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 〈天使〉はこの街に落ちた時、すべての記憶を失っている。

 どうしてなのかはわからない。酒場では時折酔っ払いたちが好き勝手に予想して盛り上がる話題の一つである。そしてカミコにとっては至極どうでもいいことだった。

 カミコは落ちる前はもちろんのこと、落ちたすぐあとのことも覚えていない。影鳥の話によれば、ゴミ捨て場で、一人で歌っていたのだという。

 カミコ自身の記憶は、影鳥と悠江に連れられて行った酒場で音楽を聞いていたところから始まる。

 漫然としか世界を意識していなかったカミコの耳に、ピアノの音色と歌声が響いて、目が覚めるにも似た感覚を味わった。あの瞬間こそが、カミコが生まれた瞬間だと言っていい。

 そのときに、カミコは自分がピアノを弾けることを知っていた。これが落ちる以前に得た技術なのかは確かめようがない。しかしカミコは弾かせてくれと言って舞台に行き、聴いたばかりの曲を再現して見せた。

 それからすぐに影鳥は〈調律師〉を呼んで、もともとこの家にあったピアノを修理し、調律し、使えるようにしてくれた。

 楽譜の読み書きを覚え、〈写譜師〉としての仕事を得て、いつしか舞台に立つようにもなった。

 影鳥よりも、三代ほど前の〈影主〉のころだったか。

 あの〈影主〉は、他の粗暴な〈影主〉と違って、風雅を好む穏やかな人だった。芸者としてもやっていけそうな、良い声と良い耳を持っていて、ジ地区の供する舞楽にすがるのではなく、芸を深く理解している人だった。だから、その彼のことだけは少し覚えている。

「時折おまえのようなやついる。昔々は〈天より与えられた者(ギフテッド)〉と呼ばれたとんだと。――しかし、そういう人間が未だいるということは、去ったと云われる神も、まだ天に在るのやもしれんなぁ」

 彼の表情は、懐かしむようで、祈るようでもあった。

「あるいは神が去る前に残した子か。――以前、一人いたな。病で死んだが。あれは惜しい芸者だった」

 そして彼は、「おまえは長生きしろよ」と言って、酒を飲んだ。

 結局、間もなく彼のほうが死んだ。

 〈影主〉になれば否応なく権力闘争に巻き込まれるものだ。あのかつての〈影主〉の死には何の感傷もないが、この先もきっと、彼のことは忘れないのだろうと思う。

 そして彼が意図したのかはわからないが、カミコはそのころから〈神子(カミコ)〉と呼ばれるようになった。



                 *



 鍵盤は少しだけ黄ばんでいる。黒塗りも所々剥げ、傷もある。

 けれど、その音に翳りはないとカミコは知っている。

 手を添え、息を整え、――そして語り掛けるように鍵盤を抑える。

 和音を連ね、重ね、緩やかに、メロディーを紡ぐ。

 脳裏に思い描くのは水だ。水面の揺らめき、深く深い水の色。重くて、冷たくて、内側に秘めるものがある。

 少しずつ水底のものの正体が見え始め、曲は徐々に荘厳になっていく。

 水がはじけ、光を浴びて遊び、情景を一層美しく染め上げる。

 心には音が描き出すその映像があるだけ。

 何も考えない。

 完璧な音であろうとも思わない。指が次の瞬間に痛むかもしれないとも考えない。

 ただ、音を追う。

 やがて曲は、はじめとは逆に、緩やかに静かになっていく。最後は消えるように。でも確かに波紋が残る、静かな水面のように。

 余韻が虚空に溶け切るのを待って、カミコは鍵盤から手を下ろした。吐き出した息が震えている。一気に疲労感が襲ってきて、カミコは頭をピアノのふちに預けた。

 消えたと思った響きが、ピアノの中にまだ残っているような気がする。まるで聴いたばかりの曲を真似て歌っているかのようだ。

 ――そういった音の名残が、何者にも邪魔をされずカミコの耳には聞こえていた。

 カミコはゆっくり体を起こし、周囲を見回す。

 見た目には何も変わらぬ、いつもの自室だ。

 違ったのは音だった。ここ最近、ずっと耳に響いていた闇のささやきが消えていた。

 カミコはその事実に呻いた。

 確かに闇の問いかけは不快だ。聞こえなくなって改めて、あの問いかけがいかに不快だったかがわかる。

 けれどカミコの手の故障の原因はこの演奏だ。

 続ければ、また同じことになる。

 それでも、カミコはきっとまたこれを続ける。

 カミコは自分の意思の弱さを知っている。闇を祓うためではなく、単純にピアノを奏でる喜びも知っている。


 ――お前の演奏は、〈頭痛薬〉じゃなくて、〈麻薬〉だ。


 いつかの白道の言葉がよみがえる。

 その通りだった。これは麻薬と同じだ。

 体が望むままに、苦しさを叫んだ。けれども少しも楽にならない。

 何かを殴りつけたい衝動もあったけれど、カミコは己の手を痛めつけることはできなかった。どこまでも、どこまでも、音楽に縛り付けられている。

 泣くだけ泣いて、気を失うように眠った。

 目が覚めた時、そこはピアノの部屋ではなく、その隣にあるカミコの寝室だった。書斎も兼ねたこの部屋は、五線譜があちこちに散らばる。

 外は闇に包まれていたが、枕もとに小さな明かりが灯っていた。それを点けたであろう白道が、窓際の椅子に座り、外を見つめていた。

 気だるさを抱えたまま、カミコは半身を起こした。

 衣擦れに気づいた白道が振り返る。

「・・・・・・なんで僕、この部屋にいるの」

「運んでやったからに決まってんだろうが」

「なんで、わざわざ」

「夢幻がうるさいから」

「そうか」

「お前もうるさかった。次からは自重しろ」

「それは無理じゃないかな・・・・・・」

 カミコが自嘲気味に答えると、白道は深々とため息をついた。

 ランプの灯が揺れて、それに合わせて影が大きく揺れる。

 囁く闇が襲い掛かってくるようにも思えて、いっそ小さな明かりを消したくなる。

「・・・・・・白道。僕は、ここを出て行くべきかと、思うんだ」

「なんで」

「ピアノを弾けない僕を、影鳥が置いておくとは思えない」

「俺も、夢幻も、役に立つような力は持ってない。でも影鳥はとりあえずここに置いてくれてる。なんでお前だけ追い出すって話になるんだ」

「・・・・・・ねえ、白道。おまえの言う通りだってわかったんだ。僕が奏でるものは〈麻薬〉だった。〈芸〉でも、〈薬〉でもない。影鳥が、それを許すと思う?」

「気に入らないならとっくに殺してる」

 白道は淡々と答える。

 カミコは膝を抱え、毛布をきつく握りしめながら湧き上がる苦痛に耐えた。

「違うんだ、白道。僕は、死にたくないけれど、殺されたいんだ」

 以前〈歌姫〉は、カミコに向かって語っていた。

 衰え、〈歌姫〉の地位を追われようとも、歌いたい、と。それは死にたいほどに屈辱であろうとわかっているが、死ねば歌えなくなる。歌える限りは、死にたくない。

 けれど逆に、声を失えば生きている意味なんてない。

 カミコにはその意味がよく分かった。

「〈芸〉じゃない音楽なんて、〈麻薬〉の音楽なんて、弾きたくないんだ。けれど僕は弾かずにはいられない。ピアノを弾けなくなったなら、僕はためらいなく死ねる。でもまだ弾けてしまうから、〈麻薬〉であっても弾けるから、死にたくないんだ。弾けなくなるのが怖いから、死にたくないんだ。死後にピアノがあるならいいけど、そんなことわからない。だからどうすればいいのか、わからない。わからないんだ・・・・・・」

 膝を抱え、顔を埋める。

 わからないまま足掻くことが、苦しいのだ。だからいっそ、みじめに野垂れ死にしたいのだ。

 そう思っているのに、この街で最も安全であろう影鳥の庇護下にいる。この矛盾が一層カミコを苦しめる。

 そして〈闇〉はいつものように問いかける。

 やさしく、やわらかく、絶望という答えへ導かんと囁きを重ねる。

 ふいにベッドが揺れた。顔を上げてみれば、白道がベッドの上に半身を投げていた。

「はくどう?」

 彼の表情は見えない。白い髪が微かに揺れている。

「白道、泣いてるの?」

「泣いてない」

 濡れた声が返ってくる。

「俺は、泣いてない」

「・・・・・・ああ、そうか」

 泣いているのは、カミコなのだ。

 精神感応の力を持つ白道は、他人と関わるのを嫌う。それは他者の痛みをすべて感じてしまうからだ。

 カミコは静かに震える白道の頭に手を伸ばした。髪に指を通しながらなでると、さらさらと指の間からこぼれていく。

 そうしている間、ずっと闇は沈黙していた。





参考曲


*「沈める寺」

 ドビュッシー作曲。フランスの古い伝説をもとにして作曲された。

 美しい和音で構成される曲だが、見ると頭痛がするような楽譜。



小説内の曲解釈は飽くまで個人的なものかつ物語上の演出あり、曲そのものを批判・否定するものではありません。

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