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 幻想即興曲。作品番号六十六。

 冒頭。指がめまぐるしく動き、美しい音階が連なる。軽々しくはないが、重厚さもない。短調で語られるそれには、女性的な繊細さが垣間見られる。

 素早い動きから一転、ゆるやかにメロディーが流れていく。

 また一転。再び冒頭と同じテーマが繰り返される。

 胸が締め付けられるほど強く感情がにじみ出る、激しい一瞬。

 そしてラスト。

 半ばの緩やかなテーマを再び響かせ、そのまま静かに終わりを迎える。幕を閉じても聴衆は拍手を送り、続きをせがみたくなる、そんな終わりかただ。

 弾ききった達成感よりも、曲の余韻が体に残る。胸の真ん中辺りに、――確かにここに。

 これが嫌いだった。

 人の気を引くための、音の配列。自己陶酔の顕現。――美しくて、嫌になる。

 ――カミコは息をひとつ吐いて、鍵盤から手を下ろした。

 薄暗い部屋には、まだ音の余韻がある。それを耳から振り払い、床に散らばった紙の中から、楽譜を拾い上げる。

 一度聞いた曲は忘れない。少なくとも、ここに落ちてからはそうだった。――けれどカミコは紙に著す。ここよりさらに落ちることはないけれど、音符が記憶から零れ落ちていくと想像するだけで怖かった。

 キィ、とドアが鳴いた。

 視線をやれば、夢幻むげんがいた。――歳は十代半ばであろう。栗色の髪は腰までのばしてあるが、不器用なので結おうとしない。この家に着てからは、一度も笑ったことがない、面白みに欠ける少女――が、ほんの少しだけドアを開けて、こちらを覗いている。

 カミコは安心させるように笑みを見せた。

「入っていいよ。練習は終わったから」

 夢幻はうなずいて部屋に入り、後ろ手でドアを閉めた。

「さっきの曲は、なあに?」

「幻想即興曲。ショパンだよ」

「・・・綺麗、だったよ」

「そっか。よかった」

 笑顔はうまく作れただろうか。

 そんなことを考えながら、少女から目を離し、床に散らばった五線譜の中から何枚かを拾い上げる。

 夢幻を相手にするのは、正直苦手だった。今まで一度だって口に出したことはないし、態度に出したこともない。――彼女との感覚のずれや、向かい合ったときの心もとない感じが好きになれない。決して彼女自身を嫌ったりしたことはないが、それでもある程度の距離がほしかった。

(さっきのショパンが、綺麗?――人形はそんなこと感じるわけない)

 心の片隅で、嘲笑う。

 きれいなわけがない。白道が聞いていたなら、きっとかんしゃくを起こすに違いないひどい音なのに。

 夢幻は見目が美しいだけの、人形と同じだ。音をわかるようには出来ていない。

「なにか、聞きたい曲でもある?」

「・・・・・・明るい曲。カミコ、ジャズ以外じゃあ弾かないよね」

「長調では僕の魅力が引き出されないらしいよ。この街の人間は、病んでるんだ。短調ばっかりせがんでくる」

「カミコ、何が得意?」

「僕に不得意なんてないよ。――でも長調なら」

 つかんだ楽譜は再び床に投げ出した。

 一度聴いた曲は忘れない。

 一度ものにした曲ならば、指が覚えている。

 冒頭は短調。高いキーから始まる三度の和音。

 三拍子のリズムに乗って展開され、徐々に華やかになる。

 そして流れる音。長調。

「メヌエット」

 そう言ったのは夢幻だった。

 カミコは微笑んでうなずく。

 曲は始めの短調のテーマを繰り返し、曲を終える。短い曲だ。

「ビゼーだよ。知ってる?」

「しらない」

「オペラの一部なんだ。アルルの女。その中にあるメヌエットのピアノ編曲だ」

「オペラ」

 夢幻がここには馴染まない単語を繰り返す。

「そう、楽園にしか存在しない、うつくしいもの」

 曲を終えると、夢幻が手をたたいていた。ピアノには不向きであろう小さな手で、ささやかな賞賛を送ってくる。酒場でやるように礼をとってから、アンコールに応えるかのようにもう一度ピアノに向き直る。

 今度は即興で弾いた。何も考えず、ピアノを奏でるよりも一瞬先に生まれてくる音を掴み取って、連なる向こうの音とする。

「カミコ、楽園を、見たことある?」

「いいや。記憶にはないよ」

 話に聞くだけの楽園の姿。

 とはいっても、それほど遠い存在ではない。紛れ込むだけなら、できる。現に〈狩人〉と呼ばれる人々は、楽園へ赴き、そこに住まう天使を下へと突き落とす。落とされた天使の数だけ〈空籍〉ができる。その〈空籍〉を翳りの街の住人に売って、〈狩人〉たちは生計をたてるのだ。

 それをやっているのが、カミコたちを拾った影鳥かげどりであり、その相方の悠江ゆうえである。

 時折影鳥は、楽園から楽譜を持って帰ってくる。

 優しさのかけらもない、生活も性格も破綻したような人間なのに、入手が容易くないはずの楽譜を、無言で投げて寄越すのだ。

 だから、自分ひとりで暮らしていける今も、ここにいる。

 影鳥が自分をここへ引きとめようとしているのか、それとも楽譜をとってくることに深い意味はないのか、どちらかはわからない。ピアノを弾くしかできない青年を引き止める価値があるとは思えない。――影鳥の真意はいつだってどす黒くて、うまく読むことができなかった。

 思考をするうちに、曲は終わりを迎えていた。

 決して静かとはいえない曲だが、人形の子守唄にはなったようだ。夢幻はイスに深く腰掛けたまま、静かな寝息を立てている。

 カミコはピアノの前を離れ、リビングへと向かった。

 薄暗いリビングの小汚いソファでは、白道はくどうが眠っていた。――真っ白に髪を染めた少年である。まだ体格に大きな変化を与えるような成長には恵まれないため、小柄だ。闇に心奪われやすい危うい少年は、夢の中でも闇に苛まれているらしく、眉間にしわを寄せていた。

「白道」

 呼びかける。

 ――一瞬にして、白道は飛び起きた。相当嫌な夢を見ていたらしい。

「・・・あー・・・」

「大丈夫?」

「・・・・・・だいじょうぶ、じゃねぇ」

 白道は顔を顰めている。

「頭痛い」

「薬は?」

「飲んだ。・・・水、とって」

 カミコはうなずいて、すぐ隣のキッチンから水差しとコップを持って来た。

 白道はコップに注いだ一杯を一気に飲み干して息をつく。

「白道、痛いところ悪いんだけど、ちょっと頼まれてくれない?」

「ああ?なんだよ」

「夢幻がピアノの部屋で寝ちゃったから、ベッドに運んであげて」

「てめぇがやれよ」

「やだよ、そんなことしたら腕痛めるかもしれないじゃないか」

「・・・おまえはピアノに捧げすぎなんだよ」

「否定はしないよ」

 笑って言葉を返す。

 腕も指先も――肩から先はすべて商売道具なのだ。大事にし過ぎることはない。

 だが、食いつなぐことを考えて大事にしているのかと問われればそれは否だ。

「音楽を奏でない僕なんて、存在価値がない。ピアノを失ったら、僕は狂うよ」

「はいはい」

 白道は二杯目の水を飲み干すと、立ち上がった。

 二人でピアノの部屋へ行く。

 白道が、イスで眠る夢幻を抱きかかえた。カミコは先回りして寝室のドアを開けに行く。

 夢幻は痩せた少女だが、成長途中の白道が抱えるにはそれなりの負担になる程度には体重がある。だが彼は難なく持ち上げた。――その理由は、白道の持つ念動の力である。

 落ちた天使と呼ばれる者の多くは、奇跡と呼ばれる能力を持つ。

 白道は、手を触れずに物を動かしたり壊したりする念動と、触れた相手の心を読む精神感応の力をもっていた。後者の能力は、繊細な白道にはかなりのストレスになるようで、彼は人に触れられるのを極度に嫌う。

 白道が小さな寝室にたどり着き、ベッドにそっと夢幻を置いた。

 眠る夢幻は、痩せすぎだが、綺麗な人形という表現がぴったりくる。「神様はお人形遊びに飽きたらしい」と、影鳥は悪い顔で笑っていたが、なるほどと思う。

「カミコ」

 部屋を出て行こうとしたカミコを、白道が呼び止めた。

「ん?なに?」

「夢幻は天使だと思うか?」

「落ちた天使、だろ。僕らと同じだ」

「だけどこいつ、何の力も持ってない」

「それは僕もだよ。おまえみたいな奇跡は使えない」

「夢幻は、人形なんだ。・・・・・・触れても何も聞こえてこない。こいつは、何も感じてない。天使は・・・もっと、感情的な生き物だ」

 白道は戸惑っているようだった。

 不可解なものがあれば、戸惑うのが普通だ。カミコが戸惑わないのは、それほど夢幻に興味がないからである。夢幻が天使であろうと人形であろうと、正直どうでもいい。彼女が何者であっても、ピアノを弾くことに支障はない。

「じゃあ夢幻を天使だと思わなければいい。それだけの話だよ」

「・・・・・・」

 白道はベッドの傍らにひざをつき、そっと夢幻の額に触れた。彼女の艶のない前髪を払い、頬に手を沿える。

「・・・夢も見てない」

「僕も夢は見ない」

「おまえは見てるよ。覚えてないだけだろ」

 と断言するということは、眠っているカミコの夢を覗き見たことがあるのだろう。

 勝手にそんなことをされたと聞くと、カミコだって気分が悪い。一瞬顔をしかめる。

「白道、」

「影鳥は、どうして夢幻を拾ってきたんだろう」

 文句を言ってやろうと思ったのに、白道の疑問に遮られる。しぶしぶ、カミコは話題を合わせた。

「・・・きまぐれだよ。僕らだってそうやって拾われたんだから」

 性格破綻者が、他人に情をかけるわけがない。見目が綺麗だから、天使だから、――そんな理由だろう。

「・・・モズが、気にしてたんだ」

 白道は、医者まがいのことをやっている男の名を出した。

「何を?」

「影鳥、何か企んでるって」

「くだらない。影鳥の思考がどうしてどす黒いかって、常にろくでもないこと考えてるからに決まってるだろう」

「・・・そうか」

 納得した様子ではなかった。反論する材料もないから、うなずいただけだろう。

 自分たちが拾われた理由ですらはっきりしないのだ。彼がいまだに自分たちを手元に置こうとする理由も。それもわからずに、彼の考える先を読もうなどとは、無謀な話である。

「もう寝たら?頭痛酷いんだろう」

「・・・そうだな」

 めずらしくも素直にうなずく白道に、カミコは軽く驚いた。

 白道の頭痛は悪夢と常に共にあるのだという。頭痛が酷くても眠ってやり過ごすことができない。彼は冴えた感覚で痛みを受け入れ、時間の経過をひたすら待つのだ。

 カミコが「横になれば?」という意味で「寝たら?」と提案すると、いつも「寝ても無意味だ」と怒る。

「白道」

 呼び止めると、彼はドアを開けた肩越しに振り向いた。

「なんだよ」

「ピアノ、聴く?」

「聴くかよ」




参考曲


*幻想即興曲 op.66

 ショパン作曲。数あるショパンの曲のなかでも有名な一曲。


*アルルの女よりメヌエット

 ビゼー作曲。ここではラフマニノフによるピアノ編曲版。



小説内の曲解釈は飽くまで個人的なものかつ物語上の演出あり、曲そのものを批判・否定するものではありません。

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