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秘密の扉 2

 大新月の夜に姫と共にリンドブラードの塔から帰った翌日、クラーエスは欠勤した。朝起きようとしたらひどく気力が萎えており、体の芯から力も抜けていたのだ。

 何も湧き出してこない。体力も、気力も。どうにもならなかった。

 翌日はなんとか気持ちを奮い立たせて自分を起きあがらせ、城へ向かった。

 重い体をひきずりながら勤務をこなしていたら、昼を前に、エドヴァルド王弟殿下の使いがやってきた。

「殿下がお召しです。お時間をいただけますならば、ご案内するよう申しつかっております」

 ちょうど休憩時間だった。それを見計らって殿下は使いを寄越したのだ。気遣わしげな表情を見せたアルノルドに後を頼んで召使に同行すると、西院の外苑へ降りていくテラスでエドヴァルド殿下が待っていた。

「ああ、クラーエス、来てくれたな。今日はここを散歩するには寒いだろうが、寒すぎるということはない」

 殿下は両の手を背で重ね、灰色に薄曇った空を遠く見やったまま言った。

「付き合ってくれるか?」

 もちろん、それは依頼ではない。

「はい」

 殿下は階段を降りて庭苑へ向かい、クラーエスも従った。

 苑は春の華麗な日々を迎えるために今は静かに眠る季節で、花はなく、樹々の緑も暗い。

「大新月の夜にリンドブラードの塔へ行ったそうだな、姫を連れて」

 王弟殿下がたずねた。

 弁解も頭をよぎったが、クラーエスは簡潔に答える方を選んだ。

「はい」

「エリノルには塔へは来るなと警告を受けていたのではなかったか?」

 クラーエスは言葉に詰まったが、簡潔を心がけて答えた。

「はい。ですが、警告という程の強さとは、思っていませんでした」

 殿下は黙って歩いた。ふたりの様子は遠目には近衛を従えた散策中の王族とでも見えたろう。

「あの使者に会っておいて無事だったのだ。エリノルに感謝するのだな。祭りの夜にはクラーエスも知ってのとおり、塔の外でエリノルは命を失った。ぎりぎりのところで取り戻せたのは運がよかったからだ。塔の中だったとはいえ三人分を守るのがどれほど困難だったか、よく胸に留めておくのだ」

「はい」

 クラーエスは躊躇しつつ質問した。

「わたしたちは、それほど危険だったのでしょうか」

「三人そろって死んでいても驚かぬ」

 クラーエスは唇を強くむすんだ。

「エリノルにはクラーエスと姫を諦める選択肢もあったのだぞ。二度と塔へ行ってはならぬ。エリノルとぜひとも話がしたければ今後は我が家へ来なさい。マデリーネが仲介する。彼が塔を出てくるのを待つのだ。そのことは姫にも言い含めてあるし、国王でさえそうされているのだ」

「以後は殿下のおっしゃるとおりにいたします。殿下は……」

 クラーエスは殿下の凝視にためらったが、思い切ってたずねた。

「あの黒衣の訪問者を、ご存じなのですか?」

 今度は殿下が唇をつぐんだ。

「あれは、いったい何者なのですか? いったいなぜあのような者がエリノルを訪れるのですか?」

「それを語ることは、わたしには許されていない」

 長い沈黙があり、とうとう殿下はゆるゆると息を吸い込んだ。

「ソフィアは──ウルリーカの母親は、国王とある種のいさかいを起こし、ハンメルトの離宮に引っ込んでしまったが、離婚には絶対に応じないだろう。私生児に継承権は一切ないから王の愛人は眼中にないが、王が正式に再婚しその女性に子を産ませたら、ウルリーカの王位継承権が揺らぐ。そうなったらウルリーカは、今のままならば不要な闘いを戦わねばならなくなるのだ」

 クラーエスは手を握り込んでいた。

「ウルリーカも、いずれ夢物語から目覚め、王位継承者である自分をよく自覚するようになるだろう。なってもらわねば困る」

 殿下はクラーエスを見た。

「クラーエスには、いましばらく、姫の成長を待ってもらいたい。ウルリーカが恋だと思っているものが叶うことはない。エリノルが姫を選ぶことはないのだから」

「病のためですね」

「姫君と王子さまが結ばれめでたしめでたしで済むようなおとぎ話を、エリノルは生きてはいないからだ」

 殿下はそこで調子をあらため、まったく別の話をはじめた。

「そなたのアールストレーム家がなぜ世襲一等公爵家となったか、知っているか?」

 一瞬戸惑いながら、クラーエスはこたえた。

「太祖王の建国に大きな武勲があったからとわきまえております」

 時のアールストレーム家の当主が太祖王の第一の将軍であったことや戦場で勇名を馳せたことは、よく知られていた。

「建国戦争当時、わが王家とエイジェルステット家はフネスリーデン王国との戦で強い協力関係にあり、王家は武力で、あちらは魔力で、互いをおぎないあっていた。だが現在、エイジェルステット家が治める領土はフネスリーデンとの戦争終結当時の五分の一にまで減っている。太祖王はあの戦争でフネスリーデンの王族、貴族、武将、次には彼の地の魔法使いを根絶やしにした後、エイジェルステット家の力をも削ぎにかかったからだ。王には残念ながら、すべてを終える前に寿命が尽き、エイジェルステット家は血脈と領土を堅持した。以来、歴代の王はずっとエイジェルステット家の力を恐れてきたのだ。国境沿いを南イェルハルド領と呼び城将(じょうしょう)まで置いて。世襲一等公爵アールストレーム家の誕生は、その事情の産物だ。力ある勢力を招き入れてエイジェルステット家を抑えるための」

 イェルハルドにはアイナルの聖地がある。多くの国々の人々が巡礼する。たとえ領土が減っても、エイジェルステット家の威光は強い。

「だから、わたしとマデリーネの結婚は、多くの者に反対されたのだ。特にそなたの祖父の反対は強かった。わたしたちも時代は変わったのだと譲らず、結婚と引き替えに何があっても王位を望まないと神に誓ってみせた」

 王弟殿下の立場が特殊であることは、クラーエスも知っていた。殿下は国政には参加しておられない。それを補うように、文化事業に激しく傾倒しておられるきらいがあった。クラーエスはずっと、それは殿下ご自身の気質だと思っていた。

「そなたの祖父殿との関係は冷たくなりがちではあったが、最後まで真に国を思っておられたこと、今なら理解できる」

 殿下はそこで少し目を伏せた。

「亡くなられる前に和解できなかったのは、非常に残念だ」

 いつの間にか冷風が立っていた。

「これでわかっただろう? 今現在、そしてこれから先も、この国の王位継承者はウルリーカ、ただ一人だ」

 寒くはなかった。いや、体は冷え切っているのかもしれないが、感じられない。殿下は散策路を折れた。

「王都からイェルハルド国への旅路はどれほどかかると思う?」

「確か、二月近くかかると……」

「そうだ。どうあっても月が新月を迎えるのだ」

 瞬間、殿下はやるせない思いに胸を詰まらせたようだった。

「エリノルは、もうイェルハルドの故郷へは戻れぬ」

 それはどういうことか、殿下から話がなされると待ったクラーエスだったが、殿下はそのまま話を終えられた。

「わたしから語れるのはこれだけだ。少ししゃべりすぎたくらいだ」

 庭苑から戻ると、テラスでマデリーネさまが待っておられた。

 マデリーネさまのお顔には、いつもの耀くようなまろやかさはなく、殿下とクラーエスが重い話をしていたのをご存じなのだとクラーエスは知った。

「・・・」

 マデリーネさまがイェルハルド語で言った。クラーエスには意味をなさない美しい響きだけが耳を通っていった。

「ああ、心配しなくていい」

 殿下がこちらの言葉で答えた。

「クラーエス」

 マデリーネさまが控えて立つクラーエスの方へ歩み寄ってこられた。その忍びやかな表情がより多くを語っていた。

 マデリーネさまはすべてをご承知なのだ。さっき殿下がクラーエスに語ったことも、言葉にすることを避けた物事も、殿下もご存じではないエイジェルステット家の秘密に属する事柄も、すべてを。

 誓いを交わした騎士と貴婦人として、マデリーネさまがご自分の手をそっと持ち上げてこられたので、クラーエスはそれを受け取り、白く細い指先に口づけをした。

「あれから姫も臥せっているの。顔を見せて元気づけてあげて。姫も待っておられるわ」

 クラーエスが昨日一日、伏せったように、姫も体調を崩されているのだ。塔で人ではない黒衣の使者と出会ったために。

「そういたします」

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