――現役の影主は、こぶし一つで「うっかり」人を殺せるのだ。
「ね、カミコ。適当なとこで、覚悟決めちゃいな。二、三年のうちに弾けなくなって狂い死にすんのと、一週間ほど耐えるのと。どっちがいいよ?」
「・・・そういう問題じゃ、ないんだよね」
「ふうん、私にゃ音楽家の気持ちなんざわかんねぇけど。――さっさと決断せんのなら、組合長と歌姫には話すかんね」
「・・・・・・」
カミコは頭を抱えた。
頭も、体も、重くて仕方がない。
「・・・モズ」
「なんだい」
「ピアノを弾きたくなくなる薬とか、ないのかな」
「ねぇな」
「それほど弾きたいわけじゃないんだ。ただ、弾かなくちゃいけないだけ。弾いている間だけ、この街の澱みから解放される。それだけのことなんだ」
「そうか」
モズは立ち上がり、カミコの肩をたたいて彼の背後へと歩いていく。振り返って様子を見ると、壁際に置かれたベッドに寝転がるところだった。粗末なつくりのベッドはぎしりと鳴ってモズを受け止める。
「私の師匠だったじいさんね、狂い死にだったよ」
モズが天井を見ながら語った。
「強い人だと思ってたのにな。呪術師なんて普通じゃねぇもんだったから、もしかして闇の声が聞こえないのかと思ってたら、なんてことねぇわ、ただ我慢してただけだったんだろな」
呪術師。
それがどんな人物であったか、カミコはよく知らなかった。影鳥がモズに対して嫌味ったらしく、「師匠は優秀だったのにな」とこぼすことがあるが、その程度だ。
「誰かに殺されるんでなけりゃ、闇に食い殺される。ここではそういうもんさ。闇から逃れる手段がピアノだと言うなら、私から言うこたぁ何もない。――でもね」
モズは天井を見つめたままだ。
「でもね。他のほとんどのやつらは、変な薬にも溺れず、日々向き合ってんのよ。このクソな場所で、どーにか生き延びてんの。うちの師匠だって、何十年も生きて、そんで死んだ」
モズがゆっくりと首を動かし、カミコを見た。
「私はね、何でもない人間が生きてられるのは、芸者たちがいるからだって思ってる。楽と踊りは、かつては神様に捧げられたもんだよ。今では片鱗しか残ってないけど、けれど確かに、それらがひと時闇を祓う。だから、私らは正気を保ってる」
一瞬だけ目が合った。
カミコはすぐに目を逸らし、その隙にモズは瞼を下していた。
「徹夜だったんさ。私は寝るから、適当なときに帰んなよ」
逃げるように、モズの診療所を出た。
今日も空は灰色で、不安が降る。不安は積もりに積もって闇となり、問いかけることを覚える。
人々の耳に入り込み、まるでそれが甘露であるかのように、囁くのだ。