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1~暗闇の中、記憶の澱-1

晴れわたる春の空の下。


紋章旗に描かれる燕が日差しを避けて、巣に籠もる昼刻過ぎ。

マナハルト王城の奥城の一角では、ぎゃっと悲鳴とも、苦情ともつかないような声が絶え間なく響いていた。


「ちょっとオルタ! 痛いってば! 擦りすぎ! ぎゃー!!」


「姫さま、騒ぎすぎです。日焼け止めだってちゃんと落とさないと……それでも、充分灼けておりますわね……どうしましょう、これ」

オルタは乾燥させたへちまに石鹸の泡を立て、ウェラディアの肌をゴシゴシと擦りながら、大仰なため息をついてみせる。


「白粉でもはたけば、わからないわよ。どうせ、夜会なんて薄暗いんだし……っぶぁっ! っほ、ごほっ! ちょっとオルタ、頭からお湯かけるなら、一声かけてよ!」

猫足付きの浴槽の中で、ウェラディアは一瞬沈み込みそうになって、慌てて浴槽の縁に手を伸ばす。


「ぶぁっ!!」

そこにまた頭から湯を浴びせかけられたから、たまらない。ウェラディアは盛大に咳き込んでしまう。


「ぐはっ……っば、けほっ! 何するのよ! っげほっげほっ……お湯飲んじゃったじゃない!」


「姫さまのは自業自得です! しかも、アルトベルガー卿にもロードナイトさまにも、本当のことを告げられなかったなんて……なんて情けない」


「そ、それは……仕方ないじゃない。ちょっとタイミングが悪くて……切り出すような雰囲気じゃなかったのよ……」

最後のほうは、掻き消えるような声になってしまった。

どんなに言い訳してみても、言えなかったことには変わりない。

もちろん、一応の努力はしてみていたけれど、言えなかったのは――雰囲気よりも、やはり自分自身の心の弱さだった。


まだこの場所に、従騎士のデュライの姿でいたい。

心の奥底に疼くささやかな願いに、理性は抗えなかったのだから。


「そんなことおっしゃって――本当は、男装姿でいることを楽しんでおられるのでしょう? 楽しむのは結構ですけど、あとで後悔されるのは、姫さまのほうですよ?」


「う……それは……。」

痛いところを突かれてしまった。

本当にずっと長く、あのふたりと親しくしていたいのなら、早く本当のことを言った方がいい。


そのぐらい、ウェラディアだってわかっているのだ。

でも――。

ふぅっと、水面に浮かんだ泡をため息で吹き飛ばして、金色の睫毛を憂鬱そうに俯せる。

筋肉痛や痣、擦り傷に痛む体は湯船の中にたゆといながら、沈思黙考。

ウェラディアの意識は、自分の想いの中に沈んでいった。



マナハルトの千年王城は川辺りに立つ。

その立地の故に、水の流れを動力に、支流の水と井戸水が城の中を循環する機能が整えられ、末端の客室にさえ、洗面用の水が個別に引かれる贅沢を許している。


その仕組みは、千年前、最初に奥城が建てられたときから、ほとんど変わっていない。

一説によると、建国当時、民間に流行っていたというアクア・ヤライの教え――水の流れの教えに感銘を受けた建国王が、巧機工学が進んでいたという古代ヒリスト王国の生き残りを招き、基礎を作らせたのだという。


この城で生まれ、祖母の屋敷で育ったウェラディアにとって、当たり前のようでもあり、不思議なようでもあり――。


『あの城の仕組みは、まるで、水の流れを駆使する教え――“アクア・ヤライ”の法術のようね』


祖母の屋敷に預けられたばかりのとき、何故、この屋敷では、部屋に水が来ないのかと問いかけるウェラディアに、祖母は答えに窮して、そんな言葉を呟いたのだった。

大きくなったいまとなっては、祖母の言葉は的を射ているようにも思う。


“アクア・ヤライの教え”は、古代ヒリスト王国を発祥とする民間宗教で、いまとなってはマナハルト国にも、深く浸透している。近年は、新しく興った宗教に押されがちだけど、年配者を中心に未だ根強い人気があるから、あるいは、祖母もその教えに傾倒していたのかもしれない。


ウェラディアはよく知らない"アクア・ヤライの教え"では、信者にもいくつかの段階があり、そのうち、水の巫女と呼ばれる伝道者は、厳しい修行をするのだという。

勉強をさぼりがちのウェラディアに、『そんなこと言うと、アクア・ヤライの修行場にやりますよ』とは、ほとんど祖母の口癖のようなものだった。


本当なのかどうか、厳しい修行の果てに、高位の水の巫女ともなれば、好きな時に雨を降らせることができるとも、川を逆流することができるともされ、その法術は異国では“魔法”と畏れられたこともあるという。


魔法――。

その言葉を心の中に呟くと、疼くような痛みが、ウェラディアの胸に湧き起こる。


『もうこの世界には、どんな奇跡も魔法もない……』


そう言って打ちひしがれていた父王の背中がよみがえり、ポッカリと開けた誰もいない空間――巨大な地下祖廟にひとり取り残されたおぼろげな記憶が脳裡を過ぎる。


いま思い返せば、おそらく、あまりにも父王の嘆きが激しかったので、そちらにばかり気をとられ、幼い王女のことなど、注意を払う者は誰もいなかったのかもしれない。


あのときは、どうやって帰ってきたのだろう――?


薄暗闇の中、ひとり取り残された。

記憶に残ってるのは、ただそれだけ。


その後どうやって、地上の王城に戻ったのか、誰が出迎えてくれたのかといったことが、どうしても思い出せない。


あるいは、誰も迎えに来てくれなかったのかもしれない。

母親が亡くなった頃のことは、父王もそうだったけれど、ウェラディアも曖昧で混濁した記憶が欠片のように散らばっているにすぎない。思いだそうとすると、息が苦しくなり、頭の中がぎゅっと軋むような気さえする。


『この国にはもう、奇跡も魔法もないんだ……』

ひどく茫然と呟いて、ウェラディア自身も、この暗闇の中で母親のように眠ってしまうのかも――そんなことを考えていた気がした。


記憶の中の出来事とはいえ、過去の茫然とした想いはいまもウェラディアの中に、はっきりと根付いている。


奇跡も魔法もない――それはひどく、自分の心にぱっくりと暗い穴を開く言葉だった。

ずっと子どもの頃から諦め、わかり切っていたことなのに、いま思い返してもなお、心が暗闇に落ちてきそうになってしまう。

ところが。


『この国に、奇跡も魔法もなくなったのはね………なくなったからなんですよ』

不意に、誰かの言葉が記憶の澱から浮かびあがった。


「あの……とき……誰かがいた?」

そうだ。あのとき確かに、誰かがそばにいて、幼いウェラディアの手を引いてくれた。


「あれは――誰だったのかしら――?」

 

明日は21時頃更新の予定です。

火曜日は更新お休みするかもです。


【次回予告】

第八章-2 暗闇の中、記憶の澱-2

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