第1章4 【 逃げない理由 】
歪みは、確実に近づいていた。
ゆっくり。
まるで、こちらの様子を窺うみたいに。
円の外側――非安全地帯。
そこでは空気が捻じれ、光が屈折している。
「……あの」
自分でも驚くほど、声が落ち着いていた。
「これ、どこまで来るんですか?」
「どこまでも、です」
一ノ瀬の返答は、相変わらず曖昧だった。
「制御は?」
「最低限」
最低限……ですか。
円の内側。
俺が立っている場所だけが、守られている。
足は動く。
逃げられる。
円の中をぐるぐると回っていれば、少なくとも今は無事だ。
――安全圏。
喉が鳴る。
「……これ、もし円が消えたら」
「その可能性もあります」
即答だった。
心臓が、一拍遅れて跳ねた。
「ちょっと待ってください。
それ、テストの範囲超えてません?」
「あなたの能力は、通常の範囲では確認できません」
一ノ瀬は、俺から目を逸らさない。
「あなた自身が、そう証明しています」
歪みがまた一歩近づく。
距離は、あと2メートルほど。
頭の中で、警報が鳴り始めた。
――逃げろ。
――まだ間に合う。
――死んでしまうぞ。
足に力を入れる。
すぐ動ける。
「……」
なのに。
円の端に立ったまま、俺は止まっていた。
「逃げないんですか?」
一ノ瀬の声は、試すようでもあり、確かめるようでもあった。
「逃げますよ。ただ……」
即答した。
でも、足が動かない。
「今逃げたら、たぶん、次も同じだなって」
歪みが、すぐそこまで来ている。
皮膚が、じりじりと熱い。
怖い。
当たり前だ。
「俺、基本的に面倒ごと避けるタイプなんです」
一ノ瀬は黙って聞いている。
「関わらなければ、傷つかない。
目立たなければ、狙われない」
それで、生きていた。
「でも……」
交差点の光景が、頭をよぎる。
逃げ惑う人。
動かなかった足。
静かになった心。
「一回、条件満たしちゃったみたいで」
自嘲気味に笑う。
「どうやら俺、”最悪の時にだけ”出番が来るらしいです」
一ノ瀬の眉が、ほんのわずかに動いた。
「それは――分かっています。
効率最悪ですね」
歪みが、円の縁に触れる。
空気が軋む。
「でも」
胸の奥が奇妙に静かだった。
「ここで逃げたら、俺は一生あの交差点に戻る気がする」
昨日の自分。
何もできず、何も覚えていない自分。
「それ、ちょっと嫌だなって」
円が揺れた。
警告音が鳴る。
「隔離領域、限界値接近」
歪みが円の内側に――
半分、侵入した。
その瞬間。
足が重くなる。
いや、違う。
もう、逃げ道がないと理解した。
心臓が強く脈打つ。
視界の端が暗くなる。
ああ。
――来た。
「……もう無理だ」
諦めの言葉。
生きるのを諦めた言葉。
でも、今回は違う。
「……でも、最後までやるしかないよな」
一ノ瀬が何か言いかける。
でも、もう聞こえない。
音が遠のく。
思考が研ぎ澄まされていく。
歪みの輪郭がはっきりとしてくる。
歪みの”成立条件”。
破綻点。
触れなくてもいい場所。
――理解できる。
そして、その瞬間。
視界が、完全に暗転した。




