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 かげりの街は六つの地区に分かれている。

 カミコたちが普段暮らす影鳥かげどりの家はモノ地区と呼ばれる場所にあった。ここは翳りの街の権力者が集まる。この街における権力者は、すなわち腕っ節の強いものだ。その頂点に君臨するのが、影鳥だった。

 彼は一年足らずで代替わりしていく頂点――影主の地位を、もう三年も続けている。

 治安は最悪のモノ地区を平気な顔で歩いていられるのは、カミコが影鳥のもとにいるからだ。周囲には「所有物」として認識されているだろう。カミコにそのつもりは毛頭ない。

 あちらこちらから喧嘩の声が響いてくる、時折殴り合いの現場にぶつかる、そんなモノ地区を抜けてカミコが向かったのは、ジ地区だった。

 ジ地区はもっとも治安がよいと言われている。ここは酒場や娼館が多くある歓楽地区だ。掏りと喧嘩はあるものの、モノ地区のような野蛮な殺し合いはないし、それ以外の地区のような生きるための必死な奪い合いもない。

 翳りの街の店は看板を掲げない。多くが夜のささやかな光から逃げるかのように地下に店を構えていた。

 カミコがたどり着いた場所も、そんな店のひとつだった。

 半地下になったその店に行くには、細い階段を降りねばならない。

 扉を開けて入ってみれば、中は広い。入り口から少し進んだ右手にカウンターがあり、酒場の主はそこで調理をしている。

 入り口から正面に一段高く作られた舞台があって、ところどころ剥げた黒塗りの古いピアノが鎮座していた。舞台に向かって右手には奥の部屋に続く入り口があって、カーテンで仕切られていた。従業員や芸者げいじゃたちの控え室だ。

「お、来たな、天使」

 カミコに声をかけたのは、カウンターでフライパンを振っていた店の主だ。ナナキと呼ばれている。中年を通り越し、そろそろ壮年に届こうかという男であるが、髪は黒々としている。

「今日は暇そうだね」

「何を言う、まだ宵の口だ」

 カウンター席に客はいない。テーブル席には派手な格好の女たち――〈花〉がいるだけだ。彼女らはこの店の客、というよりも、客待ちである。

「今日は、誰が来るの?」

 カウンター席に座りながら、今日の舞台の出演者をたずねる。酒場はほぼ必ず芸者を用意する。

「テラントのホルン吹き。それから、おまえさんと、歌姫様さ。ホルンのほうは、伴奏を頼む」

 ああ、とカミコはうなずいた。

 ホルン吹きは老人だ。単音しか出せない楽器なのにソロなので、あまり仕事にありつけないらしいが、堅実で清廉な音を持っている人だった。

 もう一人は現在この街で最も人気ある芸者。類稀なる美声の持ち主だ。

 歌姫とは権力者の地位をあらわす名称でもある。――芸を極めれば、影主ほどではないにしろ、権力を得られるのがこの街であった。これが踊り子であれば、舞姫と名称を変える。

 演奏を始めるまでにまだ時間が余っていたので、カミコは何か食べるものを、とナナキに注文した。

「歌姫と俺を競演させるのが流行りなのかな」

 カウンターに肘をつきながらカミコがつぶやくと、ナナキがフライパンに材料を投げ込みながら笑う。「唾を飛ばしてくれるな」と内心眉をひそめるが、口には出さない。仮にも相手は本日の雇い主だ。

「おまえが嫌がるから、今日は一緒にやってもらう話にはしてないが、・・・そんなに多いのか?」

「昨日もだったよ、シロウマのところで。俺たち二人となったら、金かかるだろうにさ」

「なんだおまえ、自分が高給取りだとわかってたのか?」

「一応ね」

「だったら時には安く使われてくれないかね」

「嫌だよ」

 影鳥は楽譜やピアノ線を寄越してくれるが、金のほうは充分ではない。悠江ゆうえの酒代と、影鳥の煙草代に消えるのだ。それはカミコが拾われたばかりの幼かった頃も同様で、結果、幼少期は飢えていた。現在、白道はくどう夢幻むげんを金銭的に養っているのはカミコだ。決して余裕があるわけではない。

 ナナキはひとつのプレートに固いパンと野菜の炒め物を乗せて、カミコの前に置いた。

「歌姫はおまえを気に入っているらしい」

「気に入ってる?一緒に仕事するたびに呪い殺されるんじゃないかと思わされるけど」

「なんで」

「敵意むき出しだよ。プライドの塊なんだよね、あの人。前の年増歌姫よりマシだけど」

「はぁ・・・自分より才能あるものが気に入らないってか?」

「俺の演奏がもてはやされる意味が理解できないんだよ。彼女が正しいよ、俺のピアノなんて、まったく美しくないのにね」

「音楽の天使が、魔法のピアニストが、何を言うかね」

 ナナキはやれやれとため息をついた。カミコの演奏はこの街でもっとも人気がある。歌姫の歌よりも。けれどカミコは常々それを否定してきた。冗談か、嫌味な謙遜くらいに思っているのだろう。

 嘘ではない。

 カミコの演奏は、魔法などではありえない。歌姫は類稀なる美声と、それを生かす歌唱力、そして確かな耳の持ち主だ。だからカミコの演奏を嫌う。美しくないものだと見破る。

 そういう意味も含めて、カミコは歌姫の才能を認めていた。

 この翳りの街でカミコの演奏を理解するのは、おそらく白道はくどうと、歌姫と、影鳥だけだ。

 そのうわさの歌姫が、奥の部屋から出てきて舞台に上がった。まだ早いが、発声練習のつもりなのだろう、すぐに歌い始めた。ピアノを使っての、弾き語りだ。

「おお、サービスか?料金に入ってないぞ」

 ナナキが少し不安そうに言う。

「大丈夫じゃない?歌姫はケチじゃないし」

「いや、そうだろうが・・・、これは得をした。やはり美しいな、あの女は」

「そうだね、天に響く鐘の音とよく似てる」

 小鳥のさえずりのように愛らしい声から、清水のように透き通った声、時には嫉妬に狂ったような太く激しい声すら出せるのが彼女だ。今は、曲に合わせて小鳥のような声を出していた。高音で、テンポが速い。音の上下も激しいため、並みの歌い手では曲にすらならない難物である。

「あれ、おまえさんの作った曲だろう?」

「うん。――なるほど、俺に聞かせに来たわけか」

 カミコが歌姫のために書いた曲だった。おそらくこの街では、彼女の口からしか聞けない曲となっている。

 歌詞は歌姫自身が書いたものだろう。カミコは詞をつけない。AhでもLaでもいい。歌詞に頼らずとも曲は聞き手に届くというのが、彼の信条だ。

 歌い終わった歌姫に、拍手はまばらだった。やはりまだ客が少ない。

 歌姫は拍手の大きさなど気に留めた様子もなく、さっと舞台を降りるとカウンターまでやって来た。

「こんばんは、音楽の天使」

「昨日ぶりだね、歌姫」

 こんな仕事をしているのに、妖艶というほどの色気はない。顎のラインがすっきりとした小顔で、美人とかわいいの中間の顔立ちだ。カミコが演奏活動を始めた頃にはすでに歌い手として働いていたから、カミコよりは年がいくつか上だ。このジ地区でもっとも権力を持つ一人であるにはかなり若い。若すぎると言っていい。歌姫とはほとんどの場合ベテラン歌手がそう呼ばれるようになるのだ。

「どうだったかしら、さっきの歌は」

「すばらしいよ。でも、十四小節目からがまだ少し、いまいちだね」

「・・・ありがとう。あなたって、耳だけは確かね」

 歌姫が微笑む。が、その下の敵愾心が透けて見えた。

「ねぇ、天使。伴奏をしてくれない?今日は伴奏者を連れてきていないの」

「今日『も』?」

「伴奏の料金は私が払うわ」

「そりゃあいい!」

 カミコより先にうなずいたのはナナキだった。

 音楽の天使と呼ばれる青年と、街の歌姫、二人の協演ならば客も喜ぶ。

「来週も二人でやってくれるなら、伴奏のお代は俺が出そう」

 カミコはとっさにナナキを睨みつけたが、話はすでにカミコを置き去りにして決まってしまったようだった。

「構わないわよ。カミコとなら評判がいいもの」

「よし決まった!――ああ、歌姫も座るといい。何か食べるものを出そう」

「ありがとう、スープをいただけるかしら?」

 カミコはやれやれとため息をついて、席を離れた。

 向かった先は舞台のピアノ。黒塗りがところどころ剥げた、この街一番の老ピアノである。老いてはいるが、弾き手の感情をもろに響かせるよい楽器だ。

 カミコはこの老ピアノに嫌われていた。

 だからピアノの機嫌を損ねないよう、慎重になる。己が奏でたい音よりもピアノが思うものを引き出そうとする。そのためには、演奏前の練習が必要だった。

(よくも、気軽に伴奏を押し付けてくれる)

 所々色の落ちた鍵盤に両手を乗せる。

 調律を確かめるように、順に音を出す。

 分散和音。その次にメロディーを乗せる。

 へ長調、速度はアレグロ、スタッカートが多い曲だった。それは序盤三分ほど続き、そこから曲調は忙しさを捨てて壮大な和音の並びへと変わる。

 これもカミコの自作曲で、十五分ほどある。クラシック調は酒場ではあまり受けないが、今は客もそれほど入っていないのでかまわない。そしてなにより、ナナキは奏者たちにかなりの自由を許す雇い主だった。

 曲調はまた変わった。今度は緩やかで優雅にメロディーが流れる。テンポもアンダンテへと変わり、勢いの技巧よりも丁寧さが求められた。

 と、そのとき。

 ふいにメロディー部分に音がかぶさった。完全に同じではなく、ピアノよりも自由に振舞っている。

 演奏に没頭していたカミコははっとして周囲を確認した。

 ホルンを抱えた老人が、ピアノに合わせて己の楽器を歌わせていた。老ピアノと同じく、洗練された音色だ。堅実でずれがなく、それでいて堅苦しさを感じさせない。

 カミコは機転を利かせて、ピアノパートをアレンジし、ホルンとの協演に合わせた。ホルン奏者もそれに気づき、楽しそうな視線を一瞬こちらに寄越す。

 次に訪れる静かなパート。どのようにアレンジしようか、ホルン奏者はどのように演じてくれるか、そんな思いをめぐらせていると、今度は歌姫が舞台に上がった。

 妖艶な笑みを先に演じる二人に向けて、――

 静かな調子に転じる部分から、歌い始めた。

 雲間から降る細い光のような、美しい声だった。改めて彼女の声の幅広さに感服する。

 ホルン奏者と歌姫は目配せすると、本来ピアノではワンフレーズごとに音の高低が上下する部分を、交互に歌い始めた。カミコは完全に伴奏となっている。

 やがてホルンと歌声、そしてピアノの音も重なり、お互いを確認しながらだんだんゆっくり、そして全音符のフェルマータ・・・・・・

 最後は華やかに和音で終わる。

 拍手が響いた。それほどの量ではなかったが、カミコが思っていたよりも遥かに大きな音だった。十五分ほどの間に客はずいぶん増えていたらしい。客待ちの女たちも盛んに手を叩いている。

 ホルン奏者が椅子から立ち上がり、カミコへ向きを変えた。

「よい曲だ」

 とても短い言葉だったが、曲やこの協奏への満足感がよく現れていた。

「ありがとうございます」

 カミコは敬意をこめて頭を下げた。

 カミコはこの曲を何度か弾いている。今のような、まだ混まない時間帯に。ホルン奏者とは幾度か同じところで演奏する機会があった。幕内で聞いて覚えていたのだろう。歌姫も同じだ。最近はよく「競演」する。

 二人とも楽譜を見ることなく曲全体を記憶、理解し、さらには秀逸なアレンジを加えるとは、さすがと以外言いようがない。

 美しく仕上がった即興のトリオに、カミコも満足していた。両手全指のすべてが、強さの違う痛みを訴えていたが、満足感はそれをはるかに上回る。

 一度両の手を強く握り、ゆっくりと開きながら息を吐く。

(まだだ・・・、夜はこれからだ)

 夜の街に音楽を響かせ、闇を払うのが、この街の芸者たちの仕事だ。



*芸者 (げいじゃ)

・・・この物語上での固有の読み方。歌手、楽器奏者、踊り手たち芸事で食い扶持を稼ぐ人々のこと。 本来は「げいしゃ」と読み意味も違うのでほかでお間違いになりませんようご注意。


*演者 (えんじゃ)

・・・辞書に載っているのとだいたい同じ意味。この物語では芸者げいじゃとほぼ同じ意味で使われる。現在進行で舞台に立っている人や、〈歌い手〉や〈踊り手〉に対して楽器を奏でる人々のことを指す場合もある。



ざっくり音楽用語解説


アレグロ・・・「速く」の意

スタッカート・・・一音ずつ音を短く切って演奏する

アンダンテ・・・「歩くような速さで」の意

フェルマータ・・・音符や休符を、記譜よりも長く延ばし演奏する

トリオ・・・三人で構成されるグループや演奏される曲

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