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 弾けないカミコに仕事はない。仕事がなければ金がない。

 それほど食欲もなかったが、腹は減る。

 仕方がないので、カミコは「保護者」にたかることにした。

 保護者の片方、影鳥に言えば、金を投げて寄越す。時に「残念、今日は一文無しだ」との言葉を寄越すこともある。今日は後者がもらえる日だった。

 仕方がないので、保護者のもう片方、悠江に言う。


「お金くれない?」

「ごはん?これから私も出るし、一緒に行く?」

「白道と夢幻は?」

「適当に食べてる。――つか、なんで二人と一緒に食べないのさ」

「・・・・・・習慣がないからかな」


 白道は金の事情や頭痛のせいで予定が崩されない限り、きっちりとルーティンを守る。――ほぼ同じくらいの時刻に、同じ場所で、決まりきったことを繰り返す。食事であれば、ソファの左端に座って、反対側には夢幻を座らせて、二人で食べる。

 まるで儀式である。

 このルーティンが乱れると、白道は苛立ちを募らせる。

 夢幻の世話を焼く、というルーティンは最近になって定着したもので、定着するまでの白道の苛立ちは壮絶だった。当時のカミコに夢幻の世話を代わってやろうという気持ちは一切なく、今だってない。だが、多少の哀れみはあるので、カミコ自身は白道のルーティンをわざわざ壊したくないのだ。


「食べ物があるなら、いいや。適当に食べるよ」

「いいじゃん、私の酒に付き合いなよ」

「酒、うちにないの?」

「ないの。信じらんないよね」

「いや、別に」

「まあ、付き合いなよ。飯食って酒飲んで、ついでに酒を仕入れる」

「荷物持ちはしないよ」

「その手、商売道具じゃないじゃん。少しくらい手伝いなよ」

「・・・・・・」


 カミコは重いものを持たない。それは商売道具である手を守るためでもあったし、いつからかは痛みから庇うためでもあった。

 今は、商売をしていない。普通の生活が送れるほどに回復している。悠江の言い分は無神経だったが、正論にも聞こえた。

 夕刻の道を歩き辿り着いた先は、ナナキが営む酒場であった。

 ナナキはカミコの姿を認めると、驚きを表した。


「おお・・・まだお前さん、再開してないと聞いたがね」

「してないよ。今日は悠江の面倒を見に」


 そう言えば、悠江が「へへっ」とだらしなく笑う。


「じゃあ好きなだけ飲もっと」

「お好きに。支払いは悠江だし」

「そうだった。――まあいいや、ナナキ、適当に食いもんと、強い酒」


 悠江の大雑把な注文に、ナナキは呆れながらもうなずいた。


「わかったよ。――天使、お前さんは?」

「おいしい食べ物」

「クラゲの骨でも食らってろ」


 この店は、酒のラインナップが豊富であることを売りにしている。そして食べ物は、手が加わっていないものほど美味しい。

 悠江と二人で丸いテーブル席につく。悠江はカウンターを好まない。一人の時ですら、テーブル席を選ぶ。

 ホールで客引きをする〈花〉――娼婦らが、迷惑がる程度に、悠江は端正な容姿をしている。今日もまた、隣のテーブルの〈花〉たちが、一瞬だけ不安な表情を見せた。

 嫌がらせだろうかと思い、尋ねたこともあるのだが、これにはきちんとした理由がある。


「背後を人が通っていくだろ。それが職業柄ダメなんだよ。背後を心配せず、こうやって場所全体を広く見渡せる場所じゃなきゃ」


 悠江は〈狩人〉だ。〈狩人〉である限り、敵は多い。悠江は影鳥の相棒だから、輪をかけて敵が多い。

 ところが影鳥は拘らないので、不思議なものだと思っている。

 ウェイターが食事と酒を運んできた。白いプレートの上には、焼いただけの葉物野菜、蒸しただけのジャガイモ、練った小麦粉を焼いたもの。

 酒はボトルでやって来た。水のように澄んでいる――が、悠江が頼んだくらいだから、相当強いものである。悠江はグラスにそれを注ぐと豪快に煽った。

 酒を運んできたウェイターが、悠江のそれをはやし立てた。


「いい飲みっぷりぃ、惚れちゃいそう」

「十年後に言いな、青二才」

「なに、十年後なら俺に乗り換えてくれるの?」

「さあね、影鳥よりいい男になってりゃ考えるわ」

「うはぁ・・・、影主様は正直超えられる気しねぇや」


 この手の絡みは、悠江にとって日常茶飯事だ。一人でいればさらにたちの悪い男たちが絡んでくる。――悠江がカミコを誘った理由の一つはこれだ。カミコでも、多少なりとも虫除けになるから。

 ウェイターを追い払い、食事に手を付ける。

 ちょうどそのとき、舞台に芸者が上がった。

 カミコと共演したこともある、若いギタリストである。

 奏でるのは、トレモロを多用した、ノスタルジックな中に哀愁が見え隠れする曲だ。ゆったりとメロディーが紡がれるが、それに反して弦をつま弾く指の動きはせわしない。


「いい曲だね」


 悠江はイスに深く腰掛け、目を閉じて酒と音を味わっている。


「なんか歌ってくれば?あの芸者は伴奏もなかなかだし」


 カミコが冗談半分で勧めると、悠江もゆるい声で返事をする。


「うん?いや、いいよ。忙しいし」

「いそがしい?」

「酒を味わうので忙しい」

「あ、そう」


 悠江もまた、美しい声の持ち主だ。訓練を受けていないので、芸者らのような技術はないし、たとえ芸者だったとしても〈歌姫〉ほどの飛びぬけた存在にはならなかっただろう。――だが、不思議な魅力のある声をしていた。あの澄んだ声を生み出す喉が、酒で焼けてしまわないか、カミコは時折不安になる。


「ちょっと、意外だったね」


 ぽつり、と悠江が言った。

 意味が分からず、視線で問いかける。


「カミコはここへ来るの、嫌がるかと思った」

「別に、嫌とか思わないけど・・・」

「芸者がなんかの理由で舞台に立てなくなったとき、たいてい荒れるじゃん。芸で食ってける同業者に嫉妬して、もう音なんて聞きたくないって閉じこもったり、酒浸りになったり。おまえはそうでもないなって思って」

「ああ・・・うん」

「他の芸者の音を聞くのは、嫌じゃない?」

「・・・・・・わからない」

「お隣さんは、煩くない?」

「煩い」


 お隣さん――すなわち、この街のそこかしこにある〈闇〉と、それによる〈問いかけ〉のことである。

 そして芸者の芸は、〈闇〉を祓う。


「煩いって思ってるのに、薬もやらない、酒も飲まない、積極的にここに来るわけでもない。よくもまあ、正気を保ってるもんだ。感心するよ」

「別に・・・、モズのとこにいる間に、慣れたからかな。それを言ったら、影鳥も何かに依存してるイメージがないけど」

「〈花〉の姐さん方とは仲良しだよ?酒も飲むし、芸も好きだし、煙草も吸う」

「煙草はともかく、ジ地区のあれこれに対する影鳥の行動って、全部〈お付き合い〉じゃない?」

「うん?まあ、そうだね。そういう側面もある」


 影鳥は、この街の支配者――影主である。

 普通は一年足らずで交代していくものであったが、影鳥はそれを三年も続けている。その彼の地位をゆるぎないものとしたのが、このジ地区だ。

 影鳥は面倒見のいい〈花〉を贔屓にすることで権力を与え、〈花籠〉の秩序を整えさせた。芸者らに対しても、酒場の主たちに対してもそうだ。そして贔屓にする相手を選び、権力に偏りが出来ないよう配慮している。

 そうしてジ地区の治安を守ることで、ジ地区は影鳥の味方をするようになったのだ。


「・・・・・・悠江は、影鳥が姐さんたちのところに行くのは、嫌じゃないの?」


 カミコは迷いながら訊ね、やはり後悔した。

 悠江は影鳥に対し、執着を見せる。

 その感情が何なのか、カミコには理解できない。〈花〉たちが囁く愛とも違うし、芸者が芸を通して語る恋とも違う。

 執着。――ただそうとしか呼べない。

 悠江はカミコの問いかけに表情を微かに強張らせた。

 そのままグラスをあおり、中身を飲み干す。


「・・・わかんないね。嫌な気もするけど、影鳥が〈花籠〉に通わず、贔屓の芸者も作らずだったら、それはちょっとな・・・・・・ああ、そうだ。付き合いの難しいうまい酒みたいな感じかな。飲みすぎるとひどい目に遭うけど、ほどほどならいい夢見せてくれる」

「へえ・・・」

「だから、別にこれでいいんじゃないかな」

「そう」


 ふいに悠江が、水が半分ほど残っていたカミコのグラスに酒を注いだ。さらに自分のグラスにも注いでいる。


「飲みなよ。芸と色と酒は、〈闇〉を祓う。――ぐだぐだ考えてると、〈闇〉にとらわれるばっかりだ。夢見心地になるくらいに飲んだら、〈花籠〉にお泊りして来な」

「悠江は、相手してくれないの」

「あれはねぇ・・・ちゃんと〈闇〉を祓うのは、やっぱり本職の姐さんだけなんだよ」


 冗談交じりに問うたというのに、悠江は意外にも真面目に答えたので、カミコは動揺した。動揺を隠そうと、グラスに口をつけたが、慣れぬ匂いだったので、一口飲んで顔を顰める。おかげで動揺も吹き飛んだ。

 その様子を、悠江が笑う。


「あれ、まだ強かった?」

「強いっていうか・・・この匂い、何?」


 透明の酒だったから、こんなに個性ある味とは思ってもみなかった。


「ちょっとばかり癖のあるやつなんだ。慣れるとうまい」


 悠江はおもむろに、皿の上につけてあった果実のかけらをカミコのグラスに放り込んだ。


「ちょっと果肉をつぶしてから、飲んでごらんよ。劇的に味が変わる」


 言われたとおりに、スプーンで果肉をつぶして飲んでみる。


「ああ、ほんとだ」


 すっかり印象が変わった。

 独特だった匂いは、入れた果実とも少し違う、華やかで丸みのあるものになった。おかげでゆっくり味わえる。とろりとした甘さと、酒精の刺激がほどよい。

 悠江のように薄めずに飲むのはさすがに無理だが、悪くない。


「シロップを入れてもいい。そしたらもっと飲みやすくなるよ」

「いや、これでいいよ」

「でも、ちびちび舐めてるだけじゃん」

「悠江じゃないんだから」


 もともとが原液を呷るような酒ではない。水で割ったものでも充分に強いのだ。それに、飲み慣れないカミコが、悠江の飲む量に付き合ったら確実につぶれる。悠江は、影鳥に「ざるとまともに勝負する気はない」と言わせるほどなのだから。


「舐めるだけじゃあ楽しくないだろ。酒は口に含んだときの香りとか、舌触りとか、喉を通るときの刺激とか、ほどほどの酩酊感も味のうちじゃん。そりゃ舐めた瞬間、うまいと思うかもしんないけど、物足りないでしょ。――ああ、おまえとピアノの関係も、それと似てない?以前は飲みすぎ、それに懲りたから今は舐めてるだけ」


 カミコは思わずグラスを見つめた。

 透明の中に、潰した果実の欠片が泳いでいる。

 隣でまた悠江がグラスをあおった。実にうまそうに、喉が上下する。


「付き合い方を覚えなよ。別に難しいこっちゃない。色んな飲み方すりゃいいだけだ」

 悠江が締まりのないほほ笑みを浮かべて、ボトルをカミコの方へと差し出す。

「まだ飲み切ってないよ」

「そうか。これじゃなくて、飲みやすい弱いやつにする?」

「そうだね」


 悠江がウェイターを呼びつけて、いくつか酒の名前を挙げている。酒場で仕事をしていたカミコだから、大雑把には知っているが、味を良く知らないものが大多数だ。


「へぇ、天使も飲むんだ」


 ウェイターは意外そうに言う。


「水以外飲めないのかと思ってた」

「そんなわけないだろう」


 呆れてそう返すカミコに、ウェイターはけらけらと笑う。


「ここのまっずい飯食うより、健全だ。いいことだって意味だよ」


 カウンターの方から、「誰の飯がまずいだと!」とナナキの声が聞こえてくる。

 それをかき消すように、他の客たちが歓声をあげた。舞台に、若い踊り子が出て来たところだ。

 ギタリストが弦を爪弾き、踊り子が伸びやかに舞う。

 〈闇〉が逃げていく。

 その気配を感じながら、カミコはさらに一口、酒を飲む。






参考曲


*「アルハンブラの思い出」

 タレガ作曲。ギター独奏曲。

 メロディーがトレモロで紡がれる高度な曲として知られる。



小説内の曲解釈は飽くまで個人的なものかつ物語上の演出あり、曲そのものを批判・否定するものではありません。


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