リンドブラードの塔の主 7
隠し部屋には椅子があった。塔の主はその椅子に座った。主はいつの間に持ち込んだのか一冊の本を膝に乗せており、紋様を描くように細い指先をあやつって、古い留め金を開く。魔術書と思われた。
薄暗くてとても字は読めまいに、と思ったが、彼は魔法使いなのだ。淡い色に揺らめく光源を持たない小さな明かりが本の紙面からほのかに溢れ、煌めくように文字を浮かび上がらせていた。クラーエスの知らない文字だった。
扉が開いた音がした。タペストリーの隙間から覗いてみると、あらわれたのは確かにウルリーカ姫だ。
姫は鏡の前の椅子に座った。
「こんばんは」
塔の主の穏やかな声がした。
「香茶をどうぞ、姫」
湯気を漂わせるカップが姫の前に置かれた。
「今日、城にいらして、父とお会いになったそうですね?」
姫は思い詰めた様子で問い、何かを求めるように目の前の空間を見つめた。鏡しかない空間を。
息をひそめるクラーエスがそっと視線を巡らせると、隣に本物の塔の主がいて、静かに本に目を落としている。
「なのにわたしのところには、ご挨拶にもいらっしゃらない」
「今日は陛下の招請でしたから」
「父はあなたとなんの話を?」
「僕の魔法の研究費の請求額が大きすぎると、お叱りを受けました」
「嘘です」
「姫につく嘘はありません」
「あなたがどんな要求をなさっても、父は飲むわ」
「さあ。陛下がそこまでなさるかは僕には……」
塔の主はやんわりと言葉を濁した。
「わたしは小さな子供じゃありません。もう何でもわかるんです。エリノルさまや父が何かを隠していることだって、わたしはわかるんです。本当のことを教えてくださってもよいでしょう?」
姫の目が言葉以上のものを求めていると、クラーエスにも感じられた。望むものを与えられ、望み以上のものを一身に受け取りたいと焦がれている。
「姫。エイジェルステット家には数々の秘密があるのです。陛下にだって語れません」
「いいえ、父はご存じよ。わたしはただ、あなたのことを知りたいの。あなたの痛みも、哀しみも、不安も、喜びも、すべてをわたしに見せてほしいの。二人で何もかも分かち合いたいの。大切な絆にしたいの。それをいけないことだとおっしゃるの?」
「姫はまっすぐに生い立たれました。父君があなたを大事に思われたからですね。国王が語ってもよいと思われるようになるまで、もうしばらくお待ちください」
「そんなことしたら、けっきょく誰も教えてくれないもの」
「いいえ、姫。真実を知る時はきっと来ます」
「だったら今教えて」
「父君がその気持ちになられるのを待つしかありません。どうか僕に、国王のご命令に背けとはおっしゃらないでください」
「いいえ、わたしが姫でなければ、エリノルさまは教えてくれたのよ!」
姫が涙をこらえて立ち上がった。クラーエスの位置からは姫の姿がタペストリーに隠れて消える。遠ざかった足音が、もう扉に至るだろうあたりで、唐突に止まった。
しばしの間があり、姫が振り返った気配があった。
「クラーエス、いるんでしょう? わたしがクラーエスに決闘で勝ったら教えてもらうわ。チェスで勝負しましょう」
突然の提案に、塔の主が目を上げた。なぜクラーエスの名前が出たのか。塔の主もクラーエスもとっさに目を合わせ、互いに心当たりのないことを知った。
「いいわね」
きっぱりと言い残し、姫は部屋を出て行った。
クラーエスはすぐにタペストリーを開いて、隠し部屋を出た。扉は閉まっている。姫はいない。
呆然となったクラーエスの脇を塔の主が追い越す。彼の行く手にあるものに気が付いて、クラーエスは呻いた。
「姫のためだ。クラーエスには姫との勝負、絶対に勝ってもらうよ」
塔の主が壁に立てかけてあった剣を手に取る。柄から垂れたお守りが揺れて鞘に当たり、かすかな金属音をたてた。
クラーエスの剣だった。
座り直す時、礼儀として身から離して扉の傍に置き、隠れる時、持つことを忘れたのだ。
「魔法で援護してくれるのですか」
「力添えが必要?」
「そういう意味かと思ったのです」
塔の主から剣を受け取り、
「チェスなら大丈夫です。必ず勝ってきましょう。失礼します」
勝利はそう簡単なことではないが、奇跡を祈るほどではないだろう。クラーエスは螺旋階段を駆け下り、塔を出たところで馬の手綱を引っ張る姫に追いついた。
「姫、一人でいらしたのですか」
姫は答えなかった。
「こんな夜に出歩かれては御身も危険、なによりお体に障ります」
クラーエスは自分の外套を脱いで姫に差し出した。春の夜は冷え冷えとしている。だが姫はクラーエスの好意をかたくなに受け取ろうとせず、クラーエスは仕方なく外套を引っ込めた。
「クラーエスも知っているんでしょ?」
姫がささやく。
「何をです?」
「わたしだけのけ者なのね」
姫はこぼれそうな涙を指先でそっと拭うと、さっと顔をあげた。
「いっておくけれど、いくら国王の命令でも、あの方が塔に閉じこめられたままなんて間違ってるわ。だからわたしは、あの方を外へお連れしたいのよ。あの方がわたしにそうしてくださったように。か、勝手な思い違いはしないで」
クラーエスは伝統と儀礼に従い忠誠を示して右手を胸に当て、一礼した。
「お心のままに。城までお送りします」
クラーエスは素早く自分の馬を整え、鞍にまたがった。
世襲一等公爵アールストレーム家の先代、クラーエスの祖父は王国の英雄だ。
当時まだ王位についたばかりの青年だった現国王は、自分に姫が生まれた時、アールストレーム公爵家の嫡男クラーエスを、姫の将来の配偶者とすると約束した。
一年領地で喪に服している間、クラーエスは一時として姫への忠誠を揺らしたことはなかった。姫が手ずから与えてくださったお守りが、その気持ちを支えてきた。王都へ戻った今も、気持ちはまったく変わっていないつもりだ。あの時から、姫を愛するのは、自分の義務と、生きてきた。
「姫はエリノルさまに恋をしておられるのだ」
間違いない。クラーエス自身でそれを見た。
今夜のことに三百トルド払った価値は、確かにあったのだ。




