3
指に違和感を覚え始めたのは、思い返せば何年も前からだった。
時折、ひらめく稲妻のようにぴりりと意志以外の感覚が走る。それが、いつしか鋭い痛みになり、やがては日常的になった。日常的に痛み続ける分、痛みの感覚は鈍化した。
集中することで痛みを振り払う。決して演奏の質を落とすことはない。己の確かな耳が落ちていないと判断したし、同じくらい耳が確かな歌姫も「下手になった」とは言わなかった。音楽にはとことん厳しい評価をする歌姫だから、気を使っていることなどありえない。
いつまで続くだろうか。
麻痺寸前まで擦り切れた思考に最後に残っているのは、そんな思いだ。
体が己の支配を離れたら、――思うとおりに弾くことができなくなったら。
(きっと、狂う。それから、――どうなるだろう)
カミコはピアノの鍵盤から手を下ろした。
部屋はすっかり暗くなっている。北側にあるこの部屋は暗くなるのも早い。
悲鳴を聞いたのはその時だった。
夢幻の悲鳴だ。感情のほとんど無いあの〈人形〉が悲鳴を上げる事態に、カミコは驚く。――悲鳴に続けて、今度は怒鳴り声。これは悠江だ。彼女が声を荒げるのは珍しくないが、その険悪な雰囲気が気になった。
ピアノの部屋を出て、居間へ向かう。
開け放たれたドアから入ってみれば、悲鳴と怒鳴り声の意味はよく理解できた。
ソファには、血まみれの白道が寝かされている。ぐったりとして、動かない。表情は動かさなかったが、内心で「これは死ぬかもしれない」と恐れた。
「てめぇだけは、ほんっとに意味がわかんねぇ!殺す気か!」
悠江が裏返った声で怒鳴りつける。しかし返す影鳥は面倒くさそうだ。反省などカケラも見当たらない。――つまり白道を死にかけの身体にしたのは影鳥ということだ。
「生きてる」
「そうだな、じゃあモズ呼んで来い。ほっといたら死ぬから」
彼らの言い争いは聞こえていたが、カミコはとことん無視した。夢幻はいちいち怯えるが、カミコは幼少期から聞き慣れている。こんなものかわいいほうだ。
不思議なことに、影鳥は悠江に暴力を振るわない。悠江がどんなに影鳥を貶して暴力を振るっても。
彼らの喧嘩の結果はわかりきっているので、目下の問題は血まみれの白道だ。
台所から水と布きれを持ってきて、白道の乾きかけた血を丁寧にふき取る。裂いた布を傷に押し当て、上から包帯を巻く。
翳り街において喧嘩は珍しくなく、この程度の怪我も珍しくない。あっさりと死んでいく人の姿さえも。
「白道、聞こえる?」
「・・・・・・きこえる」
返答がある。これなら死なないだろう。出血は派手だったようだが、すでに止まっている。血をふき取った今、むしろ内出血による腫れが気になる。
「とりあえず適当に処置してるから。あとはモズにやってもらって」
「・・・手、貸して」
「手?」
「当ててるだけでいい」
白道が求めるものに気づいて、カミコは苦笑する。
「僕に癒しの奇跡なんてないよ」
それどころか、奇跡なんて何一つ使えない。
背後の喧嘩はひと段落ついていた。影鳥がモズを呼びに出て行って、悠江が手近なものを投げて八つ当たりしている。
「――悠江」
彼女の八つ当たりを止める意味もこめて、その名を呼んだ。
「なんだ」
悠江は不機嫌に振り向いた。カミコは冷静なまま返す。
「痛みを和らげるくらい、できるんじゃないの?」
「・・・出来ないねぇ」
皮肉げな笑みが返ってきた。
悠江はかつて、奇跡を使えた。――彼女も落ちた天使なのだ。
しかし年齢を重ねていくうちに力を失い、今ではヒトと変わりない存在だと言う。悠江はそれを気にしている。
悠江は滑稽なほどに影鳥を追う。天使の力があれば、影鳥は振り向く。そして悠江を気にかける。そう考えているのだ。そんなことしなくたって、悠江は影鳥から特別扱いされているのに。
悠江がソファの横に膝を立てて座り、白道の頬へ手を伸ばした。
「だけど手当て、って言うもんね。気休めくらいにはなるかも」
――悠江にはなんらかの力が残っているとカミコは思っている。
他人に触れられることを極度に嫌がる白道なのだが、悠江と夢幻のことだけは嫌がらない。この二人に触れても、感情を読み取れないからだ。特に悠江のことは、「霞がかかって見えない」と言う。
この推論を、悠江にわざわざ知らせるつもりはない。本当に力が残っていたとしても、役に立たないのだ。慰めにもならない。
目を閉じた白道の顔に、安堵が浮かぶ。眠ったのだろうか。
しばらくすると、モズがやってきた。
一応医者の真似事を出来る男だ。彼に任せておけばどうにかなる。
カミコは居間を後にした。
(これは、チャンスなのかもしれない)
無性に鍵盤に触れたくなった。
音を全身に浴びたい。感情の嵐に浸かりたい。――その傍らに、狂気が住んでいることはとうの昔に承知している。
部屋に明かりを入れぬまま、カミコはピアノに手を置いた。
痛みすら、この瞬間は愛おしい。
――低く重厚な七和音が闇を揺らす。
幸運なことに、今日は仕事の無い日だったのだ。
普段は日が高くなる頃に起き出し、適当に食べ物を胃に入れて、ピアノを弾く。暗くなったらジ地区へ行き、酒場で演奏する。作曲の注文も、このときに受ける。帰ったら注文されている曲を書く。東の空が明るくなるころに眠る。その繰り返した。
この日に仕事が無かったのは偶然だが、大変な幸運だ。
その幸運を、無駄にしたくない。大げさすぎると自分でさえ思っていたが、本気だった。
冷静を保ったまま、カミコは書斎で楽譜を書いていた。
頭の中に総譜がある。これを書き出すだけの作業だ。既存の記号では表せない細やかな指示も、一緒に書き込む。
ランプの光が時々揺れる。すると影が大きく揺れる。そのたびに、心の奥底、ほんの狭いところで誰かが恐怖にうめいている。
闇のことも黒のことも厭わないカミコだが、影だけは少し苦手だ。影は己についてくる。己の暗い部分だけ写し取る。鏡を見せられるよりも不快で不安だ。
〈楽園〉のアンティーク――ゴミ捨て場から拾われてきた、金褐色の置時計が深夜を指した。時刻はおおむね正しい。なぜ「おおむね」であるかといえば、この街に動く時計がほとんど存在しないからだ。
カミコは書斎を出た。書斎から続いているのはピアノの部屋。そこから廊下に出て、居間に入り、床を蹴って地下への入り口を開ける。
この複雑な構造の家をどんな人物が作ったのか常々疑問に思っているのだが、それを知る可能性がある影鳥からの回答は得られないままだ。
階段は、一度ドアで仕切られる。そこを開けて、さらに十一段階段を下りると、白道の部屋となる。
白道の部屋は恐ろしく綺麗だ。八つ当たりをして物が散乱していることもあるのだが、たいていは生活臭がなくなるまで整理整頓されている。
そんな部屋の、他のものと同じく整理整頓しつくされた配置のベッドに、白道が眠っている。その傍らにはモズがいた。すでにくすんで輝きを失った金髪は、彼を随分老けた印象にする。それなのに中身は少年のような無邪気さがあって、カミコの中での彼はちぐはぐな人物だった。
「お疲れ様」
「やー、黒いの。まだ起きてたの?」
随分老けた印象だが、一応影鳥と同じくらいだと以前聞いた。真面目なのかふざけているのかよくわからない人物だ。根が真面目であると、信じたい。
「今くらいからが僕の活動時間。仕事の日は明け方まで弾いてるんだから」
「なあるほど、そりゃあそうだね」
「食べない?水も持ってきた」
「食べる食べる。ありがたいねぇ」
固く干からびかけたパンと、水差しと水。これらが乗った盆をテーブルに置くと、モズは移動してきた。
「しかし、この家に気の利くやつがいるなんて知っらなかったわぁ」
「隠してたからね」
「んまっ!私に隠すなんてけしからんっ」
「で、白道は、どう?」
「死なんよ。骨折れてないし、内臓は無事みたいだし、見た目が酷いだけ。さっすが影鳥って感じ?殺さず痛めつけるの、プロなんだから」
楽しげに話しながら、モズはぼそぼそのパンを文句の一つ言わず平らげ、コップ一杯の水を飲みほす。そして組んでいた足の左右を変えて、見透かすようにカミコと視線を合わせた。
「さてさて、――白いのを心配して来たって感じじゃないねぇ」
「あたりまえだよ、パンを持ってくるのが目的だから」
「ねえ、黒いの。――私のところにはさ、馬鹿がいっぱい集まるんだよね。私がいろいろお薬持ってるから。仮病使ってまで、それが欲しいらしくてさぁ」
モズはにやにや笑って続ける。
「そのせいかねぇ。私、嘘かどうか、だいたいわかるんだよね。仮病なんざ、一発。強がりもわかっちゃう。そんなん相手に、馬鹿らしいと思わんかい?」
カミコは表情を変えなかった。
モズと視線を合わせたまま、内心は少し迷って、左手を出した。何かくれと要求するかのように。
「油断すると、フォークくらいでも取り落とす。意識しないとボタンもはめられない。でもまだどうにかピアノは弾ける。そういう状態なんだ」
モズはすっと笑みを消した。
「・・・・・・おいおい、本気ぃ?」
「本気」
「夕方も弾いてたじゃん・・・、音楽の天使が、そんなこと言っちゃう?私マジ動揺しちゃうよぉ?」
声にはすでに動揺が現れていた。
モズに動揺される理由を思いつけず、カミコにもその動揺は少しだけ伝染した。
「僕の手になんかあったら、まずい?」
「まっずいまずい。だっておまえさん音楽の天使じゃん」
〈音楽の天使〉はカミコの別称だが、同時にジ地区での地位も表している。歌姫とも並び称されるほどの人気芸者であるカミコの地位だから、上から数えるべきだ。
「だからって、なんでモズ動揺してるのさ」
「治せないとかなったら、ジ地区の皆さんから半殺しにされそうじゃんかぁ」
「治せないの?診ても無いくせに」
「いや、診ますよ?診ます。けどなぁ、組合の皆さんも歌姫もどぎついからなぁ・・・」
モズに治療してもらって、ちゃんと対価を支払えるのはジ地区の人間くらいだ。――すなわち、酒場の主、従業員、そこを仕事場にする芸者や花売りたちだ。もちろんこの中にだって、食うにも困る底辺がいるが。
この上に彼はジ地区に「診療所」を構え、組合と自警団の庇護下にある。
これだけジ地区に世話になっておきながら、〈音楽の天使〉を治療できない。――となれば、確かにダメージは大きそうだ。
「筋がずれてるとかなら、すぐ治せるんだけどね」
モズはカミコの手を取った。
「左手だけかい?」
「両手とも。痛みの種類がちょっと違う」
「どの指?」
「全部」
「ぜぇーんーぶぅー?やーってらんないねー!」
そんなことを言いながら、モズは右手でカミコのひじ辺りの筋を探っている。
「これ痛いか?」
「痛い」
「筋の位置がずれてるな。こっちは?」
「痺れてる」
「オーケィ。これはすぐ治す。でも全部痛いってのはおかしいな。骨かもしれん。右手も出して」
言われたとおりに右手を出すと、やはり同じように筋を探られる。モズの指が筋を強く押すと、それと繋がる指がピクリと動く。痛みが走る。
「この筋はね、肩のほうとも繋がってんだよ」
モズはカミコの傍らに立ち、肩と肘の筋を抑えた。
「これさ」
捻るように、一瞬力が加えられる。鋭い痛みと、窪みにぴったりとはまるような感覚があった。
「・・・・・・なんだった?」
「筋、治したの」
じんじんと痛みが残る。握ったり開いたりを繰り返すと、今まであった、引っかかるような感触がなくなっていることに気づいた。
「ちょっとだけ治ったかも」
「それ、くせになってると思う。おまえさんは、かなり無茶な弾き方をするだろう」
「そうでもないよ」
「すぐにまた、その筋ずれるぞ」
「また治してよ。ところで親指がまだ痛いんだけど」
「そりゃあたぶん使い痛みさ。――まーったくよぅ」
モズは左手の筋も同じように探り、力を加える。
「なんで、ここまで放っておいた。なんで、私にさっさと言わんかね?」
「ヤブに見せて治るわけないから」
「再起不能にすっぞー?」
「冗談。――自分でもよくわからない。なんとなくだよ。イヤだったんだ」
「ふうん?」
モズは疑わしげにうなずきながら、再び椅子へと腰掛けた。
「まだ痺れはあるか?」
「軽くある」
「なるほどね」
モズはベッドサイドにあった大きなかばんから包帯を取り出し、カミコに手を出すように促した。
「様子見しよう。しばらく弾くな」
「・・・・・・弾くな?」
カミコは眉間にしわを寄せて尋ね返した。モズは当然だとうなずく。
「筋ってのは、もとの位置に戻しても使えばすぐにずれる。安定するまで、固定する。それと、酷い使い痛みだ。安静にしなけりゃ治らんよ?」
「無理だよ」
「今言ったやつ以外の痛みが混じってる可能性もあるんだ。まずはわかってるものから治してだな、」
「どれくらい、弾くなって?」
「とりあえず一週間」
「無理だ」
モズは左右に首を振った。
「かぁみこぉ、あのねぇ」
「狂えって言うのか」
「そんなんじゃない」
自分の心にほとんど余裕がなくなっていることには気づいていた。余裕が無いから、気づいたって対処できない。
「無理だ」
頑ななカミコに、モズは深々と溜息をつく。それ以上、何も言わなかった。無理やりなにかする様子も無い。
カミコは必死に冷静さをかき集めた。それでもいきなり一週間弾かないという決心はつかず、席を立った。
無言のまま階段を上るカミコの背中に、モズが唐突に喋りだした。
「普通のピアニストはものすごく効率のいい手の使い方をしていて、骨や筋にほとんど負担をかけないって。組合長だったかね、そんな話をしてたのは」
「・・・・・・」
「でもおまえさんが『魔法』を使うときは、壮絶だと。なぜその奏法で一晩続けていられるのかわからないって」
「・・・・・・」
「――予測でしかない。だけど、その痛みの原因は、おまえさんの使う『魔法』じゃないのか?なぁ、どうよ?音楽の天使」
ばたん、とドアを閉める。
もう聞きたくない。
参考曲
*「ピアノソナタ『悲愴』1楽章」
ベートーヴェン作曲。2楽章のほうは、おそらく誰でも聞いたことがある。
小説内の曲解釈は飽くまで個人的なものかつ物語上の演出あり、曲そのものを批判・否定するものではありません。