第1章6 【 何も起きないという異常 】
退院、という扱いだった。
実際には、
「これ以上、ここに置いておく意味がない」
という戦力外通告を下されただけだが。
気が付けば、俺は自分のアパートの前に立っていた。
見慣れた外階段。
うるさい自動販売機。
隣の部屋の、深夜アニメの音漏れ。
「……戻ってきたな」
普通の世界。やっといつもの世界に戻ってきた。
少なくとも、見た目だけは。
鍵を開け、部屋に入る。
いつもと変わらない部屋のにおい。
ベッドに放り投げたジャケット。
「……」
何も、起きない。
それが、やけに気持ち悪かった。
能力者の話を知る前は、
”何も起きない”のが当たり前だった。
でも今は違う。
何も起きない=”俺が安全圏にいる証拠”になってしまった。
「……皮肉だな」
スマホを見る。
未読メッセージが溜まっている。
バイト先。
学校。
心配してくれる、数少ない知人。
全部、現実だ。
でも、あの白い部屋も、
歪んだ空間も、
一ノ瀬の言葉も、
確かにあった。
――未分類特異事例。
そんな肩書き、
どこで使えばいいんだ。
コンビニで買った弁当を開ける。
電子レンジが鳴る。
……本当に、何も起きない。
フォークを持つ手が、少し震えた。
もし、包丁を落としたら?
もし、ガス漏れがあったら?
もし、誰かが押し入ってきたら?
その瞬間に――”あれ”が来るのか?
嫌な想像が、勝手に広がる。
結局、弁当に手を付けることは無かった。
――――――
夜。
ベッドに横になる。
天井を見つめながら、考える。
俺の能力は、
”最悪の時にだけ”発動する。
つまり――
最悪が来ることを、どこかで期待してしまっている。
「……最悪だ」
スマホが震えた。
知らない番号。
出ない、という選択肢がよぎる。
でも。
「……はい」
『こんばんは』
一ノ瀬の声だった。
『体調は?』
「まあ、変わらないですけど」
『そうですか』
そうですかって。
『あなたに、緊急性の低い要請があります』
「……低い?」
『ええ。ただ、あなたにしかできないことなので』
嫌な予感しかしない。
「それって……」
『”まだ”、大丈夫です』
「まだってことは」
『はい』
スマホを握る手に力が入る。
俺の平和は一日も経たず、崩れ始めた。




