インターネット
その男はくたびれたスーツを着ていた。
あちこちがてかり形が崩れ、色合いも本来のものからして少し褪せている。アイロンは自分で掛けているのであろうか、所々失敗したような不自然な皺が寄っていた。
満員電車の中を右手につり革、左手には使い込まれた年代ものの破れかけたバッグを持ち、過ぎ去る景色は夜の闇に紛れ、ただ煌々と明るい車内を仄暗い鏡のように映し出す窓を眺めていた。
まるで死んだ魚のように暗く濁った瞳は何を見詰めるでもなく瞬きもほとんどしないままにぼんやりと薄く無表情に双眸を細めている。目許に刻まれた皺と薄くなった髪で年より老けて見えるかもしれない。40代後半から50代前半、しかし実際にはまだ40になったばかりのサラリーマンであった。
残業を漸く終えて自宅へ帰る途中の電車の中、時折レールの継ぎ目に揺れガタンゴトンと静かな衝撃を伝える車内の遠く離れた所で、夜遊び帰りの派手な姿をした女性達が黄色い声でうるさく喋っている。
露出度の高い服とパンダのように黒々と塗られた目許、マスカラで固められた睫は不器用にだまになっている。濃い化粧の似合わない幼さの残った顔立ちだ。おそらくはまだ学生なのかも知れない。
シートに座った若い男性は目の前に腰の曲がった婆さんが、捕まる場所にも困りフラフラとしているにも関らず、そ知らぬふりで小さなヘッドホンから流れる音楽を聴き瞼を伏せている。
チンピラ風の男が突然声を上げた。誰かに足を踏まれたといきり立って、たまたま近くに居合わせただけの気の弱そうな青年の胸倉を掴み怒鳴り立てる。しかし誰も助けようとはしない。
そこには何もないかのような素振りで、或いはわざと大きく顔を逸らして見ないフリをしている。怯えたような声ですみません、と謝る声が何度も聞こえた。
無関心、と言う言葉がこれほどまでにしっくり馴染む空間は無かった。それはサラリーマンの男にも言えることだった。
とある駅に着いた時、男は人の波を潜るようにして開いた扉から歩み出た。
窮屈な空間から脱出した開放感にか、小さく溜息をつくと磨り減った革靴の音を響かせて駅構内を出口へと歩いていった。
なんでも出来ると信じて疑わなかったあの頃。
成績も優秀だった。スポーツも万能だった。顔の造作はそれほどまでにいいとは言えなくとも、女の子に騒がれた時期もあった。きっとこのまま人生の成功者になるのだと、それ以外の事が起こるはずもないという自信に満ち溢れ、それを確信していた。
暗い住宅街の路地を照らす街灯が小さく男の影を落とす。一歩一歩急ぐでもなく静寂の道を歩いていた。擦れ違う者も居なければ、同じ方向を行く者も居ない。時折乾いた靴音に反応して弾かれたように吼え勇む犬のうるさい鳴き声が辺りに響いた。
そうやって何軒かを通り過ぎた後、一軒の小さな家の扉の前へと辿り着いた。窓には明かりが灯りテレビからの声であろうか微かに賑やかな音が聞こえる。よれたスーツのポケットの中から鍵を取り出して扉を開いた。
廊下は暗かったがリビングからは明かりが漏れていた。
「…ただいま」
独り言でも呟くように口中で言いながら革靴を脱ぎリビングへと向かう。無表情な顔に取って貼り付けたような笑顔を浮かべてリビングの扉を開いた。
「…帰ったよ」
ソファへとその大きな身体を横たえてポテトチップスを食べながらテレビを見ていた妻が振り向きもせずに舌打ちをした。
「どうせご飯食べてきたんでしょ」
それきり言葉は無くテレビを見ながら下品な笑い声を立ててはまたポテトチップスの袋へと手を伸ばしていた。
息子の部屋からは物音一つしない。また良からぬ仲間と夜遊びに出かけているのだろう。
男はそのまま廊下を進み、自分の部屋へと入っていった。
一体どこで何を間違ったのか。
部屋の明かりは点けないままにパソコンの前へと足を進めて電源を入れる。ブン、と小さくファンの鳴る音、そして画面だけが仄暗く部屋を照らし出した。
一生懸命勉強した。一生懸命働いてきた。
出逢った頃の妻は大人しく淑やかで優しく、この女性以外に考えられないと結婚を決めた。生まれた息子はとても可愛かった。その成長に毎日喜びを感じた。
一体どこで足を踏み外したのか。
スーツとシャツをハンガーに掛けて適当に着替えると風呂にも入らないままにパソコンの前に座った。
今ではインターネットの中だけが男の安息の場所であった。
名前も素性も知らない、またこちらのことを誰一人として知る者もいない、薄っぺらな繋がりであってもこの世界では自分を無視するものもいなければ虐げるものもいない。
一部の『荒し』と呼ばれる人種を除いては。
マウスを動かしてクリックする。
画面に出てきたページから色々な情報を知ることが出来る。
いつも覗いているチャットへとリンクを辿り、そしていつものように書き込みをした。
『こんばんわ』
既に入室していたいつものメンバーからそれぞれに言葉が掛けられる。
いつも遅くまで仕事大変ですね。
私は今日は飲み会だったんですよ~、酔っ払ってまぁす。
待ってました!!よっ!社長~。
はじめまして、今日このチャットをみつけて…よろしくです。
それぞれに返信を打ち込みながら、表情の無かった男の顔に柔らかい笑みが零れた。
彼らは冗談が好きで優しく思いやりに溢れ、時には誰かの悩み事を真剣に話し合ったりもする。楽しい会話に思わず笑い声を立ててしまうこともあった。
その世界での男は幸せを偽っていた。
優しく淑やかで綺麗な妻に優秀で親思いの息子、そして自分は会社の重役。実際の自分が憧れて憧れて、そして叶うことなどないと思い知らされたそのままの世界。
それを誰が疑うこともなく会話が弾む。
社長とあだ名されているのは皆が冗談交じりに次期社長候補だったりして?などと言った事があったからだ。
一頻り会話を楽しんだ後、既に時間は夜中の2時を回っていた。名残惜しい気持ちが胸中に満ちる中、挨拶を交わしてチャットから出る。
後はいつも覗いている掲示板を見てから風呂に入り、ベッドに入るだけだ。単調な生活の中で、インターネットに触れる時間だけが男に明日への活力をくれた。
リンクを辿って掲示板を開く。
興味を引くスレッドを見て廻りながら、ふとあるリンクが目についた。
あなたの望み叶えます。
http//www.****.****/
「……望み…」
知らず男は呟いていた。そしてまるで誘い込まれるかのようにそのリンクをクリックした。
そのホームページには大きく赤い血の滴るような文字で『呪いの館』と書かれていた。
金額によって呪いを実行してくれるという内容のものだった。
呪いの種類も豊富で軽いものから死に至らしめるものまで、様々な用法があるようだった。
本当に効果があるのだろうか。
果たしてたったこれだけの金額で人の命を奪うなどと、なんとも軽々しく扱われるものか。
男は愕然とした。
自殺や事故を装って殺害することが可能です。
貴方のことが相手に知れることもありません。
我々が行う呪いは呪術に長けた熟練のスタッフが責任を持って行い、またその呪い返しと呼ばれるものが貴方に降りかかることは決してありません。呪いで使った道具は正式に供養します。
男は電子マネーから記載の口座へと殺害分の料金を振込み、呪う相手の名前を書き込んでからデータを送信した。
それからそのページを閉じてパソコンの電源を落とすと風呂にも入らないままベッドへと疲れた身体を横たえた。
本当に。
本当に効果があるのか。
それ以上考える間もなくすぐに睡魔に襲われて、男は深い眠りへと落ちていった。
一週間ほどは何事も無く過ぎ去った。
単調な生活を繰り返す以外何もないいつも通りの日々だった。
あいも変わらず淀んだ世界の中で、ただ一つの光はインターネットの偽りの世界だけだった。
もともと自分の荷物を殆ど持たない男は、それでも少しだけ部屋を片付け荷物を纏めた。変わりのない毎日に、少しの変化を望む、それも気休め程度のものだった。
パソコンの画面が薄い光で部屋を照らし出す。
ハンガーのよれたスーツとシャツ。
なにもかもうんざりする。
なにもかも。
そう思いながらキーボードで打つ文字は幸せに満ちた言葉ばかりだった。知らずに涙が溢れてきた。とめどなく、とめどなく流れ、頬を伝い顎から上腿に落ち小さな染みをいつくもいくつも作る。
何の為に働いているのか。
何の為に生きているのか。
何の為に…。
繰り返し疑問を自分へと投げかけながらそれでも打ち出す言葉は人が羨むような、或いは自分が羨んでやまない幸せな世界だ。
突然に胸の辺りが苦しくなった。
痛みに手の動きが止まり、苦しさにパソコンデスクを爪で掻いた。椅子から転げ落ち、床をのたうち回りながら呻くことすら出来ずにいた。
やっと…やっと…やっと…
激しい痛みの中、蹲る身体、胸元を押さえるように掌でシャツを握り込む、鼓膜を心臓の音が揺さぶる。
やっと!やっと!やっと!
脂汗が額に滲み今まで経験したことのない恐ろしさと共に、頭の隅どこかしらで安堵するような不可思議な気分だった。何故か笑みが口端を緩く吊り上げた。
呪いは本当だったのだ。
男はあの呪いサイトへ自分の情報を書き込んだのだった。
ざまーみろ。
こんな世界には見切りをつけてやるんだ。
俺がいなくなり、それでもヤツ等は何事もなかったかのように生きていくんだろう。無関心で冷たい顔が浮かぶ。何人も、今まで関ってきた何人もの顔が。妻の顔が息子の顔が上司の顔が同僚の顔が部下の顔が受付の女性の顔が営業先の……
男の死体は2週間を過ぎてから発見された。
腐敗が進んでおり強烈な臭いがし始めてから妻が漸く気付いたのだ。会社には辞表を出していたのであろう、連絡一つなかった。息子は相変わらず家には居つかず、遊びにばかり出ていた。
パソコンのデータは全て消えていた。
痛みの中、倒れこむ前に男がそうしたのだろう。
何も、誰の心にも何一つ残らなかった。
一生懸命生きてきた男の、最後の足掻きさえ。
ハンガーにはくたびれたスーツ、纏められた荷物は少しの本と破れかけた年代物のバッグだけだった。
インターネットの中ではいつからか来なくなった男の話題すら上らなくなった。所詮は薄っぺらな関係だ。
何もない。
何もない。
何も…