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 部屋の床に寝転んで、天井をただ見上げていた。

 くたびれた絨毯は、首筋にふれるとごわごわする。不快ではあったが、起き上がる気力はなかった。

 時折ドアの向こう側で気配がする。足音からして、夢幻だと思われた。

 彼女はドア越しに部屋の中の様子をうかがい、ためらった後に去っていく。

(別に、入って来てもいいのに)

 ピアノを弾いているときに邪魔されるのは我慢ならないが、今はなんてことはない。今のカミコは、道端に転がる麻薬中毒者と同じくらい役に立たない。

 しばらくの後、またドア越しに気配があった。

 今までと違ったのは、ためらうことなくドアを開けた点だ。

「おい、何してんだ」

 白道である。

 首を巡らせれば、白道と、その背後に隠れるように夢幻がいた。

「夢幻がうろちょろしてうっとうしいんだよ。暇なら相手してやれ」

「・・・まあ、暇と言えば暇だけど」

「それと、組合から使いが何度か来てる。一度顔出して来い。相手すんのがめんどくせぇ」

「何度言われても、もう弾けないんだよ」

「嘘つけ、弾いてんじゃねーか」

「あんなの、」

 言葉は途切れ、その後の空白を夢幻の怯えと白道のため息が埋める。

 確かに、指は動く。

 几帳面に指先を整え、簡単な音階練習から、複雑なエチュードまで。

 そうして体を温めて、曲を弾く。

 確かに、指は動いた。

 ただそれだけだった。

 ただ楽譜をなぞるだけだった。

「あんなの、〈闇〉を祓わない」

「最初からそうだろ」

「・・・・・・」

「てめぇの音は、〈闇〉とかわんねーよ。くっだらねぇこと囁かれた時の、あの気分だ。あの苛々とか、不安とか、そういうもんと同じ音だ」

 部屋の片隅のから闇のささやきが聞こえてきて、ぞわり、と背筋を寒気が這う。

 肺がぎゅっと縮こまって、痛みを訴える。

 カミコは不安定に、浅い息を繰り返した。

「違うんだよ、白道」

「・・・何が」

「〈歌姫〉も、僕の演奏は闇を祓わないといった。そうなのかもしれない。僕にはよくわからない。でも、――でも、僕の耳に届く雑音は、確かに祓えてたんだ」

「・・・・・・」

 白道が、〈歌姫〉が、カミコの演奏を喜ばないことはずっと前からわかっていた。この二人の耳は何よりも確かであり、カミコは彼らの意見を否定する気など一切なかった。何か足りないのだろうと、漠然とした自覚があった。

 そして同時に、他の芸者たちとカミコの音に何か違うものがあるとも知っていた。

 けれど、白道と〈歌姫〉がカミコの演奏を嫌う理由と、カミコが感じる他の芸者との差。その根が同じものであるなんて、考えもしなかった。

 なぜなら弾いている間、カミコの耳に囁きは聞こえなかったから。

 ちゃんと、祓えていたからだ。

「ねえ、僕は、弾けさえすればいいと思ったんだ。でも、祓もしない音なんて、無意味なんだ」

 白道はずっとつまらなさそうな顔だったが、やがて長々と息を吐き出した。

 踵を返すので部屋を出て行くのかと思われたが、彼はピアノの前に座った。

 夢幻が不安げにカミコと白道を交互に見ながら、やがては白道の傍らに立つ。

「手が痛ぇだなんだって騒いでた時には、往生際悪く弾いてたってのにな」

「・・・・・・そうだね」

 白道は足元に散らばった楽譜を拾い上げ、ぱらぱらとめくる。夢幻は遠慮がちに身を乗り出して、その手元を覗き込んでいた。

「あん時にさ、俺、なんでそこまでして弾くのか聞いただろ」

「ああ」

「モズんとこで、手に包帯巻いてるときにも、聞いただろ」

「ああ」

「弾くことは、お前にとっての薬だって。俺が頭痛薬飲むのと変わんねぇって。なんの解決にもなってないけど、その瞬間、不快感から逃れるための薬」

「ああ、そうだよ」

 カミコは投げやりに相槌をうつ。

「モズが言ってた。頭痛薬も麻薬も、酒も色も芸も、結局んところ、〈闇〉から逃れる手段って意味では全部一緒だって。――じゃあ麻薬と芸の差はなんだ?禁断症状起こして人混みん中で銃ぶっ放すのが麻薬で、芸者のもとに通うために明日の飯すら我慢して、場合によっては誰かから金を奪うのが芸だ。なんにも、違わねぇ」

 淡々とした白道の言い分に、カミコは静かに首を横に振る。

 白道はこちらを見てもいない。傍らの夢幻をうっとうし気に払いのけながらも、彼女が見えやすいように手の内の楽譜の角度を変える。

「・・・違うよ。ジ地区が供するものは、麻薬とは違う」

「さあな」

「明らかに違う」

「俺にはその差がわかんねぇよ」

「でも違う」

「じゃあ説明しろよ」

 白道は至極面倒くさそうだ。

 白道がめくっていく楽譜を見ていた夢幻が、「あ、」と声を上げた。

「私、これがいい」

 まるで、カミコと白道の会話を聞いていなかったかのようだ。――夢幻にはこうしたところがあった。険悪な雰囲気を感じ取って不安げに瞳を揺らすのに、しばらくするとその光景が意識の外に追い出されるらしい。

 気味の悪い性質であったが、白道は気にするのも面倒なようで、普通に会話に応じた。

「ああ・・・これか」

「ひける?」

「芸者のようにはいかねぇけどな」

 白道は譜面台に手元の譜面を置くと、姿勢を正して鍵盤の上に両手をそろえた。

 カミコが教え込んだので、夢幻も白道も楽譜を読むことができる。

 さらに白道は、芸者の見習いレベルではあるが、ピアノも弾いた。


 素朴で、柔らかな和音が響く。


 ペダルによって伸びやかになった音が、降る光のように空間に満ちる。

 美しい音の重なりと旋律。――初級の練習曲だ。

 本来の楽譜に、ペダルの指示はない。だが白道はうまく取り入れ、ただ楽譜をなぞるだけではない、〈演奏〉をしていた。

 もっとも、彼は〈芸者〉ではない。

 楽譜が示す大雑把な強弱は再現できても、行き届いたスラーやブレス、一音ごとの細やかな色付けまでは不可能だ。練習不足だし、才能にも足りない部分がある。

 第一テーマ。第二テーマ。そして第一テーマの展開系。とても短い曲で、たったこれだけで構成されている。

 曲のラストは両の手で和音を静かに紡ぎ、最後の音を虚空に溶かす。

 白道が鍵盤から手を下ろすと、夢幻は小さな手で拍手した。

 さらに次の曲をとせがむ夢幻を、白道は適当にいなす。

「俺が弾いても、なんも意味ねぇだろ」

「・・・・・・そうだね」

「弾くのは別に嫌いじゃない。でも闇を祓わないし、俺の頭痛の薬にもならない。だから、どーでもいい」

「うん」

「お前は、結局、自分のための〈薬〉として弾いてたんだろ。そりゃ、歌姫も〈芸〉じゃないって言うに決まってる」

「ああ」

「・・・・・・なあ、それ、〈薬〉だと思うか?」

「・・・僕は、そう思ってるけど?」

 白道が尋ねた意図を理解できず、カミコは戸惑いながら聞き返した。

 白道は口元でほんの少しためらい、そして告げる。

「お前の演奏は、〈頭痛薬〉じゃなくて、〈麻薬〉だ」


 思考に一瞬の空白があった。


 その空白が終わるのも待たず、カミコは半身を起こしていた。その勢いで、周囲に積み上げられていたばらばらの楽譜が乱れる。

 カミコは口を開いたが、何一つ言葉は出てこない。

 白道と夢幻は楽譜をめくりながら次の曲を探している。

「これなら夢幻でも弾けるだろ」

「ひける?」

「弾いてろよ。カミコがピアノさわらせてくれるなんて滅多とねぇぞ」

「うん」

 白道が夢幻に椅子を譲る。

 夢幻が小さな手で弾き始めたのは、音階練習だった。単純な動きでしかないのに、真剣に楽譜と手元を交互に見つめている。

 白道が、カミコの隣にどかっと腰を下ろした。楽譜がまた風圧で舞う。それを集めて揃え始めるのが、潔癖の彼らしい。

 白道はもう何も言わなかった。

 たどたどしいピアノの音だけが響いていた。







参考曲


*ブルグミュラー 25の練習曲より 19番「アヴェ・マリア」

 ブルグミュラー作曲。ピアノをある程度習った人なら大体弾いている練習曲集の中の一曲。

 初級の練習曲集だが、どれもメロディックで曲としての体裁が整っているので、発表会などでもよく演奏される。



*60の練習曲によるヴィルトゥオーゾ・ピアニスト

 通称「ハノン」。ピアノを習えばほぼ確実に出会うことになる、基本的な教本。

 練習曲とあるが、運指練習のためのものであり、楽曲としては成り立っていない。



小説内の曲解釈は飽くまで個人的なものかつ物語上の演出あり、曲そのものを批判・否定するものではありません。





ざっくり音楽用語解説


・スラー・・・音と音を滑らかにつなげて演奏する


・ブレス・・・歌唱、演奏における息継ぎのこと。ここではフレーズとフレーズの間に区切りを入れる、といったニュアンスで使われている。


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