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 称賛を浴びるのは簡単なことだ。

 カミコにとってピアノを弾くことは息をすることに等しく、人々はそのカミコの〈呼吸〉に熱狂する。

 酒場にはほどほどに客が入っていた。

 早い時間にしては上出来である。

 しばらく姿を見せなかった〈音楽の天使〉の演奏は、ずいぶんと集客効果が高いようだ。数曲を弾き終えたカミコはカウンターの席につき、水を要求した。

「――俺の料金、割り増しすべきだと思うんだ」

 上機嫌で水を持ってきたナナキにそう要求すると、彼はぎくりと肩を震わせた。

「ま、待て、天使」

「俺が出るって、ずいぶん宣伝したみたいじゃないか」

「何を言う、そもそもな、お前さんを今日ここに呼ぶのに、組合にはかなり払ったんだぞ。ここ二週間、取り合いだ。いつ落ち着いてくれるのやら」

「じゃあ組合長に言うかな」

 芸者たちの仕事は、主に組合を通すことになっている。酒場の店主らは組合にある程度の料金を払って芸者を派遣してもらい、さらに芸者に出演料を直接払う。組合は、人気の芸者の公演先が偏らないように配慮しつつ、新人も売り込んでいく。これには人気芸者を囲い込んで才能を使い潰すような輩を排除する意味もある。組合に収められた金は、組合を運営するほか、まだ自力で稼げない芸者の卵を育てる資金にもなっている。

 時代によっては搾取のためのシステムにもなるが、現在は健全に運営されていた。

「しかし、本当におまえさんが復帰してくれてよかったよ」

「安定して稼げるって?」

「安定して、次の芸者を育てられる、と言ったほうがいいな。俺は伸びていく若い才能を見るのが好きだ。だが新人だけでは客が入らん。だからおまえさんのような人気芸者が必要なんだ」

「・・・・・・そっか」

 ナナキはこういう考えを持っているから、この酒場で演奏するのは嫌いではない。出てくる飯はまずいが、我慢してもいいかと思える。

 舞台に上がったチェリストは最近見るようになった少女だ。だがちゃんと演奏を聴くのは初めてだった。張りつめた鋭い表情で、ピアノでは奏でられない音階を駆使して、郷愁を誘う情景を歌い上げる。

 この時間のこの聴衆の様子では、少し重すぎる選曲だ。腕はあっても、そのあたりが新人らしいとカミコは少し笑う。

「チェロで女の子は珍しいね」

「男にはない、色のある音を出す。――が、最近は周りの男の音につられて固い音を出そうとする。男ばかりの中で気を張っているせいだろう。ここらが踏ん張りどころだ。花開くか、このまま消えるか」

 女がこのジ地区で生きていくことを考えれば、色事を売りにする〈花〉になる方が手っ取り早い。というよりも、自分で食えない幼子のうちに、女というだけで〈花籠〉に放り込まれてそのまま〈花〉となるのだ。歌や踊りの才能が見いだされることがあれば、〈鳥籠〉へと居を移す。しかし楽器に触れる機会はないまま。だから楽器の奏者には男が多い。

 良くないことだ、と組合長は言っていた。男の手で紡がれる器楽は、どうしても力強さが際立つ。それはそれでいいものであるが、美しいものは一つに限らないのだ。様々な美しさを愛でたいのである。

 カミコもそれには全面的に賛成しているし、当代の歌姫も考えを同じくしている。影鳥がこのまましばらく〈影主〉を続け、平穏を保ってくれるのならば、ジ地区はこれを変えることができるかもしれない。

「俺、ナナキの見る目だけは信頼に値すると思ってるよ」

「ほう?じゃあ、なにが信頼に値しないって?」

「料理の腕」

 カミコの言葉にむくれるナナキは放っておいて、カミコはちょうど演奏が終わった舞台に上がる。少女がはっと顔を上げた。

「何か一緒にやらないか」

「・・・・・・合わせるのは、苦手だ」

「こっちが合わせる」

 このチェリストの音は、きっとカミコの音と相性がいいだろう。

「短調がいいな。得意な曲はある?ピアノだとさっきのような微分音は使えないけど・・・・・・、まあ曲によっては合わせられなくもないかな」

 少女は黙り込んだ。

 この街で、ソロだけでやっていくのは不可能だ。チェロであれば、ピアノと常態的に組むことも視野に入れるべきだろう。さらに、初めての相手ともある程度合わせられる技量があれば、仕事は増える。仕事が満足になければ、才能がどんなにあったところで消えゆくのだ。

「ねーえ、私もいいかしら」

 舞台に軽やかな足取りで〈踊り子〉が上ってきた。若手の中で頭角を現し始めた若い女である。

「なんだって踊るけれど、彼女がやるなら強い曲がいいわ」

「強い曲ね」

 夜を焦がす、かがり火のような曲がいいだろう。冷えた闇のように凛としていて、揺れる炎のように力強くて、けれどその手につかむことが出来ない妖艶さを兼ね備える曲がいい。

 この際だから、聴衆の望みなど二の次でいい。

 早口でパートの割り振りを伝えて、ピアノに向かう。

 チェリストはまだ不安げな表情をぬぐい切れていなかったが、〈踊り子〉は楽し気に二人に目配せした。

 はじめはピアノから。

 装飾音とトリル。シンプルで力強く。踊り子の手先が、揺らめく炎を描く。

 そこへ低音のピッツィカート。――音に戸惑いがあった。だからカミコはチェリストを見て、指先の力の入れ方をほんの少しだけ変える。気づけ、と祈る。

 カミコも、合わせるのは苦手だ。タイミングを合わせることはできるが、カミコの音は主張が強すぎて、他の演者が敬遠する。無理に合わせようとすれば腑抜けた音になる。

 音楽の天使に天上の音を奏でろというのならば、共演者は自身の確固たる演奏を見せなければならないのだ。

 猶予はほんの一秒ほどだった。けれどチェリストは気づいた。気づいて、次の瞬間から始まるメロディーを自分のものにした。

 踊り子の口の端に笑みが浮かぶ。

 それはカミコも望んだ音だった。

 弦は力強く鳴るが、男の音色とは異なる。夜のようで、火のようで、確かに存在しているのに、決して手のうちに収まらない。

 踊り子が舞台を踏み鳴らす。

 ぴりりと空気が揺れる。

 一度流れに乗ってしまえば、少女の実力は確かだった。面立ちと似た、切れのある演奏をする。だがまだ伸びていく。希望を抱かせる。他の曲も共にやってみたい、あるいは、今は無理だがいつかこの曲を共に、と。

 曲の構成に複雑さはない。いくつかの同じテーマを繰り返し、かがり火はより力強く大きくなり、フォルティッシモで終わる。

 余韻は長かった。

 ピアノの余韻が消える頃に、演者たちはようやく互いを確認して、力を抜いた。三人とも息が上がっている。

 おや、とカミコは思った。

 拍手がないのだ。

 たしかに聴衆が求めた曲ではなかっただろうと思ったが、悪くない出来だったのに。

 カミコが客席に目を向けるのと、客が戸惑いにざわめくのは同時だった。

 その原因にカミコは瞠目する。

 そこにいたのは、〈歌姫〉であった。年齢の割に幼い顔立ちだが、〈歌姫〉の称号にふさわしく、ふるまいは堂々としている。ためらいなく舞台に上がり、カミコのほうへづかづかと歩み寄ってくる。

「歌姫?」

 声をかけたが返事はなく、代わりに歌姫の手が振り上げられた。何をされるのか気が付いたがよけることはできず、カミコは歌姫の平手で打たれた。

 視界の端で、踊り子が止めに入ろうとして二の足を踏んだのを捉える。

 歌姫はカミコを見下ろしていた。きっと心の底から蔑んでいるのだろうとカミコは思った。

「その音は、――〈芸〉じゃないわ」

 ああ、なるほどとカミコは思う。

 本当の〈芸〉を客に供する、そして日々それを磨き続ける彼女は、もう耐えられなくなったのだ。

 カミコの〈麻薬〉の音楽に。

 そしてカミコがそれを〈芸〉と偽って客に供することに。

 ならばもっと早くにこうしてくれればよかったのに。いっそ殺してくれたらよかったのだ。逆恨みにも等しい思いを抱き、カミコは自嘲をにじませ微笑む。

「――知ってる」

 歌姫が瞠目する。

 その表情が意味するのは、失望だろうか。――なぜ今、失望するのだろう。彼女はずっと知っていたはずなのに。カミコが気づくよりもずっと早くから、カミコの音が〈麻薬〉だと。

 けれど彼女は〈麻薬〉と知りながら、浴び続けていたのだ。

 滑稽なことだ、とカミコは思う。

 踊り子が、歌姫の腕をとった。

「歌姫、場所を変えない?」

 歌姫は「そうね」とうなずき、カミコから目をそらした。

 舞台から去る直前に、歌姫は硬直したままだったチェリストの少女に声をかけた。

「あなたのさっきの音は、とてもよかったわ」

「え・・・・・・、あの、でも、」

「夜のようね。静かで、泰然とした音。それでいて、まさしく〈闇〉を祓う、〈芸〉だった」

 歌姫が去っていく。

 カミコも静かにピアノから離れた。踊り子に、後を頼む意味を込めて「ごめん」と言う。

「二大芸者に貸しね」

 不機嫌そうに踊り子は言ったが、不安はなかった。

 舞台に残される彼女も、そしてチェリストも、真に〈芸者〉なのだから。





参考曲


*「恋は魔術師」より「火祭りの踊り」

ファリャ作曲。バレエ曲の一曲。

主人公が亡き夫の幽霊を祓おうとしている場面の曲。



小説内の曲解釈は飽くまで個人的なものかつ物語上の演出あり、曲そのものを批判・否定するものではありません。



ざっくり音楽用語解説


・微分音・・・半音よりもさらに細かく分けた音。

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